ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 広河隆一著 「福島 原発と人々」 岩波新書

2011年09月14日 | 書評
福島第1原発事故はチェルノブイリ級、日本政府のいう事を信じてはいけない 第12回

2)事故の隠蔽と拡がる放射能被害 (5)

 4月16日文部科学省は福島県の学校の校庭・校舎を使用する際の暫定基準を「年間20ミリシーベルト(毎時3.8マイクロシーベルト)」とする通達を出した。これまでの基準は年間1ミリシーベルトであったのだから、根拠もなしにいきなり20倍にするにするのは恣意的(現状追認)といわれてもしかなない。福島県放射線健康リスク管理アドバイザーの山下俊一長崎大学教授は講演会で「年間100ミリシーベルトでも大丈夫、私は国の決定に従うだけです」と発言して問題となり、しだいに「大丈夫」から「わからない」に変わったという。4月29日内閣参与の小佐古敏荘東大教授はこの基準を上げることに抗議して参与を辞任した。校庭での部活活動には親の同意を求めている。障害が出たときに親の責任にするためである。福島市では学校の放射線量が3マイクロシーベルト/hを超えたという。4月末までに福島氏の小中高校生の内約1万人が圏外に転校した。教育委員会に20ミリシーベルト/年について何度問い合わせても「分らない」の返事であった。校長は「国の方針は守らなくてはいけない」といい、子供は守らなくても国の方針は守るという官僚根性むき出しに態度を示す人もいた。「子どもを放射能から守る福島県ネットワーク」は自主的に県内の学校の放射線測定を行い、文部科学省と保安院にゆき測定値を示したらびっくりしたという。そして5月27日保護者の声に押されるようにして「基準値は変えないが、1ミリシーベルト以下に抑える事を目指す」と発表した。根拠もなしに出した暫定基準なのだから撤回すればいいものを、一度出したら変えられないという官僚根性で実質変更を約束したのは保護者の運動の成果といえる。子供達は部活などで仲間はずれにならないように無理をしてでも校庭に出ている。そして避難すると「裏切り者」という非難を受けるという。原発が子供達を「差別」の罠に嵌めているようだ。
(つづく)

環境書評 西岡秀三著 「低炭素社会のデザインーゼロ排出は可能か」 岩波新書

2011年09月14日 | 書評
日本低炭素社会 脱石油・脱原発のシナリオ 第1回

 日本では1960-1970年代の産業活動による公害問題は高度経済成長時期特有の現象であり、経済成長が飽和しグローバル化すると地球規模の環境問題がクローズアップされてきた。1972年ローマクラブの「成長の限界」が発表されてからは「持続可能な成長」が意識されるようになり、右上がり経済成長論から「現代マルサス理論」が復活した。石油資源の枯渇は大昔から議論されていたが、この時期はまだ石油は十分に安かった(バレル数ドル)が、中東戦争・湾岸戦争を経て1990年代には石油枯渇問題は喫緊の政治的課題となりつつあった。そういう意味で地球環境問題とはすなわちエネルギー・資源問題に等しく、先進国がエネルギー・資源を優先して利用できる時代は過ぎ去りつつある。大きな文明的・政治的文脈において、エネルギー・資源は有限であると云う事を世界的に知らしめるために、地球温暖化問題が創造された嫌いがある。放置しておけば石油がなくなり、化石炭素による地球温暖化問題も自然消滅するはずであるが、地球温暖化の問題は1992年のリオ地球サミットにおいて「気候変動枠組み条約」が採択されてから急に現実味を増した世界的課題に躍り出た。その動きを決定づけたのは1997年のCOP3「京都議定書」の締結である。この議定書に最大の石油消費国である米国と中国が不参加なのは、自分の手を縛られたくないのとこの議定書の茶番を見抜いているからであろう。文明国の精神的運動として地球温暖化防止枠組み機構が創設されたのである。地球温暖化問題が嘘だという議論は多い。例えば丸山茂徳著「科学者の9割は地球温暖化炭酸ガス犯人説は嘘だと知っている」(宝島晋書)、武田邦彦著「環境問題はなぜウソがまかり通るのか 1,2」(羊泉社)などが代表的である。一方経済学者や政策論者は炭酸ガス地球温暖化説に立って社会変革の道を説いている。例えば天野明弘著 「排出取引」(中公新書)、佐和隆光著「グリーン資本主義」(岩波新書)、小宮山宏著「地球持続の技術」(岩波新書)、諸富徹著「低炭素経済への道」などがある。
(つづく)

読書ノート 竹内 啓著 「偶然とは何かーその積極的意味」 岩波新書

2011年09月14日 | 書評
生物進化や人間の歴史のおける偶然の積極的意味とは 第3回

1) 確率の意味 (1)

偶然性には定量的に確かさを予測し、それを数量的に表現したのが確率論である。賭けゲーム理論がフェルマー、パスカル、ベルヌーイらによって17世紀に数学的に整備された。それはニュートン力学が数学的に体系されたのとほぼ平行している。さいころの目から組み合わせ確率論(2項定理)が生まれた。さいころを多数回振って、1から6までの目が出る回数はほぼ等しいとするのが「客観的確率論」で、さいころを振ったときどの目がでるかは1から6まで同じ程度であるというのが「主観的確率論」である。結果を見た後の論か、行為に出る前の論の違いである。コルモゴロフは確率を集合論的に定義し、有限個の事象wiの関数(0から1まで)とし、重ならない事象の全体の確率の和は1とする。事象が独立ならば同時に起きる確率はそれらの積となる。上のさいころの例では1の目が出る確率は1/6という。2項定理の計算から、独立に同じ試行を多数回繰り返すと、その値の平均値は,ほぼその期待値の近くに来る。これを「大数の法則」という。2項分布を滑らかな曲線で表現したものは正規分布曲線であり、中心極限定理という。中心値は期待値であり、試行結果はあるばらつき(分散σ)内に収まる。その曲線はいわゆる釣鐘状である。試行回数nを増やすと釣鐘は期待値を中心とした鋭いピークとなり、分散幅は狭くなる。この大数の法則でゆくと、「賭け事を続ける人は必ず破産する」ことになる。参考までに、相次ぐ事象が互いに独立では無い場合、すなわち試行結果が次の試行に影響する場合には、続けて行なうと事象は片寄ってしまうのである。
(つづく)

筑波子 月次絶句集 「沙洲白茅」

2011年09月14日 | 漢詩・自由詩
沙洲茫漠白茅花     沙洲茫漠 白茅の花
 
対岸高楼隔暮霞     対岸高楼 暮霞を隔つ

社樹残蝉随葉墜     社樹残蝉 葉に随って墜ち

江村夕日趨雲斜     江村夕日 雲を趨て斜めなり


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(韻:六麻 七言絶句平起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)