ブログ 「ごまめの歯軋り」

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読書ノート マックス・ウエーバー著 「職業としての学問」 岩波文庫

2013年02月25日 | 書評
ドイツの若者に学問の意義、大学人の職業倫理を説く 第3回 最終回

2) 学者・研究者の心構え
 学問を職業とする者の心構えを説く上で、先ず学問がかなり専門化の過程になっており、自己の専門に閉じこもる事を覚悟しなければならない。専門分野において後に残るような仕事を達成したという喜びに満足することである。いろいろな体験を重視する人は学問には縁のない人である。専念する情熱の中でこそ学問上のインスピレーションを得ることが出来る。弛まぬ作業と情熱が新たな発見を生むのである。「個性」と「体験」は偶像に過ぎない。学問の世界で「個性」を持つとは、その結果である仕事のことである。滅私専念する人こそかえって仕事の価値を高める。学問上はいずれは打ち破られ、時代遅れになる業績を達成することである。学問に裏付けられた技術による主知的合理化とは魔法からの世界解放を目指してきた。それでもトルストイの「人間はいかに生きるべきか」いう問いには答えられないのである。それは人間生活一般に対する学問の職分(限界)を意味し、その価値はどこにあるのかという問題である。

3) 学問の職分
 プラトンの「国家篇」の影の比喩は、学問認識一般に通用する「概念」の発見を意味した。ソクラテスはその意義を最初に自覚した人であった。ギリシャ時代からルネッサンスに至って学問研究の飛躍的進歩は「合理的実験」で成し遂げられた。こうして精密な自然科学が成立した。これはべつに「神の道」への過程ではなくそれとは無関係である。学問の意義は学問の職分と密接に絡んでいる。学問は「知るに価する何かがある」という前提から始まる。学問を自分の天職とする人は「学問それ自体」知るに価すると考えるだろう。近代医学の前提は生きるに価するかどうかではなく、死を避けるにはどうするかに徹する。自然科学は前提を考えやすいが、社会科学という学問は問題が多い。教室では先ず政策を取り上げてはいけない。事実の認定、論理的な関係、及び内部構造のいかんという学問方向と、文化的価値、共同体や政治団体のなかでどう行動すべきかに答えることは全然異質の事である。預言者やアジテータは教室の演壇に立つべきではない。黙って聞く立場の学生に政治的見解を押し付けてはいけない。それは批判が可能な世間に出てやるべきことである。今日世界に存在する価値秩序はたがいに解きがたい対立のなかにあり、個々の立場を学問上支持することは無意味なことである。多神教か唯一神教かを争うようなものである。学問はおよそいかなる人生問題においても指導者たるべきことは許されていない。学問の職分は明確さと、専門的であるべき職業として事実関係の自覚と認識を役目とすべきである。
(完)


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