中爺通信

酒と音楽をこよなく愛します。

大晦日

2008-12-31 13:08:44 | 雑記
 東京はよく晴れて、毎日青空です。家の中にいるのがもったいないので、世田谷の松陰神社へ。鳥居が松の陰になっているのが趣がありますね。

 大きくて有名な神社なので、初詣には大勢の人が来ます。奉っている吉田松陰は学問の神様みたいなものですから、受験の願掛けもあるでしょうね。境内では今夜のための準備が始まっています。

 自分は人混みが苦手なので今日中に、一日早い初詣…というわけではなく、亡くなった友人の墓参りです。別に大晦日が命日ではありませんが、年賀状のかわりみたいなものです。大目に見てくれるでしょう。

 ご存知吉田松陰は高杉晋作や伊藤博文など、明治の幕開けに欠かせない多くの有能な人材を育てつつも、安政の大獄で若くして刑死した思想家ですよね。しかし亡くなったのは三十歳だったんです。三十歳なんて「若くして」と言うより、まだまだ子供じゃん…と思ってしまうのは自分の年齢のせいですかね。

 友人の墓前には缶ビールを供えました。今年も元気に過ごしたし、来年もまだまだ頑張らないといけないから、悪いけど当分独りで飲んでいておくれ。


 さあ、明日から新しい年です。忘年会は今日で終わり。明日からは新年会のシーズンでございます。皆様にとっても、良い年になりますように…。
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銭湯

2008-12-30 00:00:11 | 雑記
 実家の風呂が大分古くなってしまって、今日はタイルの張り替え。タイルの間の所(「めじ」っていうんでしたっけ?)のセメントが乾くまで浴室が使えないという事で、近くの銭湯へ。温泉でもスーパー銭湯でもない、町の「おふろやさん」です。実はそういう、いわゆる普通の「銭湯」には、行ったことが無いのです。

 実家から最寄り駅までの途中に昔からある銭湯なので、子供の頃から知ってはいましたが、入るのは初めてです。入口で靴をロッカーに入れて、木製の札を引き抜いて、中に入ると…完全に昭和の世界でした。

 何もかも、昔から変わってないんでしょうね。映画などで見るまんま、「おくりびと」に出てくる銭湯と全く同じです。山形の日帰り温泉施設より、ずっと時代が古い感じです。

 イメージ通りの狭い番台には、どてらを着た愛想の無いおやじが、ひたすらテレビを見ています。鉄製の大きな体重計、小さなケースに冷やされた牛乳、鍵の壊れたロッカー(コインを入れないやつ)など。浴槽の上の壁にはもちろん、タイルの富士山の絵…。

 なかなか気持ちが良いもんですね。初めてだけど懐かしい。特に東京では、ここまで昔のまま今も使われている所は、銭湯以外に無いでしょうね。

 さっきのおやじの仕業とは思えないほど、湯加減は完璧で、心地良くあたたまりました。
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帰省

2008-12-29 00:00:05 | 雑記
 雪が降りまくる山形を後にして、東京へ。

 しかしよく降りますね。ひざまでの長靴が無いとゴミ捨てにも行けません。日中でも氷点下だったりして、道路は雪が固まったこぶこぶだらけ、どこに行くにも大渋滞です。山形市内のこれは何とかならないもんですかね。

 大粒の雪が舞い落ちる中にいると、自分が空に舞い上がって行くような錯覚がして、不思議な感じが好きです。たっぷり積もって、まだ何の跡もついてない雪は、きれいでクリーミーな感じがして、これも好きです。見てるだけなら、雪は風情があって良いのですが…。

 郡山を過ぎた辺りから雪はなくなり、窓の外はしだいに春めいた感じになってきます。穏やかで、苦労も無いが風情も無い、馴れ親しんだ冬です。 

 東京駅に降り立つと…あったかい、というか、ぬるい…。よく冷えてないビールみたいで、鮮度が悪いような感じ…。これが東京らしさですね。良くも悪くも、故郷の風です。でも僕が子供の頃はもうちょっと、キリッとしてたような気がしますけど…。

 大雪で新幹線のダイヤが乱れたせいで、到着したホームは、これから田舎に帰る人でごった返していました。大勢の人の、にぎやかで疲れて少しイライラした感じ…これもまた東京らしさです。良くはないけど、何となく懐かしい。

 まあ、どこの土地にもそれぞれの良さがあるのでしょう。どこへ帰省する人も、それぞれの懐かしさを感じてるんでしょうね。
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仕事おさめ

2008-12-26 15:22:30 | 山形交響楽団
 今年もありがとうございました。乾杯!


