佐渡の翼

佐渡の観光名所紹介、佐渡の宿泊施設の宿泊記、佐渡の全飲食店と東京都内高級レストランの食べ歩記、ヨーロッパ及び国内旅行記事

i8ロードスターのPR動画を記事の最後尾に貼り付けました

動画に登場するi8ロードスターと全く同じ車体カラー、ホイール、内装、の右ハンドル車が、8月6日に千葉港へ到着し、通関手続きが完了いたしました。そして、新車整備、車両登録も完了し、9月2日に無事納車されました。従いまして、日本上陸第一号となったi8ロードスターの全貌を、9月6日に当ブログ上で公開いたしました。9月18日には、Keiyo BMW千葉北支店のフェイスブック(https://www.facebook.com/keiyo.bmw.chibakita/)でも紹介されました。このフェイスブックには、スマートキーをリモコン代わりに使用して、i8ロードスターの屋根を開閉する動画も掲載されています。更に、7月6日に発売されたホンダS660のcomplete modelである、ModuloXは、9月23日に無事納車となりました。 2018年9月24日現在

i8ロードスターPR動画

https://twitter.com/i/status/988688999794409472

妙満寺(佐渡市畑野)    投稿者:とある旅人

2010年11月30日 06時00分01秒 | 佐渡及び首都圏近辺の面白観光スポット

旧畑野町に新潟交通の畑野のバス停がある。その交差点を北上すると、やがて右手に妙満寺が見えてくる。日蓮の高弟が開祖した寺のようだが、「かくれた佐渡の史跡」という本に、ここに女流詩人の墓があると書いてあったので訪ねてみようと思いたった。その女流詩人の名は「長島青雀」という。27歳でこの世を去った薄命の女史である。彼女は畑野目黒町の庄屋の娘として生まれた。隣の集落の医者に漢詩の手ほどきを受けた後に江戸へ行き、梁川星巌に教えを請うた。元々病弱だったため長期間江戸には滞在できずほどなくして佐渡へ戻った。そして16歳で松ヶ崎の富豪の息子の元に嫁いだ。彼女の詩集は残ってはいないが、梁川星巌の詩集に発表した漢詩の中の数編が中国の有名な詩集に転載された。これで彼女の文才は一躍佐渡じゅうに知れ渡る事となった。女性の地位が低い時代の佐渡で開花した若き女流詩人の才能!世が世ならば、「天賦の才を持つ薄命の女流詩人が佐渡にいた」などとメデイアでもてはやされたかもしれないだろうに。。。

私はこの寺を訪ね、その女流詩人の墓を必死で探しまくったがついぞ見つからない。生憎お寺の住職も不在でその場所を聞く術がなかった。「かくれた佐渡の史跡」に掲載されたこのお寺の本堂の写真の屋根は茅葺きだが私が訪ねた時のそれは瓦屋根で比較的最近になって建てられたように思われた。山門前の「南無妙法蓮華経」の石碑の位置が山門の右側に微妙に移動しているのを見ると、本堂建て替えの際に、女流詩人の墓は撤去されたのかもしれない。

女流詩人の墓、それを訪ねる前は大いにロマンをかきたててくれたのだが、残念な結末となった妙満寺だった。

いせや新館のおやじさんとの会話     投稿者:佐渡の翼

2010年11月29日 06時00分23秒 | 佐渡のお宿評価
8月2日、筆者は佐和田のいせや新館に宿泊した。実はここに宿泊するのはこれで三度目である。午後5時頃に宿に到着した。まだお部屋のエアコンが作動しておらず、部屋は蒸し風呂状態だった。そこでエアコンの風量を最大にし、かつ温度を20度に設定し、がんがんに部屋を冷やしにかかった。この旅館のほとんどの客はビジネス客だ。部屋にはWAK・WAKというプロバイダー経由でインターネットに接続できる環境が整っていたが、ウイルス対策が不充分なのでセキュリテイソフトなどをインストールしてから自己責任でネットに接続するようにとの注意書きが置かれていた。勿論、ネット接続可能なモバイルPC持参の筆者には無用の長物なのだが。。。この日は、お目当ての佐和田のスナックはどこも休業しており、急遽パワーズフジミでカクテルパートナーを買い込みお部屋で一人寂しくお酒を煽りながら就寝した。

