ふろむ播州山麓

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マッカーサーの厚木到着、宝島社 写真の謎 <第2話>

2011-10-01 | Weblog

 66年前の8月30日、マッカーサーが厚木海軍飛行場に降り立った。このときの写真や映像は数多い。しかしなぜか1枚だけが合成写真である。9月2日に宝島社が新聞掲載した見開き2ページの写真である。
 わたしが調べた範囲だが、これのみが史実とは異なるモンタージュである。なぜ? ほかには見当たらない。
 今回は、マッカーサーの日本占領開始を追ってみましょう。

 1945年8月28日朝。武装した先遣隊が厚木飛行場に到着した。アイケルバーガー中将指揮下、第8軍の146名である。彼らが日本を占領した最初の部隊である。
 指揮官チャールズ・テンチ大佐の1号機がまず8時28分に着陸する。そして双発の小型輸送機C46とC47、合計16機が相次いで着陸した。小型機をまず先遣したのは、滑走路が大量の物資を積む大型機の重量に耐えられないかもしれないという危惧があったからである。厚木飛行場の滑走路は本来、軽量の戦闘機用につくられていた。
 その後、9時半からは第2編隊のC47、4発大型のC54、あわせて15機。11時からは第3編隊のC54が15機。戦闘機も含め、計48機が着陸した。ジープをはじめ、武器弾薬、食料、天幕、毛布…、大量の物資が積み込まれていた。日本本土ではジープなぞ、この日がお披露目であった。日本人は戦地以外で見た者がいない。

 8月15日の玉音放送があったとはいえ、日本本土には260万人もの完全武装した兵がいる。関東地方だけでも30万人の日本軍がおり、近衛師団や厚木の日本海軍航空隊などは、本土決戦徹底抗戦を唱えていた。敗戦のまだ2週間ののちである。
 先遣隊到着時の様子を翌日の朝刊は伝えた。「聖旨に副ひ奉り、一糸乱れず冷静沈着、毅然としてこの世紀の大激動に身を処する皇国の姿」。厚木基地周辺では一発の銃声も響かず、日本軍兵士全員は冷静であった。

 翌29日、マッカーサーは愛機バターンⅡ号でマニラを立ち、沖縄の読谷(よみたん)飛行場に到着した。ダグラスC54型機は航続距離が短いため、フィリピンから厚木まで、一気に飛ぶことはできない。給油が必要である。29日夜は読谷に一泊した。
 マッカーサーの日本乗り込みは、時期尚早で危険である、というのが軍トップの見解であった。元帥の側近も、いま関東に乗り込むのは危険極まりないと注進していた。
 彼は回顧録に記している。「幕僚たちも、私がこのような着陸をおこなうことに、真正面から反対していた。それはバクチだというのだ。最高司令官が丸腰で、ひとにぎりほどの幕僚とわずかな先遣隊以外にはろくな護衛もなく、相手は大勢の敵兵がまだ完全武装で待ちかまえている敵国であり、関東平野だけでも日本軍二十二個師団、三十万人以上の優秀な戦闘部隊がいる、というのが彼らのいい分だった。」

 厚木に前日に到着した先遣隊からの報告を沖縄で聞き、日本軍の抵抗や攻撃はないと、マッカーサーはあらためて確信した。「天皇の命令によって降伏した日本軍兵士が、新しい支配者に反抗の刃を向けるはずがない」。マッカーサーはこの判断が正しいことを再度、読谷で確信したのである。日本人にとって天皇とは何か、また日本国民とは、彼はどの米国人よりも見抜いているという自負があった。彼の訪日は、この日が6度目である。
 また米国の、また世界中のひとたちが「危険だ」と注目するなかを、平然と丸腰で降り立つことは、マッカーサーのスタイルであった。彼は軍人であるとともに、役者でもある。

 そして8月30日。午後2時5分、マッカーサーは厚木飛行場に到着した。第8軍司令官のアイケルバーガーは早朝に沖縄から飛来している。彼の専用機であるB17爆撃機に機乗したと思われる。
 この日早朝から、米軍は膨大な物資を厚木に送り込んだ。兵員は総数わずか1200名。朝早くから夕方までにC54輸送機を中心に、約150機が3分ごとに到着した。当然、元帥到着の午後2時前後は離着陸が中断されている。早朝の第1便から最終便まで、9時間以上がかかった。
 日本政府は正式の出迎えを申し出たが、マッカーサーは断った。厚木取材には世界中の報道陣120人に限定され、全員が沖縄から飛来した。日本人は新聞記者10名と合同撮影のカメラマン8名だけが認められた。