 昨日(正確には今日です、性懲りもなく)、飲み屋の外へ出たら、雨が雪に変わっていました。と、思ったら今朝はいきなりの銀世界…。冬らしくなって来ました。

 昨日の「第九」で今年の山響の公演は全て終了。「第九」にしては空席が若干あったものの、今年の飯森&山響の演奏の中では、かなり良い演奏だったのではないかと思いますが、いかがだったでしょう?合唱団も良かったですし。

 今年もいろんな所で演奏しましたし、いろんな事がありました。「たとえば?」と、きかれても出て来ないのは忘年会のし過ぎでしょうか?

 心に残るのは、「今年もたくさんの方々が応援してくれた」という事に尽きます。つまり、良い年だったということですね。来年もよろしくお願いします。

 …ということで、乾杯!(D.C.はじめに戻る)
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サンタ

2008-12-25 01:46:25 | 危機管理
 サンタクロースは夜行性なので、ちょうど今頃さかんに活動している事でしょうね。

 ちなみに僕が幼少の頃に来てくれたサンタは、若干てきとうな性格だったようで、家の最寄り駅の前のおもちゃ屋の名前が入った包み紙でラッピングしてあったのを覚えています。

 今年は我が家の子供達には希望通り、息子にはプラモデルを、娘にはキティーちゃんの携帯(当然電波の届かないやつですが、この年齢でもう携帯を欲しがるとは…)を、持って来てくれる予定になっております。

 もちろん、足がつかないような…いや、心のこもった特製のラッピングがしてあるはずです…。
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フレディ

2008-12-24 15:04:53 | 雑記
 朝日の中の霜です。今年は暖冬なのか、まだ雪が積もらずに朝は霜が降りています。近くでよく見るとなかなかきれいなもんですね。

 さて、フレディと言えば「エルム街の悪夢」ですが、今日はホラー映画の話はやめて、「葉っぱ」の方です。

 昨日、山響のファミリーコンサートで、音楽物語の「葉っぱのフレディ」をやりました。映像もあってわかりやすく楽しめたのではないかと思います。

 それぞれの木の葉は、生えてきて「生まれ」、冬に散ることで「死んで」いくわけです。が、春になればまた新しい葉っぱが生えてきます。そうした小さな命の受け渡しのサイクルが、「木」という大きな命を支えているのだと。まあ簡単に言うとこんな感じのテーマでしょうか。弾きながらなので正確に話を聞き取っていませんが。
 
 ヒトの細胞も同じようなものですよね。古いのが死んで新しいのに代わっていく事で新陳代謝がなされて、我々の健康を支えているわけです。細胞だけを見てみれば、今の身体は、何年か前のとは全然違う細胞達でできているんですもんね。

 「三つ児の魂百までも」…なかなか根性まではリニューアルしにくいものです。新しい年も近いし、精神的にも新陳代謝していけるようにフレッシュな気持ちでいきますか。
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未来都市2

2008-12-23 00:19:32 | 読書
 「死にたければ、特別のカクテルをつくりますよ。ここに一筆書いて、それから飲んで下さい。」
 
 福永武彦の「未来都市」の続きです。自暴自棄の主人公の「僕」はふと立ち寄ったバーで話の流れから、バーテンにこのように言われます。考えることもできない程に疲れ切っている僕はペンを取り、これは僕の意志だ、と署名して、グラスを口に運びます。その時「待て!」という声がしたかと思うと、僕は気を失ってしまいます。

 しかしどうして「僕」はここまで自暴自棄なんでしょう?それは過去の不幸な恋愛体験によるものです。恋愛の中での行き違いや、自分が素直になれなかったせいで、相手を不幸にしてしまったという体験から立ち直れないのです。こういう主人公の話は、文学に欠かせないものです。夏目漱石の「こころ」なども、このバリエーションですよね。普通の人みたいに「過去」としてとか、「若い頃の過ち」として忘れてしまうことができないんです。

