静夜思

愁多酒雖少 酒傾愁不来

≪ 西国の旅 5/5 止 ≫    丹波・篠山 < 美山茅葺集落/&牡丹鍋・鹿刺し >

2018-05-11 09:11:06 | 旅行
 いよいよ、丹波路の旅も最終日。 相変わらずの晴天、滝野社から2時間ほどで美山へ。ここは篠山の北東に当たるとか。茅葺家屋は少なくなったとはいえ、此の美山なる地域に
 固有なものではない。何が特徴なの?とT君に問えば「無論、白川の合掌造りほどの特徴や知名度はないが、28戸まとまって保存が良いこと、それに屋根の上の雪よけ構造物かな」と。
 写真をご覧戴くと分かるが、なるほど、屋根の上の造りは見慣れないものだ。見慣れないといっても”民家の屋根では”ということであり、出雲大社に代表される社殿造りの屋根上とよく
 似ている。 「国が保護する伝統的建造物群」(略称=国伝建群)という呼称での保存対象だそうで、<美山茅葺(株)>という立て看板表示があった。
   これは、茅葺のメンテナンス専業で事業の成り立つ基盤が(保護策のお蔭もあってか)此処にはあるということだろう。
         
 さて、美山集落をあとに旅最後の晩餐は<牡丹なべ>だ。古い記憶では猪鍋が供されるのは冬と決まっていた。だが、昨今は篠山では、何軒か一年中出す店があるという。此の日行った店
 <奥栄>は篠山から北に外れた郊外にあるのだが、T君が予め知人のつてを頼りに予約しておいてくれたもの。T君曰く、篠山市内の有名店に比べ、昨今流行りのコスパは抜群だと。
 店の女性に尋ねると、此の<奥栄>は、猟で獲るだけでなく、イノシシを養殖しているから臭みも少ない良質な肉を安定的に出せるのだと言う。獣肉好きの私は予め予約しておいた
 鹿刺しも満喫。 都会のジビエ店では解凍肉しか出せないが、こちらは鹿肉も仕入れは容易なので冷凍ストックせずとも注文に応じて新鮮なヒレ肉が出せると。ふむ、嬉しいこと。
 
 T君は鹿刺し一切れを恐る恐る口にしたが、お気に召さなかった様子、嗚呼。。とまれ、丹波路の旅はT君のお蔭で掛け値なしに至福の時を過ごせた。有難う!  < おわり > 
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≪ 西国の旅 4/X ≫    丹波路に遊ぶ: 出石(いずし)近郊 <出石城/沢庵和尚/竹田城>

2018-05-10 10:04:49 | 旅行
 またまた好天に恵まれ、強い陽射しを気にしながら出発。此の日は、兵庫県でも北に寄った丹後にある出石(いずし)へ。地図にあたると滝野社からは最も離れており、豊岡市になる。
   山勝ちの日本だから、北海道や関東平野を別にすれば何処へ行っても山また山・・・。それは本州・四国・九州どこも大差ない。唯、どちらかというと本州西半分の中国地方は、
例えば岐阜・長野・山梨・北関東の山地と比べ、標高が低いうえ”なだらか”ではある。「やま」というよりは「おか」と呼ぶのが相応しい感じの地形。それが延々と続く。
 兵庫は瀬戸内海側の僅かな平地を除くと、所謂<里山=さとやま>の典型が重なる土地だ。 山の幸、川の幸に富むのは当然といえば当然だろう。

さて、田植えの準備に忙しそうな農家を眺めながら、ようやく出石に到着。驚くほどの観光客の数にT君ともども目を丸くする。この売りは、城と時計台<辰鼓楼>そして沢庵和尚が居た
ので有名な宗境寺。城は、前日の龍野城同様の平城。小さな藩ゆえ天守閣を持てず、こじんまりしている。 沢庵和尚、宮本武蔵との逸話のほか、僧としての事績を私は知らない。
来る前に何も調べて来なかったのを少し悔やむ。
     
 帰路、「天空の城」という観光キャッチで知られるようになった竹田城の傍を通る。霧の海に浮かぶ幽玄な姿が見られるのは季節が限られ、5月の明るく温かい日和の下では唯の石垣遺跡でしかない。  それでも、1時間かけて石垣跡に登る人は絶えないとか。 此の写真にも、春霞の彼方に人影が写っている。               < つづく >
                  

  
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≪ 西国の旅 3/X ≫    丹波路に遊ぶ: 神崎/書写山/龍野

