ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

謎の道標

2008-05-25 | Weblog
道端に立つささやかな道標なり石柱に、近ごろつい目が向いてしまう。先週に京都市史蹟「大原口道標」を紹介しましたが、わたしの癖は、何かに興味をもつとあれこれ時にはとことん、調べないと気が落ち着かぬという性癖。困った習性なのですが、友人は「いくつになっても、好奇心が旺盛ですなあ」。賞めているのか揶揄か茶化しているのか。
 「博学ですね」といってくれる友人もいますが、決してそうではないのです。本物の博学多識な先達にお会いしたときには、いつも頭をたれ敬服してしまうのですが、彼らはすでに有余るほどの知識をお持ちなのです。わたしなど、少ししか持ち合わせのない知識に、不満の気持ちがむらむらと巻き起こり、たいていは本をとことん調べ出す。よくいえば、無から有を取り出す作業にのめり込むわけです。
 調べた直後はたしかにいくらか多識になるようです。しかしその後が問題です。残念ながら記憶力がいい加減なので、どんどん忘れていく。つまりいつまでたっても、浅学非才なのです。

 ところで道標ですが、出雲路敬直著『京都の道標』というすばらしい本に出会いました。ミネルヴァ書房から1968年に出版されましたが品切れ本です。インターネットで古書を調べても見当たりません。図書館で借り、コンビニでコピーを取って読んでいますが、道標のしるべとして、興味ある方にはおすすめ本です。
 大原口道標について出雲路氏は「珍しいのは内裏(御所)が出てくること。わかりきった場所というので道標に表示されてないのが普通であるが、それ以外にも、ほかの道標に見られない珍しい地名があり、興味のつきない道標である」
 御所御苑はこの道標から目と鼻の先に位置しています。数百米向こうには、塀も木々も見えます。<内裏三丁>はなぜ表示されたのでしょうか。
 <坂本城三里>も不思議です。道標の建てられた慶応四年(1968)、滋賀の坂本に城はありません。織田信長の比叡山焼き討ちのあと、山をにらむ山麓の拠点として坂本城は築かれました。琵琶湖と京志賀街道・山中越え、水陸運の重要拠点として、坂本は古代から中世織豊期まで、地政学的にも要でした。
 城主は明智光秀ですが、山崎の合戦とともにこの名城も燃え尽きました。江戸期、湖南地域の城は膳所(ぜぜ)のみだったのです。なぜあえて三百年近くも前に消えてしまった坂本「城」を記したのでしょうか。不思議です。
 <六条三十五丁>も変です。どこかの社寺や地点なり、街道の方角案内などが、道標の役割のはずです。六条という通り名だけの表示は、今出川寺町のこの位置で、なぜ必要だったのでしょう。市内各地、ほかの道標には<大仏六条>と刻したものがいくつかあります。かつて有名だった方広寺大佛を示すのでしょうか。それにしても、六条とは横着な表示です。
 それから不思議なのが、刻まれた地点までの距離です。何丁、何里と記されていますが、一丁と一町は同じことで、六十間。一間は1.818メートルなので、一丁はほぼ109メートル。一里は三十六丁です。
 電卓で掛け算をして、丁里をメートルに直してみました。暇人だなあと、自分でも感心してしまいましたが、さらに現在の京都の地図に定規をあてて、直線距離をミリ単位で測ってみました。
 するとほとんどの道標の表示する距離が、地図の実測よりも短い。刻まれた二十二点の内、十八ケ所の数字が、地図直線距離よりも短いのです。不思議です。道は曲折していますから、直線よりももっと長く記されるべきだと思います。
 建立施主は石の三方下面に十九の名が並んでいます。すべて何々屋誰べえと記されていますので、全員が商人でしょう。彼らは建立を計画実行するに当たって、度々ミーティングを開いたはずです。その会合の席で、だれが何を発言し、取りまとめ役はおそらく丹波屋の市兵衛か安兵衛でしょうが、百出分裂するさまざまの意見をどのように収拾したのであろう。石材と石工の選定、書家は誰に、記載地名の確定、距離の測定と表示丁里数などなど。
 世話役のご苦労がしのばれます。また建立の時期が、何よりも大変なときでした。慶応四年です。幕末最晩年でした。京は激動のクーデター、聖戦の最中だったのです。
 興味つきない道標ですが、いつか謎解きの続編を披露したいと思う今日このごろ。
<2008年5月25日 石が語る声を聞く>

補記
 道標の本をかつて出版された出雲路敬直先生に、お会いしました。下御霊神社の宮司さんですが、お人柄も学者としてもすばらしい方です。道標の本は二冊出しておられますが、残念ながらどちらも出版社品切れで、入手が困難です。
 『京都の道標』ミネルヴァ書房・1968年刊
 『京のしるべ石』泰流社・1975年刊
 大原口道標についてご教示いただきました。まず「六条」は東西本願寺の意味。いまでも京都の年配者は本願寺のことを「六条さん」というそうです。
 それから「坂本城」は「坂本越」。城と越の字は、くずすとよく似ています。実物をあとで見てみましたが、わたしにはどちらにも読めます。坂本越とは「山中越え」。北白川から山中[やまなか]の集落を抜け、比叡山を越えて近江志賀・坂本に向かう旧道です。
 「内裏」については、いまの京都御苑はもと公家町で、御所禁裏はそのなかにあった。だからあえて表記したのだろうとのご意見でした。
 いずれにしろ、道標本の復刊をどこかの出版社にお願いしたい。先生もわたしも想いは同じです。
<2008年7月11日 感謝 南浦邦仁記>



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