不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

「外国人は悪いことする」 元職員が打ち明けた入管の”闇” ・・・・   危険な国々からの入国や産業スパイを警戒するのと 故国で迫害されて逃れてきた貧しい人とは 対する態度は違う筈だろ?

2021-04-29 22:35:37 | 時評
https://mainichi.jp/articles/20210428/k00/00m/040/270000c?cx_fm=mailyu&cx_ml=article&cx_mdate=20210429
 ◆  1%に満たない難民認定率や上限のない収容期間、非人道的な外国人への処遇……。日本の入管行政に対しては国内外からさまざまな批判の声が上がっているが、改正案はこれら課題の
  解消につながるものなのだろうか。元入管職員の木下洋一さん(56)は大学卒業後の1989年、公安調査庁に入庁。2001年に同じ法務省外局の入国管理局(現・出入国在留管理庁)に異動し、
  以降は入管職員として19年3月まで働いた。退職する直前の2年間は在職しながら神奈川大大学院にも通い、自らの仕事である入管行政について研究。修士号を取得した

 入管には「治安を守る」という目的の下、外国人の出入国に関わるありとあらゆる権限が集まっている。そこで働く職員は、外国人をどんな視線で見ているのか。木下さんは「今だから言えますが」
 と切り出した。「外国人は悪いことをするかもしれない、危険な人になり得るかもしれないという意識がありました。性善説ではいけないと」

 「僕は審判部門に06年から3年間いて、09年に別の部署へ異動します。その後16年から再び審判部門に配属されることになりますが、審査の厳格さが明らかに変わっていたのです。例えば日本人と
 結婚していて、オーバーステイ以外には特段問題がない人ですね。以前なら比較的柔軟に許可を出していたのに、(16年に)戻ってからは出さなくなっていました」

 なぜこんなことが起きたのか。背景にはある施策の実施と、その終わりがあった。04年から08年にかけて行われた「不法滞在者5年半減計画」。その名の通り、非正規滞在の外国人を半分に減らす
 ための取り組みである。計画中は平均年約1万件あった許可数は、木下さんが審判部門に戻った16年以降、毎年1000件台と極めて低い水準で推移している。「同じような状況の人に、ある時期は
 許可を与え、別の時期には与えない。 <本来そうしたことはあってはならないはずですが、入管の考えは違いました。

◎ 『その時々で判断が変わるのは当然だ』と」在留特別許可が急速に減っていった背景には、東京オリンピック・パラリンピックの影もちらつく。法務省が16年4月7日付で地方入管局長らに出した
  文書はオリ・パラに触れながら、こう記す。「我が国社会に不安を与える外国人の効率的・効果的な排除に、具体的かつ積極的に取り組んでいくこと」
   「自分たちの裁量、さじ加減一つで全てが決まる。外部のチェック機能も働かない。こんなブラックボックスのようなやり方は健全なのか、公正なのか」(木下さん)


★ 政府が今国会に提出した入管法改正案についても、国連人権理事会の特別報告者らが「国際的な人権基準を満たさないように見える」とする見解を示している。改正案は送還の促進に重きを置いた
 内容だ。ただでさえ難民の保護に後ろ向きな日本の姿勢がさらに露骨になっているとして、大いに問題視されているのだ。
  
 「指摘されているのは入管の判断プロセスに司法が関わらないことであって、『後から裁判を起こせるから問題ない』と言われて一体誰が納得するでしょうか」
 また、訴訟を起こしても、原告の外国人が勝訴する望みは限りなく薄い。「裁判所は入管の処分に法的な瑕疵(かし)がないかを確認するだけなので、それ以上の踏み込んだ判断をしません。
 つまり、司法が救済手段になり得ていないのです。政府の説明は、そうした現状を全く無視しています」


 木下さんは、「繰り返される難民申請が入管にとって頭の痛い問題であるのは確かで、何とかしないといけないというのは分からないでもありません」と入管側の主張にも一定の理解を示す。
「ただし、今の段階での申請回数の制限は明らかに時期尚早、あまりにイージーな選択です。19年の日本の難民認定率はたったの0・4%で、本来難民として扱われるべき人をきちんと保護する
 システムに現状はなっていません。難民認定については『参与員』と呼ばれる外部有識者が意見を言う制度がありますが、人選するのは入管です。選ばれた人が難民問題に精通しているとも
 限らないので、参与員の判断が正しいのか疑わしいという指摘もあります。

