ブログ 「ごまめの歯軋り」

読書子のための、政治・経済・社会・文化・科学・生命の議論の場

読書ノート 富永茂樹著 「トクヴィルー現代へのまなざし」 岩波新書

2011年09月23日 | 書評
フランス革命時の民主思想の憂鬱とは 第6回

 トクヴィルに直接的な影響を及ぼしたのは、両親の体験したフランス革命とその後の歴史である。民主制デモクラシーと貴族制アリストクラシーのどちらにも適切な距離をおいてながめ、過去と未来の間で均衡をとっているのがトクヴィルの視点である。晩年の「アンシャンレジームとフランス革命」の冒頭で、フランス革命を遠くで感じることも、参加した人の情念を近くで感じることも出来るといっている。トクヴィルの革命に対する距離のとり方は「アメリカのデモクラシー」への視線と相通じるものがある。「アメリカのデモクラシー」の出版で成功したトクヴィルは1839年下院議員に当選し政治家の道を歩む。こうして政治と現実と深い関係を持ったが、1830年7月革命後の立憲君主制は必ずしも安定しなかった。工業化とブルジョワジーの支配が明確になって、1848年2月革命によって王制は打破され、トクヴィルは新憲法の制定作業に関わり、1849年には大統領ルイ・ナポレオンのもとで短期間であるが外務大臣に就任した。1851年ルイ・ナポレオンがクーデターによって第二帝政を開始すると、トクヴィルは逮捕され、釈放後は政界を離れて著述業に専念することになった。その結果1856年に「アンシャンレジームとフランス革命」が執筆された。フランスの現実は何回も革命を起こしながら,なぜいつも帝政に戻るのか。ひょっとすると民主制と帝政はどこかで通じているのだろうかという疑問が湧くのである。「民主的な専制」という主題がいつもトクヴィルの頭の中にあった。平等と民主化が進むにつれ、民衆はより専制に支配されやすくなってきたという現象を発見したのである。フランス革命が帝政につながり、デモクラシーから専制が生まれるプロセスを考察するのが、「アンシャンレジームとフランス革命」執筆の目的であった。アンシャンレジーム期の社会とはトクヴィルによると、絶対君主制のもとで中央集権化と平等化が極度に進行した社会であった。アンシャンレジームとフランス革命は断続するのではなく、連続するのである。その結果ナポレオンの登場を促す契機となった。フランスにおいて社会の平準化を進めたのはほかならぬ中央集権絶対君主であった。
(つづく)

環境書評 西岡秀三著 「低炭素社会のデザインーゼロ排出は可能か」 岩波新書

2011年09月23日 | 書評
日本低炭素社会 脱石油・脱原発のシナリオ 第10回

3)地域・企業・住民はどう変わるか (2)

 日本の産業は1990年以来製造業主体から大きくサービス産業主体に変わった。付加価値の高い高度知識産業への転換を余儀なくされた。この傾向は低炭素社会を進める大きな要因である。これまでの重厚長大の公共事業の推進で、日本列島には12億トンの鉄鋼が埋められた。これからは鉄鋼の需要は中国へ移動するだろう。高い技術水準の自動車用鋼板などの輸出で外貨を稼いでいる。高炉は一度設備すると、融通の利かない原発のような設備で、20年間は休みなく動かさなければならないし、海外移転も容易ではない。韓国の追い上げも厳しい。エネルギーの電化シフトが進み、エネルギーと情報が一体となった総合エネルギー調整機構が誕生するだろう。企業はこの新しい時代にそって大変革を遂げなければならない。企業は自社のエネルギー使用量を削減し、かつ製品・サービスを通じて低炭素社会に貢献することである(環境適合製品の開発)。そして思い切った業際部門へ進出することである。自動車会社が公共交通へ乗り出したり、不動産会社が省エネルギービル設計管理運営へ乗り出し、企業で進めてきた自家発電(コジェネ)をさらに進めて、電力を売る需給一体のエネルギー運営に乗り出すことなどである。スマートグリッドにソフト会社グーグル、IBM,マイクロソフト、楽天、ソフトバンクなどが参入することも期待されている。これまで日本の電力会社は拡大路線を押し進め、半公共的会社でありながらエネルギーの多消費傾向を煽ってきたきらいがあった。そのために原発を推進してきたのである。23%の原発発電シェアーを放棄しても日本のエネルギー事情は逼迫しない。これまで大過剰に供給してきたからである。商店の24時間営業をやめればいい。放送テレビの24時間放映をやめればいい。家庭で24時間エアコン使用をやめればいい。23%の電力節減は容易である。大震災と福島第1原発事故以来、原発に頼らないエネルギー社会に移行することが国民の共通認識となった。原発事故は低炭素社会へアクセルをかけるように働いた。原発発電は最初から国営産業のように、核廃棄物処理を考えず、立地交付金や事故災害補償を免除されている。つまり経済外要因が多すぎるのである。これで原発の発電コストが安いといっても意味がない。
(つづく)

