蜻蛉日記 上巻 (43) 2015.6.17
「さて寺へものせし時、とかうとりみだし物ども、つれづれなるままにしたたむれば、明け暮れ取りつかひし物の具なども、又、書き置きたる文などみるに、絶え入る心地ぞする。弱くなり給ひし時、戒むること受け給ひし日、ある大徳の袈裟をひきかけたりしままに、やがて穢らひにしかば、ものの中より今ぞ見つけたる。」
◆◆さて、寺に行ったとき、あれこれ取り散らした物を所在無さにまかせて片付けていますと、母上が朝に夕に使われていたお道具や、書き物の文などが出てきて、それを見るにつけ、またもや気も絶え入るような心地がします。だんだん衰弱なさってきたとき、戒を受けられた日に、居合わせたお坊様の袈裟を引き掛けてくださったのが、そのまま亡くなりましたので、そのまま袈裟が穢れに触れてしまったのを、いろいろな物の中からやっと見つけ出しました。◆◆
「これ遣りてむとまだしきに起きて、『この袈裟を』と書きはじむるより、涙にくらされて、『これゆゑに、
<蓮葉の玉となるらん結ぶにも袖ぬれまさるけさの露かな>
と書きてやりつ。」
◆◆これをお返ししようと、朝まだ暗いうちから起きて、お手紙に「この袈裟を」と書き始めるとたちまち涙にかきくれて、「この御袈裟のおかげで…
(道綱母の歌)「亡き母は極楽の蓮葉の露となっていることでしょう。お返しする袈裟の紐を結ぶにつけても、今朝は涙で袖がいっそう濡れることです」
と書いて持たせてやりました。◆◆
■戒むること受け給ひし日=母上が受戒して出家したこと。
■袈裟をひきかけ=急な出家の場合、衣や袈裟を僧のもので代用する。引き続いて母が亡くなったので、袈裟が死穢に触れたので、返さずに母の遺品と一緒にしていた。
蜻蛉日記 上巻 (44) 2015.6.17
「又、この袈裟のこのかみも法師にてあれば、祈りなどもつけてたのもしかりつるを、にはかに亡くなりぬと聞くにも、このはらからの心地いかならん、我もくちをし、たのみつる人のかうのみ、など思ひみだるれば、しばしばとぶらふ。さるべきやうありて、雲林院に候ひし人なり。四十九日などはてて、かくいひやる。
<思ひきや雲の林をうち捨てて空の煙にたたむものとは>
などなん、おのが心地のわびしきままに、野にも山にもかかりける。はかなながら秋冬もすごしつ。」
◆◆また、この袈裟をお返しした僧侶の兄上さまも僧侶であった方で、加持祈祷など大変お世話になった方が、急にもお亡くなりになったと聞き、この坊様のお気持ちはいかがでしょう。私も残念でならず、このように頼みにしている人に限って亡くなられるのか、と心が収まらないので、度々お見舞いをしました。この兄君と言う方はわけがあって、雲林院にお仕えしていた方でした。四十九日が過ぎたころにこのような歌を差し上げました。
(道綱母の歌)「思いもしませんでした。兄上が雲林院を捨てて、空の煙となってあの世に立ちのぼられてしまったとは」
こんなふうに、私自身わびしい気持ちでいましたので、野にも山にもさまよい出てしまいたいのでした。こうしてむなしい気持ちのままで、その秋も冬も過ごしたのでした。◆◆
■雲林院(うりんいん)=京都市北区紫野、今の大徳寺一帯に位置した寺。
「さて寺へものせし時、とかうとりみだし物ども、つれづれなるままにしたたむれば、明け暮れ取りつかひし物の具なども、又、書き置きたる文などみるに、絶え入る心地ぞする。弱くなり給ひし時、戒むること受け給ひし日、ある大徳の袈裟をひきかけたりしままに、やがて穢らひにしかば、ものの中より今ぞ見つけたる。」
◆◆さて、寺に行ったとき、あれこれ取り散らした物を所在無さにまかせて片付けていますと、母上が朝に夕に使われていたお道具や、書き物の文などが出てきて、それを見るにつけ、またもや気も絶え入るような心地がします。だんだん衰弱なさってきたとき、戒を受けられた日に、居合わせたお坊様の袈裟を引き掛けてくださったのが、そのまま亡くなりましたので、そのまま袈裟が穢れに触れてしまったのを、いろいろな物の中からやっと見つけ出しました。◆◆
「これ遣りてむとまだしきに起きて、『この袈裟を』と書きはじむるより、涙にくらされて、『これゆゑに、
<蓮葉の玉となるらん結ぶにも袖ぬれまさるけさの露かな>
と書きてやりつ。」
◆◆これをお返ししようと、朝まだ暗いうちから起きて、お手紙に「この袈裟を」と書き始めるとたちまち涙にかきくれて、「この御袈裟のおかげで…
(道綱母の歌)「亡き母は極楽の蓮葉の露となっていることでしょう。お返しする袈裟の紐を結ぶにつけても、今朝は涙で袖がいっそう濡れることです」
と書いて持たせてやりました。◆◆
■戒むること受け給ひし日=母上が受戒して出家したこと。
■袈裟をひきかけ=急な出家の場合、衣や袈裟を僧のもので代用する。引き続いて母が亡くなったので、袈裟が死穢に触れたので、返さずに母の遺品と一緒にしていた。
蜻蛉日記 上巻 (44) 2015.6.17
「又、この袈裟のこのかみも法師にてあれば、祈りなどもつけてたのもしかりつるを、にはかに亡くなりぬと聞くにも、このはらからの心地いかならん、我もくちをし、たのみつる人のかうのみ、など思ひみだるれば、しばしばとぶらふ。さるべきやうありて、雲林院に候ひし人なり。四十九日などはてて、かくいひやる。
<思ひきや雲の林をうち捨てて空の煙にたたむものとは>
などなん、おのが心地のわびしきままに、野にも山にもかかりける。はかなながら秋冬もすごしつ。」
◆◆また、この袈裟をお返しした僧侶の兄上さまも僧侶であった方で、加持祈祷など大変お世話になった方が、急にもお亡くなりになったと聞き、この坊様のお気持ちはいかがでしょう。私も残念でならず、このように頼みにしている人に限って亡くなられるのか、と心が収まらないので、度々お見舞いをしました。この兄君と言う方はわけがあって、雲林院にお仕えしていた方でした。四十九日が過ぎたころにこのような歌を差し上げました。
(道綱母の歌)「思いもしませんでした。兄上が雲林院を捨てて、空の煙となってあの世に立ちのぼられてしまったとは」
こんなふうに、私自身わびしい気持ちでいましたので、野にも山にもさまよい出てしまいたいのでした。こうしてむなしい気持ちのままで、その秋も冬も過ごしたのでした。◆◆
■雲林院(うりんいん)=京都市北区紫野、今の大徳寺一帯に位置した寺。