2018-05-09 09:29:58 | 旅行
 ”奈良の奥山踏み超えて”の旅路は好天に恵まれ気分はよかったものの、思わぬ古傷の逆襲に遭い、古傷にまつわる記憶が老いの自覚と重なる。旅とはそういうものと言い聞かせ、
 翌日は兵庫の滝野社近くに住む高校時代の旧友T君を訪ねた。嘱託で引き延ばしていた仕事も、いよいよ来月にはケリをつけ、細君の里・篠山に移ると言う。
 同年輩の友がチラホラ此の世を去り始めたなか、いつでも会えば即座に昔の面影を互いに見いだせる数少ない男だ。古いネグラの温かさ。タイムスリップの快感。再会を喜び、鍋を囲む。

明けて空は快晴。T君の車で<神崎>という鄙びた町へ。何があるのかといえば民俗学者・柳田国男の生家と民俗資料館がある。柳田は幕末から町医者だった父と武家娘の母に厳しく育てられた、と説明板にある。兄弟も揃って優秀、国男は東京帝大を出て農商務省の役人になりながら、何と出張先の地方で目にした民俗学資料などに気持ちを奪われ、とうとう退官してしまう。
 今も昔も、何かに一途になれ、学究の道を突き進めるタイプの人物とは、一種のオタク的性格でなければ大成できないということだろう。
      

次に向かったのは姫路の北に位置する<書写山(しょしゃざん)>。ロープウエイで書写山を登ると、圓教寺(えんきょうじ)という大きな伽藍がある。三つの建物がそれぞれ風格に満ち、屋根が美しい。そのうちの一つは”舞台造り”と呼ばれる脚組で、京都・清水寺の舞台造りと同じだという。  若葉豊か、ウグイスの鳴き交わす歌声を満喫した。
ご愛敬だったのは、境内で昔懐かし「猿まわし」芸を見せるお兄さんが触れ太鼓をトントン叩き、客寄せをしていた。 背筋をピンと伸ばす猿クンの真面目な表情をご覧あれ。
      

此の日の最後は<龍野(たつの)>。ここの見ものは<三木露風の生家><龍野城>。此の城自体はこじんまりとした平城で、特記するほどではない。寧ろ城下町の風情を壊さず大事に残している事のほうが私には印象深かった。家並みや入り組んだ道だけでなく、城の前に建つ小学校が旧武家屋敷跡と思しき建物を上手に利用し、景観を損ねない配慮が窺えたからだ。 
右の写真は武家屋敷門だが、そこに「龍野小学校・水練場」という看板が墨痕りりしく掲げられているのを目にし、T君と思わず噴き出してしまう。 門の中はプールだ。
      

 三木露風は「赤とんぼ」等、童謡の作詞者として記憶される向きが多いが、上田敏を師と仰ぎ近代詩の世界で活躍したことは余り知られていない。資料館で其の記述に触れ、かくいう私もおぼろげな記憶を喚起された次第。  T君がくれた大判のシップを貼った効果か、左膝の痛みは徐々に薄れ、感謝!感謝!             < つづく >
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≪ 西国の旅 2/X≫   奈良の奥山踏み越えて:  吉 野 山

2018-05-08 10:45:01 | 旅行
 前日の柳生街道歩きは悪路でぶり返した古傷の痛みに終始したが、翌日の吉野山歩きは痛む脚を引きずりながらの更に酷いものになった。まるで片足に障害を負った人物と同じ歩行しか
 できず、階段を恐れる気持ち、誰からも追い抜かれてゆく寂寥感を味わう。たまに見かける老人が使う杖を羨ましげに眺めているオノレの姿に気づく。
   身障者が日々感じることの一部でも自分は分かったことになるのだろうか? いやいや、そんなことはあるまい。それは傲岸不遜すぎる。では、今よりも老いた某日、思い描く
 速さで歩けなくなっている姿が是か?   うむ、たぶん。

 さて、天王寺は近鉄南大阪線の始発駅「阿部野橋」でもある。小学生の頃、ほんの短い期間だったが大阪市阿倍野区に住んでいた。昭和31年と記憶するのだが、あの当時は本当に橋があったように思う。それも今は昔の物語。アベノハルカスという高層建築が建ち、駅周辺も様変わりしたことだろう。時間の余裕が有れば地上に出て景色を確かめたかったが、脚の痛みもあり、とてもじゃないが無理。。。

 阿部野橋から特急で1時間余り、吉野に着く。が、何と、なんと吉野山に登るロープウエイは故障で運休!  Oh No !  気を取り直し臨時バスで<如意輪寺(にょいりんじ)>へ。
此の寺は南北朝に分かれて天皇を担ぐ勢力が争った当時、後醍醐天皇が御所として籠った場所という。結局、後醍醐天皇は此の寺で逝去し、その墓所が境内にある。
 境内からは山々が手に取る如く見晴らせる。櫻の時候にはさぞかし良い眺めだろうな、と容易に想像がつく立地である。

