静夜思

愁多酒雖少 酒傾愁不来

書評 082-3〆  「孤独なボウリング」  ロバート・D・パットナム 著  柴内 康文(訳)    原著2000年初版   訳書:2006年刊

2018-10-03 15:50:34 | 書評
 第二次大戦の戦禍に苦しむ各国を尻目に、唯一”我が世の春”を謳歌した50~60年代前半までの米国。その黄金期の終わりを象徴するのがヴェトナムからの撤退(75年)だが、
市民コミュニティーの崩壊がジリジリ進んだ20世紀後半の25年間、ダメ押しともいえる決定的パンチが90年代以降のインタネット普及によるコミュニケーションの変貌であり、
それが”地域の仲良しクラブ”というべき各種コミュニティーの崩壊に輪をかけて、政治参加や宗教活動参加の低下を決定付けた、というのが昨日まで紹介した本書の要点である。

 一つ、私には新鮮だったのが<社会関係資本>という社会学の用語だ。サービスや物品を対象とする<物的資本>、人・人間を対象とする<人的資本>に対し、社会的ネットワーク、
及びそこから生じる個人間の「互酬性」「信頼性」にも同等の価値を認めるのが<社会関係資本>だ。同等の価値を認める理由は、個人及び社会双方の生産性を向上させるうえで
重要な働きをするから、というのだ。
 生産性向上への貢献という理由付けが如何にもアメリカ人らしいので私は苦笑したのだが、此の捉え方は日本の市民参加型活動やNPO活動でも採り入れてはどうか?
いや何よりも政府や自治体こそ、地域創生とか市民参加・コミュニテイー振興だけでなく、国民分断を避ける為に政策理念として中核に据える価値があるだろう。

 さて、肝腎の『コミュニテイー再興への処方箋』だが、著者は以下の6つの領域に分けて論じている。項目の右は著者の唱える方向付けを要約したものである。

 【1】 若者と学校と地域社会活動・・・クラブ活動と地域の文化教養・スポーツ活動の融合で、若い世代に地域コミュニティー活動の重要さを知らしめる。
 【2】 職域の各種教養娯楽活動・・・地域の仲良しサークルと職域/職種/業界間の垣根を取り払う仕掛けづくりを行う。
 【3】 都市設計・都市デザイン・・・人種/文化圏/年齢層の異なりによる地理的孤立を解消すべく、地域フェスティバルへの巻き込みを図る。
 【4】 宗教(キリスト教会)活動・・・従来は盛んだった「セツルメントハウス」活動を単なる福祉慈善活動に絞らず、地域親和性を軸に再興する
 【5】 芸術・文化活動・・・インタネットの普及を活用した電子エンタテイメント企画で広域コミュニテイー再建をめざす。
 【6】 政治と政府・・・人の繋がり再生の取組には個人努力と制度設計のふたつがあるが、政治家が為すべきは両方の支援・振興だ。

これでは方向付けが抽象的過ぎてわかりづらい。本文で著者が「例えば・・・」と例示・示唆する内容を見ても、果たしてこれが具体的施策に結びつくのか?との懸念は否定できない。 
そして、国情/社会構造/歴史等の違いを考える時、此の6領域はともかく、方向性は日本で直ぐにヒントに出来る切り口ではなかろう。
 むしろ<社会関係資本>概念並びに著者の説く方向性/その着眼方法こそ、民意の多様化、帰属意識の質的変化にうろたえている日本人が真剣に咀嚼すべき柱だ、というのが私の読後感である。

本書は20世紀末に書かれ、世紀の替わった2000年にアメリカでベストセラーとなり、各国語に翻訳された。日本語翻訳が2006年。トランプ当選の10年以上も前の分析だが、トランプが大統領になって以来のアメリカ合衆国の変貌、先行き不安と世界の混沌など、其の遠因が米国社会コミュニティーの崩壊にあると本書は改めて気づかせてくれた。 < 了 >
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書評 082-2  「孤独なボウリング」  ロバート・D・パットナム 著  柴内 康文(訳)    原著2000年初版   訳書:2006年刊

2018-10-02 21:56:25 | 書評
 私が昨日挙げたのは、ボウリングをキーワードに、およそ100年前と20世紀末を比べ”人の繋がり”を求める活動が如何に衰退したか、著者による総論説明が主であった。
ボウリングは一例に過ぎず、誰もが耳にする<PTA><ボーイスカウト><全米ライフル協会>などでも、参加者絶対数の横ばい又は減少、定期会合の頻度並びに参加率の低下、
街頭活動への参加減少など、これらコミュニティー活動に共通する現象を著者は具体的に例示している。其の詳細な論及はコミュニティー活動100年の歴史あってこそ成り立つ。
 
