ふろむ播州山麓

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字「幸福」の誕生(4) 上田秋成 後編

2012-09-28 | Weblog
上田秋成は語「幸福」を日本ではじめて用いたひとであろう。また幸福を「こうふく」ではなく、「さいはひ」すなわち「さいわい」と読ませた。前回に書きましたが、秋成にとって幸福の意味は運、好運、福運、天性の運、自らに自然に備わった運。井原西鶴の「仕合」(しあわせ)に似ています。

 田中俊一氏は「秋成は勝利者を正義としてでなく、<幸福><冥福><命禄>とし、敗北者を<不幸>と意味づける」。また人間の美徳や意思とはかかわりなく、運命(幸福)は神の意志に委ねられている、と記しておられる。
 「冥」は、神仏によって授けられた福運。仏説でいう来世の幸福と前世の善果。「命禄」は、持って生まれた幸不幸などと現代語に訳されています。
 わたしには田中氏の幸福説について語る力はありませんが、勝者とは不思議な天運に恵まれた人。敗者とは、いくら努力し善徳を積んでも、天の運に助けられなかった人をいうのではないでしょうか。これが上田秋成の幸福論のようです。

 彼は幼年期、父母の愛情をほとんど受けることもなく4歳で商家の養子となった。翌年には病を得て重篤な状態になったが、養父母が稲荷明神に必死に祈願したところ「死を免じ、かつ六十八の寿を与えるという夢のお告げがあり、病は峠を越していたという。秋成は生涯にわたってこの秘蹟を固く信じ、六十八歳を迎えた享和元年には六十八首の歌を奉納して神徳を感謝している」(中村博保)。稲荷は加島稲荷、現在の香具波志神社(大阪市淀川区加島)

 終生病弱で成人までも寿命がないであろうと、自他ともに認めていた秋成が、75歳までも生きたことは不思議なことであった。中村博保氏は「秋成は後年、中井履軒との間に、世の中には儒者の合理をもってしては割り切ることができない不可測(ふかしぎ)があるとするやりとりをしており、頑として譲らなかったが、自然を不可測とする感受性(自然観)も、この幼児の体験につながるところがあったと考えていいだろう」
 以下に「冥福」と「命禄」の用例を列挙します。


「さらば天の時か 天とは日々に照しませる皇祖(みおや)の御國也 儒士等『天とは卽あめを指か』と聞けば 『命祿(めいろく)也』と云」<『春雨物語』血かたびら>
 それならば帝位王朝の隆替も時運によるのか。天とは日々照らさるる皇祖天照大御神のおられる高天原である。儒士らが「天とは空を指すのか」と聞くと、「命禄である」とこたえた。

「いかなれば 佛法の冥をかうふらせたまひて 如來の大智の網にこめられたまふよ」<『春雨物語』天津処女>
 なぜだろうか。仏説でいう冥福、すなわち来世の幸福と前世の善果をうけられて、如来の大きい智恵の中に丸めこまれなさった。

「これも修業のにはあらで冥の人なるべし」<『春雨物語』天津処女>
 これもまた修行によっての徳ではなく、仏の好運を授けられた人であるはずだ。

「人各遇不遇ありて我しらぬ命祿は論ずまじきや」<「遠駝也延五登」>
 人にはそれぞれ遇不遇、幸不幸があるが、我々には理解できるはずのない命禄について論じようもない。

「我佛の冥と云事を生れ得させけん」<『藤簍冊子』(つづらぶみ)月の前>

「冥福蔽天真 厄貧顕奇才」(秋成の自讃だそうですが未確認です。大胆にも我流で意訳してみました)
 冥福はいつも人の本性をつつみ隠している。災いや苦しみや貧そして貪欲にむさぼることによって、世にまれなる才能、埋もれていた奇才が、世にあらわれたりもする。

参考 田中俊一著『上田秋成文芸の世界』昭和54年 桜楓社
 中村博保ほか校注訳解説『日本古典文学全集48 雨月物語 春雨物語他』1973年 小学館
<2012年9月28日 南浦邦仁>

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1 コメント

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そんな感じですねえ (na-ga)
2012-09-28 11:01:33
経済学者のなかには、会社や個人の成功は、努力や才能というより、確率過程で考える方が理解しやすいと言う人がいます。だめなのに運よくの人、がんばったのに失意の人、そんなものだと。成功者の講演会が役立たずなのも、えらそうなことを言うが、それが原因でなく、運だからというのです。

一方、才能は不運でしか、なかなか開花しないというのも案外ありです。音楽家、画家・・飽食の人は作品そのものを書く動機付けがない、いくら才能があっても墓場まで腐らせるわけです。唐の詩人もしかりです。才能を開花させるために不幸を追い求める生き方もあるかもしれません。わたしはいやですが。

まあ、人間、昔も今も、変わらないし、考えることもぼちぼちなという印象です。
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