 昏睡状態の中での「僕」の回想は大切なシーンなので引用します。

 「僕の中に意識はなおも残っていた。僕は結局、あれを飲んだのだろうか?そして夢のように、意識の上に僕のよく知っている一つの顔が浮かんだ。明るさの中にかすかな憂いを漂わせたその微笑。ローザ。僕は疲れ切って彼女と話していた。

 『もう終わりだよ。最初から終わりなことはわかっていたんだ。それを承知で僕たちの愛が始まったのだから、それは終わるのが当たり前だ。』
 『わたしはいやよ、どうして終わらなければいけないの。わたしはあなたを愛しているし、あなただって…でしょう?』
 『それは僕も愛してはいるさ。しかしあなたには秩序というものがある。あなたはちゃんとした政治家の奥さんで、夫を愛している。その属している世界も、あなたの家庭も、あなたの子供も、愛している。そして僕も愛しているという。そんなものは愛じゃない、ただの飾りだ。』
 『いいえ、ひどいことをおっしゃる。一番大事なのはあなたなのよ。わたしの心の自由だけは、夫にだって子供にだって、手を触れられないのだもの。』
 『あなたは、この恋愛が初めから絶望的だったから、それで僕を愛したのだ。僕だってそうだ。あなたはあなたの秩序を棄てることは出来ないし、僕は僕の孤独を棄てることは出来ない…。』

 そして映像が消え、夜が意識を覆い、それは絶望をよびおこした。アンナ、か細く優しかった泣き顔のアンナ。お前は死んだ、お前は首をくくって死んだ。なぜだったろう…。

 一体僕はあの酒を飲んだのだろうか。もしこれが死とすれば、死とは要するに同じ絶望、同じ悔恨、同じ虚無に過ぎないのではないか…。」

 いかにも福永らしい文章です。自分は大好きなんですけど…引用してるだけでグッときます。「クラい」という批判はよくわかりますけどね。

 しかしここで、主人公は昏睡から呼び覚まされます。

 「あなたは死んではいませんよ。」

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鯉川

2008-12-22 01:26:21 | お酒の話し(山形県)
 昔、「コクがあるけどキレがある」というキャッチコピーの、ビールのCMがありましたね。意味はわかりにくいですが、何となく「両立しにくいものを兼ね備えている」印象を受けます。

 前回の山形Qの定期演奏会の時に、佐藤敏直氏の作品を演奏しましたが、その息子さんがプレゼントしてくれたのが「鯉川」という山形の庄内のお酒です。 

 実は以前、別の佐藤敏直作品を演奏した時も頂きましたので、今回も内心では期待しておりました。かなり美味しかったですから…。

 ちなみにその息子さんは、僕と出身大学が同じなのです。僕のプロフィールを見てそれに気付き、声をかけて下さいました。

 「失礼ですけど、何年の卒業ですか?」
 「〇〇年ですけど」
 「ええっ!そんなに若いんですか…?」
 (そんなに老けて見えますか?…そうですか…そうでしょうね…) 

 さて、純米大吟醸の「鯉川」は、コシヒカリやササニシキの元になった「亀の尾」という昔の米を復元して、100%その米で作られたものだそうです。その特長が出ているのか、米の味がしっかりと感じられる、深い味わいの仕上がりになっています。

 どちらかというと、サラッとしてあまり味がしすぎない酒が好みなので、この「鯉川」は多少しっかりし過ぎる感じがします。特に今年のは、前のよりその傾向が強くなっているように思います。

 しかし、これだけしっかりと米の「コク」があって、べたつかずに変な臭みも無い「キレ」のある酒は珍しいと思います。もっと有名になっても良い銘柄ですね。

 …などと、前の晩にゴキゲンに「ホッピー」なんかを飲んでいた人間に、偉そうに評価されたくないかも知れませんが…。
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暖冬

2008-12-20 00:55:41 | 山形交響楽団
 「♪こ~ぶたっ、た~ぬきっ、き~つねっ、ね~こ♪」という歌を、短調に変えて歌おうとすると、ブラームスの交響曲第3番の第3楽章になってしまう、という事を学生の頃に誰かが得意げに言ってたのを思い出しました。大学生なんてそんなもんです…。

