静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

靴を脱いで家に入るか/入らないか:生活習慣の違いから探る 宗教差&清浄感覚の違い

2024-08-25 14:30:41 | トーク・ネットTalk Net
◎【StarsINsider】世界で靴を脱ぐべきなのはどこ?
 どこまで正確かを気にしなければ面白い記事なので、拾ってみた。日本で生まれ育った者は外国へ行き初めて習慣の違いに気づき、異文化を少し考える。行かなければ考える機会はない。

大雑把に分類すると・・【A】主客の例外なく靴を脱ぐ国  【B】脱ぐ習慣は無いうえ、来客に脱ぐよう求めるのは失礼だと考える国  【C】主客問わず、全く/殆ど脱ぐ習慣がない国
  【A】日本、ベトナム、タイ、インド、イスラム諸国(パキスタン・アフガニスタン・イラン・トルコ)、ギリシャ、カナダ、ハワイ、ロシア、バルカン諸国、北欧、ドイツ、オーストリア、伊(ベネチア・ジュリア州)
  【B】オランダ、イタリア、イスラエル、フランス         【C】モンゴル、ベルギー、英国、オーストラリア、アイルランド、スパイン、ポルトガル、中国、韓国、アメリカ、ブラジル

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 ここに挙がってない国がまだあるし+<玄関で脱ぐのか/部屋の前で脱ぐのか>(カーペットや板張りなら脱ぐのか)などの違いもあろう。だが、概ね、上の分類は当たっているようだ。
 世界の人口に占める比率から言うと【C】が【A】をやや上回るか?  では、なぜ屋内で履物を脱ごうとするのか/しないのか? ここには興味深い違いがありそうだ。
  ①「宗教倫理の観点から屋内での履物着用を不浄と考える」イスラム圏。    ② 宗教とは無関係に「屋内での履物着用を不浄と考えない」中国、モンゴル、韓国。
  ③「宗教とはいえない清浄意識から屋内での履物着用を不浄と考える」日本。 ← これは①②④のどれでもない、世界では稀な清浄/不浄感覚であり、「ウチソト意識」が深く影響している?
  ④「屋内/屋外にウチソト意識をもたない」諸国。 ← イスラム教と同じ一神教でありながら、キリスト教/ユダヤ教諸国は履物(=外界)を不浄とは考えない。

縄文人やアイヌ人を含む北方民族は鹿や猪・熊の革・鮭の皮で作った靴を屋外で履いていたことが知られるが、屋内では裸足だったとされる。それが弥生人以降の日本人の習慣に受け継がれた?
その太古からの習慣に加え、弥生から古墳期以降に天皇一族支配が出来上がる過程で生まれた≪ 神道アミニズム≫のもつ「結界意識/白浄感覚」が<屋内では靴を脱ぐ>習慣を強固にしたのだろう。

日本人の美意識は≪世界では稀な清浄・不浄感覚≫から来ている。然し、稀だから優れているのでは決してなく、日本文化の源が世界では超少数派の特異な感性に根ざす事を己惚れてはならない 
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熊被害対策は「衰微する過疎地域をどうするか?」の一部でしかない       『空』概念の異文化遭遇

2024-08-25 08:59:03 | トーク・ネットTalk Net
◆ 【AREA.dot】クマの捕獲をめぐる全国からの批判に苦慮 背景には過疎化や第一次産業の後継者問題も
*「クマに『来ないでね』と言っても伝わらないですし(笑)、人間の側が賢くなって、『クマが来てもいいことがない環境づくり』をやるしかないんです
   (秋田県自然保護課・ツキノワグマ被害対策支援センターの近藤麻実さん(40))

