静夜思

愁多酒雖少 酒傾愁不来

 ≪ 常葉菊川高校監督の職業選択の自由は?≫ 高野連とは何様?  なぜ個人の転職まで止められるのだ?

2016-07-30 21:50:15 | つぶやき
 * 常葉菊川監督が退任撤回、甲子園も指揮 高野連に変更認められず http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160729-00000048-san-l22
★ <同校によると、森下監督は6月中旬に「寮生活での体調面もあり、チームが入れ替わるタイミングで退任したい」と申し入れており、学校側も了承。27日夜に同校が静岡県
  高野連に監督の変更を申請したが、28日午前になって「大会の一連の流れとして、特別な理由がない限り変更は了承できない」という日本高野連の回答が伝えられた>。 
 ⇒ 皆さん、私は真相が「別の高校にスカウトされたからストップがかけられた」と報道を聞く迄、関心もなく知らなかった! これは転職人間への蔑視? 素朴なケジメ論?

* 高校野球部の監督。 それは技量や実績を認められる人が高校に乞われて「監督」の地位を引き受けるもの、と私は自分が10代だった頃から今の今まで解釈していました。
公立/私立問わず、そうでした。 皆さんも、そう思ってましたね?   まさか、まさか、一つ一つの高校ごとに監督就任が許認可/届出事項であり、監督を辞する際は、勤めた高校ではなく<高野連>の許可が要るとは!!!!   これって、可笑しくないですか?  ”大会の一連の流れとして”とは何?  それって<名監督が率いなくなれば番狂わせを招くかもしれないので、避けたい?>  そういう商業的計算?  ところで、高野連と教育委員会の位置関係とは?  クラブ活動の人事権まで教育員会/高野連にあるのかい??

 そもそも論になるのは好むところではないが、硬式野球に限らず、あらゆる運動/スポーツクラブ活動は高校教育の一環として存在意義が認められてきた。 過疎化で野球部が出来ない高校も沢山ある。野球だけではない。 いろいろな種目で学校教育における運動/スポーツ活動の重要さは誰もが認めるからこそ、単に勝った負けたの劇場イヴェントではなく、出来るだけ商業主義を排除する方向へ誰もが努力してきたのだと信じたい。

★ さて、此の高校監督のドタバタ騒動。裏に何があるのだろうか? 詮索しても今は何も出てこまい。 だが「監督辞任を大会中だから認めない」という高野連の声明が、県大会決勝の前日に出た不思議を我々は見逃すことはできない。 他高校との契約が伝わったタイミングが決勝戦の前であれ、後であれ、当の監督周辺が漏らしてしまった脇の甘さは咎められても仕方ない。  だが、静岡高野連は、県大会途中であろうがなかろうが、何が気に食わなかったのか?   
   一般市民には、道理にならないクレームを出せる仕組みと強権論理が私にはわからないのだ。 これも「おかみ意識」か? 当事者よ、あなたは論理的な釈明ができるか? 
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 ≪ 付和雷同で溜飲を下げるネット炎上 ≫ さもしさ+多数迎合の危険に気づけ

2016-07-29 09:06:20 | つぶやき
(耕論)それって不謹慎ですか 武田砂鉄さん、マッド・アマノさん、みのもんたさん http://digital.asahi.com/articles/DA3S12484909.html?rm=150
* 此の3人が述べていることの本質は、読んでいただくと直ぐ判るので敢えて要約しない。 此の論考は「不謹慎」とは何を指すのか? という設問ではない。
  「不謹慎だ」とたしなめる言葉遣いに隠れ、他人を匿名で攻撃できるネット媒体で遊ぶ人々の卑劣さ、安っぽい正義感、マスメディアのたしなみの無さ等を危ない兆候だと
  警告しているのである。
  官尊民卑(おかみ意識)の伝統が長く続いた歴史を持つ日本。日本人には個人の主張/自立心を貴ぶ伝統が生まれず「付和雷同性」が今も根強い。その指摘を否定する人は、自戒を込めていらっしゃるまい。 

