中爺通信

酒と音楽をこよなく愛します。

来年の抱負

2023-12-24 22:35:00 | 芸術
 郡山でのドラクエ公演終了。天気が良くて、行き帰りも助かりました。

 ところで、この公演の度に思うことでもありますが、ドラクエにまったく思い入れの無い私は、ステージ上の演奏者なのにもかかわらず、軽い疎外感を感じるのです。

 今日も、行く前は「はあ…郡山まで行ってドラクエか」という気持ちもありましたが、演奏し終わってみると、心から感動している客席を見て、逆に私も感動しました。そして、会場の気持ちを共有しきれていない自分が情けなく、残念にさえ思えてくる。

 ドラクエって、どうやら本当に素晴らしいもののようです。これからも続きそうなので、やってみようかなと、本気で思わされる。…この感動の仲間入りがしてみたいので、来年は考えてみます。

 さて今年も、いよいよラスト。明日からの「第九」も頑張ります。
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名女優

2018-01-30 21:30:45 | 芸術
 そういえば、先日の郡山の演奏会では、女優の壇ふみさんが司会を務めました。

 
 壇ふみさんと言えばNHKの「連想ゲーム」ですよね。我が家でもよく見ていました。どちらかと言えば、その前の「坪内キャプテン」の頃の方が馴染みがあります…と言えば、長きにわたって毎週見ていたことがわかっていただけるでしょう。


 実物の壇ふみさんは、相変わらずスラッとして、お綺麗でした。さすがです。

 しかし、私が感動したのは見た目よりも、その朗読でした。マーラーの「第4番」を演奏する前に第4楽章のソプラノの歌詞を朗読したのですが、それが素晴らしい。


 図書館にある、日本文学の朗読のCDが大好きで、全て聴きました。その中でも私が一番好きなのが、太宰治の「きりぎりす」です。その朗読が、壇ふみさんでした。

 売れっ子になったために、若い頃の志を失って俗物になってゆく画家を、妻の視点から糾弾する独白形式の小説ですが、本当に素晴らしい作品です。独白している画家の妻の感性が、涙を誘うほどに純粋でみずみずしい。

 その女性のイメージに、壇ふみさんの声が、喋り方があまりにもぴったりなのです。知的で可愛らしい。、何度も聴くあまり、返してしまうのが惜しくて、期限までに返却できませんでした。

 
 朗読の上手い女優さんはいいですね。考えてみると、昔の女優さんには多かったような気がします。…こんなことを言うのはお爺さんの始まりですが、最近の若い女優さんで、その朗読が聞いてみたいと思う人いますか?綺麗な人はたくさんいても、朗読してもらいたい人はいないような気がしますがどうでしょう。


 「古き佳き」と言うと失礼かもしれませんが、久しぶりに名女優を見ました。


 
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カルメン

2017-09-16 23:59:14 | 芸術
 スクールコンサートのシーズンが続きますが、子供たちの前で、最も演奏する機会の多い曲は何か?

 他のオーケストラはどうかわかりませんが、やはり「ウィリアム・テル序曲」「運命」そして「カルメン」ではないでしょうか。


「頼むから聞きわけてくれ、過ぎ去ったことはいっさい水に流すとまでおれは言ってるんだ。おれがこんなやくざになったのも、おれが泥棒になったのも、人殺しをしたのもみんなあんたのためだと知っているあんたじゃないか。カルメン!おれのカルメン!おれにあんたの命を助けさせてくれ、あんたといっしょにおれの身を助けさせてくれ」

 
 …メリメの「カルメン」より。オペラの原作ですが、本当に素晴らしい。私はオペラよりもずっと大好きです。しかし、オペラ以上に、子供向けとは言い難い。

 子供に触れさせるからと言って、子供だましのものをするのは良くない。昔はアニメなども含めて、そうでした。ウルトラマンも仮面ライダーも、「問題作」が結構あった。しかし、今は違う。苦情が来るのを恐れて、テレビはすっかり毒気を抜かれました。

