静 夜 思

挙頭望西峰 傾杯忘憂酒

【書評 145】  終生ヒトのオスは飼わず   米原 万理 著       文春文庫      2010年3月 刊 

2021-12-30 09:36:21 | 時評
 【書評 144】偉くない「私」が一番自由:米原 万理/佐藤 優(編集)の最後で私は本書に触れた。本書のタイトルは、米原さんが生涯結婚しなかった事に引っ掛けただけか、との第一印象は
見事に裏切られ、本書の最後に採録された既出「私の死亡記事より」に『 終生ヒトのオスは飼わず』との新たな見出しを付け、それが本書全体のタイトルにされた、こういうことだった。

 米原氏ゆえの奇抜でキャッチーなネーミングに文春文庫が寄りかかる傾向にあるのはこの本に限らないが、没後5年目を記念して編集・出版された本書は2部構成。
前半第1部は無類の猫&犬好きだった著者の動物愛護精神の発露を語る日々のエッセイ集で、それには『ヒトのオスは飼わないの?』とのタイトルが付され、第2部後半は「私の死亡記事より」の他、様々なエッセイから構成されている。・・と、ここで私は少し足踏みした。何故なら、第1部タイトルが人間の男性には目もくれない著者の嗜好をからかい気味に付けたのはわかるのに対し、第2部の
タイトルは雑多なエッセイに彼女が込めた思いや考え方全体と一致しない。 『終生ヒトのオスは飼わず』*の直前に『偉くない「私」が一番自由』*も収められており、ちょいと無理があったかな?

* 此の2篇は米原氏の人生哲学を物語る中核であるが、後者は紹介済なので、前者について述べるならば、50代半ばにしてここまで自身並びに己の人生を総括し尽くしている、其の涼やかで透徹した
 自己認識に私は感服・脱帽するしかない。・・さて、私は50代半ばでここまで己を見つめ把握していたか?と自問するに、無論、答えは(否)。

 第2部前半4篇は自叙伝的な想い出集:「家の履歴書」「夢を描いて駆け抜けた祖父と父」「地下に潜っていた父」「キューリー夫人を夢見た母」。嗚呼、この家系&両親にして此の娘在りと肯く。
上掲の最終2篇の前に置かれた5篇:①「これも一種の学歴信仰」②「言葉に美醜なく貴賤なし」③「核武装する前に核被害のシュミレーターを」④「よくぞおっしゃった」⑤「羊頭狼肉の限界」。

 ①②は月並みゆえ割愛。③と⑤は世紀代わりに起きた一連のテロ攻撃に武力行使を続けた米国への批判。私が印象深く読んだのは④だ。
2004年当時の皇太子妃・雅子さんが男児出産を望む無言の圧力から精神障害を患い、それを皇太子(当時)が労わる言葉をかけた事への共感にことよせ、束縛だらけの皇室生活を凡人ではない外務省
キャリアだった雅子妃が送る苦悩に同感を寄せ、且つ、皇室の在り方が抱える様々な矛盾(=国民主権との矛盾、男女平等理念との矛盾)などを指摘する。その一方で、元首としての大統領制より
「国の統合の象徴としての元首=天皇制」が優れているのでは?との見解である。 共産主義を押し付けもしなかったという両親に育てられたが故の平衡感覚であり、日本共産党脱党であろう。

さて最後に、著者の全貌を象徴すると私には思われるネクラ-ソフの詩:『偉くない「私」が一番自由』******米原氏の訳した4連を下に掲げ、本評を閉じたい。
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 まもなく腐敗の餌食になるだろう この私  死に行くのは辛い、ひと思いに死ねたらどんなに楽か。  憐れみなどまっぴらだ  ああ、それに憐れむ者などいまい。
 私の詩琴は わが貴族の一門に煌めきをもたらしは しなかった。  だが民衆にとってもまた 生まれたとき同様他人のまま 私は死んでゆく。
 友情も 心からなる結びつきの絆も 何もかも引き裂かれてしまった幼時から  運命は私に宿敵どもを送り込んできた。 そして友人たちは闘いが奪っていった。
 彼らは予言の歌を歌い終えることなく 其の人生の盛りのさなかに 裏切りと憎悪の犠牲となって 倒れていった。  彼らの肖像は 責めるように 壁から私を 見つめる                                                                     
                                                                  歌集;終焉の歌 ≪ 導入歌 ≫ 米原万理(訳)
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「何故、外国の人は日本人の使う説明論理が理解できず、誤魔化してると執られ、日本人の説得は失敗するのか?」