▼ 「入管法をどう考えるかは、この国が外国人とどう向き合おうとしているのかの縮図だと僕は思っています。これまで入管は一貫して『悪いのは入管の決定に従わない外国人で、入管には問題がない。
 だから管理を徹底すべきだ』という姿勢で来ました。それは今回の改正案にも見て取れます。本当にこれでいいのか、ここは立ち止まって考えるべきではないでしょうか」(木下さん)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

  なくならない差別  憎む対象を探すことで心の安定を求める 哀しいサガ   

2021-04-29 08:14:34 | 時評
◆ 3分間の言葉に広がった共感 アカデミー賞「ヘイト拒否」スピーチ https://mainichi.jp/articles/20210428/k00/00m/030/301000c?cx_fm=mailasa&cx_ml=column&cx_mdate=20210429
★ 【風知草】ノマドランド考=山田孝男(特別編集委員) https://mainichi.jp/articles/20210426/ddm/002/070/117000c
◎ 米社会で沈黙強いられたアジア系 反差別でなく、無知との戦い https://mainichi.jp/articles/20210428/k00/00m/030/126000c?cx_fm=mailasa&cx_ml=column&cx_mdate=20210429
 とても胸を打ち、考えさせられる内容であり、且つ有料記事ではないので、是非とも全文をお読み戴きたい。

この三つは一見異なる話に題材を執った内容だが、アカデミー賞受賞以外に「差別=人権侵害」への態度を問う点でも共通する。 最初のは<あらゆる差別を拒否しよう!>と黒人男性が呼び掛けるもの。
次のは<アカデミー賞を獲得した中国系アメリカ人映画監督への北京政府の態度>。 三つ目は日系アメリカ人による<黒人差別以外の歴史を教えていないアメリカの学校教育の糾弾>である。 

 現在のアメリカ国民は、長引く経済停滞による所得格差拡大、トランプ前大統領の国論分断策、コロナ対応の拙さによる閉塞感。これらが綯(ない)交ぜになり≪憎む対象を探し・心の安定を求める≫
非人道的な大衆心理に堕ちている。内には民俗/人種差別が、外へは対中封じ込め政策が≪憎む対象を探し・心の安定を求める≫に呼応している。
此のアメリカに我が息子&孫が住む私として、此の狂った大衆心理の影響は、他人事でない。 長男は(半ば冗談と思うが)自衛のためヌンチャクを久方ぶりに取り出して練習してると書いてきた。

 片や、中国の内政では(新疆ウイグル自治区の回教徒弾圧)と(言論/思想の自由抑圧)。外交では対米覇権の樹立が国家方針となり、ここでも≪憎む対象を探し・心の安定を求める≫構図は同じだ。
栄えある受賞に輝いたクロエ・ジャオさんへSNS上で寄せられた称賛が、北京政府の指示で突如削除されたり、ビル・ゲイツ氏自伝の発禁措置など、目に余る。ジャオさんは二度と大陸の土を踏むまい。

無論、日本もエラそうに他国民を説教などできはしない。在日&アイヌ&問題を抱え、ヘイトスピーチが消えない現状を忘れるフリが続く。政治家だけではない。国民の大半がフリを続けている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【書評133】-3-  定家 明月記 私抄  ~ 本篇・続編~   堀田 善衛 著            新潮社     1986 & 1988年  

2021-04-27 16:26:44 | 書評
【3】統治構造の変化と鎌倉文化
 前回の<【2】権力構造の変質>でも少し触れたが、地頭の増長で荘園から安定的に収入が齎されなくなり、宮廷に仕える女房は生活苦に陥り、和歌や日記を綴る心の余裕を失った。
 それが平安朝女流文学滅亡の外的要因だが、堀田氏は内的要因として、以下を挙げる。

「古今集」で頂点を極めた和歌は<本歌取り>で技巧に走るしか道を見つけられず、連歌の宴に地位を譲る。<本歌取り>では、実景或は実心理を謳うのではなく、先人が謳い上げた詩情や歌枕を
 キーワードにフィクションを積み上げるだけである。これこそ現実棄却に走り、鎌倉の宮廷文化が和歌を中心に据えた平安文学から乖離を見せてゆく原因だと氏はいう。

