静 夜 思

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【書評129】3/4      エセ- ≪Essais≫ (随想録)    ミシェル・モンテーニュ   < 第1,4巻(関根 秀雄 訳) 7巻(宮下 志朗 訳) >   白水社 版

2021-02-28 15:31:05 | 書評
原書2巻のうち第12章<レーモン・スボン弁護>が白水社版では第4巻に充てられ、此の一つの章だけでモンテーニュは長大な文章を書いている。 読み通すには、かなり根気を要するのだが、
第12章に述べられている事;それはモンテーニュが不当と思った信教絡みの裁判に関する擁護を並べながら、正面きって無神論者と宣言できなかった時代を生きる為には致し方ないカモフラージュを
散りばめた苦肉の結果と云うべきだろう。裁判擁護に体裁を借りながら、『キリスト教的、或は一神教的絶対者の「God」ではなく「哲学的な最高者」をモンテーニュは追い求めたのではないか?』 
これが関根氏の推察。恐らく間違ってはいまいと自分も感じた。 
 ここでも、宗教信心含めた全ての事において偏見から脱した「懐疑」を貫く態度こそ、人間が信じて進むべき生き方と彼は確信したのではないか? 
此の態度が後世の合理的科学精神涵養に繋がったと関根氏。  確かに、そうでなければ、≪エセー≫が後世のデカルト、パスカル、ルソーに影響を与えられる強いインパクトを持つまい。

* 第1巻(2/4)でも触れたが、モンテーニュは東洋で云う「萬物斉同」(荘子)に近い思想を抱いている。人間が萬物の長ではないとする立場、それと造物主/創世者の存在を認める宗教は本来、
 共存し得ない。
 では、このような東洋思想の影響はどこから・誰からモンテーニュに及んだのか?
  モンテーニュが引用しているセネカやキケロ、エピキュロス或はプルタルコス(プルターク)の著書からだろうか。・・・プルタークは『ミリンダ王の問い』を知っていたのではないか? 
 無論、現在まで『ミリンダ王の問い』が残ったのは、小乗仏教を伝えるスリランカ、ミャンマー、タイだが、アレクサンドロス大王の東征後も続いたギリシャ子孫が建てたバクトリア王国側でも
 『ミリンダ王の問い』と同じ内容の記録または抄録が伝承された可能性は否定できない。
 (『ミリンダ王の問い』で仏僧がメナンドロス王を論破したと喧伝している虚偽性とは別に、仏教思想にギリシャ人が初めて接触した記録はプルタークなら書き遺したのではないか?)

 或は、十字軍遠征時、ヨーロッパ人が中東から持ち帰った文物の中に『ミリンダ王の問い』の片鱗は無かっただろうか? さもなければ、大航海時代となりヨーロッパ人がインドまで交易を広げた時、
 インドに未だ仏教徒が居て、交易の場で深く接触できたのかは怪しいが、異教徒を見下げるヒンドゥー教支配下のインドで自由にヨーロッパ人が語り合えたのは仏教徒だろう。
 モンテーニュの生きた時代にはこのタイミングが最も近いので、こちらの可能性もあり得る。   <プルタークの書物? 十字軍遠征時の戦利品? インド貿易の土産?>
   
尤も、モンテーニュが仏教に関心を寄せ研究したかというと、それはなさそうだ。仏教とキリスト教の対比ではなく、一神教を持たない東洋の自然観/死生観に共鳴した事と懐疑主義が合わさり、
一神教的絶対者の「God」ではなく「哲学的な最高者」が人生モデルとなった。 生と死に向き合う第1巻を経て、そういう述懐が此の12章で固まり次の原書第3巻に展開される。 < つづく >
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【書評129】2/4      エセ- ≪Essais≫ (随想録)    ミシェル・モンテーニュ   < 第1,4巻(関根 秀雄 訳) 7巻(宮下 志朗 訳) >   白水社 版

2021-02-28 08:43:17 | 書評
 昨日は、書名の解題に伺えるモンテーニュの「生に対する態度」をざっくり述べた。それは受け身ではなく人生を主体的に試してやろう!という構えであり、そこにはラテン語能力を活かした
ギリシャ・ローマ文明の再発見と相俟ち、宗教改革を巡るキリスト教世界への疑問が顕われている。キリスト教が根を下ろす前のギリシャ&ローマ帝国時代を生きた先哲達の言葉は、ルターに始まる
宗教自体への根本的懐疑となり、モンテーニュの中で共振したに違いない。 第1巻には随所で其の共振を示唆するに十分な先哲の言葉が引用され、彼の解釈が添えられている、例えば・・・・

