「春は花…」にはじまってこの季節、刻々と移ろっていく京を、例年にも増して楽しむことができた。視点とこころ構えの軸を、ほんの少しずらすだけで、ものの見え方がかわるのも不思議である。歩いていても、車中から、窓外であろうと、時間の進みを花と若葉と光風が教えてくれたようだ。
例によって本もよく読んだ。いや読むというより、「観る」という方が正しいかもしれぬ。花や木、庭の本をよくみたが、いずれも写真が多い。文字は斜めに、写真を楽しむことが多かった。
わたしの読書は実に横着な方法をとる。一見は速読風だが、キーワードを追って、休日には一日十冊くらい目を通すこともある。索引のついた本など実に便利で、一日に二十冊でも読破(?)したりする。まるで検索エンジンのような、ずるい調本術であろうか。
最近では、邦光史郎さんの「京の四季」が、印象に残った。昭和19年に京都に移り住んだ彼は、この終戦前年の冬から数年間の思い出を記しておられる。抄録のために、若干書き替えたことの許しを乞う。
燃料も食料もない戦時中、昭和19年冬の京は、雪空がつづいて、ずい分寒かった。自動車など見たくてもない頃で、駅前には人力車が客待ちをしていた。
カーキ色をした国民服にゲートルを巻いた男と、紺絣のモンペに防空頭巾姿の女が、口数もすくなく、肩を落として影のように歩いて行った四条通に、「蒸し芋あり枡」の貼り紙を目にするようになったのは、終戦の年の冬だった。
翌21年の夏、四条大橋を通ると、橋の上にゴザを敷いて、夕涼みがてらゴロ寝している人が多かった。戦災に遭わなかった京都には、いろいろな人が集まってきた。碧い目のGIもいれば、夜の女も多く、京都駅前、三条、四条堀川と闇市があって、そこでは配給では見たこともない銀シャリに一切れか二切れ肉の入ったカレーライスを売っていた。
恐ろしいインフレ時代で、月給が百円、タバコが十本十円というので、まともに働いている人はすくなく、復員帰りの軍服姿で、どこへ行くのにもよく歩いたものだった。
そして22年の春四月、鞍馬の宿で、ゆっくりと山の端に上る夕月を眺めつつ、一夜を過ごしたことがある。宿で食事をつくってもらうために、米を紙袋に詰めて持って行かなくてはならない頃のことなので、飲み物も果実も何もなかった。けれどもただ話しをしているだけでたのしく、この広い世界の中で、自分たちだけが存在しているのだと思えた。
鞍馬の山に、ゆっくり春の月が昇っていった。物音をたてることさえ憚られるような夜のことだった。
<六十年ほど昔の京の四季はこんな風だった。花はどこにも登場しない。花のことはその数年後に、やっと記述される。>
桜は満開の時もよいが、散りかけがよい。疏水いちめんに散り敷いた花びら模様がゆっくり流れて行くのである。吹き抜けていく春風に誘われて舞い上る花吹雪の中を歩いて行く人影は、どれもみな春色に酔っているような足取りだった。
京都人は、花づくりの好きな人が多く、どんな露地でも花にみたされている。春は、猫も鼠を捕ることを忘れるという。そんな春を、現代は忘れているのではないだろうか。
[邦光史郎編『京都千年(1)「四季と風土」』講談社/1984年刊参照]
<2008年5月11日 「ナンジャモンジャの木」別名ヒトツバタゴ・満開散り初めの日>
例によって本もよく読んだ。いや読むというより、「観る」という方が正しいかもしれぬ。花や木、庭の本をよくみたが、いずれも写真が多い。文字は斜めに、写真を楽しむことが多かった。
わたしの読書は実に横着な方法をとる。一見は速読風だが、キーワードを追って、休日には一日十冊くらい目を通すこともある。索引のついた本など実に便利で、一日に二十冊でも読破(?)したりする。まるで検索エンジンのような、ずるい調本術であろうか。
最近では、邦光史郎さんの「京の四季」が、印象に残った。昭和19年に京都に移り住んだ彼は、この終戦前年の冬から数年間の思い出を記しておられる。抄録のために、若干書き替えたことの許しを乞う。
燃料も食料もない戦時中、昭和19年冬の京は、雪空がつづいて、ずい分寒かった。自動車など見たくてもない頃で、駅前には人力車が客待ちをしていた。
カーキ色をした国民服にゲートルを巻いた男と、紺絣のモンペに防空頭巾姿の女が、口数もすくなく、肩を落として影のように歩いて行った四条通に、「蒸し芋あり枡」の貼り紙を目にするようになったのは、終戦の年の冬だった。
翌21年の夏、四条大橋を通ると、橋の上にゴザを敷いて、夕涼みがてらゴロ寝している人が多かった。戦災に遭わなかった京都には、いろいろな人が集まってきた。碧い目のGIもいれば、夜の女も多く、京都駅前、三条、四条堀川と闇市があって、そこでは配給では見たこともない銀シャリに一切れか二切れ肉の入ったカレーライスを売っていた。
恐ろしいインフレ時代で、月給が百円、タバコが十本十円というので、まともに働いている人はすくなく、復員帰りの軍服姿で、どこへ行くのにもよく歩いたものだった。
そして22年の春四月、鞍馬の宿で、ゆっくりと山の端に上る夕月を眺めつつ、一夜を過ごしたことがある。宿で食事をつくってもらうために、米を紙袋に詰めて持って行かなくてはならない頃のことなので、飲み物も果実も何もなかった。けれどもただ話しをしているだけでたのしく、この広い世界の中で、自分たちだけが存在しているのだと思えた。
鞍馬の山に、ゆっくり春の月が昇っていった。物音をたてることさえ憚られるような夜のことだった。
<六十年ほど昔の京の四季はこんな風だった。花はどこにも登場しない。花のことはその数年後に、やっと記述される。>
桜は満開の時もよいが、散りかけがよい。疏水いちめんに散り敷いた花びら模様がゆっくり流れて行くのである。吹き抜けていく春風に誘われて舞い上る花吹雪の中を歩いて行く人影は、どれもみな春色に酔っているような足取りだった。
京都人は、花づくりの好きな人が多く、どんな露地でも花にみたされている。春は、猫も鼠を捕ることを忘れるという。そんな春を、現代は忘れているのではないだろうか。
[邦光史郎編『京都千年(1)「四季と風土」』講談社/1984年刊参照]
<2008年5月11日 「ナンジャモンジャの木」別名ヒトツバタゴ・満開散り初めの日>