翌朝の朝食(画像)はいつもながら簡素な内容だったが、味はいずれも美味しかった。チェックアウトを済ませると筆者はいせや新館のおやじさんに「この辺で手洗い洗車をやってくれるとこってありますかねえ~?」と尋ねてみた。するとご主人は「手洗いねえ~、機械ならありますが、手洗いとなると、いつも、じゃあご自分でどうぞという話になりますので手洗い洗車って頼んだ事がないんですよ」と意外な返事をした。いせや新館のおやじさんはBMWのオープンカーのオーナーだ、当然手洗い洗車のガソリンスタンドなどは即座に教えてもらえるものと思ったからだ。筆者が「東京では手洗い洗車は当たり前で、それに愛車のコーテイングは半年に一度行っている」と言うとおやじさんは「へえ~、そんなに高頻度におやりになるんですか」とびっくりしたような表情で言った。そして筆者の愛車の所まで付いてきて、後部座席に向かい、ドアの幅分広げた両手を上下させながら、「この辺の形がいいですよねえ~」と惚れ惚れしたような表情で言った。おやじさんの燃費は?の問いには「高速で7~8キロ、街中なら3~4キロがせいぜいです」と答えた。排気量を質問されたので、車検証を見せながら「5379ml」と記載された箇所を指差すと「5千越えてるのかあ~」と感嘆したような声でつぶやいた。そして「ロングノーズなので駐車場ではいつも鼻先が飛び出るんですよ(車の長さは5125mm)」と言うと、「ああ、同じような事を7シリーズの女性オーナーも言っていましたねえ~」と応じた。ちなみに金井と真野のガソリンスタンドで尋ねてみたら、午前9時を過ぎて複数の従業員が出勤してくれば手洗い洗車に応じるとの事であった。

りきすしの極上握り鮨      投稿者:佐渡の翼

2010年11月28日 04時40分52秒 | 佐渡グルメ美味しい食べ歩記
煮鮑を食べ終えた後は、おまかせ「匠」(3500円)を注文した。全12貫で構成されており、その日に揚がった上質な魚ネタの全てが味わえる趣向になっていた。親方の握る鮨ネタには煮る、炙る、締めると言った江戸前の仕事がきっちりと施されており、ネタには全て煮きりが塗られているので食べるのに醤油は不要だ。しゃりは酢の利かせ方がそれほど強くなく、淡白な白身の魚から脂の乗ったトロまでぴったりと合うしゃりである。しゃりの大きさは小ぶりで一口で食べられるサイズだ。ネタもそれに合わせた大きさに揃えてあるし、しゃりの温度は勿論人肌に保たれている。島内の他の寿司屋では冷えたしゃりに、しゃりが見えないくらい大きなネタを乗せて握る、所謂女郎握りの店が多いが、りきすしは本格派江戸前鮨の王道を歩んでいる。女郎握りを出す店は田舎寿司屋だが、佐渡島民の大多数はこちらの方がお好きなようで、その種の寿司屋の方が繁盛しているのが現状のようだ。

お鮨は、四貫づつ三回に分けて出された。三つの皿はそれぞれ色や素材が微妙に異なる。佐渡では桶盛りにして一挙にどかどかと鮨を出す店がほとんどゆえ、こうした出し方には新鮮さを覚えるし、洗練された感じも受ける。親方のセンスの良さが垣間見える一瞬だ。

まず一皿目は、トロ、メジマグロ、キジハタ、締めた鯖(画像)である。鮪漁は7月で終了だが、本鮪は、仕入れてから手当てをし、2~3日寝かせた方が旨みが増す。すきやばし次郎ではこうした鮪で握っている。りきすしも同様の手法であろう。メジマグロは今が旬だし、キジハタは昆布締めにしてある。まず定石どおり白身のキジハタから食べてみた。美味い!言葉が出ません。鯖の締め具合は、六本木の鮨の「吉武」に優るとも劣らない!トロ、メジマグロもシャリとの相性は抜群だ。二皿目は、甘エビ、真烏賊、あら、バイガイである。甘エビは冷凍解凍物の場合、表面がけばだっているものだが、りきすしの甘エビは表面が丸みをおびていてしかも輝いている。極上の甘エビの証拠だ。真烏賊も筋の入れ方が芸術的だし、あらの淡白な旨みもシャリがそれを引き立てている。季節のバイガイの美味さは言うまでも無い。親方からは当方の姿は見えないはずなのに、当方の食べ具合に応じた絶妙のタイミングで鮨が運ばれてくる。この辺の接客術は田舎寿司屋が太刀打ちできるレベルを遥かに超えていた。二皿目を食べ終えるのを見計らったかのように、魚の荒汁が出てきた。キジハタとあらの腹の部分を用いている。う~ん、いいダシが出ている。全てを飲み干したところで、間髪を入れずに三皿目が運ばれてきた。玉子焼き、煮穴子、のどぐろの炙り、雲丹である。玉子焼きの作り方はおやじさん譲りだ。煮穴子はとろけるような口あたりだし、のどぐろの炙りに至っては柔らか過ぎて箸でつまむと千切れそうだ。雲丹の軍艦巻きも極上品を使用した一品だ。ネタとシャリとの一体感を見事なまでに保ち、★★★の威力はいささかも衰えてはいなかった。

