ふろむ播州山麓

京都山麓から、ブログ名を播州山麓に変更しました。本文はほとんど更新もせず、タイトルだけをたびたび変えていますが……

<3・11 日本> №2 避難所

2011-03-20 | Weblog
 大災後の混乱は、まだまだ収まりません。しかし広範囲な地で、逆境にめげずに耐え、また活躍されているたくさんの方々に、こころより敬意を表し、健康とご健闘を祈ります。
 今日はわたし個人の震災体験を記そうと思います。たいした役には立たないでしょうが、わずかでもヒントにでもなれば、うれしく思います。

 1995年の阪神淡路大震災のとき、わたしは京都の支店勤務でした。被害は軽かったのですが、会社の本社は神戸です。兵庫県南部には支店もいくつかありました。地域住民も当社も、甚大な被害を受けました。
 ライフラインが途絶え、通信もままならないなか、わたしは京都の地で不便な通信網を駆使して、全体の情報収集に当たり、また社員の安否確認に全力を注ぎました。情報の一極集中、そして整理発信を計ったのです。
 そして安全確認不明者が1名になったとき、はじめて神戸市に入りました。わたしは当時、趣味が山歩き。厳寒期でしたが、装備には自信がありました。2泊でも3泊でも、自力で生きぬけるだけの水や食料、そして燃料も背に負い、神戸に向かいました。
 鉄道のレールは途絶していましたから、徒歩で中心部に入るのですが、最後まで連絡が取れなかった社員の家を訪れたとき、感動し絶句しました。ご家族全員が無事だったのです。涙がとまりませんでした。

 途中、親戚の家に立ち寄り無事を確認し、つぎに本社に向かいました。ビルは半壊状態で、正常化するにはかなりの日数が必要なことは、歴然としていました。余震が続くなか、何人もの社員が数時間も歩いて職場にたどり着き、危険な現場で手作業の復旧作業につとめています。後ろ髪をひかれる思いで現地を去り、わたしは西に向かって歩きました。
 その内、夕闇がせまって来ました。どこかに寝るスペースを確保することが必須です。マグライトとヘッドランプだけで瓦礫の残る地を歩くのは危険です。場所は神戸市長田区でした。大災で燃え尽きた一帯の隣地です。
 避難所として利用されている中学がありました。事務室を訪れ、「水食糧や寝袋などは持っています。教室や体育館のみなさんには迷惑をかけられません。1階の廊下で寝かせてください」
 宿泊の了解を得て、校舎入り口横の床に寝場所を確保しました。そして「何かお役に立たねば」。わたしはささやかなボランティアであっても、一匹狼いや一匹狸クラスです。どこの組織にも属しておりません。
 「いま何ができるかしら?」。校庭とその周り、そして学校内の廊下などを歩き回りました。決めたのが、「階段と廊下のお掃除をしよう」ということ。臨時住人のみなさんは、そこまで手が回らないのです。
 掃除用具を借り、数時間かけてゴミを集めて回りました。避難者の全員が「ありがとう」、そして頭を下げてくださいます。わたしはたいしたことをしている訳ではなく、一宿の恩にささやかに報いただけなのです。

 翌朝、校庭で焚き火にあたりながら、みなさんと話し、避難所の課題や問題点などを、いろいろ教えていただきました。そしてこれが機縁となって、わたしは仕事が連休ごと、神戸長田のこの中学へ、京都から何度も通いました。
 
 3度ほど通ったころ、これからの行動方針を決定しました。「よし。避難所に本をプレゼントしよう!」。現地には本がないのです。
 ほかの避難所にも歩いて数カ所、訪れました。「本を送りましょうか?」。どこでも「ほしいです。送料・本代とも負担がないのなら、お願いしたい」。すべての避難所が同じ返事でした。

 わたしは京都から発信しました。「避難所に本を贈ろう。ご自宅の本、京都の○○までご持参いただくか、宅配便元払いでお送りください。当方から責任を持って、阪神間各地の避難所に本を届けます」
 たくさんの方々のご厚意で、一万冊以上の本を被災地に送ることができました。今回、再度、この運動をやれないか?
 しかし関西と東北、距離があり過ぎます。また現在のわたしは、自由に行動する条件に恵まれていません。作業スペースも宅配料も必要です。しかし実行したい…。

 ご意見や提案などなど、お聞かせくださる方があれば、うれしいです。実行には広域のチーム結成が必要のようです。ホームページの開設も必要でしょう。避難所リストや現地情報も必要です。

 被災地のみなさん。みんなで気張りましょう。世界中が応援しています。「ガンバレ日本!」
<2011年3月20日>
※前回のタイトル「地震・津波・原発」を改題し、連載「3・11 日本」とします。

コメント
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