 昔から匿名での誹謗中傷はあったが、手軽で便利なインタネットの普及で誰もが瞬時に好き勝手に文章を書き殴れる。そんな現代だから余計に、この「付和雷同性」は単に他人を
 攻撃して喜んでるだけではなく、「そうだ、そうだ!」と多数の叫ぶ勢いに流されてしまう危険を倍加させている。 全体主義、ファシズムに流される危険のことを私は云っている。 
      此の、社会として極めて危ない可能性について、<ネットで自分は社会と繋がっている>と安心している人々こそ考えて欲しい。
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 ≪ 付和雷同で溜飲を下げるネット炎上 ≫ さもしさ+多数迎合の危険に気づけ

2016-07-29 09:06:20 | つぶやき
(耕論)それって不謹慎ですか 武田砂鉄さん、マッド・アマノさん、みのもんたさん http://digital.asahi.com/articles/DA3S12484909.html?rm=150
* 此の3人が述べていることの本質は、読んでいただくと直ぐ判るので敢えて要約しない。 此の論考は「不謹慎」とは何を指すのか? という設問ではない。
  「不謹慎だ」とたしなめる言葉遣いに隠れ、他人を匿名で攻撃できるネット媒体で遊ぶ人々の卑劣さ、安っぽい正義感、マスメディアのたしなみの無さ等を危ない兆候だと
  警告しているのである。
  官尊民卑(おかみ意識)の伝統が長く続いた歴史を持つ日本。日本人には個人の主張/自立心を貴ぶ伝統が生まれず「付和雷同性」が今も根強い。その指摘を否定する人は、自戒を込めていらっしゃるまい。 

 昔から匿名での誹謗中傷はあったが、手軽で便利なインタネットの普及で誰もが瞬時に好き勝手に文章を書き殴れる。そんな現代だから余計に、この「付和雷同性」は単に他人を
 攻撃して喜んでるだけではなく、「そうだ、そうだ!」と多数の叫ぶ勢いに流されてしまう危険を倍加させている。 全体主義、ファシズムに流される危険のことを私は云っている。 
      此の、社会として極めて危ない可能性について、<ネットで自分は社会と繋がっている>と安心している人々こそ考えて欲しい。
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 ≪ 教員の政治的中立は 第三者機関の判定に任せよ ≫  政府は調査/判定する権限を白紙委任されてない!

2016-07-28 20:46:26 | つぶやき
 *自民党「偏向教師密告」サイトの波紋 「まるで戦前の思想統制」 http://mainichi.jp/articles/20160728/dde/012/010/002000c?fm=mnm
・ <参院選で大勝し、かつてない巨大権力を手に入れた自民党が、だ。これまでも強引な政治手法は批判されてきたが、さらに党のホームページ(HP)上で
  「政治的中立を逸脱した学校の先生がいたら名前などを教えて」という趣旨の「調査」に乗り出し、「まるで戦前」と波紋を広げているのだ>。

 ⇒ これまでも私は数えきれないほど、教育に限らず報道においても「政治的中立/偏向」判定の基準、其の運用について、誰にそれを判定する権限があるのが正しいことか?
   と問い続けてきた。 戦前の大日本帝国、今のロシア・中国・北朝鮮・ヴェトナム。キューバなど、全体主義国家では、政府/支配政党に唯一その権限と強制力がある。
   其の他、主要国でなくても同様に国家が国民に「かくあるべし」と特定の価値観を強制し、反論する市民を弾圧する構図は発展途上国で少なくない。 今のトルコもそうだろう。 
  私の信念では、其の判断基準も調整基準も「国家」という抽象的存在に象徴される特定の価値集団に選挙結果だからと丸投げされるのではなく、一人一人の人間/市民/国民が負うものだ。 其の責任と務めはもちろん軽くない。ときに其のプロセスはウザったいかもしれない。 だが、そこで投げては、大多数の庶民の「どうでもいいじゃないの?」という言葉を免罪符に、自らの企みで乗っ取ろうとする頭のいい連中の思うツボだ。
 
 * 「調査」サイトは一時、政治的中立の逸脱例として、教師が「子供たちを戦場に送るな」などと主張することを挙げていたが、後にこの文言は削除された。  
 ⇒ 「子供を戦場に送るな!」という親の悲痛な叫びに「思想的中立も偏向」もありはしない。 反戦の詩、歌は古今東西詠まれてきた。   
   ”Where Have All The Flowers Gone ?” これは列強に痛めつけられた弱小スロヴァキアの哀しいフォークソングだったことをご存知か? 此の歌に特定の思想も主義も関係ない。 今回の自民党調査は、これをも偏向だと云いたい人たちなのだ。 戦争が起きても耐えろ、と言いたいからか?