これだけ食べて3500円とは安すぎる。銀座ならこの倍は取られるだろう。さんざん佐渡の寿司屋を酷評した、あのミツコさんですら絶賛した「りきすし さわた」。煮鮑も含めたお代は5000円丁度。現時点で佐渡で「りきすし」さんの右に出られる寿司屋は皆無だろう!佐渡で本物の江戸前寿司を食べるなら「りきすし」しかない。寿司屋の最高峰を極めた「りきすし」さんへ新潟から出張してきた佐渡病院の先生方も多数訪れるとのこと。本物の江戸前寿司を知り尽くした人だけが足繁く通うお店、それが「りきすし」だ。佐渡島民で味音痴の皆さんは、「まるいし」以外の回転寿司屋か冷えたシャリを平気で出す立ち寿司屋へでも行って下さい。



りきすし さわた(佐渡市佐和田)    投稿者:佐渡の翼

2010年11月27日 05時40分23秒 | 佐渡グルメ美味しい食べ歩記
8月上旬のとある日、筆者は佐渡の鮨の名店、佐和田の「りきすし」さん(電話:025957-1991)にお邪魔した。筆者にとっては二度目の訪問である。魚の仕入れに万全を期し、かつ仕込みに専念するために、昼間営業を予約客だけに限ったり、開店時刻を遅らせたりする事もあるそうだ。訪問予定の日に営業しているか否かを確認するために事前に電話をかけたら、女将さんがお出になり、「夏休みに入り出前が多くなり、出前優先でやっておりますので多少お待たせするかもしれません」と言われた。そこで筆者は念のためにと予約をしておいてから出かけた。

午後6時丁度にお店に到着した。先客は、5席ほどあるカウンター席に常連らしき中年のカップルがいただけ。小上がりに4人掛けのテーブル席が2卓ほどあり、そのうちの一つに予約席が設定されていたが、玄関を入ってすぐ右手に4人掛けの少し奥まった小部屋が空いていたので、そちらへの移動を御願いした。この位置からはカウンター席は見えるものの、つけ場の親方の顔は見えない構造になっていた。玄関に入って左手には6人掛けのテーブル席があった。

りきすしの親方の魚の目利きには定評がある。そしてこの親方は寿司ネタとしての鮑を出す時は、必ず煮鮑にする。鮑を柔らかく煮るための水は海洋深層水を使用しているそうだ。親方は毎日、小佐渡山脈を越えた多田にある海洋深層水の工場まで出向いていき、この水を仕入れて来るという拘りようだそうだ。筆者はまず、メニューには記載されてはいない裏メニューとしての煮鮑を注文してみた。するとお運び担当のおねーさんが「少々お待ち下さい」と言いながら、親方に「煮鮑出せますか?」と確認を求めた。親方の返事は「出せますよ」との事。佐渡では裏メニューを注文したり、それを提供したりするのは常連客に限られるものだが、ここ「りきすし」に於いては、一見客の注文にもあっさりと応じてくれた。さすがである。

7分ほどで女将さんが煮鮑を蒸し上げた物を運んできた。皿の上には煮鮑1個を4等分したものが二切れ乗せられていて、荒塩が添えられていた。佐渡の料理屋で鮑料理を注文すると、鮑丸ごと一匹が出てくるのが通例だが、りきすしさんの場合、その量がとても上品である。鮑のお刺身はこりこりとした歯ごたえがあるものの磯の香りが強すぎる嫌いがある。その点、煮鮑にすれば鮑の旨みを充分に堪能できる。親方の手になる煮鮑は柔らかくそれでいてわずかな弾力性を残しつつ、旨みをとことん味わえる仕上がり具合になっていた。素材は極上と言われる黒鮑であろう。この煮鮑、1500円もしたが、充分にその価値があった。