 世紀の瞬間に取材で立ち会った同盟通信の明峰嘉夫記者は、つぎのように語っている。「白銀色に輝いた大きな飛行機がピタリととまる。普通の輸送機だと最初に扉がパッと開いて中から梯子がするすると降りて来るのだが、バターン号は飛行機が止まり、プロペラが止まるとオートマチックに梯子(タラップ)が長く伸びて地上にちやんと着くのです。すると胴体の星のマークのついたところが中からポカツと開くのです。銀色の胴体にそこだけが戸の形に黒い空間が出来た。そこにマッカーサー元帥がぐつと出てきた。その様子がなんといいますか、よくいえば威風堂々というのですが……『コーンパイプ』というのをくわえて、濃い緑色の金縁眼鏡をかけて、丁度風呂から上がって髭を剃りクリームを顔に塗りつけたというような、お化粧したばかりのような顔でずつと出て来て、下を見ないのですね。下を見ないで遥か日本の地平線をずつと見渡すように顔を右から左の方へ一と通り百八十度に廻すのです。廻した後から今度はちらつと下を見るのですね。パイプをくわえたままでいかにも菊五郎が花道に現れ、まづ大見得を切つて舞台に出るというような感じなんですね。大見得を切つてから静々と梯子を降りて行く……」(1945年10月談)
 同盟通信からはふたりのカメラマンが向った。そのひとりの武田明は後日に語っている。「昼の光でマッカーサー元帥の顔はピカピカと照り輝いていた。『化粧をしているな』と直感的に思った」
 タラップを降り切り、大地に左足が付いた瞬間の写真がある。同じ同盟通信のもうひとりのカメラマン、宮谷長吉が撮影したものだが彼は「マッカーサーが日本の地に足を着ける瞬間を狙ってシャッターを押した」。宮谷の写真では、バターン号後方の地面には、トラック数台と荷台に立ってマッカーサーの後ろ姿を見つめる数十人の兵たちがみえる。

 マッカーサーに常に同行し30日はC54型機バターン号に同乗し、厚木に降り立ったコートニー・ホイットニーも記している。ホイットニー准将はマッカーサーの軍事秘書官だった。またGHQでは民政局長をつとめ、日本国憲法の草案作成を指揮した人物である。
 「機は飛行場にすべり込み、マッカーサーはコーン・パイプを口にくわえて、機から降り立った。彼はちょっと立ちどまって、あたりを見回した。空は青く輝き、羊毛のようなちぎれ雲が点々と浮かんでいた。飛行場に照りつける日でコンクリートの滑走路とエプロン(格納庫前の舗装場所)にはかげろうがゆらいでいた。飛行場には他に数機の米機があったが、そこらにいるわずかな数の武装した連合軍兵士はおそろしく心細い兵力にみえた。/最先任者はアイケルバーガー将軍(愛称ボブ)で、進み出て、マッカーサーを迎えた。二人は握手をかわし、マッカーサーはおだやかな声で『ボブ、メルボルンから東京までは長い道だったが、どうやらこれで行き着いたようだね。これが映画でいう“結末”だよ』といった。」

 厚木に到着し、戦友たちと握手をかわしたマッカーサーは記者発表をおこなった。ボブに語った一節からはじまる一文である。「メルボルンから東京までは長い道だった。長い長いそして困難な道程だった。(略)日本側は非常に誠意を以てことに当つてゐるやうで、降伏は不必要な流血の惨を見ることなく無事完了するであらうことを期待する」。短い第一声であった。
 そして到着のわずか15分後、2時20分には数十台の車列を連ねて、横浜に向かった。マッカーサーとアイケルバーガーが乗り込んだ高級車のリンカーンは、かつて陸軍大臣の専用車だった。
 一面焼け野原の横浜市街で、奇跡的に焼け残っていたホテル、ニューグランドに彼は入った。最初のGHQ本部はこのホテルに置かれた。かつて昭和12年(1937)、マッカーサーはここに泊ったことがある。ふたり目の夫人、ジーンとの新婚旅行の途次である。占領の8年前であった。

○参考書
『マッカーサーの二千日』袖井林二郎著 2004年改版 中公文庫
『マッカーサー大戦回顧録』下巻 ダグラス・マッカーサー著 中公文庫 2003年
『図説マッカーサー』袖井林二郎・福島壽郎著 河出書房新社 2003年(「壽」には「金」ヘンがつきます)
『マッカーサー 記録・戦後日本の原点』袖井林二郎・福島壽郎著 日本放送出版協会 昭和57年
『マッカーサーが来た日』河原匡喜著 新人物往来社 1995年
<2011年10月1日 ココは未だに見つかりません 南浦邦仁>

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2 コメント

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マッカーサーの写真 (ダグラス)
2011-10-02 20:10:55
連載、興味深いです。厚木写真も確認しました。宝島社の方もこの連載に気づかれているでしょうね。きっと。何か説明とか係累とか、説明なり意見を発表してほしいですね。
返信する
ダグラスさま (かたせ)
2011-10-03 17:07:23
ありがとうございます。
広告の左下の英文が気になります。
With the permission of the General Douglas MacArthur Foundation,Norfolk,Virginia
「マッカーサー元帥財団の許可による」でしょうか。
マルC©ではなく「許可」なのですね。
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