* 未来(=来世)を思い煩う心は不幸である。 <セネカ>  第2章 「悲哀」     
* 汝の事を行い、汝を知れ        <プラトン>   第3章 「我々の感情、我々の亡きあとに及ぶこと」
  ⇒ 『自分の事を行わなければならない者は「自己第一の修業は、自分が何であるか、何が自分に適当であるか」を知ることだ』
* 『葡萄酒はブドウそのものの四季折々の変化に従って穴蔵の中で変質する。獣肉も塩桶の中で生きた肉と全く同じ掟に従って、其の状態も味も変える』
  ⇒ “人間の生命はひとしく自然の一部を成している”というモンテーニュの東洋流自然観/死生観を第3章で始めている。  (← 訳者)

* この時はじめて本当の言葉が我々の胸からほとばしり、仮面は落ちて真相が顕われる   <ルクレティウス> 第18章 「我々の幸不幸は死んでから後でなければ 断定すまじきこと」
  『此の最後の瞬間においてこそ我々の一生のあらゆる他の行為は試み試されなければいけないのである。(死は)他の全ての日々を裁く日である』。
  『他人の一生を判断するにあたっては、いつも私は其の終わりがどんな風であったかを観る。また、私の一生の主要な研究は、私の終わりを立派であらせたい為
、即ち、
  静かに音もなく在らせたい為である
』 

* 第19章 「哲学するのは いかに死すべきかを学ぶためである」
  『どこで死が我々を待っているかわからない。だから、いたるところで自分からそれを待とうではないか。死の準備は自由の準備となる。死ぬ覚悟の出来た者はヒトに屈従しなくなる。
    生命を奪われる事が少しも不幸でないと悟り得た者にとって、この世に何の不幸もない。

  『我々は、できるなら何時でも出かけられるばかりにちゃんと靴を履いていなければならない。そして特に其の時はただ自分の用事より他には何もすることがないようにしておかねばならない』 

第1巻全章、東洋の老荘思想に始まる「死生観」「生の無常観」そのものと寸分違わない。これを執筆時、モンテーニュは39歳。基督教下に育ったとは思えぬほど、来世も過去も虚しいと言い放つ。
もう完璧な無神論であると同時に、現世を一生懸命生きよ、と説く気持ちに溢れているではないか! ゴリゴリの一神教信者を除けば、此の言葉は世代問わず誰の胸にも響くものであろう。

 エセ-107章の始まりを、ギリシャ・ローマと軌を同じくする東洋哲学からスタートしている、その不思議。 モンテーニュの生きた時代はヨーロッパ世界が中国古代文明を知り得るマテオ・リッチ
より前だから、偶然に過ぎないのだろう。 偉人は時を違えても到達する境地は同じ、という事か。 嗚呼,凡夫の嘆き、何時の世も。                < つづく >
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【書評129】1/4      エセ- ≪Essais≫ (随想録)    ミシェル・モンテーニュ   < 第1,4巻(関根 秀雄 訳) 7巻(宮下 志朗 訳) >   白水社 版

2021-02-27 15:40:55 | 書評
  1571年から起筆され、1580年最初の部分が刊行された原書は全3巻・107章で構成する。白水社翻訳版では全9巻になるが、最後の8&9巻は「旅日記」「書簡集」なので、叙述部は7巻
<原書第3巻13章>まで。  ミシェル・エーケム・ドゥ・モンテーニュ(1533-92年)が残した本書の題名は耳にしても、全編目を通したことのある人は少ないだろう。
【書評128】月の裏側<日本文化への視角> :この講演集の中でレヴィストロースが何度かモンテーニュを引き合いに出していたので、私はそれまで敬遠してきた本書を「では読もう!」と決めた。 

まず思ったのが≪随想録≫という邦題は著者の意図した内容を正しく表していないのでは?との疑問だ。それは何故か?モンテーニュが出版時に付した書名は≪Essais≫; この単語を手元の仏英辞典で
英語に置き換えると≪Operation by which one ensures the qualities, the properties, Or the manner of Use≫。日本語の近い語感に平たく寄せるなら(何かの品質・出来栄えを確かめようとする
試み、やり方)とでもいおうか。 隠居後の彼は、気ままにボソボソ呟くどころか、自分が生きた人生の質について評したかったのではないか? 実際、とても饒舌でお喋り好きなのだ。