 せめて、音楽は、芸術はそうでないところを残したいものです。本物に触れさせるとは、そういうことですから。「カルメン」などは、道徳の時間に扱っても絶対に面白いはずです。


「ホセ、あんたが望んでいるそれはできない相談よ。わたしはもうあんたに惚れてはいないんだもの。あんたはまだわたしに惚れておいでたけれど。だからあんたはわたしが殺したくなるのよ。わたしはなんとでも嘘をついて今度もあんたをだますことぐらい造作もないんだけれど、わたしにはもうそれさえする気がないのよ。わたしたち二人のあいだでは、すべてがもう終わってしまったのよ。あんたはわたしのロム(亭主)だから、自分のロミ(女房)を殺す権利があるわ。だけどカルメンはいつだって自由な女よ。ジプシーとして行きてきたカルメンは、ジプシーとして死んでいきたいのよ」


 …ネットや何かで、変な刺激が溢れている昨今。だからこそもう一度、幼いうちにきちんと古典を学んでから、現実に目を向けるべきだと思うのです。
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美術とハエ

2017-05-27 22:05:05 | 芸術
 休日の今日。子供たちは部活やバレエで忙しいので、夫婦で美術館へ。

 山寺にある「後藤美術館」。芭蕉記念館の向かいにある、普通の美術館です。収蔵品は、山形とも奥の細道とも無関係な、西洋絵画が中心です。


 私のような絵に不案内な者でも「おおっ」と感心するのは、光です。重要なものが、まるで本当に光が射しているように明るく見えるやつ。レンブラントほどでなくても、絵の具の色合いだけとは思えないような、光と影がくっきりしている絵には見入ってしまいます。光ってるとしか思えない。今、停電になったら、何も見えなくなってしまうということが信じられない。…ここの美術館には、そういう作品が多くて楽しめました。

 
 音楽に詳しくない人のためのコンサートでは、解説が大事です。もともとクラシック好きな人には邪魔なものでも素人は、作品の意味するものを知ることで、興味もわくし、より深く入ってくる。

 絵も同じです。解説を読んでからもう一度絵を見ると、心に残ります。

 今日、面白かったのは文学とのコラボ作品。シェイクスピアや聖書の一場面を絵にしたものです。私が特に気に入ったのは「デスデモーナ」。言わずと知れた「オセロー」のヒロインですが、美しい女性が涙を浮かべてこちらをじっと見ている絵。顔には血の気がなく、信じてもらえないことに絶望しきっている表情。絵を見ている私がオセローにさせられてしまう。気の弱い私がこんな目で見られたら、
「ごめんっ、疑ったりして!謝るから機嫌なおしてくれないかな…」
などと言ってしまうこと間違いなし。


 また、予想に反して面白いのが「静物画」。台所のテーブルに果物や食材や花瓶が置かれてる、あれです。

「散らかった自宅なんか描いてないで、外にスケッチに行きなさい。無精者が」

と思っていましたが、違うんですね。あれはメタファーなんです。花にも魚にも宗教的な意味がある。特に大事なのは、テーブルの端っこにとまっているハエ。生きてこの絵を見ている私と、メタファーとして固定されている「静かな物」の間をつなぐ者。つまり「これは『たとえ』なんですよ」ということの表現なのです。これは解説されなければわからない。


 …勉強になりました。
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才能に触れる

2015-05-28 22:43:02 | 芸術
 写真の善し悪しなどというものは、ひたすら待ち構えて、いかに決定的な瞬間を目撃できるかだけなのではないかと思っていました。…パパラッチみたいな。あとはカメラの性能ぐらい。良い被写体と道具さえあれば、「ポチッとな」で終わりだと。

 …世の中の写真家のみなさんに深くお詫び申し上げます。本当の写真というものは、絵画にひけをとらない、いや全然別の芸術性があるものなのです。


 ということで、土門拳記念館。ここでは特別展示として、「風貌」という特集をしていました。彼が撮影した文豪たちのポートレート集です。武者小路実篤、井伏鱒二、川端康成から安部公房、三島由紀夫まで。撮影現場での文豪の人となりに関する土門拳の文章が添えてあって、これも面白い。

