ふろむ播州山麓

京都山麓から、ブログ名を播州山麓に変更しました。本文はほとんど更新もせず、タイトルだけをたびたび変えていますが……

字「幸福」の誕生(9) 堀達之助の幸福

2012-10-16 | Weblog
「アイケン、スピーク、ダッチ!」私はオランダ語を話せる、と黒船舷側の小舟上に立って、英語で叫んだのは堀達之助(1823~1894)でした。ペリー提督が初来航してきた嘉永6年(1853)、長崎通詞の幕府方官吏として、外交使節に向かって発した日本初の英語です。この非常時に、江戸詰め長崎通詞の中から、堀が首席通訳に選ばれました。翌年のペリー再来日のおりには、彼は首席通詞の森山栄之助と通訳をつとめています。森山はアメリカ人通訳のウィリアムズに「マクドナルド先生は元気にしておられるか」と英語で聞いた。
 激動の幕末期、蘭語が得意で英語もこなす優秀な堀ですが、わずかの落度で小伝馬町牢に投獄されてしまいます。真実の罪科は不明だそうですが、決して重罪ではないのです。微罪だといわれています。彼の才能を惜しむ幕府学問所・蛮書調所(後の洋書調所・開成所)頭取・古賀謹一郎の度々の取りなしでやっと出牢したのは、4年余りも後のことでした。
 ところで吉田松陰も同所西奥獄に入牢していましたが、松陰から東獄の堀に送られた手紙には「冬のよる ひとりまくらの さむからぬ またあけきぬか きくもかなしき」。松陰は何度も牢名主に出世した達之助に手紙を書いています。

 出獄した堀は洋書調所教授に抜擢され幕命を受け、英和辞典の編さんにあたります。そして彼を中心にわずか2年足らずで、江戸時代で最大最高と評価されるはじめての活版印刷英和辞書をつくりあげました。なお出版は文久2年11月(1862)。文久2年は、11月12日が西暦1863年元旦です。1863年1月刊かもしれませんね。
 官版『英和對譯袖珍辭書』(A POCKET DICTIONARY of The ENGLISH AND JAPANESE LANGUAGE)、「袖珍」(しゅうちん)の袖はPOCKETで、着物の袖にいれて携帯できるの意味。珍は珍しいですが、貴重の意味があります。収録語彙数は約3万5千語。初版200部。
 俗称「枕辞書」ですが、形がちょうど昔の枕のようです。京都府立図書館蔵書に『改正増補 英和対訳袖珍辞書』(慶応3年1867・明治3年印刷)があります。サイズを計ってみましたが、横幅21センチ、縦15センチ、高さ10センチほど。枕になりそうです。
 種本はH.ピカードの『英蘭辞典』で、英語を流用し、オランダ語に『和蘭字彙』などの日本語訳語をあてた。はじめ頒価2両(約20万円)であったがすぐに売り切れ、後に度々増刷した。それでも供給が追い付かず、価格は高騰し20両ほどで販売されたそうです。国内で印刷した辞書1冊が200万円ほどもしたのです。

 文久3年に藩命を受けてイギリス留学に向かった長州の伊藤博文、井上馨はこの袖珍辞書を携行しました。船上では毎日、この辞書で英語を学習したといいます。伊藤博文は明治30年の講演で「私共が洋行する時分には如何なる有様であつたかと云うと、堀辰(ママ)之助といふ人の翻訳した薄い(?)英吉利の辞書がたつた壱冊あつた。この辞書も翻訳の上に沢山間違ひのある辞書であつた。それはその筈である。当時はなかなか本当に英書を読み砕く者が無かつた。其間違ひのある一冊の辞書と、山陽の日本政記とを携へて私共は洋行したのである。」

 袖珍辞書で「幸福」探しをやってみましたが、出てきません。「幸」は「さいわい」ですが、「不幸」は「ふしあわせ」なのか「ふこう」なのか? おそらく「ふこう」だと思います。幕末のころ、なぜか井原西鶴が多用した<仕合>「しあわせ」は消え去っているのです。字「幸」「幸福」はあっても読みは「さいわい」ばかりなのです。上田秋成は不幸の読みを「ふこう」としています。

 堀達之助は49歳で新政府の職を辞す。そして晩年は、五代友厚とともに大阪財界で活躍した息子の孝之や、最愛の孫娘たちに囲まれ幸福だったそうです。享年72歳、大阪で亡くなりました。達之助の「幸」訳語を列記してみます。

 Happily   幸ヒ
 Happiness  幸(現代辞書:幸福・幸せ・喜び・満足)
 Happy    幸ヒナル(現代辞書:うれしい・幸福な・楽しい・幸運な・満足して)
 Happiless  不幸ナル

 Luck     不意ノ出来事、取リ付キギハ、幸、潮合ニ(現代辞書:運・めぐり合わせ・幸運・つき・まぐれ当たり)
 Luckiness  幸ナル不意ノ出来事
 Luckily   幸ニ
 Luckless   不幸ナル
 Lucky    幸ナル

 Felicitous  幸ナル
 Felicitonsly 幸ニ
 Felicity   幸(現代辞書:至福・幸福)

 Fortune   運命・持物[領地・財宝・嫁入ノ持参ナドヲ云フ](現代辞書:富・財産・運・運勢・幸運)
 Fortunate  幸ナル
 Fortunately 幸ニ
 Fortunateness幸

 堀達之助の子孫にあたる堀孝彦著『開国と英和辞書―評伝・堀達之助』(港の人2011年)の記述を以下引用します。
 「近代日本にとり、外国語とくに英和辞書は、翻訳語の新造を介して、同時にすぐれて日本語辞書の役割を果たしてきた。…日本のように、大半の語彙を外国語の翻訳として、しかし今やそれが翻訳語であることの意識をなくして自国語として国民全体が使用している例はきわめてめずらしいのではなかろうか」

 字「幸福」は上田秋成が早くも18世紀から用いています。しかし一般には普及しなかったこの語を、オランダ通詞が用い出したのです。「諳厄利亜」両書を編さんした本木庄左衛門は、秋成の『雨月物語』の愛読者だった?
 袖珍辞書では「幸福」は使われませんでしたが、その後の英和辞典にまた出ます。通詞と英学者たちが「幸福」を広めたであろうというのが、わたしの想像仮説です。次回続編は、英語・中国語辞典『英華字典』から確認しようかと思っています。
 幕末に参考にされた辞典は、「オランダ語―英語」「オランダ語ー日本語」「オランダ語―フランス語」「中国語(漢語)-英語」(華英英華)の各辞書です。「英英辞典」は咸臨丸帰港まで、まだ渡来していません(ペリー初来航のおりに、将軍へのプレゼント用に『ウェブスター英語辞書』を持参したそうです)
<2012年10月16日 南浦邦仁>
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