 …という事で、山響の酒田公演が終わりました。シャブリエの「田園組曲」、プーランクの「田園のコンセール」、そしてブラームスの「交響曲3番」というプログラムでした。「第3番」はブラームスの交響曲の中で一番好きです。めったに弾く機会が無いですが。僕が山響に入団してからは初めてですし。

 前半のフランスものも、とても良い曲だと思います。特にプーランクはおしゃれです。知的でしかも美しい感じがいいです。

 工藤氏の指揮は無理を強制する感じが無くて、自然です。それで曲自体の良さを感じやすかったのかも知れません。 

 しかしこの時期の酒田が寒くないのに驚きました。いつも冬の庄内は、雪混じりの強風の中でタバコを吸うイメージがあるのですが。燕尾の上に上着を着なくても平気でした。

 明日は(もう今日ですが)山形公演です。もうひと頑張りですな。
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忘年会

2008-12-19 00:56:32 | 山形交響楽団
 「酒という 文字を見てさえ 嬉しきに
   呑めという人 神か仏か」 (土井晩翠)

 昨日は山響の忘年会でございました。早いですね…一年。あっという間です。去年のビンゴの景品で「くす玉」を貰ったのが、ついこの間のようです。

 山響の演奏会は年内もまだあるのですが、今年一年はいろいろありつつも、昨日の酒と共にきれいに流れて行きました。リセットしてばかりでは困りますが、気持ちを新たにするのは、悪い事ではないと思います。

 平日で、さらに来週の「第九」の合唱のリハーサルとも重なってしまったにもかかわらず、ファンクラブの方々がけっこう参加して下さいました。来て楽しんでくれる人が多くなっているのは、嬉しい事です。

 ちなみに今年のビンゴでは3等賞を頂きました。充電して使える単3電池と充電器です。景品も地球環境に配慮するようになったんですね…。
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シラー

2008-12-17 23:03:06 | 山形弦楽四重奏団
 「愛、愛のみがはじめて  自然の父へと導く」 (シラー)

 さて、次回の山形Qの定期演奏会では、ベートーヴェンの「ラズモフスキー第3番」をとりあげます。やっぱり難しい…。難曲として有名なので、弾く前から身構えてしまっているせいもあるかも知れません。

 でもやはり名曲です。良い曲ですね…特に第2楽章…。そう言えば終楽章は、前回弾いたブラームスの五重奏の終楽章が、この「ラズモフスキー」に影響を受けたと言われてますね。言われてみればわかるような気もしますが、「似ている」わけではありません。やはり「作品」は「作者」そのものを映しますから、全然性格が違うのは当たり前です。

 ところで、ベートーヴェンは文学に関しては、ゲーテとシラーに影響を受けたとよく言われます。ベートーヴェンの作品への理解にはつながらないかも知れませんが(無理にこじつけても良くないでしょうし)、せっかくのご縁ですから、マイナーな方のシラーに少しだけ触れてみます。

 「宇宙は神の思想である」…。シラーの若い頃の文章の中にある言葉です。どういう事でしょう?さっき「作品は作者を映す」と言いました。だとすれば、もし「神がこの世を創った」のが本当なら、この宇宙は神の「作品」なわけですから、全て自然にあるものには、神の「個性」や「思想」や「イメージ」が見てとれるはずだという事ですね。

 神の個性って、どういうものでしょう?やはりそれは「完全である」という事でしょうね。確かに自然の仕組みはよくできています。ひとつの「意志」みたいなものを感じたくなります。

 そしてもちろん、われわれ人間も神が創ったとすれば、「完全性」を持っている事になります。自分自身の完全性は、自分自身に喜びをもたらすはずです。「すべての精神はその完全性によって幸福である」…これもシラーの言葉です。

 ちょっと飛躍があるような気もしますが、シラーは情熱的なので、まだまだ飛躍します。

 自然の中のさまざまなものは、神の完全性を分けて持っているので、それぞれの間には「引力」があるのだと言います。その「引力」が「愛」なのです。愛を持って、自然の全てのものの内に、あらゆる種類の美や偉大さを感じ、それらに大きな統一を見出だす時、人は神に近づくのだと。