 はっきり言って、被写体はただの「おじいさんたち」です。それも自宅での普段の姿。顔が良いわけでもなく、オシャレしているわけでもない。ふとメガネを拭いているところとか、ファンの女の子の隣でニヤニヤしているところとか。…こっちが文豪として尊敬してるから許されるものの、何も知らなければ、金を取ってこんなものを見せられたら怒ります。

 しかし、その作風や生涯を知っていると「よくもここまで『らしさ』を写しとれたな」と驚くばかりです。土門拳自身が、文豪の作品とその美意識を理解してそれを表現しなおした、「土門拳の作品」になっています。


 さらには、常設の「古寺巡礼」作品集を見ました。仏像の写真が多いのですが、確信を持って言える…「実物よりもすごい」。これをその寺に行って実際に見たら、「金箔の剥げた仏像」でしかないはず。しかしここまで克明に、その輝きと影、重々しい迫力、その場の静けさを凝縮したものを見せられると、圧倒されてしまいます。

 写真というものは「それを実際に見られない人のための、あるいは繰り返し見たい人のための代用品」だと思っていましたが、全く違う。芸術作品と呼べる、カメラマンの自己表現なんですね。

 写真家には、世界がこんな風に見えているのか、こんなにまでギラギラと見えているのか、と驚くばかりです。これは、他の分野の芸術家も同じですね。結局は、人並外れた敏感な感性を持っているかどうかということなのでしょう。

 音楽家で言えば、普通は聞き流してしまうような音の連なりに、どれほど深く強く心を動かされるかということが、その才能なのだと思います。


 昔、内田光子のドキュメント番組の中で、モーツァルトの魅力について彼女がピアノを弾きながら熱く語っていました。
「ほらっ、ここのフレーズ!ドからミじゃなくて、ドからラに行くのよ!すごいじゃない、わかる?こんなことって…」
…わかりません。そんなに酸っぱそうな顔をされても(失礼)。しかし、彼女が常人には理解できないほどの豊かな感受性を持っているということだけはわかります。

 「才能」というものの正体を、また再認識したように思います。「きちんと感じられる心を、常に磨かなくては」と、気持ちを新たにするのでした。
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お名前はかねがね

2015-05-27 22:22:27 | 芸術
 今週は毎日、スクールコンサートのために酒田へ行っています。本当は宿泊して、日本海の海の幸と庄内の銘酒に酔いしれたいところですが、高速道路が発達した昨今では、県内にのんびり宿泊することなど許されません。

 とはいえ、山形市と庄内ではそれなりの距離があります。それが証拠に、これだけ毎日通っていても
「プロのオーケストラを聴く機会は滅多にない貴重なものです」
というような、生徒代表からの「感謝のことば」を頂くわけです。

 そもそも、山響がこの地に産声を上げてもう43年。毎年毎年、暑い日も寒い日もそこらじゅうで演奏会をしているのにもかかわらず、「初めて聴きました」とか「一生のうちでなかなかある機会ではない」みたいに言われるのを、いつも「水くさいじゃないか!」と思っています。

 しかし…胸に手を当ててよくよく考えてみると、私は山形に住んで17年。県内の音楽以外の芸術スポット、例えば美術館のような所に、どれだけ行ったことがあるのか?有名どころだけでも、全然行ってないのではないか?それでは「山形にいるのに山響を聴いたことがない」人を批判できないのではないか?


 ということで、まずはせっかく酒田へ来ているので本間美術館へ。名前はよ~く存じ上げているのですが、恥ずかしながらノーマーク。駅の近くにあるおしゃれなスポットです。個人の美術館としては、庭園を含め、なかなかの規模ではないかと。

 詳しくない人がテキトーな事をネット上に流すのは良くないので、興味のある方は検索よろしく。素人の感想としては、突然広がる静かな庭園の中にある、しっとりとした「宝物館」です。慌ただしい時間の流れから、ちょっと外れてみたい時に最適の空間ではないでしょうか。


 次は最も気になっていた「土門拳記念館」。山形Qで2度ほど演奏したこともある「酒田市美術館」のほど近くにある広々とした公園の中にあるミュージアムです。

 「土門拳」は酒田市出身の写真家であるということしか知りませんでした。そもそも写真というものに知識も興味も無い私にも、その価値がわかるのか?

