静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

道 東・道 央 の 旅  <2>

2024-05-29 09:30:02 | 旅行
 昨日の<1>の最後に「羅臼岳」と書きましたが、正しくは『海別岳(1419m)』でした。訂正します。

 摩周湖を見たあと2日目の宿泊先は【ホテル知床】。知床第一ホテルグループ3施設の一つ。東京にあった第一ホテルとは無縁のようだが、此のホテルの売りは「山海バイキング」。
これを提供するレストランの名前が(チタタ)という。アイヌ語に由来するのかと調べると<チタタプ>という「魚肉のたたき」を表すアイヌ語に近い。この言葉に寄せたのかは聞きそびれた。
このレストランだが、とてつもなく広くテーブル100席はゆうにあった。しかも、大都会の店のようにテーブルの間隔は狭くないので、快適だ。別に掘りごたつ式で40席くらいある。
    下の写真は同ホテル入口及び<海鮮コーナー>。2日目は団体客がバス2台で泊まっていたが、収容は全く問題なさそうだったのには驚いた。
                      

 グルメ志向の方にご紹介すると、中央写真の右は好きなネタを指名して握ってもらう握り寿司コーナー(一人5貫まで)。真ん中は魚に因む丼あるいはスープ(無制限)。左は松葉カニ(無制限)。
ここは2泊したが、中央の中身は変わっていた。この海鮮コーナーだけではなく、和洋中&果物それぞれのバラエティーが豊かで、私にはいわゆるバイキング形式で前代未聞だった。大げさではなく。
 しかも、海鮮コーナーだけでなく、肉を焼くコーナー、天婦羅を揚げるコーナー、ジャンル別補給などに係が張り付いており、全体をチェックする人を入れると常時5人が配置についていた。
それは配膳係や案内係とは別の配置。硫黄系の湯が出る大浴場も文字通り大きく、夜通し利用可能。同ホテルの宣伝をするのではないが、2食付ツインベッドで1人¥10K余/泊は信じがたい値打ちだ。

 翌日は知床五湖ツアーに参加(右写真)。残雪いただく知床連山が湖面に生える姿は5月ならではの遠景だろう。気温は10度台前半か、時折吹く風が冷たい。
知床自然センターとホテルの間はツアー会社が送迎してくれる。ちなみに【ホテル知床】はウトロバスターミナルとの間を送迎してくれるので助かった。
此のツアーは6年前も参加したが、今回は夏ではないので日差しも弱く快適だった。ヒグマの増加が話題になっているが、幸い先週から目撃記録もさして多くないと事前の説明。だが家内は緊張!
ホテルに帰っても「疲れた。怖かった~」を連発。 摩周湖と並び今回の一大イヴェントだったので、二人とも大いに満足できたのはうれしかった。          < つづく >
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道 東・道 央 の 旅 <1>

2024-05-28 10:37:00 | 旅行
 今回は配偶者と久しぶりの北海道へ。前回(2003年)は道北に始まり道南に至るルート(稚内→利尻・礼文→札幌→函館)だった。道東を知らずして北海道を知ったことにはならないとの思いから、
今回は(釧路→摩周湖→斜里・ウトロ→釧路→白老→小樽)というコースをたどった。前回には無かった白老の『民族共生象徴空間(愛称:ウポポイ)』及び小樽は家内自身のリクエストだった。

 初日の釧路はあいにくの小雨で気温は一桁、午後3時で7-8°くらい。よって、楽しみにしていたFisherman's Wharf での” 岸壁炉端 ”を断念、ホテルでのコンビニディナーと相成った。
JR釧路駅の周辺は空き家・閉鎖店舗やビルが目につき、過疎化と人口減少が目の当たりにわかる。駅舎の中の店舗も閉まったところが目につき、住宅建設が続く首都圏とは好対照なうすら寒さである。
釧路に限らず、日本全国至るところで同じような過疎化が進行しているわけで、旅に出ると都会で見聞きするニュース解説よりでは味わえない怖さをもって危機感が迫ってくる。

翌朝、風はあるものの晴天となり摩周湖へ。驚いたのは、JR摩周駅から出るバスが何と1日1本しかない!乗客は若者1人を加え、我々と3人だけ。車で観光する人が増えたせいなのか、我々のような
免許返納/鉄路愛好者には不便になっていた。遅かれ早かれ、バス便も廃止されるのだろう。 以前は第一&第三展望台までバス便はあった記憶だが、もう第三展望台行は無い。
 摩周湖第一展望台に6年前の夏、孫と来た際には流れていた≪霧の摩周湖(By 布施明)≫は流れておらず、静かな湖畔。青空にも恵まれ湖面の濃いマリンブルーが白樺林と相俟ち綺麗だった。

摩周湖から知床斜里駅まで向かう車窓から見えた羅臼岳(1661m)が雪を頂いている。斜里町の平地で雪が消えるのは4月上旬と耳にしたが、山の上では7月くらいまで残ると聞いた。 < つづく >
                  
         
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5月27日まで休筆します

2024-05-20 19:47:26 | 旅行
宜しければ、過去に掲載したコラムをお楽しみください。

I will be out of office till May 27th.   
If you would, enjoy articles written in earlier date, please.
 