 日本万歳の国粋派、自民党の連中が気に入らないのは「反戦思想」そのものではなく、そういう立ち位置に立つ者の考え方をする人全てである。そこには嘗てのようにマルキシズム云々もない、何故なら消滅したので今や正面の口実にはならない。 で、口実にできるのは唯一<国家愛護><もういちど日本>しかない。 それが証拠に、NHKや民法の番組編成嗜好を見よ! <Cool Japan>に始まり<凄いぞ日本><日本の職人技術!>などなど。  

「民主党政権の総括が済まないので、自民党が相対的にマシとしかいいようがない、消去法であれ政権運営を任せるしかない」と判断した人々をけなすことは私にはできない。 
 だが、こういう思想グループに権力基盤を与え続けることの先に、どういう日本が待っているのか? 自由は損なわれないだろうと支持したつもりの人まで、いつのまにやら自由を奪われる仕組みに連れ込まれてしまわないか?   ・・・こういう想像力を働かせて戴きたい。
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≪ 教科「道徳」? ≫  色を付けない普遍的な『道』・『徳』なら わざわざ教科の必要があるか?

2016-07-27 13:07:43 | つぶやき
 * 毎日社説: 道徳教育 やはり評価に適さない http://mainichi.jp/articles/20160727/ddm/005/070/163000c?fm=mnm
・・子供の評価は数値によらず、記述式にする。当然のことだ。 またクラスの他の子供たちと比べる「相対評価」ではなく、それぞれの成長を積極的にとらえ励ます
  「個人内評価」として行う。 入試の合否判定には使わない。  子供と保護者に示す通知表には子供の状況を記述しても、受験校へ出す調査書には記さない。
・・皮肉なことだが、工夫すればするほど、一般教科と区別して「評価」に、あるいは「教科化」にこだわる必要があるのかという疑問もわく。

 ⇒ ここだ。 ヒトとしての「道」や「徳」という漢語でイメージされるものは世相の変化で変わる。江戸時代から戦前まで続いた儒教的倫理観と相俟つ「道徳」概念は、無論、今や其のままでは誰も教えることができない。 では、言葉は変えずに「道」「徳」が引き摺る概念で文科省が導きたいのは、どういうモノなのだろう?  そこが曖昧にぼかされたまま教科にして何とか前に進もうという魂胆だけが助て見えている。 まるで改憲風潮を醸し出す手口とソックリではないか?

 ★ 例えば、ヒトを殺したり暴力を振るって自分の意志を通そうとすることはイケないことだ、という教え。ウソをついてはならない。他人を傷つける言葉を吐いてはならない、誰もが人間として平等な権利を持つもので差別はいっさい許されない、などなどの基本的な倫理。これは民族や文化/宗教と無関係に普遍的に説かれ、教えられているものである。
 これらの人類普遍の教えは第1義的には両親が教えるものだが、必ずしも教えがどの子供にも行き渡らないケースがある。また、教える内容にもバラつきは避けられない、だから補足的に学童年齢になれば教師が別の角度から補う、そういう意義付けの学習時間を定期的に設けるのなら誰も疑念を挟まないだろう。 そこに政治的中立云々も無い。 右も左も無いのだから、教師は迷うことがない。
 ☆ 然し、次の記述を目にすると、私は何か論の立て方が不純に思えてくるのだ。。即ち。。。
  <「教科外の活動」だった道徳が教科化される一契機になったのはいじめ自殺問題だった。また、かねて学校によっては週1回の道徳の時間が形骸化し、なおざりになっている
  との指摘もあった。 文科省は教科化を機に、これまでの教材に登場する人物の心情を読み取り、感想を話し合うような「読む道徳」から転換を図るという>。

  ・・・「いじめ」と「道徳」の関連は? 何故、「道徳」の授業が形骸化したのか、その分析結果はどんなものか? ”総合学習”との兼ね合いは?
    そもそも、教諭の混乱や力量の問題という前に、「道徳」をどうして学校で教える必然性が有るのか? という根本から立ち還ってどこまで分析したのか?    
      専門家が言う分析や施策は、普遍的常識と釣り合っているのだろうか? 
  <望ましい人間像>を創り、個人の多様性を消し去る方向で、国民の道徳や倫理が教えられてはならないない。最低限、此の点だけはハッキリさせておこうではないか。
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