 日本では、同じレベルの調査・研究のできる標本が無い為、<市民と人の繋がり>という大きなテーマを著者のように論じられないのだが、本書で重要なポイントは、多様で膨大な
市民参加活動全体の衰退と軌を一にして「政治参加」「宗教活動参加」も同時に衰えてきたという著者の指摘だ。 此の二つの領域は、申すまでもなく<人の繋がり>を左右する重要な
モノであり、「投票率の低下」「キリスト教会主宰の日常活動への不参加」がバロメーターだ。「投票率」はいわずもがな。「キリスト教会」を「仏教」と読み替えれば日本でも同様の
社会現象が続いている。民族・人種・出身文化の違いを辛うじて横串でまとめたのが、アメリカではキリスト教だったから、其の衰退は日本以上に致命的と言わざるを得ない。
 若い世代における< Church Goer > の減少、これまた分断のもう一つの局面となっている。

 一連の市民参加型社会活動の衰弱と、政治・宗教活動における同種の後退こそ、国民経済面での格差拡大よりも寧ろ「心の分断」を強く推し進めているだろうと私は思う。
だからこそ、此の分断をまとめようと考える者は、政治領域において≪代議制ではなく直接投票・住民投票型の参加≫の方向へ向かうか、戦争・オリンピック・国民的行事の演出などに活路を探す。いずこも前者がパワー不足なのに比べ、心の分断をまとめるには便利で即効性のある愛国心・ナショナリズム扇動は強力だ。その延長線上に、トランプの『アメリカファースト』はある。 また、日本の国家主義風潮も同じ文脈で捉えることができる。

 米国でコミュニティー破壊の主たるエンジンとなったインタネットの普及は(つぶやく)だけに終わり、≪代議制ではなく直接投票・住民投票型の政治参加≫と結びつくこともないので個人がバラケてゆくのを促進こそすれ、投票率向上には役立たない。インタネットを生み出し世界を席巻した米国で、情報技術の革新が歴史ある自国のコミュニティーを壊した。 
 何と言う皮肉か! 日本でもSNSの蔓延が政治参加とは無縁に同じ推移を辿っているのは読者もご承知のとおり。コミュニティー崩壊と代議制民主主義の危機が連動しているいま、我々はなすすべもない。 ・・などと嘆いていても始まらないが、では、著者はどのような処方箋を本書に遺したか?                     < つ づ く >
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書評 082-1  「孤独なボウリング」  ロバート・D・パットナム 著  柴内 康文(訳)    原著2000年初版   訳書:2006年刊

2018-10-01 14:13:05 | 書評
 トランプ大統領の登場で「アメリカ国民の分断」がかまびすしく嘆かれる様になったが、トランプ氏の登場は現在の「国民分断の原因」でなく「米国コミュニティ崩壊の結果」だ、
ということを本書は克明な調査結果に語らせている。 著者によれば、アメリカ独特の民主主義と併せて発達した市民参加の多用な活動形態の歴史は南北戦争終結後の1870年代から
第一次大戦の終わる1910年代後半の間に高揚期を迎え、ベトナム反戦の高まりからサイゴン陥落の1975年を境に衰退し始めた。
 日本と100年の差があること、然も市民参加活動における歴史の長さだけでなく、地域コミュニティーとの繋がりの深さにおいて100年前も今も彼我には決定的な差があることを
我々日本人は銘記しておきたい。 

 ボウリング;これが書物のタイトルに、然も「孤独な」という形容詞の付せられている事が「米国コミュニティ崩壊の結果」を象徴する典型として使われる。若い世代はいざ知らず、
日本でボウリングが流行した60~70年代頃、アメリカ人との大きな差は<リーグ・ボウラー>が大多数のアメリカに反し、日本では一人だけ、或は家族・友人・職場仲間が
群れて遊ぶ<オープン・ボウラー>が殆んどである点だと訳者は指摘。 因みに<リーグ・ボウラー>というのは、同じ地域に住む者なら職場・学校・職業・年齢とわず、気の合った
仲間が集まり、組み合わせを変えながら延々とリーグ戦を楽しむクラブ的な集いだ。 それが消え失せ、アメリカ人は孤独な<オープン・ボウラー>になってしまった。 

此の<リーグ・ボウラー>式の活動はボウリングに限らず、米国民が誇らしく思った様々な”市民コミュニティー”全般に通じる特徴だ。著者が上げる事例を貫く<リーグ・ボウラー精神>
というか<~マインド>というか、日本で似たような精神形態を敢えて探すなら、NPO活動がやや近いかもしれないが、私の狭い体験からしても全く本質が異なる。