我将休假至 5 月 27 日。 如果您愿意,请欣赏较早日期撰写的文章。
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ベトナム再訪記 <3>〆  ホーチミン 2/2

2024-03-14 08:50:55 | 旅行
 ホーチミンでの2日目、私は予想どおりマル1週間を超える観光と移動で疲労がたまり、ホテルで静養することに。然し、ホテルから100m足らずにある『War Remnants Museum』戦争遺物博物館が気になり、
疲れを押して向かった。そこはアメリカ軍から鹵獲したヘリコプター・戦車・戦闘機・速射砲などが前庭に展示されている。既に観光客が多くチケット売り場に並び、そこに目立つのは西洋人と地元の子供達。
 サリーをまとう女性たち&台湾人らしき一群は居たが、日本人・大陸中国人は全く見かけなかった。

中に入りながら「ああ、これが有るからあのホテルはVictory/Saigon が冠せられているのかも?」と遅まきながら気づいた。今風に言うなら<Victory>も<Saigon>もホテルのネーミングとして” ダサい ” のだが・・ここもハノイの『ホーチミン廟』同様、小中学生の愛国歴史教育の場となっている事実を考えれば、すぐ傍にあるホテルがVictory/Saigon と名乗らされている(?)のも不思議じゃない。
              
 博物館内部は戦闘経緯などの展示は少なく、60年代、世界各地から支援を受けた記録物や写真などの掲示が殆ど。無論、アジアからのコーナーに設けられた一角に【日本共産党】【べ兵連】関連の写真や支援活動の現物等が飾られていた。なんと<小田実・鶴木俊輔対談集>も展示。当時を記憶する世代にはおなじみなモノの数々だ。 私は写真を撮ったあとも、しばらくその場から動けなかった。

 ここで私が注目したのは【ホーチミン1/2】のメコン川クルーズ中に聴いた少数民族の女性による歌唱の伴奏に使われていたのと同じ二弦楽器が、戦中の慰問部隊で使われていたとの説明だった。
息子が(弦の数は少ないが)バンジョーに似ていると言った楽器である。少数民族の歌う悲し気な音調と戦地の束の間の慰問集会での歌声・・・。 嗚呼、それはどんな響きだったのだろう?
     

 1党独裁の強権統治でも順調に経済発展をとげ、貧富格差は産まれつつも生活水準が向上し続けるのを喜ぶ市民たちの笑顔。国土開発に邁進する統一後のベトナムをみるにつけ、単にかつての高度成長期の日本との比較に終わらず、「自由と独裁」の優劣がわからなくなってきた現代こそ、我々はあぐらをかかず、「自由と民主」の価値を真剣に吟味せねばと私は感じた。

              ~ 笑み溢れ 槌音絶へぬ サイゴンは たたかひの傷 いずこに隠す ~                      ≪  ≫
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ベトナム再訪記 <2>  ダナン 2/3

2024-03-13 09:09:43 | 旅行
 まず、ダナンを拠点に昨日1/2はミーソン遺跡での所感を述べたが、同日午後から夜にかけてのホイアン(会安)ツアーを含めなかったので、正しくは1/3,今日は2/3 になると訂正致します。33はフエ宮殿ほか。

ホイアンは、豊臣政権後半から徳川幕府にかけての伴天連弾圧を逃れた日本人が東南アジア各地に散り作った『日本人町』のひとつ。シャム王国(=現タイ)に山田長政が作ったとされる日本人町、幕末から明治に
「からゆきさん」が多くシンガポールやフィリピンに渡った集落とともに広く知られる。唯、このホイアンだけが今に至るまで街並みを残しているのは驚異だ。尤も、1代で絶えてしまう習性が殆どの日本人の家屋は、そうではない福建人たちが移り住んだので残されたという側面を忘れるわけにはゆかない。ここはミーソンの10倍は軽~く超える観光客で大混雑!渋谷・新宿のラッシュアワーに同じ。
    
 左2枚の光景は旅行会社掲載のツアー案内に良く使われる角度だが、次の福建人寺に吊られていた螺旋の線香を私は初めて目にした。日本の寺にも同じ線香はあるのか? この線香、燃えカスが色々な方向に落ちるのは迷惑ながらも、それを有難がる信者もいるのだろうな、と。  右は「精霊流し」。旧暦正月後のしきたりらしい。まるで日本の御盆の夏祭りの華やぐ雰囲気そっくりで、ごったがえしていた。
 気のせいではなく、ハノイやミーソン遺跡を訪れる観光客に比べ、西洋人も日本人も圧倒的にホイアン訪問者が多い。それは次のフエ宮殿跡も同様だった。       < つづく >
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