 長くなったので、続きはさらに次回。
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美を求めて

2015-05-26 23:00:24 | 芸術
 芸術家のイメージ…服装や身だしなみにこだわらず(要するにちょっときたない)、専門外の事には一切無頓着。しかし「この変人はいったい何なのだろう」と思う間も無く、ひとたび包丁を手にした途端、目つきが変わり神業を見せる料理人など。

…こういうのは憧れます。だからと言って、今の世の中、世界一の天才でもない限り、あまりひどいのは受け入れられない。インターネットで宣伝してもらうためには、身なりもこざっぱりしなければならないし、そこそこ喋れる、つまり専門外の知識とうんちくもある程度持ってないといけない。できればさらに、ルックスとファッションセンスも欲しいところ。肯定的に拡散してもらい、「いいね!」をたくさん付けられないといけないので。

 住みづらい世の中です。「ゼペットじいさん」のような、人知れず魂のこもった仕事をする職人にも憧れるのですが、それではいけないようです。


 さて最近、山形Qの成長株、Vc茂木に奨められて、北大路魯山人のエッセイを読んでいます。漫画「美味しんぼ」の悪役(?)、海原雄山のモデルにもなった、鬼の美食家ですね。

 ところで、高校生の頃、「有名人で言えば誰に似ているか?」というのを友達同士で言い合ったりしたものですが、私が一番多く言われたのが、海原雄山。…これって「有名人」でしょうか?漫画のキャラ、しかも悪役の老人。そして私は高校生。

 当時はショックを受けましたが、白髪が急増している今日この頃、鏡の自分を見て「…わかる。」と思ってしまう。当時の友人たちの慧眼に感心。

 ということで、海原雄山にはひとかたならぬ親近感を持っている私としては、北大路魯山人にも興味があります。


 「料理王国」というエッセイですが、とにかく彼の、妥協を許さない美意識が面白い。私たちがイメージする「芸術家」像そのもの。

 しかしそこで、繰り返し言われているのが、「料理人は料理にだけ通じていれば良いというものではない」ということ。料理は、鼻で味わい、目で味わい、心で味わう、「総合芸術」であるという信念です。

 包丁さばきが上手いだけでは、料理は作れない。素材を選ぶのは当然として、器を選ぶ審美眼から、料理を供する部屋の調度、客が求める「真心」にも思い至らないといけない。とにかく、あらゆる「美」に通じていなければならないのです。

 …私たち音楽家にとっても、考えるべき要素であるような気もします。しかし、美意識は一朝一夕にはならず。

 そこで学校めぐりの合間に、近隣の美術館を巡ってみようと思い立ってみました。素人には「先達」があらまほしいので、美術に造詣の深い2ndVn今井嬢に助力を頼み、いざ出発。

 スクールコンサートは、県内をくまなく移動する、せっかくの機会。少しは美意識を育てることができるのか…続きはまた、次回。
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かわいい偉人

2014-11-16 22:57:36 | 芸術
 だいぶ寒くなって、遠くの山にも雪がかかり始めた今日この頃ですが、なぜか娘が「アイスクリームの歌」を歌っている。…こ存じ山形の作曲家、服部公一氏の「名曲」です。とはいえ、学校で習うにしては、ちょっと季節が違うような…どうしたの?温暖化?