 其の兆しは後白河上皇の今様好みに始まり、後鳥羽院が今様に加え<白拍子、猿楽役者、大道芸人、傀儡師、遊女、相撲とり>まで宮廷に招き上げ、乱痴気騒ぎに明け暮れた事からわかるように、
 宮廷が文化創造力を喪失してしまい、路上遍歴民の愛した大衆娯楽が室町以降の文化的中心となったのだ、と堀田氏は断言する。<本歌取り>の延長である連歌もその創造力喪失の一例であり、
 定家は連歌の輪に進んで入ろうとしていない。 そうは言いながら、後鳥羽院は「和歌所」を設置して勅撰和歌集の編纂に乗り出す。自己矛盾に写る行動だが、定家は宮廷専属歌人のプライドもあり、
 <承久の乱>以後も、和歌一筋路線は踏み外していない。ここで堀田氏の重要な指摘。それは、和歌とは(唱)和する歌であり、和歌が本来持っていたメッセージ機能(とりなし依頼、贈答挨拶、恋文)
 がちゃんと働く宮廷環境が摂関政治の堕落で失われた事も大きいというもの。・・・万葉集の各歌が訴える素朴ながらも胸を打つメッセージング、キャッチボール機能は、もう何処にも無い。

 鎌倉の武家政権出現、更には承久の乱失敗で下り坂を転げ落ちる朝廷の権威は民衆の困窮・動揺を招いた。悪い事に、定家が生きた時期は天変地異(大地震/水害/干ばつ/冷夏など/流星多発)が頻発!
 プラス飢餓&疫病流行と続き、夢判断や祈祷が大流行。京の都は群盗が跋扈、治安の悪化に武士さえ手が出せず、寺院は僧兵による自己防衛へ傾く。公家の館に加え御所まで群盗が押し入り、
 放火して去る有様。京が無秩序都市になった事を定家は生来のメモ癖が昂進したのか、驚くほど細かく書いている。もう、社会構造が平安の往時から想像つかぬほど変質してしまった。

 網野善彦氏の名著に「中世のと遊女」がある。同書が扱うのは、まさに後鳥羽上皇が宮中に引っ張り込み、ひと時代を風靡した路上遍歴民(上述)の末路である。承知の通り、鎌倉期までは差別の
 対象ではなかった<白拍子、猿楽役者、大道芸人、傀儡師、遊女、相撲とり>の後裔達の幾つかはが、室町・戦国の激変期を経るうち江戸期には「」まで落とされる。
  現代の差別問題に想いを致す時、800年近く昔のことながら、室町の向こうに遠く鎌倉文化が透けて見える。
 病弱ながらも生き延び、強盗の襲撃もなく、人生がブレることも無く、定家は実に強運な人だった、と繰り返し言いたい。キーン氏がいみじくも書いていたが、女流日記文学と戦記物の空白を埋める
 巨大な彗星のように「明月記」は燦然と輝いている。  堀田氏に太平洋戦争の最中から”いつの日か解読しよう”と誓わせた魅力。それがダイジェストを覗くだけの私にも判る気がするのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 稿を終えるにあたり、平安期古典作品の書写以外で、藤原定家の功績に触れたい。それは、天台座主・慈円の日本語論を秘かに支持した定家は「愚管抄」「方丈記」同様の漢字仮名交じり文を
 「明月記」の終盤では少し使い始めたことだ。漢文で書くのを崩さないながらも、晩年には平仮名文字の使い分けについて論じた書を残した。『定家仮名遣い』と後に呼ばれるものだ。
 (「お/を」「え/ゑ/へ」「い/ゐ/ひ」)の使い分けである。ご承知のとおり、飛鳥・奈良時代までの日本語発音は平安~鎌倉期に大きく変化した。それが発音と仮名の対応関係を崩したので、和歌を
 通して研究熱心な定家は、漢字仮名交じり文の大衆普及の為にも再整理が必要と思ったのだろう。この書物を書き遺さなかったら日本語の表記と発音の研究は致命的な穴を持ったに違いない。

