山形QのVc茂木に借りた、北大路魯山人の名著「料理王国」をようやく読み終わりました。前にも書いた通り、名作漫画「美味しんぼ」の海原雄山のモデルにもなった、鬼の美食家のエッセイを実に面白く読みました。
しかし、その「美食論」にはうなずけない。私は美食家ではありませんが、「顔、雄山に似てない?」と言われた悲しい高校時代を持つ、貧乏人の「食い道楽」として、本を返す前に一言。
『日常の食物についても、多くの人は家畜同然、おあてがいの食物で栄養を摂っているように私には見える。妻女の作ったおあてがいの料理、料理人の作ったおあてがいの献立料理、これでことを足して、すましているのが大部分の人間である。
小生はこれを見て、食の世界については、まったく無智な人間の如何に多いかに驚くのである。自分の真から好む食物というものに自覚がないのである。』(「料理王国」より)
…イラッとしませんか?定食屋で「日替わり」を注文する私のようなものは、「家畜同然」ですよどうせ。でも、まあそれは、この人のキャラだからいい。好きなものを自分で作って食べればいいじゃないですか。
彼の矛盾は、そのように言いながら「料理はもてなしの心」だとするところです。
私は所詮「顔だけ雄山」ですが(実はわりと根に持ってます)、一番の料理というものは、『自分の好む食物』ではなく、自分の好む、信頼できる店または料理人の「おまかせ」メニューだと思ってます。だから、「何を食べたいか」よりも「どの店で食べたいか」の方が大事です。それが『妻女』の料理である場合もあるでしょう。
実際、気に入った店で一番好きなメニューは、実は「お通し」です。何が出てくるかわからない。しかし、信頼してる店だから、まず裏切られることはないし、楽しみにできる。旬のものだったり、上出来なものだったり、そこにこそ「もてなしの心」が凝縮されているのです。心のこもった『おあてがい』こそ、最高の美食ではないですか。
演奏会のプログラミングなども、一つの「コース料理」のようなものです。人によって好みもそれぞれ、気分もそれぞれでしょうが、「今夜は、この組み合わせで召し上がって頂きます。それが私どもの最高のおもてなしでございます」という、心のこもった取り合わせなわけです。そこは、私どもを信じて「あてがわれて」みて頂きたい。後悔させないように頑張りますから!
…以上、中年になった「顔雄山」の独り言でございました。しかし、料理と音楽は通じるところがある。勉強になりました。
しかし、その「美食論」にはうなずけない。私は美食家ではありませんが、「顔、雄山に似てない?」と言われた悲しい高校時代を持つ、貧乏人の「食い道楽」として、本を返す前に一言。
『日常の食物についても、多くの人は家畜同然、おあてがいの食物で栄養を摂っているように私には見える。妻女の作ったおあてがいの料理、料理人の作ったおあてがいの献立料理、これでことを足して、すましているのが大部分の人間である。
小生はこれを見て、食の世界については、まったく無智な人間の如何に多いかに驚くのである。自分の真から好む食物というものに自覚がないのである。』(「料理王国」より)
…イラッとしませんか?定食屋で「日替わり」を注文する私のようなものは、「家畜同然」ですよどうせ。でも、まあそれは、この人のキャラだからいい。好きなものを自分で作って食べればいいじゃないですか。
彼の矛盾は、そのように言いながら「料理はもてなしの心」だとするところです。
私は所詮「顔だけ雄山」ですが(実はわりと根に持ってます)、一番の料理というものは、『自分の好む食物』ではなく、自分の好む、信頼できる店または料理人の「おまかせ」メニューだと思ってます。だから、「何を食べたいか」よりも「どの店で食べたいか」の方が大事です。それが『妻女』の料理である場合もあるでしょう。
実際、気に入った店で一番好きなメニューは、実は「お通し」です。何が出てくるかわからない。しかし、信頼してる店だから、まず裏切られることはないし、楽しみにできる。旬のものだったり、上出来なものだったり、そこにこそ「もてなしの心」が凝縮されているのです。心のこもった『おあてがい』こそ、最高の美食ではないですか。
演奏会のプログラミングなども、一つの「コース料理」のようなものです。人によって好みもそれぞれ、気分もそれぞれでしょうが、「今夜は、この組み合わせで召し上がって頂きます。それが私どもの最高のおもてなしでございます」という、心のこもった取り合わせなわけです。そこは、私どもを信じて「あてがわれて」みて頂きたい。後悔させないように頑張りますから!
…以上、中年になった「顔雄山」の独り言でございました。しかし、料理と音楽は通じるところがある。勉強になりました。