日本語の≪随想≫とは、過去の経験や記憶を振り返り、或は目前の事象についての所感を述べた文章を指す。然し、原書第3巻最後の13章「経験について」(翻訳版:7巻)では次のように書いている。
 『結局のところ、私がこうしてやたらに書き散らした寄せ集めの文章は、我が人生の試み(エセ-)の記録簿に過ぎない』・・・・老人の回顧ではなく『試してみた人生』について想いを述べた、
というニュアンスだ。 実際、しばしば引き合いに出される≪徒然草≫がもつ(往時の懐旧や嘆き)の読後感には遠い。 ”生まれてしまった”受け身感覚ではなく(生きてみてやろう)といった
自我主体ありきの、 如何にも『我思う、故に我あり』(デカルト/1637年)の世界認識に100年後結実する文化を生きた人ならではの主体的な『お試し』感覚
である。
 だから本書は、年寄の懐旧教訓ばなしではなく≪テーマごとに反省を込め・偏見や陋習から自由に評価した人生の指南書≫と観える。然も指南の相手は若者じゃなく、中高年だ。

 モンテーニュが生きた時代・16世紀後半は、東方交易の富で栄えたイタリアの都市国家<フィレンツェ/ヴェネツィアなど>が衰え始めた時期でもある。フランス王国はイタリアに加え、新興の
スペインやドイツ諸王国とも相争った。文化面ではルネサンスが下火になり、北方ドイツでの「宗教改革」勃興でローマ法王庁 vs プロテスタントの血みどろな闘いが盛んになりつつあった。
 モンテーニュは幼い頃、父の教育方針でラテン語を学習させられたので、ルネッサンス期に再評価されたギリシャ&古代ローマ帝国の先哲の書物から幅広く引用できるラテン語能力は
≪Essais≫で活かされている。  また、長じて当時の大学で学ぶ頃、盤石に見えたカソリック教会の腐敗を諷刺するマキャベリ(対)サヴォナローラ論争もラテン語だったろうから読んだ筈だ。
彼が新教/旧教対立の向こうに”非キリスト教”に近い宗教への懐疑を抱き、育んだ時代背景はここにあるだろう。ローマ帝国のキリスト教採用から約1,000年経ち、欧州は大きな曲がり角に近づいていた。

 無論、貴族だったモンテーニュが公けに無神論者を標榜することが出来る世の中ではないので、本書でもあからさまな言葉で何も匂わせてはいない。然し、第1巻には「死生観」を語りつつ、
宗教上の「来世」「現世」観を巡る否定的な言葉が多い。第1巻出版後の好評を思うと、王権と法皇庁の結合崩壊に繋がるフランス革命の芽はここに生まれた?と思えなくない。モンテーニュから
仏革命まで200年。 何事も「それは本当か?何故だ?」と疑ってみるモンテーニュの懐疑が、近代合理主義と科学技術発展そして自由平等意識発達に寄与したのは間違いない。   < つづく >
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≪ オリパラ:開催一本やりでなく柔軟な計画変更可能に 山口香理事の提言 ≫   開催ありきで、後から安全・安心の理由付けをする「後出しじゃんけん」ではダメ  

2021-02-25 13:37:45 | トーク・ネットTalk Net
毎日会員ID保有者向け有料記事なので、要点を抜粋転載する。いつもながら、山口理事の論旨は冷静沈着で説得力がある。・・橋本聖子会長は、さて、どうハンドルできるかな?

(1) <目的地の悪天候が予想される場合の飛行機の条件付き運航を考えてもらえば、分かりやすいかもしれない。目的地の天候次第で引き返すこともあるし、違う空港に
  降りることもある。 今の状況を見ていると、天候が悪化していても目的地に着陸しますと言っているように感じる。
← <ヤマト魂/為せば成る>が通用する話ではない!

   
飛行機に乗るときに、目的地の天候が悪くても、是が非でも着陸させると言われたら、急いでいるけれど、命の方が大事だから乗るのをためらう。それと同じだ。安全最優先で引き返す、
   違う空港に着陸するという決断もあり得ると言われるから安心して搭乗できる。安全最優先の開催にはどういう選択肢があるのかを情報公開し、早く国民に問うべきだ。
> 
   ← 山口さん、ご存知のように、選択肢を検討しても言わない/言えば敗北主義とそしられるからね、此の社会では。。。。今でも『由らしむべし 知らしむべからず』なんです

(2)1.<感染状況が悪化して、開催地で外出制限が導入されると、会場も無観客に切り替えた。状況によってそういう選択肢もあると示し、チケットを持つ観客にも理解を求める。>
    ← IOC幹部が先手を打って「海外観客OK,日本人観客は任せる」なんて言い出したぞ。決める主体は誰だ? ぼんやりしてる間に、イニシアチブ、もうとられてるじゃないか(嗤)