 定家の最晩年だが、数え70歳を迎え出家を決意し、奈良・春日大社に参詣している。<御成敗式目>発布の前年だ。71歳で権中納言を辞任。翌72歳で出家、法名は「明静」。出家後もなお
 「新勅撰和歌集」の清書は続けているが「明月記」は此の年に終った。78歳の時、後鳥羽院が隠岐の島で死去。2年後、数え80(満79歳)で死没。。。        < 了 >
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

愁多酒雖少 酒傾愁不来 【書評133】-2-  定家 明月記 私抄  ~ 本篇・続編~   堀田 善衛 著            新潮社     1986 & 1988年  

2021-04-27 11:41:08 | 書評
【2】権力構造の変質
 京都にいる天皇、或は天皇が譲位後に院政を敷く平安末期の公家政治(実態は摂政・関白=いわゆる摂関政治)の代表的存在は後白河上皇だ。今様(いまよう)に入れ込み、和歌よりも熱を入れた挙句『梁塵秘抄』を編んだことで知られるが、源平武家集団の争闘を象徴した保元&平治、治承・寿永と続いた戦乱期、二条天皇や平清盛・木曽義仲などとの対立に手こずり、政治的には強力ではなかった。
 とはいえ、壇ノ浦に平家が滅び、源頼朝が鎌倉政権を樹立するまでの公家側実力者であり、奇しくも幕府開府の1192年、西行と共に世を去っている。

 後白河院の弔いを兼ねて頼朝は上洛参拝、戦乱で朽ちた奈良東大寺再建供養にも参加している。頼朝を征夷大将軍位に任じたのは後白河である。そして当時の天台仏教は平安以来の国家庇護下にある。
 つまり、鎌倉幕府が発足した直後の力関係は<公+僧 vs 武>であり、律令制下で保障されてきた公家階級の荘園運営(年貢取り立て)と警備役を鎌倉源氏勢力が一手に引き受ける格好になった。

 ところが、源氏の血統は頼朝死去(1199年)を継いだ頼家は暗殺され、三代目となった実朝は定家を師と仰ぎ、和歌に狂う破目に。執権として幕府を実質的に切り盛りする北条一族の恨みを買った
 実朝までが暗殺(1219年)された。此の頃から鎌倉に源氏の面影は消え、北条幕府と呼ぶべき姿に変質。時を同じうして、公家側でも後白河の後を継いで院政を敷いた後鳥羽は、贅沢三昧で国政を
 ほったらかす。

 こういう権力構造の変化にあって、遊び惚ける後鳥羽を尻目に宮廷経済を支えたのが摂政関白の位にあった源兼実。平清盛が拓いた日宋貿易を継承し巨万の富を呼び込み、天候不順や治安警備力低下で
 減る一方の上納物不足を補った。定家は兼実に繋がる部下であったので、陰に陽に家計逼迫を助けて貰っており「明月記」にも頻繁な記述があるようだ。
 ご承知のように「宋銭」と呼ばれた貨幣を大量に輸入し、日本初の貨幣経済が導入されたのも此の頃だ。裏を返せば、律令制以来の物納から貨幣を介した交換経済に移ったことで、地頭の横領が増え、
 公家は収入源が細る。即ち、平安期から保証されていた女性への荘園の相続権が家計維持上、実質的には機能しなくなったわけで、女性の経済的自立に支えられた「通い婚」「女流文学」は消滅し、
 宮廷における女房の力は衰え、何と関東から武士を婿にとり没落を免れようとする現象が顕われたという。坂東武者の多くは文盲だったから、平安朝女流文化は継承されることなく遂に姿を消した。


◆ 鎌倉時代の歴史を決定づけたエポックメーキングな事件は<承久の乱(1221年)>。実朝暗殺で鎌倉方が混迷している?と踏んだ後鳥羽院が幕府追討の勅を出したが、無計画/武備不十分おまけに
 指揮官不在のお粗末な公家軍が勝てる訳はない。後鳥羽上皇、順徳天皇、後堀河上皇の3名が配流。朝廷の保有していた荘園全てが幕府支配下にされたうえ、法然や親鸞が起こした新興仏教運動も、
 これら二人の配流で下火に。ここに<公・僧・武>の力関係は武家支配に1本化されたのである。 
 ご存知、承久の乱終結後の4年に亘る北条政子の暗躍は、天台座主・慈円の辞任が象徴する国家宗教に替わる禅宗の重用にも現れ、道元が入宋したのも政子の後ろ盾と思われる。
  ここで興味深い存在が、公家方政治を陰で操った藤原兼子。北条政子は実朝暗殺の1年前に上洛し、兼子とサシで密談したらしいと定家は書いている。欧州宮廷では『妻妾政治=Pornocracy』と
 呼ぶそうだが、偶然にしても、同じ13世紀の東西で女傑二人が政治を牛耳った歴史は実に興味深い、と堀田氏の指摘。このあたりの事情も「明月記」なくば後世には伝わらなかった。