「こんど、はっとり先生が学校に来るんだって。だからみんなで歌うの」
…ふ~ん、何しに来るの?というのも失礼か。 
「そつぎょう生だからだって」

 …なるほど。いろんな分野で有名になった卒業生を呼んで、公演してもらう行事があるのでした。息子も何年か前に「出羽桜酒造」の人が来たって言ってたな。

 母校で、小さな後輩達を前に「ためになる話」を聞かせるというのはどういう気分でしょうかね?まあ、私には縁の無い話です。「おじさんみたいになっちゃダメだぞ」ぐらいしか言えませんな。

 
 服部氏には、山響でも山形Qのコンサートでも、ずいぶんお世話になってます。話し好きな人なので、コンサートでお客さん相手に喋るのは何度も聞いていますが、母校の小学生には、いったいどんな話をするのか?  


 その後、旅行に出ていてすっかり忘れていましたが、昨日、宿題で書いたその日の作文を読んてくれました。

「はっとり先生は、もう八十一歳なのに、ピアノが上手ですごいと思いました」
…やはり。音楽家は弾きますね。子供の注意をひくには、楽器が一番です。しかし、若く見えるけどもうそんな歳だったか。とは言ってもここ何年か、お見かけしていません。

 元気そうだった?

「めっちゃかわいかった!」

…どういうことなのか?

 とりあえず小学生達には好印象だったようなので、他人事ながら安心しました。卒業生の偉人として音楽家が招かれるのは良いことだと思います。
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雨の日は美術館へ

2014-05-02 21:08:01 | 芸術
 この間の雨が降った休日、娘と奥さんと三人で、山形美術館へ行きました。

 晴耕雨読・・・晴れたら野山へ散策に出かけ、雨が降れば美術館で芸術的感性の保養をさせる。まあ言ってみれば、私のような、山形に暮らす文化人としては当然の「たしなみ」でございますな。

・・・というのは大嘘で、山形美術館へ行ったのは、たぶんこれが初めて。美術館というもの自体、山形Qで演奏するために招かれたのを除けば、純粋に鑑賞するために訪れたのは二十年ぶりぐらいです。

 考えてみれば、こういうことを平気で口にするのは破廉恥です。そして身勝手です。「コンサートなんて、もうかれこれ二十年以上、聴きに行ったことないな・・・」とつぶやいている人を見かけたら、「な、なんと野蛮な!」と思うくせに、自分はこのていたらく。・・・悔い改めるべきですね。

 と思いながらも、「なかなかきっかけが」などとグズグズしているところに、なんと大学時代の友人から、特別展のチケットをもらったのです。

 「近代陶芸の巨匠、板谷波山展」。50周年を迎えた山形美術館が力を入れた企画です。陶芸などというものに無縁な私が知るはずもないことですが、ちょうど没後50年の「板谷波山」という人は、陶芸を日本で初めて芸術の域にまで押し上げた第一人者。知らない方が野蛮なほどの「名匠」なのです。・・・友人の血縁にそんなすごい人がいたとは。


 平日だということもあって、人はまばら。というよりも、山形美術館はスペースの使い方が贅沢なのでそう感じるのかも知れません。

 正直なことを言えば、「陶芸」ということで、あまり気がすすまなかった。芸術というものは、深ければ深いほど、予備知識がゼロでは楽しめないことがある。生まれてこのかた、まじまじと壷を見たことなどない人間が行く意義があるのか・・・と。

 しかし最初の部屋で、その心配は無用だったことがわかりました。貝殻の内側のような光沢の内側に、薄くしかし色彩豊かに、紫陽花や金魚などがゆらめいている。「壷の模様や形」などという域をはるかに超えて、絵画と彫刻を合わせたような独自のジャンルなのだということが、初めてわかりました。

 釉薬の奇跡的な作用なのか、夕焼けの空に現れた星が鼓動を始めたような、凄まじい模様の作品もありました。この世に起こる一瞬の神秘が、そのまま壷に閉じこめられたようでした。絵でも彫刻でも、本当にすごい作品は、見る者の時間の感覚を奪いますね。どのぐらいの時間、それを見ていたのかが知覚できない。


 とにかく素人にも、いや私のような門外漢にこそ「一見の価値がある」展示でした。常設展も良かったし・・・これからはちょくちょく行こうと思います。
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