2021-12-27 08:42:45 | 時評
  丁寧に説明してる筈だが、こちらの言う事が外国人にわかってもらえない・・・と首をかしげる日本人よ。 何故なのか? を説くカギが次の論考に潜んでいる・・ 

◆毎日・【風知草】汚染水、理解の壁=山田孝男 (特別編集委員) 全文転載

・ 中国外務省の趙立堅(ちょうりつけん)副報道局長が、東京電力福島第1原発の「処理水」放出に重大な懸念――という22日付のオンラインニュースが目にとまった。
  「処理水」放出には韓国も反発している。日本政府は今年4月、2023年から海へ放出する方針を決めた。今回、中韓の反発を招いたものは「東電、放出計画認可を申請」という日本側の報道である。
  日本では、政治決着のついた問題と見なされがちだが、対外説得に失敗している。<失敗の本質>を直視する必要がある。← 負ける戦いにならないように(小李白)

・私(山田氏)自身、この問題で隣国との認識の違いを思い知らされた体験がある。10月「日中関係と国際協調」を主題とするオンラインのシンポジウム(言論NPO、中国外文局主催の東京―北京
 フォーラム)に参加した際のこと。中国の複数の識者が「海洋放出は中国人の対日印象悪化の要因だ」と発言した。日本側の何人かが「放射性物質を無害化して放出する」と説明した。
 すると中国側は「(日中間に)領土問題は存在しないという日本政府の主張と同じ。安全だと言い張るのは奇妙」と切り返してきた。
  中国側の発言者の一人は旧知の社会学者の女性だった。日本語の上手な彼女に後日、発言の真意をメールで聞くと返事が来た。要点はこうだった。

 (1)中国は2018年9月から日本の説明に疑問を持ち始めた。きっかけは、処理済みの汚染水から、無害とされるトリチウム以外にストロンチウムなど有害な核種が検出された――という報道、
   それを確認した東電の発表である。
 (2)最大の疑問は、通常運転中の原発から出る液体流出物とメルトダウン事故の処理水は同じと言えるか?という点である。
 (3)東電の多核種除去設備ALPS(アルプス)の処理能力が不明。情報の全面公開がない。日本国内にさえ、海洋放出に強い異論があるではないか。

   以上の主張が政治的に偏っているとは言えないだろう。18年9月の報道というのは「浄化したのに高濃度放射性物質」という共同通信の特報である。東電が記者会見で認め、多くのメディアが
   追いかけたが、私自身、忘れていた。

・改めて東電に聞くと、こういう説明だった。問題の貯留水は仮処理段階のもので、再浄化の上、希釈して捨てる。最初からそういう計画であり、ごまかす意図はなかった……。
 報道以後、東電は仮処理しただけの汚染水を「処理途上水」と命名。現時点で福島の約1000基の貯留タンクの7割が「処理途上水」。再処理済みの「処理水」が3割という。

 ★ そこで「通常の原発排水と事故炉の処理水は同じか」「ALPSは機能するか」――である。
   事故処理水もALPSを通せば同じだ――と東電は言う。ウェブ上の解説は詳しいが、核心は仮定に基づく計算。それも複雑過ぎて分かりにくく、第一、心に響かない。
   今春から中国語と韓国語の発信も始まったが、同じことだろう。 * 処理水の放出完了まで順調でも数十年という。50~100年説もある。


  「トリチウムは無害」「どこの国も捨てている」と隣国に説いて得るものはない。
  この問題は廃炉作業のごく一部に過ぎない。我々はなお事故を制御できていない。そこを認めず、計算上の楽観論を詳述するだけでは対話が進まない
 
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▲ 青文字と赤文字にした部分。ここが「何故、外国の人は日本人の使う論理が理解できないのか?」「どうして日本人の説得は失敗するのか?」の核心である。
  現に失敗している理由;それは第一に、仮処理しただけの汚染水を「処理途上水」再処理済みの「処理水」と命名し直すことが(2)の疑問に答えてはいない。
  第二には、東電が(3)除去設備ALPSの能力を開示しない姿勢故の<事故処理水もALPSを通せば同じだ>と言う説明への不信感である。