 もとよりアメリカ合衆国は『経済格差=階級』『移民前の国=民族』『先祖の出身地域=人種』の異なる人々が複雑に同居して人工的な国家を作り上げた、世界で唯一と言ってよい
クニだ。 すぐ剥がれ落ちそうになる互いの融和を何とかして繋ぎとめようとする人為的な努力こそがアメリカ流の市民参加、地域コミュニティー活動であり、”強い/明るい/夢を抱かせる
アメリカ”の原動力でもあった。(恐らく1960年代前半あたりまでは)。
 だが、今や自信を失い、分裂・分断を深めるアメリカ。著者は、およそ100年前と2000年直前期を比べ、≪地域コミュニティーとの繋がりの深さ≫における落差の激しさを米国の読者に突きつけた。 膨大なデータ分析で上に述べた歴史背景並びに過去/現在(21世紀目前当時)の比較に本文全513頁の殆んどを著者は費やしている。

その概要説明さえ重いので割愛。 次回は「衰退の原因」推論、及び著者のいう【米国コミュニティー再興】への処方箋を紹介したい。日本とは余りにも環境/歴史/国家の成り立ちが違い過ぎるので、すぐさま参考になることは少ないけれども、別のカタチであれ、分断の悩みは日本も同じだ。                       < つ づ く >
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書評 081-2 止 北方民族の歌の旅  谷本 一之 著    北海道新聞社  2006年 12月刊 

2018-08-26 09:46:38 | 書評
 昨日は、北海道江差町の『江差追分』と同じ音型の歌がウラル山脈南方にみられ、東の北海道から中央アジアにまたがる【音のシルク・ロード】とも呼ぶべき繋がりがあることが谷本氏の努力から明らかになったのを紹介した。
 遅まきながらではあるが、日本でアイヌ文化の保護に少しづつ前進がみられようになったのも、長年に亙る努力が底にあったと思う。今朝のニュースで、俳優の宇梶剛士さんが「アイヌ文化振興大使」に任ぜられたことが報道されていた。祖母方がアイヌの出身だという宇梶さん、白人系、黒人系、アジア系問わず、混血であることが隠されなくなった昨今の様々な傾向のひとつであり、実に喜ばしいことである。

 本書の第6・7章では、北方民族の比較文化研究の成果、とりわけ音楽を通してみられる共通性の確認が、民族文化保護から少数連帯の国際的活動に活かされていく流れを紹介している。それは20世紀から21世紀にかけての大きなうねりとも謂うべきもので、喜ばしい。
 谷本氏はベーリング海峡を挟むアラスカと対岸のシベリア東部・カムチャツカに暮らす諸民族の間にみられる共通性の研究に生涯を捧げた研究者の話に続き、ハンガリーが生んだ20世紀の作曲家(コダーイ)(バルトーク)の取り組みを紹介している。この二人の逸話は刮目そのものの内容で、19世紀までの西洋音楽の全否定に発する”現代音楽の祖”ぐらいの知識しか無かった不勉強な私には、仰天の連続だ。

東欧のハンガリー;ここはヨーロッパ諸国とロシアが王政から国民国家に変貌する19世紀以降の激動期、もみくちゃにされる小国の悲哀を地で行く歴史をもつ。西はオーストリア、北にはロシア、南にはトルコなどの強国がひしめき、第一次・二次大戦を経て領土の三分の二を失ったという。然もソ連の支配に屈した戦後、帝国の滅亡からそこに至る苦難の歴史を生きたコダーイとバルトーク。二人とも幼少期を過ごした町がルーマニア・チェコスロヴァキア・ポーランドなどに再編されてしまい、ふるさとを失った点で共通している。
 コダーイはハンガリー以外の諸国との比較研究ではなく、国内の民族音楽研究に限った一方、バルトークはバルカン半島、中央アジア、インド、中東、スペインなど広範囲の諸民族残る音楽を採譜し、作曲上のアイデンティティーにした。これが二人の相違点。
 唯、ジプシー音楽がこれらの少数民族音楽に横串を刺す存在だとの位置づけにおいて、コダーイもバルトークも一致。インドアーリア系の人々が東はウラル方面へ、西は東欧/バルカン方面へ、遠くはスペイン・ポルトガルまで流浪した。この指摘も私には新しい知識であり、著者が実際にハンガリーに現存するジプシー村で調査に同行した下りは圧巻だ。
 谷本氏は若き日の60年代、コダーイ氏に現地で会っている。またバルトークの長男は札幌に同氏を訪ねてもいる。  谷本氏にとり、西の端・ハンガリーから東の端・日本に連なる繋がりこそ、研究者として最高の発見であったに違いない。

 二人が19世紀までのロマン派音楽の旋律/和声/音階全ての否定から12音音階へ走った背景、そこには20世紀に持ち込まれたヨーロッパ秩序への嫌悪/挑戦を見ることができる。 
然も、ハンガリー人が東方アジアのマジャール人を祖先に戴くことをコダーイ・バルトーク両氏は踏まえ、民族音楽の研究と理論音楽構築が同時に進行したという。二人にとって、この民族意識と19世紀までの西洋音楽全体の否定は即ち、西洋/東洋の枠組みを飛び越える視野の獲得でもあった。音楽に生きた人物で、他の誰がこのような視野を獲得し得たか?

