ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

若冲 略年譜

2017-09-06 | Weblog
 半年間も更新せず、ブログのことをほとんど忘れかけておりました。
ところが間もなく、9月10日が到来します。伊藤若冲の命日。伏見深草の石峰寺では恒例の「若冲忌」が催されます。
本来は、若冲年譜を5回分割で連載し、とっくに「若冲の謎」を終えているはずでした。反省しきりです。

 若冲忌の後、10日の昼食会では大阪から来られるグループのみなさんに、簡略版で若冲の生涯を話すことになりました。
話しが苦手で、赤面のいたりなのですが、彼が還暦の前に、なぜ相国寺を離れ、萬福寺と黄檗の寺・石峰寺に身命をそそいだのか?
錦市場事件を中心に、概略だけでもお伝えできれば、と思ったりしております。
 以下は、当日の説明用資料です。読んでいただければ説明など不要かもしれませんが・・・。

 なお「若冲忌」は、石峰寺で10日10時半からの開催です。詳細は石峰寺のホームページをご覧ください。
たくさんの皆さまのご来臨をお待ち申し上げております。



<伊藤若冲の生涯 略年表>  月日は旧暦・数え年齢
   
1716年 正徳6年2月8日 京 錦通の大店青物商「桝屋」、伊藤家の長男に生まれる。

1738年 元文3年9月29日 父三代伊藤源左衛門が逝去。42歳。若冲は若干23歳にして桝源(桝屋の通称)の当主、四代伊藤源左衛門を継ぐ。

1752年 宝暦2年1月 37歳 
 作品にはじめての雅号「若冲」が確認される。この名は、32歳から36歳の間に命名された。市井の文人僧「売茶翁」と、後に若冲の親友になる相国寺「大典」和尚とのつながりからつけられた。字「若冲」は老子「大盈若冲其用不窮」からとった。「本当に満ちて充実しているものは、一見空っぽのように見えるが、それを用いると尽きることがない」
 なお「若冲」名の直前に、誤って「若中」印を使用した形跡がある。

1755年 宝暦5年1月 若冲は40歳を機に桝屋家督を次弟の宗巌白歳に譲る。若冲は源左衛門から茂右衛門に改名した。

1766年 明和3年秋 51歳 最大傑作「動植綵絵」30幅と「釈迦三尊像」、計33幅が相国寺に完納された。

1768年 明和5年3月 53歳 この年にはじめて刊行された『平安人物誌』において、若冲は応挙、大雅、蕪村らとともに、京を代表する画家と評価されている。

1771年 明和8年12月22日 56歳
 京都東町奉行所より突然、錦高倉青物市場に対し出頭命令があった。錦市場での営業権は本来正当なものであるのか、返答書を求められたが、実はライバルである五条問屋市場の謀略であった。同月24日付の返答書に「高倉四条上ル丁/年寄/若冲」の署名が残っている。 

1772年 明和9年 57歳
 正月から錦での営業が禁止された。この年に若冲が語った言葉とされるのが、「市場は差し止められ、わたしは町年寄りとして末代まで汚名を残すことになる。また数千人の農民百姓町民たちが難儀している」。そして若冲は江戸に下向し「百姓方共御願申上へく存念」。幕府への直訴は自らの命を賭すことになるが、若冲は「どのようなことがあっても、わたしが責任をとる」、「関東に下って幕府に訴え出る覚悟がある」と決意を語っている。

1773年 安永2年 58歳 前年と同様、この年も錦市場での営業停止の処分が続いた。
 夏、若冲は、萬福寺二十代住持の伯珣照浩から道号「革叟」(かくそう)と、着ていた僧衣道服を授かる。若冲は偈頌(げじゅ)を与えられたが、抜粋意訳すると、黄檗山萬福寺に「来たってはじめて余に謁し、名と服をあらためんことを乞う。よってすなわち命ずるに革叟を以てし、弊衣を脱してこれを与う。顧みるにそれ身を世俗より脱して、心を禅道に留む。なお古きを去り新しきを取るがごとし。ここに余命ずるに革を以てする所以なり。汝それこれを勉めよ。……」。「革」は革命の革、「叟」は「翁」の意味。
 伯珣偈頌全文を故加藤正俊和尚にかつて助けていただき読み下した。「京兆の藤汝鈞、字は景和、若冲と号す。家の者は代々錦街に居す。幼にして丹青を学び、家業を紹(つ)がず。絵事に刻苦すること、ほとんど五十年、時に精玅を称さる。平素世慮淡爾にして足ることを知る。奮然(ふんぜん)として自ら謂(お)もえらく、絵事の業はすでに成る。吾れ敢えて久しく世俗に混ずべけんや。今茲(ここ)に癸己(みずのとみ)の夏、山(黄檗山萬福寺)に来たってはじめて余に謁し、名と服とを更(あらた)めんことを乞う。因って乃ち命ずるに革叟を以てし、弊衣を脱してこれを与う。顧みるに夫(そ)れ身を世俗から脱して、心を禪道に留む。猶(な)お故(ふるき)を去り新しきを取るがごとし。此(ここ)に余命ずるに革を以てする所以(ゆえん)なり。子(し)其れこれを勉めよ。示めすに偈を以て曰く、/久しく囂塵(ごうじん)に処して塵に染まず、丹青刻苦、玅神に通ず。奮然として旧途轍(わだち)を革(あらた)む、水より出ずる芙渠(蓮)は脱骵新たなり。/黄檗賜紫八十翁伯珣書」