お分かりのように≪根本的な疑問に正面から応答しないまま、その上から覆いかぶせる次の言葉でパッチワークする、日本人独特の言い回し≫が非日本人には不誠実と写り・理解を
得られないのだ。
 此の姿勢は、政治家や官僚が不都合な事案について疑義を追求された時に使う答弁ロジックそのものでもある。日本人同士の間では力関係さえ違えば通ってしまう「無理」だが
「道理」しか会話に使わない外国人には通らない。。。開国して150年以上経った今も尚、この癖を改める気の無い日本人。XXに附ける薬は無い、といわれても致し方ない。
 

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【書評 144-2】〆  偉くない「私」が一番自由   米原 万理/佐藤 優(編集)       文春文庫      2016年4月 刊 

2021-12-24 09:39:30 | 書評
 昨日の【書評 144-1】では、著者が子供の頃の5年間をチェコで生活し、帰国後に味わった日本語回復プロセスでの苦労、それと東京外大卒論における誤字脱字を駆け足で結びつけるトーンで描いた。
言うまでもなく、それは著者を貶める意図ではない。審査した指導教官が言う通り、誤字・脱字など無関係に、ロシアの文学と政治、歴史や国家の在り方の捉え方が優れている事、それがネクラ-ソフ
分析から生涯を通じた米原氏の思想テーマにまで結実した。それは、他のエッセイだけでなく、池澤夏樹氏との対談を巡る佐藤氏の編集構成からも見てとれる。

 此の対談は2003年10月で、著者が癌で落命する3年弱前。此の年、著者の小説『オリガ・モリソヴナの反語法』が(Bunkamura ドゥ・マゴ文学賞)を受賞したが、其の選考委員を務めた
池澤氏との対談を佐藤氏が本書に収録した。佐藤氏は収録した意図を作品紹介を兼ねた部分に書いているが、それによると『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(大宅壮一ノンフィクション賞)と本書の
セットで米原氏は<反スターリニズム>と<スターリン時代のソ連国家の暗闇>を訴えたかったのだという。それは(佐藤氏によれば)著者が抱いたマルクス・レーニン主義の理想から乖離したソ連邦
批判であり、且つ2000年当時以降の日本共産党の政治路線への批判でもあったのでは?と。 佐藤氏は、敢えて米原氏と此のテーマに触れないよう避けてきたと正直に本書で告白している。

 対談の中身は、同時通訳者から作家に転身した米原氏の視点や創作観を知るうえで示唆に富む貴重なもので、ロシア革命観・幼少期の外国生活・文藝観などの光線が著者と言うプリズムを通して様々な
光を放射している、私にはそういう印象だ。そのプリズムは剛直で大きい。癌に命を奪われる不運がなければ、どれほどの作品を産み出しただろうか。そう嘆く佐藤氏の言葉が随所に散りばめられている。

 さて、本書のタイトルに佐藤氏が選んだフレーズ;偉くない「私」が一番自由 *これは<終生ヒトのオスは飼わず(文春文庫)2010 年>に納められたエッセイのタイトルだが、ネクラ-ソフの詩集
『終焉の歌』所収の「導入歌」を米原氏が邦訳したタイトルでもある。「導入歌」は直腸癌で2年の間苦悶するネクラ-ソフが病床で書いたものだが、米原氏は此のエッセイで、死を目前にした詩人の
紡ぐ言葉の中に在る<私>が、同時代の詩人たちの描く<私>とどう違うのかを明快に述べている。極めて哲学的な<私>の考察なので理解は容易くない。それをここで詳細に紹介するのは吝かではないが、それにはマルごと詩と解説全文を転載せねばならない。

 彼女の要約を一言で乱暴に縮めるなら、ネクラ-ソフの言葉は【読者に同化や感情移入を求めるのではなく、読者からの異議や協賛による対話を刺し挟ませるよう開かれている】ため、他の詩人のように、神・人類全般・民族など自分以外の何かを語る代わりに【詩人自身と等身大の一個人を代表するだけの<私>を気負いなく語る】。此の捉え方が【偉くない「私」が一番自由】という詩のタイトルを産んだのだ、とわかる。 【偉くない】とは自分自身だけを代表する言葉、それを忠実に表現したい。そういう<私>を表現する。それが米原さん自身の理想であり、目指した姿勢であったろう。
 だからこそ、佐藤氏はこのエッセイを本書の最後に据え、迫りくる死には未だ時間があった時期なのに語った言葉を本書のタイトルに掲げた。故人の人物像を一言で見事に捉えるフレーズでもある。