文芸散歩  池田亀鑑校訂 「枕草子」 岩波文庫

2011年09月23日 | 書評
藤原道隆と中宮定子の全盛時代を回想する清少納言 第2回

清少納言と枕草子 (2)

 そして道隆ー伊周-中宮定子らの派閥と道長ー皇太后詮子ー中宮彰子らの派閥の抗争が続く中で、「枕草子」の作者清少納言は中宮定子に仕え、「源氏物語」の作者紫式部は中宮彰子に仕えるのである。従って清少納言は紫式部に猛烈なライバル意識を持ち、紫式部は清少納言を「嫌な女」と嘲笑するのである。別に私はどちらの派閥の肩を持つわけでもないが、権力闘争が道長の権力掌握で決着が付いた後、中宮定子がなくなったので宮中から追い出された清少納言が中宮定子への哀悼の気持ちをこめて、「枕草子」を書いた。藤原道隆と中宮定子の全盛時代の回顧録である。文学のジャンルとしては「枕草子」は随筆として、「方丈記」、「徒然草」と並ぶ三大随筆のひとつに位置する。一方「源氏物語」は幼かった中宮彰子の教育のために書かれた創作小説である。道長は彰子の教育のために最初清少納言を取り込もうとしたようだが、肉体関係を持って紫式部に乗り換えたようである。そのため中宮定子付き女房からは清少納言はスパイと疑われて苦悩した。そのことを「枕草子」に書いている。作者清少納言は清原姓の末で歌人深養父を曽祖父とする。深養父は従5位下で終った卑官の身分であった。父元輔は980年従5位上、肥後の守となり83歳で亡くなった。後撰集時代の歌壇で重きをなした。一族には儒家をなす者が多く清少納言の漢文の素養が深いのもここからきている。清少納言は晩年尼となって兄の家に起居したようだ。清少納言は若い頃橘則光と結婚し3人の男の子を生んだ。遠江守となった則光と別れて、歌人藤原実方と結婚した。実方は左中将となり陸奥の守となって転出した。皇后定子の没後、清少納言は老齢の摂津の守藤原棟世の妻となって娘をもうけたが、棟世の死後尼となって余生を送った。中宮定子に仕えたのは993年からで、1000年に定子が24歳で第2皇女の出産後になくなった頃までのことである。清少納言30歳から37歳ごろまで中宮定子に仕えて、その寵を得て「枕草子」が生まれたのである。清少納言の名は清原の「清」と父兄の官名であった少納言による。当時の女性には最高クラスの子女を除き名前はなかったので「・・・・の女」と呼ばれた。「枕草子」は盛時における中宮を中心とする主家(道隆家)への讃美と、高貴な人定子への信愛とに貫かれている。けっして道長派への怨みつらみや不平は明らかにしていない。華やかな思い出だけを記述している。
(つづく)

筑波子 月次絶句集 「江村風景」

2011年09月23日 | 漢詩・自由詩
帰雁急先高又低     帰雁先を急ぎ 高又低に

農夫刈稲晩煙迷     農夫稲を刈り 晩煙に迷う

白花蕎麦猶葱翠     白花の蕎麦 猶を葱翠

黄葉梧桐已惨悽     黄葉の梧桐 已に惨悽


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(韻:八斉 七言絶句仄起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)