 「憎しみの心を抱く時私たちは死んだ群衆だ、
  愛の心で抱擁しあう時私たちは神々だ」

 …熱い人です。ベートーヴェンに通ずるものを感じてしまいます。ベートーヴェンの音楽の「熱さ」も、戦闘的なものではなくて、こういう種類のものかも知れません。シラーには芸術について語った文が、けっこうあります。それはまたの機会に。
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古時計

2008-12-15 01:05:41 | 山形交響楽団
 「♪お~お~きなのっぽの古時計~おじい~さんの~時計~♪」

 山響で参加した、東根の記念コンサート、終わりました。市民の合唱団が頑張って、良いコンサートになったのではないでしょうか。ほぼ満席でしたし。

 「戴冠ミサ」の前には、地元の小学生の合唱で「大きな古時計」も伴奏しました。やはり人気がある歌ですよね。何となく「じ~ん」ときますもんね。

 何年か前にもあらためて流行りましたけど、どうしてなんでしょうね?「おじいさん」と共に百年動いたからでしょうか。

 百年の間に、オギャアと生まれて、きれいな花嫁やってきて、そして天国へ昇って行くという、人生のストーリーが、「今はもう動かない」けど存在している時計からしのばれるからでしょうか。

 この前「ミイラはなぜ魅力的か?」という、極めてマニアックな本を読みました。「ミイラ取りがミイラになる」ということわざがありますけど、昔のヨーロッパではミイラを欲しがる人が本当に多かったようですね。エジプトからミイラを持ち帰ると随分高く売れたそうです。

 「部屋に飾って悠久の時の流れをしのぶ」という目的以外に、粉にして絵の具にしたり、薬にしたり(!)したようです。

 絵の具に関してはミイラの粉が何とも言えない柔らかい茶色を出すことが重宝がられて、「ミイラ褐色」という色名もあるそうです。

 薬に関しては「何にでも効く万能薬」として、貴族達が争って手に入れたらしいです。もっともミイラの粉末は、恐ろしくひどい味で、飲むと長い間吐き気が持続するようですが…。

 「永い時の流れを見続けて来たもの」に、何かしらロマンや神秘的な感じを受けるのは、昔から誰にでもある感情なんでしょうね。

 「自分が死んだらミイラにして保存して欲しい」と思って、そういうサービスをしてくれる会社に高いお金を払って登録する人が、アメリカには現在もいるらしいですよ。

 私には想像もつきませんが…。個人的には「古時計」もおじいさんと一緒に埋葬してあげた方が良かったんじゃないかと思ってます…。
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退官ミサ

2008-12-14 00:09:19 | 山形交響楽団
 金曜日から山響は、日曜日の東根市の記念演奏会のため、モーツァルトの「戴冠ミサ」のリハーサルです。「レクイエム」などと違って、明るく生き生きとした感じが美しい曲です。市民の合唱団も半年前から練習しているとあって、良い雰囲気で頑張っています。

 「戴冠ミサ」は自分にとって思い出のある曲です。大学時代、一般教養の音楽の教授として、皆川達夫先生が来ていました。先生が退官する時に記念として、大学のオーケストラと合唱団で先生自身の指揮で「戴冠ミサ」を演奏したのです。だじゃれにしては大掛かりですが、彼一流のユーモアでしょう。

 先生の講義もユーモアのあるものでした。特にちょっと脱線すると、ユーモアを通り越して、ホラ話っぽくなるのが好きでした。「この間夜道で若い女性を悪者から救った」(しかも得意の空手で)とか…。

 また、先生は偉大な学者です。だから(と言うと変ですが)、指揮の方は少し個性的です(平たく言うとわかりづらい)。

 それで、初合わせの時は大混乱になりましたが、振り終えた先生は一言「わたくしの指揮、わかりますねっ?」と、おっしゃいました。コンサートマスターだった僕はもちろん「はい…」と、うつむいて答えるしかありませんでした。

 しかし先生の人柄もあって、良い演奏会になったことを懐かしく思い出します。今もラジオの「名曲の泉」を聴くと、お元気そうですね。
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未来都市

2008-12-12 14:15:49 | 読書
 この間までダンテの「神曲」を読みました。「悪い心」、特に争いや憎み合いを起こさせるような心が、地獄で厳しく罰せられていました。それを思い起こす事で、人生の道を誤らないようにすべし…と簡単に言うと、こんなところでしょうか。

 しかし例えば、全ての人が「悪い心」を持っていなければ、本当に理想的な世界になるのでしょうか?その世界に音楽などの芸術はあるのでしょうか?あるとすればどんな役割なんでしょう?