<終生ヒトのオスは飼わず(文春文庫)>には自分の死亡記事文を載せている。 唯の戯れと一笑するには余りにも早すぎる死が傷ましい。   合掌。           < 了 >
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【書評 144-1】  偉くない「私」が一番自由   米原 万理/佐藤 優(編集)       文春文庫      2016年4月 刊 

2021-12-23 12:41:12 | 書評
 本書は今年の12月11日:トークネット<私と読書>の中で、”積ん読”状態のまま机に放置されている6冊の中の一つに挙げた文庫本だ。 放置した理由を次の様に書いたが、其の
”内容に打ち負かされた衝撃・所感・感動の整理ができないまま日常の些事にかまけたまま放置した”状態と振り返ってから10日経ち、漸く『塩漬け状態』からこの本が立ち上がって来た。
だからこそ、書評にしてみようという決心がついたのであろう。

 米原さんの様々な著作、或は友人であった田丸公美子さんの著作は共に知的刺激と異文化考察、ひいては我が身を振り返る糧にもなり、学ぶ事が多い。ロシア語通訳で人生を閉じた米原さんだが、
本書はロシアという接点から晩年深い交流のあった佐藤優氏がまとめた<米原万理・外伝>と呼んで差し支えないと感じた。単なるアンソロジーではない。佐藤氏は自分が知り得た米原万理の全貌を
読者に示すべく、慎重に彼女の著作の中から選んで構成した。再読し終え、佐藤氏の配慮と選択眼は見事に効を奏したと改めて唸った次第である。

 内容は大まかに分けて、エッセイ、東京外語大学の卒論、東京外語会会報でのインタヴュー、池澤夏樹氏との対談から成る。言うまでもなく、それを概説しても著者の世界を伝える事にはならないので、
興味を抱かれた方は是非とも御自分でお読みになられるようお薦めする。

★ 私の心に残った事を並べてゆくと、まずエッセイの中では、チェコ在住時の体験やソ連の建てた小学校での教育や生活ぶりに驚いた。これは貴重な記録でもあるが、ロシア語が身に付くスタート地点に
 なった5年間の異国暮らしは60年代前半の社会主義体制下であり、現代のようなグローバル経済下での駐在員暮らしとはわけが違う。チェコスロヴァキアでの生活は決して貧しいとは思えないし、
 人々が今よりも遥かに快活に暮らしていたように著者は描いている。米原氏は嘘をつく義理も美化する必要も無いので、たぶん我々がぼやっと抱いていた社会主義国家の姿とは異なっていたのだろう。

 小学3年生から中学2年までをチェコで暮らした米原氏は日本の中学3年に編入したが、学校の規律・校則・教師と生徒の関係・授業や試験様式の差(丸暗記 vs 討議発表)などにおける甚大な
カルチャーショックを綴っている。これはチェコならずとも外国の学校で学んだ子供達なら等しく受ける洗礼で、私の息子たちも同様の体験を過ごし、それは職業選択に加え人格形成にも勿論多大な
影響を遺しているので、余計に私は身につまされるのだろう。

 言葉を身につける大事な年齢期を非日本語社会で過ごした米原氏は帰国後懸命に読書を重ね、日常会話でもキャッチアップしたが、いかんせん読み書き能力、特に漢語習得は手こずったらしい。
佐藤氏が掲載した東京外大の卒論『ニコライ・アレクセ-エヴィッチ・ネクラ-ソフの生涯:作品と其の時代背景』この全文は文庫97頁分の長さに及ぶものだが、読み進むと担当教授が誤字・脱字を
こまめに訂正している箇所の多さに唖然とした。冒頭の指導教官による【審査概評】では、研究態度や視線の正しさを評価しつつも誤字・脱字の多さにあきれ果てた言葉が率直に記されている。
 米原氏が読み書きが左右する大学での研究生活ではなく、話し言葉が全ての通訳業に職を得たのは、正解であったろう。