 正直いって、私は二人の作った音楽で心を動かされたことがないし、安らぐこともない。芸術に限らず何事も同じだろうが、<美しい・心地よい>と感じられないのは好かれない。
だが、書評:73-西洋音楽史(岡田暁生 著)で述べたように、西洋音楽が東洋も含め全世界に浸透した現在、これからの音楽がどの方向に向かうのかとの問いについて答えが無い現在、
繰り返し懐古されるだけのクラシック音楽の未来と民族音楽の関係性に鍵があるのか、ないのか? そんなことを想い、私は巻を閉じた。            < 了 >
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書評 081-1  北方民族の歌の旅  谷本 一之 著    北海道新聞社  2006年 12月刊 

2018-08-25 10:27:15 | 書評
 本書は、8月13日:書評<079-1&2 オーロラの下に生きる人々>の前半部の元になったという、谷本氏が1963年を皮切りに40年余り続けた調査行をまとめたもの。
グリーンランドからカナダ、アラスカ、カムチャッカ半島、樺太/北海道、シベリア、ハンガリーに及ぶ広大な土地に残る『北方諸民族の伝統舞踊/民謡/伝承音楽』を現地調査し、先達の遺した写真撮影/録音/採譜した研究成果をも含めて著者の想いが、折々寄せた随筆の体裁で綴られている。
 それは民族音楽の比較を通した文化人類学研究の大きな歩みであり、亜寒帯/寒帯に生きる諸民族のひとつとしてアイヌが現在の日本のテリトリーに存在する、其の意味を我々が考えるうえでも大きなよすがになる、というのが私の所感だ。 
 版元たる北海道新聞社から一般販売はしていないとのことで、先月初めに孫と訪れた網走の「北海道立北方民族博物館」に依頼して取り寄せたのだが、期待通り、読みながらワクワクする知の喜びを久しぶりに味あわせてもらった。 同博物館のI様には、この場を借りて、御礼申し上げたい。

 さて、本書は7章建てで、1~5章までは<アラスカ・カナダ/グリーンランド・シベリア・カムチャツカ・ウラル>各地に残る歌/踊り/宗教儀式に加え、すたれがちながらも片鱗を守る各少数民族の生活ぶりが活写されており、大変興味深い。赤道直下に暮らしてきた少数民族相互の文化的関連性欠如、多様さと比べ、この北方諸民族に見られる文化面での共通性は驚くばかりだ。 
 共通性といっても狩猟漁労で生きて来たことが共通する以外、ヨーロッパ人、ロシア人、日本人の支配以前まで各民族が使っていた言語の間に繋がりがあった、とは証明されていない。 だが、なんと民謡や儀式で使われる音楽において、北米大陸の端からユーラシア大陸のハンガリーまで、音律や音階に共通性が見いだされるというのが長年に亙る研究成果だそうだ。 
 文字をもたない口承文化だからこそ、例えばアイヌの<ユーカラ>とシベリア諸族の民謡に共通性があるのも頷ける。
 音とコトバ;両者の関係性については、ゲオルギアーデスの「音楽と言語」だけでなく、フルトベングラー「音と言葉」など、音楽家も様々な人が書物を残しているが、”話し言葉を形づくるのは「音」”であることを考えれば、容易に変化する言語と比べ、文化の基底において「音」「音楽」が永く共通性を持ち得るのは当然なのかもしれない。

 具体例として第5章<ウラルの歌>に挙げられているのが北海道の【江差追分】で、なんと現在のカザフスタンとロシアが国境を接する地域<=80年代末は旧ソ連領内でバシコルトスタン共和国>に生きる少数民族に伝わる歌にソックリだという。ヤマトの民謡と一般には意識されている【~追分】が実は大陸由来のものらしい、とは誠に新鮮であった。1990年9月には谷本氏が江差町とNHKの協力を得て「江差・世界追分祭」を開いたとある。ちなみに、日本国内の全国大会は本年で56回を数えるようだが、外国から歌い手を招いての集いは、1990年だけだったようだ。 それから30年近い。ソ連解体後、同地域の少数民族の暮らしや伝統保持がどうなっているのか?  他の地域と同様、気になるところだ。 
                                                                          < つづく >
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