永子の窓

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蜻蛉日記を読んできて(72)

2015年10月02日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (72) 2015.10.2

「廿五六日のほどに、西の宮の左大臣、流されたまふ。見たてまつらんとて、天の下ゆすりて、西の宮へ人走りまどふ。いといみじきことかなと聞くほどに、人にも見え給はで、逃げ出でたまひにけり。」
◆◆二十五、六日のころに西の宮の左大臣さまがお流されになりました。ご様子を拝見しようということで、京中が大騒ぎして、西の宮に人々が慌てふためいて走っていきます。これは大変なことが起ったと思って聞くうちに、左大臣さま(源高明)は、だれにもお姿をお見せにならず、逃げ出してしまわれました。◆◆


「『愛宕になん』『清水に』などゆすりて、つひに尋ね出でて、流したてまつると聞くに、あいなしと思ふまでいみじうかなしく、心もとなき身だにかく思ひ知りたる人は、袖をぬらさぬといふたぐひなし。あまたの御子どもも、あやしき国々の空になりつつ行へも知らず散りぢり別れたまふ。あるは御髪おろしなど、すべて、言へばおろかにいみじ。大臣も法師になりたまひにけれど、しひて帥になしたてまつりて追ひ下したてまつる。そのころほひ、ただこの事にてすぎぬ。」
◆◆「愛宕だろうか」「清水か」などと大騒ぎして、とうとう見つけ出して、流罪になさってしまわれたと聞きますに、どうにもならぬと思っても悲しくて、私のように格別深く存知上げない者でさえ、こんなに切なくご同情申し上げていますのに、事情をわきまえている人々はどんなにか、袖を涙で濡らさぬ人はいないでしょう。たくさんのお子様たちも、辺鄙な地方に流される身になって、行き方も分らず、散り散りに離れ離れになられたという。また出家なさるなど、何もかも言葉では言い表せぬお気の毒なことでした。左大臣さまもご出家されたにも関わらず、無理に太宰権帥(だざいごんのそち)に貶めて、九州へご追放申し上げました。その当時は、ただただこの事件で持ちきりで、日が過ぎていったのでした。◆◆


「身の上をのみする日記には入るまじきことなれども、悲しと思ひ入りしも誰ならねば、しるし置くなり。」
◆◆自分の身の上だけを書き記す日記には、このような世情のことは入れるべきではないとは思うものの、しみじみ悲しい事件だったと思ったのもほかならぬ私なので、ここに書き記しておきます。◆◆


■西の宮の左大臣(にしのみやのひがしのおとど)=源高明で、醍醐天皇の皇子。当時左大臣左大将で、五六歳。西の宮は四条の北、朱雀の西にあった高明の邸。

■あまたの御子ども=忠賢(出家した上で左遷)、致賢(出家後不詳)、惟賢、俊賢。事件後に経房生れる。

■帥(そち)になしたてまつり=菅原道真の場合と同じ左遷で、もともと役職の無い部署。
 
■ 作者は高明の北の方が兼家の妹二人(三の君はすでに没しその後、五の君愛宮)であったので、かねて親しくしていただけに、非常なショックを受け、心から高明一家の突然の受難に同情をおしまなかったのである。(上村悦子著の解説より)


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