   2.<選手のPCR検査も原則4日に1回実施することになっているが、医療関係者の負担を考慮してそうなっているのか、その根拠を明確に説明すべきだろう。>
    ← このポイントは飽くまで日本国民向けの説明に聞こえるが、選手&関係者へのPCR検査対象は日本人+外国人であり、現在の医療対応マンパワーに照らし、処理可能なのか?
      ここを、まさか外国に嘘はつけまい。「アイムそーりー、計算見込み違いでした!」じゃ許されないよ。 

   3.<海外からの観客を断念し、インバウンド(訪日外国人)の経済効果が薄れても開催するのか。観客は日本人に限り、人数は感染状況によって決定するというような選択肢も示せるだろう。>
    ← これは、偶然にもIOC幹部発言と同じタイミングとなったが、ここで黙ってたらIOCの言いなりになってゆくぞ!

(3) <決断は早ければ早い方がいいし、その方が国際オリンピック委員会(IOC)などとの交渉もしやすい。
   開催ありきで、後から安全・安心の理由付けをする「後出しじゃんけん」ではダメだ。
> そう、日本と違い、論理で戦う社会に生きている外国人は「後だし」なんて許さないよ。
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≪ Donald Lawrence Keene  「鬼怒鳴門」  キーン・ドナルド氏 2周忌 ≫   1922年6月18日 ~  2019年2月24日(96歳没)

2021-02-24 10:27:32 | トーク・ネットTalk Net
✞ コロナウイルスに日本人の誰もが気を取られているうち、気がつくと氏が亡くなってから2年経った。この疫病が広がり苦しみの始まる前に氏が世を去った事を、せめてもの幸せと思いたい。

✞ Arthur David Waley 翻訳の『源氏物語』が、氏に日本語と漢字への興味を抱かせたきっかけだったという。先日亡くなった半藤一利さんが世代論で唱えていた<生まれ年と人生の巡りあわせ>。
  改めて私は此の言葉を思い浮かべる。 キーン氏はコロンビア大学在学中に第二次大戦(日米戦争)に出くわし、海軍日本語学校で通訳を志願し、オーティス・ケーリ/イヴァン・モリスらと
  共に日本兵捕虜の尋問通訳に当たった。
   片や、戦後親しく付き合う中になる三島由紀夫は僅か3年生まれるのが遅く、東京帝国大学に居たが、結核疑いで徴兵免除。 8年遅く生まれた半藤一利・開高健は旧制中学3年生だった。

✞ 日本語の<話す・読み・書き>全てを日本人と同じレベルでマスターした外国人は少ない。身近な人物ではラジオ DJ で存在感を出しているピーター・バラカン。彼は日本語で書物も出している。
  同様な異能で挙げられるのはリービ英雄。数々の日本語による小説に加え<英語で読む万葉集>は私の愛読書だ。
   然し、キーン氏が古語から現代語までに亘る該博な知識と歴史理解を必要とする文藝の分野で、多くの学術文書を日本語と英語の両方で出し続ける才能は群を抜いていた。

  Basil Hall Chamberlain の日本文学評価に異を唱えた Arthur David Waley や Lafcadio Hearn に始まる19 世紀後半からの流れを受け継ぎ、氏は西洋文化至上主義の偏見を除いた。

  戦後(1953年)京都大学に留学し、日本の多くの作家たちとナマの交流を深め、室町から戦後まで広く日本文学および日本の文化全般を英語で欧米の読者に紹介した功績は余人の追随を
  許さぬものだ。『源氏物語』で止まっていた西洋人の日本文学&文化理解は氏の功績で幅を広げたと信じたい。同時代人のサイデンスティッカーと併せて日本人は其の恩を忘れてはなるまい。

✞ 氏が残したモノは、大学で日本文学を学ぶ外国の学生に限らず、フツーの庶民に”不思議の国:Wonderland” でしかなかったジャパンのイメージを変えてゆくのにも少しづつ見えないながら
  貢献しているのではないか? 欧米に足を踏み入れた人なら気付くが、人口の大多数を占める一般の人にとり、今でも『日本って中国の一部でしょ?』程度の認識しか無い。 ジョークではなく。
  此の残念な現実は、然し、幕末からキーン氏に至る先駆者達のお陰で徐々に変化しつつあるように見える。

● 氏がどうして能狂言や文楽・浄瑠璃の世界を最も好むに至ったのか? それは生涯独身で通した氏が浄瑠璃三味線の奏者である上原誠己氏を養子にした事でも明らかだが、例えキーン財団維持の
  便法にせよ、私にはまだまだ分からない事が多い人だ。氏を偲び「ドナルド・キーン自伝」を図書館から借りだすべく手配した。   来年6月18日は生誕100年。          合掌!

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