・ クマの捕獲(駆除)への対応をめぐり、秋田県には全国から「パニックになってクマをただ殺している」「何も対策をしていない」など、さまざまな批判が寄せられているのだ。
  現在、秋田県では捕獲したクマの「放獣」(山へ返すこと)は一切やっていない。県の「管理計画」にもそう明記してある。個体数が減っていれば放獣も選択肢として考えるべきところだが、
  クマに関しては絶滅を心配するレベルからはほど遠く、あえて放獣する必要性も低い、ということも判断の理由だ。
・クマと鉢合わせしないよう草刈りをしたい。でも過疎化が進み住民の手ではできない。そうなったとき、誰がそれをやるのか。行政はどこまで手助けするのか。自治体としての「戦略」を真剣に、
 具体的に考えなければいけない段階に来ていると近藤さんは警鐘を鳴らす。「核は『人が減る中で、地域社会をどう維持するか』を行政がどう考えるのか、です。クマは、その中の一部でしかない
 解決には10年20年かかる。そう想定せざるを得ないと思います」
  ⇒ 熊に限らず、また秋田県に限らず、近藤さんが言う事は正鵠を射ており、都会に住む浅薄な似非動物愛護家どもの虚言が際立つ。


◇ 【現代ビジネス】仏教はなぜここまで日本で受け入れられたのか…私たちの根源に埋め込まれた「空」というメッセージ    本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集
(A)西谷啓治が「空と即」(『講座仏教思想』第五巻、一九八二年)という論文のなかで興味深いことを記している。西谷によれば、「空」の概念はインドで、すべての事物がそれ自体として存在しているのではないということを言い表す理論上の
  概念として成立したが、それが日本に伝えられたとき、純粋に理論的な概念としてではなく、むしろ感情や情緒と結びつく仕方で受け入れられた。

 その背景には、そもそも日本では「死」というものが、「はかない」とか「むなしい」といった感情と深く結びついたものとしてとらえられていたことがあったと考えられる
 そのように情意のレベルで受けとられた「空」を西谷は「情意における空」ということばで言い表している。


(B)『旧約聖書』の「伝道の書」には、「空の空、すべては空なり」ということばがある。しかし西谷は、東洋と西洋とでは、無常というものが感じられる地盤は同じではないと言う。
 西洋においては、すべてが移ろうと言われる場合にも、その根底に、何らかの意味で移ろわぬもの、永遠なものが考えられているというのである。たとえばイデアというような考え方もそうであるし、キリスト教の神もそうである。
 西洋の無常というのは、そういう永遠なものに支えられた、あるいはそれに基礎づけられた無常である。それに対して東洋の場合には、そういう移ろいゆくものの背後に永遠なるものが見られず、そのために、その無常感、あるいは心の
 「むなしさ」といったものがどこまでも深くなっていくところがあると西谷は述べている。


(C)インドで成立した概念が「空」という中国語に移されたとき、純粋に理論の上でというよりも、「空」ないし「虚空」のもともとの意味である「目に見えるそら」と結びつく形で受容されたと西谷は指摘している。
  目に見えない永遠無限なものであるシューニヤ(空)が、人間にとって目で見ることのできる唯一の永遠なるものである「そら」と結びつけて受容されたのである。概念の受容の歴史という観点から見たときたいへん面白い点である。
 異なった文化のなかの新しい概念に接したとき、それをどのように受容するかというのは、つねに大きな困難を伴う作業であるが、中国の人たちは、目に見えない無限である「空」を理解するために、目に見える無限を手がかりとしたのである。

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 「空」概念の受け止め方が同じ東洋世界の中国と日本でこのように違った。中国人の受け止めには「そら」という目に見えるが無限である対象との対比で「空」概念を捉えた。この点、西洋人が
<絶対的なもの・永遠な何か>との対比においての「空」を捉えたのと近い。何故なら、どちらも『二項対立』の点では似通っているからだ。
 唯、中国人は「神」の如き絶対存在ではなく地球や天体に繋がる「そら」の無限さに「空」概念をなぞらえた。日本人は地球・天体でも抽象的な絶対存在でもない「自分の心の中の空洞」になぞらえた

無論、この「自分の心の中の空洞」はインド人が抱いた「人間存在上の(空)」概念と同じではない。こう対比してみると、日本人が西洋でもアジア大陸でもない固有な精神風土に太古から育まれてきた
事実がハッキリする。其のユニークさゆえに、「空」概念は独特な浸みこみ方で日本人の精神に宿り、独特であるが故に日本人は日本人以外の人々とどうしても分かりあえない宿命を持つのかもしれない、

と私は感じる。
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