 ネクラ-ソフを私はこの卒論で初めて知った。1821-1877年というから僅か56年の生涯だが、プーシキン(1799-1837)の跡を襲う人気詩人となり、編集者としてドストエフスキー(1821-81)
を見出したり、プレハーノフ(1856-1918)に影響を与えたり、仏革命後の西欧精神の影響を受け始めた19世紀中ごろの帝政ロシアで、弾圧を受けつつも詩人・編集者/評論家として活躍したらしい。
 トルストイ(1928-1910)とも仲が良かったというし、生きた時代は少しずれるが、あのレーニン(1870-1924)もネクラ-ソフから多大な影響を受けたと述懐するほど帝政下の農奴制を批判した。
 まさにロシア革命の下地を築いた人物であろう。

 ソ連全盛時代に幼少期をソ連圏内で過ごし、ソ連崩壊期の政治家たちの通訳を務めた米原氏にとり、ロシア人・ロシア語は単なる生計を立てるツールではなく、彼女の人生そのものでもあったと思う。
ゴルバチョフやエリツィンから国際首脳会議の同時通訳として直接指名されるほど信頼を得たというが、其の重み・重要さは我々門外漢には想像しようもない。
 そんな米原氏を生涯に亘り惹きつけた詩人・ネクラ-ソフが常に彼女の中にあり、それが社会主義革命観・マルクス主義、レーニン主義、ひいては日本共産党についての見解を定めたと佐藤氏。
 外務省に居た佐藤氏は例の事件で収監され、出所後は作家に転じるが、佐藤氏が本書の「あとがき」に著す言葉がもうひとつの本書の値打ちなので、次はそれに触れたい。   < つづく >
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≪ 皇位継承にまつわる本質論議から逃げまくる政府 ≫  女王を戴く諸国民も日本人と同じ人類であり 別世界のハナシではない

2021-12-23 07:23:47 | 時評
◆ 高市早苗氏、女性天皇容認 「文芸春秋」インタビューで考え示す
・自民党の高市早苗政調会長は月刊誌「文芸春秋」新年特別号のインタビューで、女性天皇を容認する考えを示した。
 歴史上、推古天皇ら8人の女性天皇がいたとし「女性天皇には反対していない。女系天皇に反対している」と強調した。

・仮に現状に当てはめた場合、天皇陛下の長女愛子さまが即位して女性天皇になることは容認するが、一般男性と結婚して生まれた子どもの即位は女系天皇になるため認めないとの立場だ。
 女性天皇は認めつつも、実際には「女性が皇位を継がれることは大変だろうと想像する。激務をこなしながら、ご懐妊やご出産をされるのは、肉体的にも精神的にも大変なことだと思う」と言及した。
  ← 欧州諸国の王室には英国はじめ、歴代にわたり女王が即位し職務をこなしてきた。 何故、日本人の女性だけには不向きで気の毒だと断じ、実質的な即位回避を求めるのか?? 

・女性皇族が結婚後も皇室に残る「女性宮家」創設についても「さまざまな問題が出てくる」と慎重姿勢をにじませた。
 皇族には認められていない養子縁組を可能とし、皇統に属する男系男子を皇族とする案に関しては、国民が知らない人が突然皇族になることへの批判があるが、高市氏は「男系の皇統につながる方
 であるということで、自然になじまれる」と指摘。「(1947年に皇籍を離脱した)旧宮家の方々の皇籍復帰がいい」と語った。
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 「皇族に生まれた女性が天皇に即位するのは構わないが、一般人男性と婚姻する女性が即位するのには反対する」:女系天皇即位に反対する人たちの信念は<男系一血>と言う非論理情緒しかない。
 此の情緒に発する皇位継承論議は男女平等に反する『男尊女卑』そのものであり、且つ≪国民主権と代議制民主政治下での「王制」は統治メカニズムの一環だ≫との共通認識を無視・否定するもであり、
 私は受け入れられない。 ・・・皇族に生まれたから男女平等の圏外でも良い・仕方ない、とあなたは思うか?? 良いとする根拠は??

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▲ 「皇位継承」実質棚上げ 皇族数確保に終始 有識者会議最終答申
* 各メディアで既に報道済なので転載は割愛するが、歴代の自公保守政権は支持基盤である右翼を怖れ、日本人得意の問題先送りで根本解決から逃げ続けている。それで良い筈はない。
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