洛中を歩いていると、よく石造の標識に出くわす。京には道標だけでも、五百柱ほど、うち江戸時代の建立は百本ほどもあるそうだ。何んとか寺社とか、某旧居跡、何々藩邸跡などの石標まで数えあげれば、新作もいれて石標の数は、千や二千本どころではないだろう。
出町の枡形商店街の西はずれ、寺町通をすこし北に行ったところ、クロネコヤマト集配所の前、歩道を塞ぐかのように屹立する石が立つ。高さはわたしの背丈ほどもある。四面のうち、正面南には「西半町」とだけ彫ってある。
町名の標示はめずらしい。洛中には町が多すぎて、覚え切れない。地元民でも自町の名をいわない。通り名で住所をいう。その方がわかりやすいのである。
ところで西半町、はじめてみたとき、「にしなかまち」か「さいはんちょう」かと思った。府立植物園の西ぎわ、賀茂川べりを「半木の道」という。<なからぎ>と読む。遅咲き枝垂桜並木の名所だが、ほっこりする散歩道である。
石標の近くに住む知人に聞いてみた。「西半町はどう読むの?」。しかし相手はすこし驚き「そんな町名、聞いたことがありません」。その一帯は表町(おもてちょう)だという。
あまりに不思議なので、標識の四面を確認してみた。すると西面、車道の側に「幸神社」とある。ふだん車の走る車道は歩かない。そのために気づかなかったのである。
幸神社は現代では「さいわい」で、危除縁結の社とされているが、もとは「さいのかみしゃ」で、<さい><さえ>の社。京の北東、賀茂川べりの境、境界を祀る意味である。「さいの神」神社まで、「西に半町」すなわち一町あるいは一丁の半分、約50メートルという標示であった。
発見や気づきの喜びはあったが、自分のあまりの早合点うかつさには、毎度のことながらほとほと感心してしまう。
ところでこの石柱のすこし南、今出川通と寺町通の交差点信号横に、立派な道標がある。京都市登録史蹟「大原口道標」という。一面幅40センチほど、高さはわたしの身長近くもあるが、字の彫りも深く、鮮明で達筆である。驚くことは、慶応四年四月建立。この年(1868)九月、年号は明治にかわる。江戸期最後の悼尾を飾る名標であろう。長々しい刻字をご紹介するが、丁は町とおなじで、約109メートル。「り」は里。なお正確には、二十は廿、三十は卅と刻されている。ちなみにここの町名は、大原口町という。
東 下かも 五丁 比ゑい山 三り <下鴨・比叡山>
吉田 十二丁 黒谷 十五丁
真如堂 十四丁 坂本城 三り
南 かう堂 九丁 六角堂 十九丁 <革堂>
六条 三十五丁 祇園 二十二丁
清水 二十九丁 三条大橋 十七丁
西 内裏 三丁 北野 二十五丁
金閣寺 三十丁 御室 一り十丁
あたご 三り <愛宕>
北 上御霊 七丁 上加茂 三十丁
くらま 二り半 大徳寺 二十三丁 <鞍馬>
今宮 二十六丁
地面に接するように施主、商人ばかり十九名の名前も彫りこまれている。幕末維新の動乱の最中、面々はどのような話し合いのなかで、この道標建立を誓い合ったのであろうか。
それにしても石に刻まれた字は、永久ではないが後世まで残る。さてパソコンに打ち込まれた字面はいかが?
<2008年5月18日 キーボードを石に見立て打つ朝 南浦邦仁記>
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