原書2巻のうち第12章<レーモン・スボン弁護>が白水社版では第4巻に充てられ、此の一つの章だけでモンテーニュは長大な文章を書いている。 読み通すには、かなり根気を要するのだが、
第12章に述べられている事;それはモンテーニュが不当と思った信教絡みの裁判に関する擁護を並べながら、正面きって無神論者と宣言できなかった時代を生きる為には致し方ないカモフラージュを
散りばめた苦肉の結果と云うべきだろう。裁判擁護に体裁を借りながら、『キリスト教的、或は一神教的絶対者の「God」ではなく「哲学的な最高者」をモンテーニュは追い求めたのではないか?』
これが関根氏の推察。恐らく間違ってはいまいと自分も感じた。
ここでも、宗教信心含めた全ての事において偏見から脱した「懐疑」を貫く態度こそ、人間が信じて進むべき生き方と彼は確信したのではないか?
此の態度が後世の合理的科学精神涵養に繋がったと関根氏。 確かに、そうでなければ、≪エセー≫が後世のデカルト、パスカル、ルソーに影響を与えられる強いインパクトを持つまい。
* 第1巻(2/4)でも触れたが、モンテーニュは東洋で云う「萬物斉同」(荘子)に近い思想を抱いている。人間が萬物の長ではないとする立場、それと造物主/創世者の存在を認める宗教は本来、
共存し得ない。 では、このような東洋思想の影響はどこから・誰からモンテーニュに及んだのか?
モンテーニュが引用しているセネカやキケロ、エピキュロス或はプルタルコス(プルターク)の著書からだろうか。・・・プルタークは『ミリンダ王の問い』を知っていたのではないか?
無論、現在まで『ミリンダ王の問い』が残ったのは、小乗仏教を伝えるスリランカ、ミャンマー、タイだが、アレクサンドロス大王の東征後も続いたギリシャ子孫が建てたバクトリア王国側でも
『ミリンダ王の問い』と同じ内容の記録または抄録が伝承された可能性は否定できない。
(『ミリンダ王の問い』で仏僧がメナンドロス王を論破したと喧伝している虚偽性とは別に、仏教思想にギリシャ人が初めて接触した記録はプルタークなら書き遺したのではないか?)
或は、十字軍遠征時、ヨーロッパ人が中東から持ち帰った文物の中に『ミリンダ王の問い』の片鱗は無かっただろうか? さもなければ、大航海時代となりヨーロッパ人がインドまで交易を広げた時、
インドに未だ仏教徒が居て、交易の場で深く接触できたのかは怪しいが、異教徒を見下げるヒンドゥー教支配下のインドで自由にヨーロッパ人が語り合えたのは仏教徒だろう。
モンテーニュの生きた時代にはこのタイミングが最も近いので、こちらの可能性もあり得る。 <プルタークの書物? 十字軍遠征時の戦利品? インド貿易の土産?>
尤も、モンテーニュが仏教に関心を寄せ研究したかというと、それはなさそうだ。仏教とキリスト教の対比ではなく、一神教を持たない東洋の自然観/死生観に共鳴した事と懐疑主義が合わさり、
一神教的絶対者の「God」ではなく「哲学的な最高者」が人生モデルとなった。 生と死に向き合う第1巻を経て、そういう述懐が此の12章で固まり次の原書第3巻に展開される。 < つづく >
第12章に述べられている事;それはモンテーニュが不当と思った信教絡みの裁判に関する擁護を並べながら、正面きって無神論者と宣言できなかった時代を生きる為には致し方ないカモフラージュを
散りばめた苦肉の結果と云うべきだろう。裁判擁護に体裁を借りながら、『キリスト教的、或は一神教的絶対者の「God」ではなく「哲学的な最高者」をモンテーニュは追い求めたのではないか?』
これが関根氏の推察。恐らく間違ってはいまいと自分も感じた。
ここでも、宗教信心含めた全ての事において偏見から脱した「懐疑」を貫く態度こそ、人間が信じて進むべき生き方と彼は確信したのではないか?
此の態度が後世の合理的科学精神涵養に繋がったと関根氏。 確かに、そうでなければ、≪エセー≫が後世のデカルト、パスカル、ルソーに影響を与えられる強いインパクトを持つまい。
* 第1巻(2/4)でも触れたが、モンテーニュは東洋で云う「萬物斉同」(荘子)に近い思想を抱いている。人間が萬物の長ではないとする立場、それと造物主/創世者の存在を認める宗教は本来、
共存し得ない。 では、このような東洋思想の影響はどこから・誰からモンテーニュに及んだのか?
モンテーニュが引用しているセネカやキケロ、エピキュロス或はプルタルコス(プルターク)の著書からだろうか。・・・プルタークは『ミリンダ王の問い』を知っていたのではないか?
無論、現在まで『ミリンダ王の問い』が残ったのは、小乗仏教を伝えるスリランカ、ミャンマー、タイだが、アレクサンドロス大王の東征後も続いたギリシャ子孫が建てたバクトリア王国側でも
『ミリンダ王の問い』と同じ内容の記録または抄録が伝承された可能性は否定できない。
(『ミリンダ王の問い』で仏僧がメナンドロス王を論破したと喧伝している虚偽性とは別に、仏教思想にギリシャ人が初めて接触した記録はプルタークなら書き遺したのではないか?)
或は、十字軍遠征時、ヨーロッパ人が中東から持ち帰った文物の中に『ミリンダ王の問い』の片鱗は無かっただろうか? さもなければ、大航海時代となりヨーロッパ人がインドまで交易を広げた時、
インドに未だ仏教徒が居て、交易の場で深く接触できたのかは怪しいが、異教徒を見下げるヒンドゥー教支配下のインドで自由にヨーロッパ人が語り合えたのは仏教徒だろう。
モンテーニュの生きた時代にはこのタイミングが最も近いので、こちらの可能性もあり得る。 <プルタークの書物? 十字軍遠征時の戦利品? インド貿易の土産?>
尤も、モンテーニュが仏教に関心を寄せ研究したかというと、それはなさそうだ。仏教とキリスト教の対比ではなく、一神教を持たない東洋の自然観/死生観に共鳴した事と懐疑主義が合わさり、
一神教的絶対者の「God」ではなく「哲学的な最高者」が人生モデルとなった。 生と死に向き合う第1巻を経て、そういう述懐が此の12章で固まり次の原書第3巻に展開される。 < つづく >