ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

日立の樹

2008-05-18 | Weblog
 「この木 何の木?」と、テレビコマーシャルの大木のことを昨日、書きました。文を読んだ犬塚さんから早速、メッセージをいただきました。彼女はさすがにお詳しい。ご本人の了解なしで転載させていただきます。

 <木の名前は知らないのですが、ブームの元歌をカバーして「この~木、なんの木~」と歌っているのは、「インスピ」と言うバンドの、リードボーカルの奥村君と言う友人の息子さんです。「インスピ」はまだ彼らが全員阪大の大学院生だった頃デビューしたアカペラグループで、当時は日本一偏差値の高いグループだと、FM等で取り上げられました。澄んだこの歌声を聴くと、1週間の疲れが飛んですっきりするから不思議。一時は日立グループ企業の電話の待ちうけもこれでした。(奥村君お父様からの情報)>

 また見たいコマーシャルだなあと思い、日立のホームページが気になり、念のため探してみました。何んと、「日立の樹オンライン」<Hitachinoki Online>発見です。そのものずばり、映像も歌も、見そして聞くことができるのです。驚きました。

 コマーシャルにつかわれた大木「日立の樹」は歴代四本。いちばん有名なのが、枝を大きく横に張った「モンキーポッド」という名の木、学名はサマネア・サマン。樹齢130年、樹高は25メートル、幅は40メートルもあるそうです。俗称は、アメリカンネム、サマンの木。愛称は、やっぱり「日立の木」でしょう。
 大地に根を張っている場所は、ハワイ州オアフ島のモアナルア・ガーデンパーク。わたしの前の記述は間違っていました。さりげなく直しておきます。
 またコマーシャルソングも、日立のホームページで聞けますし、歌詞を読むこともできます。これも思い違いをしていました。「♪名前も知らない木ですが、名前も知らない木になるでしょう」と思い込んでいたのが、正しくは「名前も知らない木ですから・・・」。
 人間の記憶は、というかわたしの覚えは実にいい加減なものですね。反省しきり、赤面のいたりです。わからないことは、まずインターネットから、というのが教訓かもしれません。歌詞も修正しておきます。
 興味ある方は「日立の樹オンライン」をご覧ください。いずれにしろ、はてなマークがだいぶ解けました。犬塚さん、本当にありがとう。
<2008年5月18日 赤面のため、はじめての一日二報>





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京の道標 <道しるべ石>

2008-05-18 | Weblog
洛中を歩いていると、よく石造の標識に出くわす。京には道標だけでも、五百柱ほど、うち江戸時代の建立は百本ほどもあるそうだ。何んとか寺社とか、某旧居跡、何々藩邸跡などの石標まで数えあげれば、新作もいれて石標の数は、千や二千本どころではないだろう。
 出町の枡形商店街の西はずれ、寺町通をすこし北に行ったところ、クロネコヤマト集配所の前、歩道を塞ぐかのように屹立する石が立つ。高さはわたしの背丈ほどもある。四面のうち、正面南には「西半町」とだけ彫ってある。
 町名の標示はめずらしい。洛中には町が多すぎて、覚え切れない。地元民でも自町の名をいわない。通り名で住所をいう。その方がわかりやすいのである。
 ところで西半町、はじめてみたとき、「にしなかまち」か「さいはんちょう」かと思った。府立植物園の西ぎわ、賀茂川べりを「半木の道」という。<なからぎ>と読む。遅咲き枝垂桜並木の名所だが、ほっこりする散歩道である。
 石標の近くに住む知人に聞いてみた。「西半町はどう読むの?」。しかし相手はすこし驚き「そんな町名、聞いたことがありません」。その一帯は表町(おもてちょう)だという。
 あまりに不思議なので、標識の四面を確認してみた。すると西面、車道の側に「幸神社」とある。ふだん車の走る車道は歩かない。そのために気づかなかったのである。
 幸神社は現代では「さいわい」で、危除縁結の社とされているが、もとは「さいのかみしゃ」で、<さい><さえ>の社。京の北東、賀茂川べりの境、境界を祀る意味である。「さいの神」神社まで、「西に半町」すなわち一町あるいは一丁の半分、約50メートルという標示であった。
 発見や気づきの喜びはあったが、自分のあまりの早合点うかつさには、毎度のことながらほとほと感心してしまう。

 ところでこの石柱のすこし南、今出川通と寺町通の交差点信号横に、立派な道標がある。京都市登録史蹟「大原口道標」という。一面幅40センチほど、高さはわたしの身長近くもあるが、字の彫りも深く、鮮明で達筆である。驚くことは、慶応四年四月建立。この年(1868)九月、年号は明治にかわる。江戸期最後の悼尾を飾る名標であろう。長々しい刻字をご紹介するが、丁は町とおなじで、約109メートル。「り」は里。なお正確には、二十は廿、三十は卅と刻されている。ちなみにここの町名は、大原口町という。

東 下かも 五丁   比ゑい山 三り   <下鴨・比叡山>
  吉田 十二丁   黒谷 十五丁
  真如堂 十四丁  坂本城 三り
南 かう堂 九丁   六角堂 十九丁   <革堂>
  六条 三十五丁   祇園 二十二丁
  清水 二十九丁  三条大橋 十七丁
西 内裏 三丁    北野 二十五丁
  金閣寺 三十丁  御室 一り十丁
  あたご 三り              <愛宕>
北 上御霊 七丁   上加茂 三十丁
  くらま 二り半   大徳寺 二十三丁  <鞍馬>
  今宮 二十六丁  

 地面に接するように施主、商人ばかり十九名の名前も彫りこまれている。幕末維新の動乱の最中、面々はどのような話し合いのなかで、この道標建立を誓い合ったのであろうか。
 それにしても石に刻まれた字は、永久ではないが後世まで残る。さてパソコンに打ち込まれた字面はいかが?
<2008年5月18日 キーボードを石に見立て打つ朝 南浦邦仁記>
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