1774年 安永3年 59歳
8月29日 東町奉行所がやっと、錦高倉青物市場四町の営業再開を認めた。ところで宇治の黄檗山萬福寺は、明人僧の隠元大師を徳川四代将軍家綱が招いて建立した黄檗の寺である。歴代住持(明人)の選任には幕府が当たっていた。京五山の相国寺よりもむしろ、萬福寺こそ幕府との強い接点を当時もっていたとも考えられる。若冲が錦市場の紛糾を解決すべく、萬福寺に幕府への取り次ぎを願った可能性もあろう。また幕府に直訴するなら、伯珣から与えられた僧衣を身にまとい、出家僧「革叟」を名のるつもりだったか。革叟の名はその後、どこにも見当たらない。
 また三年近い紛争の間、彼は画筆をとらなかったと思われる。錦市場再開決定のころ、久しぶりに描いた画作は傑作「猿猴摘桃図」だが、萬福寺の伯珣照浩が賛した。

1776年 安永5年 61歳(還暦)
10月23日 萬福寺20代住持の伯珣没。享年82歳。
若冲はこの年から石峰寺石仏群の造営を開始したと思われる。石峰寺は伏見深草、伏見稲荷のすぐ南に位置する黄檗山萬福寺の末寺。伯珣の師が同寺の開祖である。

1787年 天明7年 72歳
『拾遺都名所図会』に「石像五百羅漢は深草石峰寺後山にある。中央に釈迦無牟尼佛、長さ六尺ばかりの坐像にして、まわりに十六羅漢、五百の大弟子が囲み、釈尊が霊鷲山において法を説きたまう体相である。羅漢の像おのおの長さ三尺ばかり。いずれも雨露の覆いなし。近年安永のなかばより天明のはじめに到っておおよそ成就した。都の画工、若冲が石面に図を描いて指揮した。」

1788年 天明8年 73歳
1月28日 皆川淇園は円山応挙や呉月渓(呉春)らと連れ立って伏見に梅見に出かけた。途次、応挙の案内で石峰寺に伊藤若冲制作するところの石羅漢を見物。あいにく若冲は不在であった。
 皆川淇園は「梅渓紀行」に記す。「境静かにして神清み、本堂後ろの小山の上に遊戯神通と扁した小さな竹の門があり、通りを過ぎると曲がりくねった小道があって、渓には橋を架け、その周囲に三々五々、みなその石質の天然を活かし、二三尺ほどの石に簡単な彫工を施している。その殊形・異状・怪貌・奇態、人の意表を衝いてほとんど観る者を倒絶させるような石羅漢が配置してあった。造意の工、人をして奇を嘆ぜしめざるものなし」
 そして1月30日、応仁の乱以降で京都最大最悪の大火災、「天明の大火」が京街の八割以上を焼き尽くす。一町屋からの失火が原因といわれている。錦の屋敷を失った若冲は、石峰寺門前に終の棲家を構えた。

1800年 寛政12年 85歳
9月10日 石峰寺門前の庵で伊藤若冲没。享年85。石峰寺に土葬。

※還暦のころからはじめた石峰寺の石像群造営、そして観音堂建立など、莫大な建造費用の捻出のためにたくさんの作画製作。そして庶民からのいくばくかの喜捨への礼としても、85歳で亡くなるまでの25年間に膨大な絵画作品を、石峰寺門前の画室で書き続けた。
<2017年9月6日>




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