 さて、定家は陰謀加担者と見做されず身分は安泰なるも、歌会も開かれず古典の書写に生を出す毎日。「伊勢物語」「大和物語」「源氏物語」「古今集」などが保存された功績は偏に定家に帰すると
 堀田氏。 不思議な事に、不遇をかこっていた定家の歯車が昇任へ回りだし、経済的ゆとりまで得たというから、まことに運が強い男というべきか。

★ 承久の乱から10年余を経た1232年、徳川幕府に至る日本の武家政治を決定づける文書が幕府より出た。北条泰時の発布した<御成敗式目51ヶ条>であるが、次の諸点で歴史的重要性がある。 
(1)記請文(前文)で”北条執権が朝廷含む全ての人間に対して命じる”と言い切った事。即ち、現世の支配者はもはや天皇ではなく執権の自分だと知らしめた決定的瞬間だ。頼朝が将軍を拝命した
   1192年から丁度40年にして力関係は完璧に逆転した。「宮様に伺候さぶらう」用人としての「サムライ:侍」ではなく、支配者としての「武士」が誕生したのである。
(2)承久の乱時、朝廷方に就いた者の断罪は当人の身と限り、血累遡及せぬとした。⇒ 後の「一族保護」から「イエ意識」醸成のもとになったのではあるまいか?
(3)女性財産相続権の保護ならびに「姦通罪」の新設。 ⇒ これは宮廷文化崩壊へのラストパンチに。
(4)京の宮廷へ官位や爵位を個人々が勝手に請願せず、執権の許可を得よ。⇒ これまた<公家に何かをお願いする立場>ではない事のダメ押しであろう。 

* 武家による朝廷支配のもう一つの事例が「新勅撰和歌集」に戦犯3名(後鳥羽、順徳、後堀河)の作品を全て排除させ、坂東武者の何首かを入れさせた事実だろう。
 ここまでの堀田氏の整理は実に的確かつ変革期の実相を見事に描いていると私は賛嘆。これまで何となく不鮮明だった<平安から鎌倉/室町へ、日本の中世が形成される流れ>が本書でスッキリした。

 以上のような短い時間における権力構造の劇的な変化・変質。それは文化並びに社会風俗全般にも当然ながら及び、室町文化へと繋がる。               < つづく >
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【書評133】-1-  定家 明月記 私抄  ~ 本篇・続編~   堀田 善衛 著            新潮社     1986 & 1988年  

2021-04-26 14:16:08 | 書評
 キーン氏は<百代の過客>(上)で「明月記」に関し”今川文雄氏による「読み下し本」が昭和52~53(1977-78)年に出版されたが、それには注釈が皆無だ”と不満を漏らし、ごく限られた理解
しかできないことを残念がっている。そして「どなたか背景説明を含む平易な解説本を書いてくれないものか」と懇願までしていた。
 私は【書評132】<百代の過客>の3/6で、ごく短く氏の想いと私の雑感を書いたが、堀田氏の本書は見事に「明月記」の存在意義を明らかにしたばかりか、恐らくキーン氏が知りたかった事の多くに
応えたと思う。  無論、キーン氏に触発された私が定家及び彼の生きた時代について知りたかった事にも本書は十二分に答えてくれた。

 本書は<百代の過客>が1984年に上梓された後の作品ゆえ、キーン氏の嘆きを堀田氏が知っていた可能性は高いだろう。続編(あとがき)によれば、堀田氏は執筆までに計8年を費やしたとあるので、
上梓前の原稿段階で、キーン氏が朝日新聞に連載していた<百代の過客>を読んでいたとすれば、キーン氏の嘆きに応える意図も込められた、と思いたい。しからば「明月記」に関して両氏の間に
何らかの交流があったのか、それは不明だが・・・・。

