ブログ 「ごまめの歯軋り」

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「ノーモア広島からノーモア福島」 原水禁大会反原発運動へ

2011年08月01日 | 時事問題
asahi.com 2011年7月31日21時35分
福島で原水禁世界大会開催 原発立地県で初
 広島、長崎の「原爆の日」を前に、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)などが31日、福島市で世界大会を開いた。東京電力福島第一原発の事故を受け、原発立地県で初めての開催。800人を超える参加者があり、「脱原発」を前面に打ち出した。
 「私の運動への熱意は核兵器廃絶に偏りがちだった。反原発への取り組みが弱かった」。長崎の被爆者、川野浩一議長は冒頭のあいさつで反省を述べた。その上で「この原発事故を最後にしましょう。『ノーモア・フクシマ』と叫びましょう」と呼びかけた。

最近の原水禁大会も下火になったようだ。昔は数万人が参加したのだが。反原発で再結集!

読書ノート 室田 武著 「原発の経済学」 朝日文庫

2011年08月01日 | 書評
高コスト、石油を多消費し、核兵器並みの危険性を持つ原発 第3回

1) 原子力利用と原発 (2)

 イタリアの物理学者フェルミはアメリカに亡命して、シカゴ大学冶金研究所に移って、「原始パイル CP-1」(フェルミ炉)の指導者となった。1942年12月アメリカのシカゴ大学ヤンパスの一隅で、6メータ四方の黒鉛レンガの「原始パイル CP-1」(340トン)が組み立てられ、レンガのいくつかには中に球形の金属ウラン(36トン)が埋め込まれ、外側から挿入できるカドミウム制御棒が入れてあった。ウランは天然ウランでウラン238が約99.3%、ウラン235が約0.7%であった。この実験の主役はカドミウムの制御棒を次々と引き抜いてゆくジョージ・ワイルと、計数管の針を追うフェルミであった。中性子密度がゆっくりと上昇し臨界が達成された。この実験原子炉の出力は数百Wで冷却法は空冷であった。黒鉛は中性子の運動を減速しウラン235に当たる確率を高める役目をする。1986年のソ連のウクライナで起きたチェルノブイリ原発4号炉が核開発の世界史上最悪の事故を引き起こした。チェルノブイリとシカゴパイルの方法や材料はそれほど違わない。制御棒の材質がホウ素カーバイドになっており、ウラン235は2%に高めた低濃縮ウランであった点だけである。しかし決定的に違ったのは熱出力である。シカゴCP-1は200W、チェルノブイリの場合320万kwの熱出力(電気出力100万kw)であった。チェルノブイリ事故の原因は、タービン慣性回転の効果を調べるため、低出力運転試験をした結果、核反応が異常に増進させ一気に核爆発に進んだものと考えられている。

 日本で運転されている原発は殆どが「軽水炉 LWR」(重水に対して、普通の水のこと)で、燃料棒と制御棒を水に浸漬するタイプである。シカゴ大学のパイル実験では黒鉛で中性子を減速したが、水にも中性子を減速する性質を持っている。「軽水炉 LWR」は大別して「沸騰水型軽水炉 BWR」と「加圧水型軽水炉 PWR」の二つがある。福島第1原発事故以来4ヶ月、毎日テレビでは保安院が説明に使う「沸騰水型軽水炉 BWR」の絵が出ない日は無いといってもいいくらい、構造図は理解できたかどうかは別にして、この絵は人々の脳裏に焼きついているはずだ。原子炉の圧力容器内で300度くらいの高温高圧蒸気を発生させ、これをパイプでタービンに吹き付けてダイナモを回転させるものである。タービンを回したあとの水蒸気は大量の海水で冷却し水に戻して(復水)してポンプで圧力容器に戻すのである。これに対して「加圧水型軽水炉 PWR」では、さらに圧力容器内の圧力を高めて蒸気発生器におくり、1次側の熱水を細い多数の熱交換パイプで伝熱し、2次側の水を加熱して水蒸気を発生させる。1次冷却、2次冷却材もともに水である。2次側の蒸気がタービンを回して発電し、海水で冷やされて水に戻り蒸気発生器に送られることはBWRと同じである。PWRの特徴は熱交換方式で2重の冷却材方式であるため、通常の運転では放射能を含んだ水はタービン発電システム側に循環しないという安全なシステムである。ところが熱交換パイプの溶接部に亀裂が入ったりすると放射能漏れ事故となる。ごく稀な例であるが英国では冷却材としてガスを使う「ガス冷却炉 GCR」が存在し、「コールダーホール型」と呼ばれている。1次冷却ガスには炭酸ガスやヘリウムが使われ、このガスの熱が蒸気発生室の熱交換器を介して水蒸気を発生させタービンに導かれる。つぎに「高速増殖炉 FBR」の場合、炉心内の1次冷却材は金属ナトリウム液体であり、中間熱交換器で2次側の液体ナトリウムを加熱する。この2次冷却材の液体ナトリウムが蒸気発生室に導かれて水を加熱して水蒸気を発生させる。水蒸気がタービン室で発電するのはすべての発電システムで同じである。
(つづく)