 寺の裏門を出て山道を下る。幸い、柳生街道とは違いゴロタ岩は転がっておらず、傾斜も緩やかなので、痛みは凌げる。さりながら、歩く姿は片揺れのまま。「之は歩いて治すしかないのだから・・・」などとおまじないよろしく、うわ言をモグモグ。。。。 1時間半歩き、ようやく近鉄吉野駅そばまで戻った。  オー。
 ロープウェイのワイアを恨めし気に見ながら隘路を登りきると、金峰山寺(きんぶせんじ)の参道だ。これまた緩やかな登り坂。陽射しが強まるが空気は乾き爽やかである。新緑がまた一層際立つ風景を楽しみながら寺の前まで来ると、その山門の大きさと本堂が立派であるのに驚くほかない。奈良・東大寺大仏殿に次ぐ大きさの木造建築物だという蔵王堂は目を瞠らせる。
 
 吉野に限らず、寺社仏閣を訪れるたび思うのは、巨大建造物を建てる労力や資金集めのマグニチュードである。すべからく資材運搬から建築作業を人力で賄うしかなかった往時、動員された労働力、それを支える信心の威力に想いを馳せるならば、宗教が嘗て人々に及ぼしたエネルギーの巨大さに行きつく。それは日本人だけでなくどの民族も同じだったろう。
 周知のように神道は過去を敬い現世の幸を願う対象だ。来世には触れない。一方、仏教は過去を問うことなく現世を捨てて来世の浄土を願えと言う。一神教の生まれなかった風土に生まれ落ちた日本人は、現世の幸を神道に託し、来世での救いは仏教に託した、ということか。ちゃっかり好いとこどりした? 神仏習合の成り立つ構造とは此の処世原理だと私は最近感じている。

 ガイドブックで目星をつけた食堂に入る。然し、目当ての<山菜定食>も<茶粥定食>も有りませんだと。観光シーズンゆえ、時間の掛かる品目は回転率悪くて出さないんだな?
 ”それならメニューを入れ替えろよ”と内心毒づきつつ、鮎の塩焼きとビールにて鬱憤をまぎらすことに相なる。救いは店の庭から広がる山々の姿だ。
 が、突如乱入してきた女子中学生の一群が店内に姦しく、折角の風景が台無しだ。  早々に店を出て「柿の葉寿司」一折を買い、吉野駅へ急ぐ。         < つづく >
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≪ 西国の旅 1/X≫  奈良の奥山踏み越えて:  柳 生 街 道    

2018-05-07 19:51:51 | 旅行
 Eveeryday Sunday の身分ながら連休をどう有意義に過ごすか? 別に悩むほどの事じゃないとはいえ、今回私が魅かれ、訪れたのは<滝坂の道>なるタイトルでNHKTVが紹介した
 「柳生街道」の一部だった。 この如何にも涼し気なネーミングに誘われたのだが、実はとんでもない歩きとなった。

近鉄奈良駅北側から出る奈良交通バスで(忍辱山)へ山道を35分登る。停留所傍には円成寺という寺があり、実に静かな佇まいの中。目に眩い新緑。木立にコダマする小鳥たちの歌声にほのぼのする。ここまでは極楽気分。 ・・・ああ、美しい!  癒される。

 ”いざ柳生街道へ”と歩みを進めたのは良いが、手つかずは森だけでなく遊歩道も。手つかずの意味は、人の頭サイズの石が埋め込まれた江戸時代そのままの悪路だ。傾斜を下る負荷に
加え、石ころを踏み続ける疲労は想像以上。靴の裏が剥がれるのでは?と不安になるだけでなく、昔傷めた左膝の靭帯がぶり返してきた。引返すには歩き過ぎた。逸れる脇道も無い。 
「ああ、来るんじゃなかった」と後悔するも遅し。途中には谷川そのもじゃないか?と思うほど細い隘路もある。 雨が降れば即座に泥水が砕け散るに違いないと思うたび、往時の凄まじさをイメージした。
 西洋の靴が日本に入るまで人々の履物は「わらじ」だったから、よくもこんな悪路を歩けたものだと驚愕した。柳生街道を通ったのは武士だけでなく平民も居たろう。時代劇で見かけるように、昔の旅人が腰に何足分ものわらじをぶら下げていたのも、これだけの悪路で使えなくなる草鞋の消耗を考えれば当然だなと合点する。忍辱山から市内高岡へ下るだけで10Kmはあったろう。  下りの途中に置かれる石仏はご愛嬌。新人深い昔の人達の想いとは何だったのか??

 膝の痛みをこらえつつ、自分の脚が移動手段の全てだった時を想像しようとしたが、所詮できなかった。 歩くこと・その意味。・・・今更だが、自分の老いとの対照も絡み考えさせられる歩きとなった。  さて、明日は同じ奈良だが、行ったことのない吉野へ行こう。                               < つづく >
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