 堀田氏によれば、漢文で書かれた原本3巻と今川文雄氏による「読み下し本」を書見台に並べ、読み比べつつ本書を執筆したとある。藤原定家は数え歳80で没したが、「明月記」の範囲は何と
57年に亘る。堀田氏が何度も呆れて書いているが、内容の殆どは日々の出来事のみならず、ゴシップ/天候/災害/世情/宮廷内生活/衣裳/行事・儀式/人名・位階などの詳細な描写記録らしいので、
漢文全編を読み込んだ堀田氏の定家に負けず劣らぬ熱情&根気には脱帽のうえ最敬礼するしかない。 
 平安から鎌倉へ日本の政治と社会が大きく転換する時期の全容を、宮中に近く暮らした文人貴族が残してくれた貴重なドキュメント「明月記」。それを時系列に沿い、縦横にダイジェストしてくれる
本書を総括するなどと大それた事が私に出来る筈はないが、厚顔無恥を重々承知のうえで、感ずるままに敢えて記してみたい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 本編・続編を通読して私が得たポイント、それは3つの視点『人物』『権力構造』『文化・社会』であり、これで此の巨大な転換期を切り取つてみる。
【1】定家と周囲の人物
 職業歌人として生涯を貫いた定家だが、彼にとり後鳥羽上皇(以下=院)は人生の最後まで影を落とした存在だった。18歳年下だが、源平合戦後の鎌倉幕府樹立から6年後(1198年)、19歳で
 譲位するや否や、遊興三昧に耽り始め贅沢放蕩は留まらず。(院)にとり和歌も遊びの一つに過ぎないながら「和歌所」を宮中に設け、<歌合わせ>なる行事を何度も開き、定家を選者に任命。
  平安宮廷の文化を絶やさぬようにとの願いを(院)なりに抱いた点が中世欧州の宮廷詩人を抱えた王侯貴族に似ている、と堀田氏は≪ホモ・ルーデンス/ヨハン・ホイジンガ―著≫を引用している。

 面白い指摘は、何処の文明でも遊戯/芸術に秀でた人物の身分・待遇は低い点が共通し、定家が責めて父の俊成並みの位階への昇任を(院)から下知させようと周辺官僚への賄賂工作に励む下りだ。
 然も、定家は日記に恥じらいも無く贈賄の詳細を書き、(院)に無視される恨み言や悔しさを赤裸々に綴っているという。定家と(院)の確執は、単にムラ気で我が儘な(院)に振り回された事
 だけではなく、歌合での批評や「新古今集」選定時の異見が生じた際、定家がプロとしての誇りから追従しなかったからだと堀田氏は観る。(院)自身が作歌の才能に恵まれていたのは事実ゆえ、
 承久の乱(1221年)に敗れて隠岐の島に流されたあとも、同島で死ぬまで定家の撰を批判し続けた執念にも恐れ入るしかない。

 もう一つは、25歳の定家が尊敬し、わざわざ会いに行き教えを請うた西行についての堀田氏の見立てだ。即ち、源頼朝を鎌倉に訪ね、奥州平泉まで旅したのは朝廷側に頼まれた情報収集では?
 いわばフィクサー的存在だったのではないか、というのが堀田氏の書くところ。何やら後世の芭蕉間者説にも似通う。経済力を着けはじめた武家政権との関係をどう保つか、宮廷側も腐心しただろう。
  
 更に意外なのは、定家は和歌所で顔見知りである鴨長明を歯牙にも掛けていなかったとの下り。「方丈記私記」をものした堀田氏によれば、「方丈記」は中身と視点において「明月記」と好対照。
 何となれば、ひたすらゴマすり&歌作に邁進した定家の生き様と違い、長明は管弦いずれの楽器にも秀でた芸達者。上司に随伴した花見の帰路、牛車で横笛を吹き一行を慰めたりする好きモノだが、
 観念性はカケラも無い行動派だとの描写である。「方丈記私記」は本書に先立つ1971年出版なので、猶更、定家との対照が氏には際立ったのであろう。 
  氏の指摘で、改めて「方丈記私記」(ちくま文庫)を原文(岩波文庫)と共に書架から取り出した。   いずれ読み直そう。                 < つづく >
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする