ふろむ播州山麓

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字「幸福」の誕生(7) 諳厄利亜(あんげりあ)

2012-10-10 | Weblog
長崎でろうぜきを働いたイギリス軍艦フェートン号事件は、たいへんな衝撃を特に幕府に与えました。そして幕府は長崎のオランダ通詞たちに英語の学習を命じます。事件の起きた文化5年8月15日(1808)、日本人のだれひとりも英語のABCも理解できなかったのです。いまからわずか200年ほど前のことです。
 通詞たちは参考書もないなか、日本初の英語学習書をつくり上げました。事件の翌々年には『諳厄利亜語和解』第1冊が誕生し、1811年には全10冊が集大成なりました。手書き本の読みは「あんげりあごわげ」で別題「諳厄利亜興学小筌」
 アンゲリアはイングランドのラテン語ANGLIAに由来するそうです。「和解・小筌」の記述では<English language エンギリス ランゲユース 諳厄利亜語>となっています。
 この本は英語の単語と会話文にカタカナで発音を表示し日本字をつけたもので、日本初の英学書です。なお「筌」(せん)は魚を獲るための仕掛けの竹製の「ふせご」。英語を把握理解するための小筌は謙譲語です。編さん代表の本木庄左衛門正栄(1767~1822)が序文凡例を記しています。現代語抄意訳を記します。

 文化6年(1809)の春、イギリス(諳厄利亜)の文字言語を学習せよ、との幕府の命令がわたしたち長崎のオランダ通詞仲間に下された。ちょうどこの年の秋、出島のオランダ商館に赴任したばかりの商館長補佐官のヤン・コック・ブロムホフが英語にいくらか通じているというので、幕命でイギリス語の教授にあたらせ、オランダ通詞仲間がはじめてイギリス語修業を開始した。そしてわたし、本木庄左衛門正栄が世話役に任じられた。
 ブロムホフ先生について英語の授業を受けたが、長年習い親しんでいるオランダ語の読み方や解釈法と違い、遠く数万里も隔たった知識皆無の異国イギリスの国語をはじめて修行するのであるから、音韻、言語、風俗、事情がたいへん異なっている。それだけにますます理解困難であった。
 わたしは世襲のオランダ通詞の家に生まれながら、幕府からの命令を受けたまわったのに、困難なあまりあきらめてしまえば、国家のために役立たぬことを憂えた。日夜悩みながら、考えあぐねた結果、オランダ学研究を世襲とするわが家に代々伝わって来た古書を調べてみた。すると亡父が50年ほど前に書き写していた数冊の書物があった。
 この筆写本はオランダの会話文を編集したもので、片方にオランダ語を、もう一方には英語を両側に並べて、細かに書き写したものである。昔に渡来した珍しい書物を、父がオランダ人から密かに借り受けて書き写した書物である。原書は転写したのちにオランダ人に返却したと思われる。
 そしてこの亡父の残してくれた写本をもとに、師のブロムホフ先生に質問し修業することとなった。……ABCの発音からはじまって、類語・会話・文章の段階までいたる有様は、ちょうど(英国の)10歳の子どもと同様であったろう。
 いま、年月を積み重ねて、子細に研究し、筋道を考究したお陰であろうか、やっと英語の間垣(まがき)、柴竹の垣の内をのぞき見ることができるようになった。といってもわたしは晩学、歳をとって体も弱り、英学を十分に完成することもできない。だが本書を訳述し、オランダ通詞仲間の年少者に教授し、熟読暗誦させ口頭教授していけば、いつかは大業は完成し必ず大きな実りを得るであろう。本書がそのための土台の一助になることを、ひたすら願うばかりである。……
 この本を礎に、さらに年月を積み業績を重ねて、英学の真髄に達すれば、国家非常の事態に対応する働きができるひとつの力になることができるであろう。異国人に対し自由自在な説得、対談、通訳が可能になる。いま英学の糸口を開き訳述するのが本書であるが、解釈の誤りや誤訳があれば、それはわたしの拙劣愚昧のためである。……後世の研究者が幸いに本書を参考にして[原文:後の學者幸に参考して]、適訳によって増補改訂してくれることを期待するものである。
     文化8年ひつじどしの春(1811)/長崎の愚かなる和蘭通詞/本木正栄謹述

 幕府は「興学小筌」の完成を喜び、通詞たちに次ぎは英和辞書の編さんを命じました。苦労の末に完成したのが文化11年(1814)、日本初の英和辞書『諳厄利亜国語林大成』全15冊です。収録語彙は約6000語。編集責任者は、今回も本木庄左衛門正栄でした。
 日本ではじめて誕生した英学書と英和辞書、『諳厄利亜語和解』(諳厄利亜興学小筌)と『諳厄利亜国語林大成』。この両書に、実は和訳語「幸福」が記されています。当時、ほとんど使われることのなかったはずの字「幸福」です。連載次回、通詞本木庄左衛門たちが、あえて選択した訳語「幸福」をみてみようと思っています。
<2012年10月10日 南浦邦仁>

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