読書ノート 朱建栄著 「毛沢東の朝鮮戦争」 岩波現代文庫 

2011年08月01日 | 書評
中国義勇軍が鴨緑江を越えるまで  第12回

6)1950年10月5日ー12日 毛沢東の出兵と中止の狭間

 10月5日午後の拡大政治局会議ののち、毛沢東は周恩来、彭徳懐、高崗を呼んで指示を出した。
①彭徳懐、高崗は藩陽に帰り東北辺防軍の準備完了に全力を尽くす、
②義勇軍支援は当面東北政府が負う。高崗がその最高責任者である、
③この決定を金日成に通告する、
④中国の朝鮮出動は10月15日とする、
⑤周恩来はソ連を訪問し、支援と武器購入についてスターリンと協議するというものであった。
 同日夜毛沢東は第19集団軍に12月5日までの第3次軍事出動令を発した。10月6日周恩来は軍事拡大会議を開催し、義勇軍の軍事戦術、幹部人事などを討議した。10月7日国連総会は、朝鮮新政府樹立に向けての選挙実施と金日成に対して降伏勧告を出した。10月8日毛沢東は「中国義勇軍の設立に関する命令書」を出した。同日周恩来、林彭一行はモスクワに向かった。10月8日中国はソ連大使館を通じて参戦決定を伝えた。参戦日時は明らかにせず、周恩来らが少しでもソ連からの援助を引き出す駆け引きであったようだ。毛沢東は金日成に電報を打ち、平壌大使館の倪大使と紫成文参事官が電報を金日成に届けた。10月9日彭徳懐と高崗は藩陽で義勇軍の幹部会を開いたが、前線の幹部のなかから(林彭の影響下のある)義勇軍出撃における空軍の支援状況を問いただす意見が噴出し、彭徳懐と高崗は連名で毛沢東に電報を打った。これが参戦問題を巡る論争の再燃となった。10月10日彭徳懐は国境の町安東に到着し、鴨緑江の渡河地点を視察した。彭徳懐と高崗は徳川で金日成と打ち合わせをするため毛沢東に電報を打ったが、毛は11日朝1時の電報で「待て」という指示を出した。その前に周恩来とスターリンの連名で「ソ連空軍は中国義勇軍作戦支援のための朝鮮への出動は出来ない」という電報が来ていたのである。ソ連は朝鮮において前線に立たないという大国エゴイズムであり、ソ連から参戦を促された毛沢東としては当然ソ連が空軍支援ぐらいはしてくれるだろうという期待が踏みにじられた。そこで毛沢東は動揺したのである。10月11日毛沢東は彭徳懐に「高射砲連隊を前線に移動するが、空軍は出動不可能である」という連絡をした。中国空軍はまだ存在しないのも同然で、全面的にソ連の空軍力に期待していた毛沢東としては動揺したようだ。これに彭徳懐は援護無しの突撃は死ねというのかと激怒したという。これがのちの廬山会議における彭徳懐の失脚の遠因になったという人も居る。10月12日毛沢東は彭徳懐に出兵中止命令を出した。ソ連の空軍援護拒否のショックは大きく、前線指揮官の反対が意外に強かったので、ついに毛沢東は軍の出動を一時ペンディングにし、再度北京で政治局会議を開くことに決めた。
(つづく)

筑波子 月次絶句集 「釣舟泛湖」

2011年08月01日 | 漢詩・自由詩
山光燦燦水迢迢     山光燦燦と 水は迢迢たり

湖上鱗鱗魚子跳     湖上鱗鱗と 魚子跳る 

橋畔洲叢禽再宿     橋畔の洲叢に 禽再び宿り

風回一鏡葉旋飄     風は一鏡を回りて 葉旋て飄る


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(韻:二蕭 七言絶句平起式  平音は○、仄音は●、韻は◎)
(平仄規則は2・4不同、2・6対、1・3・5不論、4字目孤平不許、下三連不許、同字相侵)