蜻蛉日記 中卷 (117)の1 2016.4.17
「心ちけしうはあらねば、例の見送りてながめ出だしたるほどに、また『おはすおはす』とののしりて来る人あり。さならんと思ひてあれば、いとにぎははしく里心ちして、うつくしきものどもさまざまに装束きあつまりて、二車ぞある。馬どもなどふさにひき散らかいてさわぐ。破籠やなにやとふさにあり。」
◆◆気分は悪くもないので、一行を見送ってぼんやりとあたりを眺めていますと、また、「おいでだ、おいでだ」と大声で言い立てる声がして、こちらへ来る人がいます。きっとあの人からだろうと思っていると、たいへんにぎやかに、まるで京の町中のような感じで、美しくさまざまに着飾った人たちが大勢で、車二台でやってきました。馬なども、たくさん、あちこちにつなぎとめて騒いでいます。お弁当や何やと、たくさん持参しています。◆◆
「誦経うちし、あはれげなる法師ばらに帷子や布やなどさまざまに配り散らして、物語のついでに、『おほくは殿の御もよほしにてなんまうで来つる。<ささしてものしたりしかど、出でずなりにき。又ものしたりともさこそあらめ。おのが物せんにはと思へば、え物せず。のぼりてあはめたてまつれ。法師ばらにも、いとたいだいしく経教へなどすなるは、なでふことぞ>となんのたまへりし。かくてのみはいかなる人かある。世の中に言ふなるやうに、ともかくも限りになりておはせば、いふかひなくてもあるべし。かくて人も仰せざらん時帰り出でてゐたまへらんも、烏滸にぞあらん。さりとも今一度はおはしなん。それにさへ出で給はずはぞ、いと人笑はへにはなり果て給はん』など、物ほこりかに言ひののしるほどに、『西の京にさぶらふ人々、<ここにおはしましぬ>とて、たてまつらせたる』とて、天下の物ふさにあり。山の末と思ふやうなる人のために、はるかにあるにことなるにも、身の憂きことはまづおぼえけり。」
◆◆お布施を渡し、身なりのみすぼらしい法師たちに帷子とか反物などを配ったりして、話をするついでに、「だいたいは殿のご配慮で参りました。殿は、『これこれのことで山寺へ赴いたが、とうとう山から出ずじまいだった。今度私が行っても又同じであろう。私が出迎えに行ったなら
逆効果であろう。山へ行って(道綱母に)おたしなめ申し上げよ。法師たちにも、不届き千万にも(道綱母に)経を教えてりしているのは何たることか』とおっしゃっていました。このように山籠りばかりしている人がどこにいらっしゃいましょうか。世間で噂しているように、尼になっておられるのなら、下山をおすすめしてもはじまらないでしょう。殿が言葉をかけてくださらなくなってから、山を降り、帰宅なさってお暮らしになるのもみっともないでしょう。それにしましても、今ひとたびはお迎えにおいでになりましょう。その場合にも下山なさらないならば、実際のところ、世間の物笑いになってしまわれるでしょう」などと兼家代理を鼻にかけてまくしたてているところに、「西の京にご奉公の人たちが、『ここにおいでになった』というので、差し上げるよう送ってまいりました」と言って、素晴らしい珍品がたくさん届きました。山奥に暮そうと思っている私のために、はるばる届けてくれたのだけれど、場違いであるにつけても、我が身の辛さがしみじみと身にしみるのでした。◆◆
■誦経うちし=経を読誦すること、転じてそのための布施。ここは布施。
■烏滸(をこ)にぞあらん=みっともないだろう。人笑えと同じ。
「心ちけしうはあらねば、例の見送りてながめ出だしたるほどに、また『おはすおはす』とののしりて来る人あり。さならんと思ひてあれば、いとにぎははしく里心ちして、うつくしきものどもさまざまに装束きあつまりて、二車ぞある。馬どもなどふさにひき散らかいてさわぐ。破籠やなにやとふさにあり。」
◆◆気分は悪くもないので、一行を見送ってぼんやりとあたりを眺めていますと、また、「おいでだ、おいでだ」と大声で言い立てる声がして、こちらへ来る人がいます。きっとあの人からだろうと思っていると、たいへんにぎやかに、まるで京の町中のような感じで、美しくさまざまに着飾った人たちが大勢で、車二台でやってきました。馬なども、たくさん、あちこちにつなぎとめて騒いでいます。お弁当や何やと、たくさん持参しています。◆◆
「誦経うちし、あはれげなる法師ばらに帷子や布やなどさまざまに配り散らして、物語のついでに、『おほくは殿の御もよほしにてなんまうで来つる。<ささしてものしたりしかど、出でずなりにき。又ものしたりともさこそあらめ。おのが物せんにはと思へば、え物せず。のぼりてあはめたてまつれ。法師ばらにも、いとたいだいしく経教へなどすなるは、なでふことぞ>となんのたまへりし。かくてのみはいかなる人かある。世の中に言ふなるやうに、ともかくも限りになりておはせば、いふかひなくてもあるべし。かくて人も仰せざらん時帰り出でてゐたまへらんも、烏滸にぞあらん。さりとも今一度はおはしなん。それにさへ出で給はずはぞ、いと人笑はへにはなり果て給はん』など、物ほこりかに言ひののしるほどに、『西の京にさぶらふ人々、<ここにおはしましぬ>とて、たてまつらせたる』とて、天下の物ふさにあり。山の末と思ふやうなる人のために、はるかにあるにことなるにも、身の憂きことはまづおぼえけり。」
◆◆お布施を渡し、身なりのみすぼらしい法師たちに帷子とか反物などを配ったりして、話をするついでに、「だいたいは殿のご配慮で参りました。殿は、『これこれのことで山寺へ赴いたが、とうとう山から出ずじまいだった。今度私が行っても又同じであろう。私が出迎えに行ったなら
逆効果であろう。山へ行って(道綱母に)おたしなめ申し上げよ。法師たちにも、不届き千万にも(道綱母に)経を教えてりしているのは何たることか』とおっしゃっていました。このように山籠りばかりしている人がどこにいらっしゃいましょうか。世間で噂しているように、尼になっておられるのなら、下山をおすすめしてもはじまらないでしょう。殿が言葉をかけてくださらなくなってから、山を降り、帰宅なさってお暮らしになるのもみっともないでしょう。それにしましても、今ひとたびはお迎えにおいでになりましょう。その場合にも下山なさらないならば、実際のところ、世間の物笑いになってしまわれるでしょう」などと兼家代理を鼻にかけてまくしたてているところに、「西の京にご奉公の人たちが、『ここにおいでになった』というので、差し上げるよう送ってまいりました」と言って、素晴らしい珍品がたくさん届きました。山奥に暮そうと思っている私のために、はるばる届けてくれたのだけれど、場違いであるにつけても、我が身の辛さがしみじみと身にしみるのでした。◆◆
■誦経うちし=経を読誦すること、転じてそのための布施。ここは布施。
■烏滸(をこ)にぞあらん=みっともないだろう。人笑えと同じ。