 という事で、福永武彦(日本の作家では1~2を争うほど好きです)の「未来都市」という小説を読んでみたいと思います。彼の小説にしては珍しくSFタッチなのですが、多分このテーマにこたえてくれると思います。しばらくお付き合い下さい。

 

 「ある晩、僕はひどく参った気持ちで、薄汚い盛り場を歩いていた。まったくこうして歩いている自分も惨めだったし、行き交う連中もみんな惨めに見えた。陽気におしゃべりをして行く若者達も、物欲しげに街灯の陰に立っている女も、実直そうな会社員や、じだらくな恰好をした遊び人も、みんな生きることの愚劣さを仮面の下に隠していた。」

 …これは重症ですね。主人公の「僕」はとにかくボロボロに絶望しきっています。売れない画家で、これまた絶望的な恋にやぶれて、夜の街をさまよっています。そこでこんな看板を見つけるのです。

 「BAR SUICIDE」

 引き寄せられるように中に入ると、薄暗い店に3~4人の客が、これまた絶望に疲れはてた様子でグラスを傾けています。「忘却を買うために」僕も強い酒を飲み始めると、隣の客に話しかけられます。

 「君も死にたいんだろう?みんな死にたい奴ばかりだ。どうして近頃はこう死にたい奴が多くなったのか。そういう俺だって、何も生きているのが面白いわけじゃない。ただ自殺するには何かしら動機が必要だし、その動機が俺にはまだ見つからないんだ。」

 するとまた別の客が割り込んできます。

 「しかし動機なんて、何の役にも立ちませんよ。現代は死ぬための動機に充満しているんです、そういう時代なんです。問題は、生きるための動機を見つけだすことで、死ぬための動機じゃありません。君はどう思う?」

 きかれて僕は答えます。

 「僕か。僕にとって人生とは悔恨だ。この世は不安と後悔と失望とに充ちている。しかし、死んでしまえは、その悔恨さえないのだからな。」

 すると、彫刻のように黙っていた、人相の悪いバーテンが言うのです。

 「死にたければ、特別のカクテルをつくりますよ。」

 (今日はここまで。写真はルオーの絵です。この小説の後の方に出てくるので。)
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新幹線?

2008-12-10 01:24:58 | 危機管理
 家族で出かける外食で「たまには贅沢するぞっ!」という時は、お気に入りの寿司屋に行きます。山形に来てすぐの頃からずっと通っている店なので、家の子供達が大きくなっていくのを、店の御主人も孫の成長を見るような顔付きで見てくれます。

 子供達には、どこから出してくるのかサービスが一品出てきます。この間はアメリカンドックが出ました…あの、ここ寿司屋ですよね…?

 
 「お気に入りの寿司屋」という存在は自分にとって、きわめて重要なのです。物を買う趣味が無いので、「ここ一番」の贅沢をする時や、どうにも精神的に煮詰まってしまったような時のリフレッシュとして、「よしっ、今日はうまいものでも食べに行こう!」みたいなのが必要なのです。

 なので、山形に来たばかりの頃は、お気に入りを見つけるために、いろんな店に入ってみました。と言っても経済的に虚弱体質なので、日常生活は極端に質素にしましたが。だからハズレた時はガッカリ…。また、そういう店にかぎって高かったりするんですよね。

 そんなこんなでたどり着いたのが今のお店ですが、子供達がガツガツ食べるような年頃になったら、厳しいでしょうね。「廻る」方に引越しかな…。

 そういえばこの間、新しい「廻る」店に独りで入ったら、握る人がいなくて注文の仕方がわからない…。他の客の様子をチラチラ見てみると、頭上の液晶をタッチ。真似してタッチで注文してみると、皿を積載した新幹線が…。おずおずと皿を取って新幹線に黙礼。

 子供にはうけると思いますが、自分独りではちょっと居心地が悪いです…。
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