実相寺(佐渡市市野沢)   投稿者:とある旅人

2010年11月26日 04時10分48秒 | 佐渡及び首都圏近辺の面白観光スポット

このお寺は、妙照寺に到る道の途中にある。妙照寺は日蓮が一の谷(さわ)という劣悪なる住環境へと追いやられた場所に後年弟子達が建立した寺であることは以前このブログで述べた。その一の谷から程近い台地に実相寺がある。日蓮は毎朝、一の谷からこの台地へおもむき、小佐渡山脈から顔を出す朝日を拝みながら、故郷の安芸の地の両親を思いやったのだという。その昔この台地からは、国仲平野の向こうに小佐渡山脈が目の高さに見えた。朝日はその山脈の向こう側から昇ってくる。日蓮は拝日の際、手を清め口をすすぐため、自らの袈裟を松の木にかけた。それが「袈裟がけの松」と呼ばれる老木であり、今も植え継がれている。これが実相寺の始まりである。ところが現実には草木が生い茂り、「袈裟がけの松」の位置から小佐渡山脈などは見えないのが現状だ。「袈裟がけの松」にしたって、かなり背が高く伸び、袈裟をかける枝の高さは人の背丈を遥かに越す位置へと上昇していた。とにかく境内には松ノ木が多い。それゆえ、この寺は「お松山」と言い習わされている。

私が、植木の剪定をしていたおじさんに、「しだれ松ってどれですか?」と尋ねると、おじさんは剪定していたまさにその松を指差し、「これだよ」と言った。全ての枝が地表を指して咲いている世にも珍しい松だ。境内に「三光の杉」と言うのがあった。「千年の杉」の事をさすのだそうだ。「何故「三光の杉」の事を「千年の杉」と言うのか?」とおじさんに問うたが、おじさんは首を振りながら「知らない」と答えた。

境内には向かって左から庫裏、本堂、祖師堂、妙見堂の順に整然と建物が並んでいた。境内の西端の小高い丘の上に日蓮の思親の像が建っている。昭和53年に建てられた像だそうだが、「佐渡古寺巡礼」という本によれば、幕府と戦う日蓮らしく、眉と口元に意志の強さが現れているのだという。

正法寺     投稿者:とある旅人

2010年11月25日 07時08分52秒 | 佐渡及び首都圏近辺の面白観光スポット

佐渡市泉地区にあるこの寺は、能楽師の「世阿弥」が万福寺から移り住んだ寺として有名である。ところで、何故世阿弥は佐渡へ流されたのか?この問いに即座にそして的確に答えられる佐渡島民はどのくらいいるだろうか?順徳院や日蓮は、幕府転覆を企てる危険人物との烙印を押されて島流しの刑に処せられた。ところが世阿弥にはそのような野望はなかった。有体に言えば、講座教授や社長の代替わりに伴い、前任者の寵愛を受けたスタッフ達が新教授や新社長に疎まれるのと同じで、足利幕府の将軍の代替わりにより、世阿弥の能のスタイルが新将軍の好みに合わないという理由だけで彼は佐渡へ飛ばされたというのだから、誠にもって可愛そうと言うしかない。

世阿弥の能は猿楽能で幽玄の美を追求する能であり、足利義満の寵愛を一身に受けた。義満が死去し、4代将軍義持の治世になると、義持は猿楽能よりも田楽能(豊穣を祈り笛鼓を鳴らす賑やかな歌舞)を好み、その名手「増阿弥」を寵遇した。しかし柔軟性のある世阿弥はこのライバルを妬むことなく、「花」を生み出す幽玄美が高められたところにあるものが「冷えたる美」と悟り、増阿弥から「冷え」を学んだ。このように世阿弥の芸は生涯にわたって昇華し続けた。と、ここまでは良かったのだが、義持が他界し、6代将軍義教が就任した頃から、雲行きが怪しくなってくる。義教は世阿弥を引き立てようとする兄の義嗣と仲が悪かった事もあり、能楽師の「音阿見」を寵愛し、世阿弥一家から猿楽主催権を奪いそれを「音阿見」に与えた。こうして将軍義教の世阿弥に対する毛嫌いは日増しに強くなり、「音阿弥」に観世4世家元(世阿弥の家元)を継がせることを世阿弥に強要した。そして世阿弥がこれに強く抵抗したため、それを謀反とみなした義教により、世阿弥の佐渡への配流が決まった。以上が世阿弥左遷の一連の経緯を分かりやすく纏めたものである。

山門を入ってすぐの所の右手に大仰な柵で囲まれた石がある。世阿弥がこの石に腰をかけて小佐渡山脈を見やりながら遥か彼方の京の都を偲んだとされている。とにかく佐渡では配流された高貴なお方や能楽師などが腰をかけた石が珍重されるようで、この種の石がそこかしこにある。

寺の本堂前に二つの句碑がある。一つは作家の松本清張が、亡くなる10ヶ月前に来島したおりにしたためた句の碑であり、いま一つは沢根出身の文芸評論家「青野季吉」の句碑であり、「夏草や世阿弥の跡の石ひとつ」と刻まれている。左翼の文芸評論家として弾圧を受けた青野は、しばらく暮らした故郷の温かさにふれ、その心を句の中に詠み込んだとされている。

更にこの寺では雨乞いの面「神事面べしみ」というものを所蔵しているそうだ。本来は泉城主の持ち物だったが、世阿弥がこの面をかぶり能を舞ったのかもしれない。



大蓮寺(羽茂本郷)    投稿者:佐渡の翼

2010年11月24日 06時00分44秒 | 佐渡及び首都圏近辺の面白観光スポット

とある夏の暑い日の午後、筆者は、羽茂本郷にある大蓮寺を訪ねてみた。このお寺は羽茂川に沿い、菅原神社と境内を接するように建っている。観光パンフレットなどでよく目にする六体の地蔵群がまず出迎えてくれた。お寺の駐車場に車を停めたら、目の前に真新しい、大きくそして立派な観音像があった。山門は上杉景勝によって攻め落とされた羽茂城の東門をそのまま移築したもので、室町時代のものだという。このお寺は羽茂の地頭であり羽茂城主でもある「本間対馬守高貞」の菩提寺だそうだ。あの強大な勢力を誇った羽茂城との関係を窺わせる。

山門を潜ると、芝生に囲まれた広い境内があった。禅寺らしく余分な装飾のない簡素な佇まいである。禅寺の本尊の多くは釈迦如来だが、この寺の本尊は阿弥陀如来だ。本堂左手には五百羅漢の像を納めたお堂がある。中を覗いたら30センチほどの羅漢の塑像がぎっしりと並べられていた。これは海難供養のために作られたそうだ。このお堂の本尊はお釈迦様である。そして山門の傍らにはこの寺御自慢の秘仏のマリア観音像があるという。これは木造観音像の背にはめこまれている所謂体内観音だ。専門家の鑑定では中国の福建地方で作られた陶製の仏像とのこと。しかし、像のどの部分にも十字架などはなく、隠れキリシタンとは無関係の子安観音だという説が一般的である。機会があれば是非ともこの秘仏のお顔を見たいと思う。気さくな御住職様にお願いすれば見せてくれるのかもしれない。なお、このお寺は、佐渡奉行所に赴任してくるお役人が南部巡見の際に必ず宿泊したお寺としても有名である事を付け加えておきたい。


羽茂城跡         投稿者:佐渡の翼

2010年11月23日 05時22分10秒 | 佐渡及び首都圏近辺の面白観光スポット

8月のとある暑い日の午後の昼下がり、筆者は羽茂城跡を訪ねてみた。小木の「オアシス」で昼食をと思ったが、現在レストランは休業中で、パンの販売だけを行っているとの事だった。しょうがないので、小木屋で「烏賊釜飯」を食べた後、そこから羽茂へと向かった。羽茂高校を過ぎたあたりで道が二手に分かれる所がある。右手の道を真っ直ぐ進むと羽茂小学校と中学校に到る。その道の途中の右手に「羽茂城跡」という白い標柱があった。後で気付いたのだが、この入り口は裏側のようで、表側は山側にあった。デジブックに羽茂城跡を辿った道すがらをカメラに収めた映像をアップしてあるので、詳細はそちらをご覧頂きたい。本城、二の城、三の城、北の城、南の城、殿屋敷、家老屋敷、などなどがあり、かなり大規模な城であることが分かる。羽茂城主「本間高貞」は何故これだけ大掛かりな城を築けたのか?それは本間家が西三川金山を支配し、潤沢な資金を有していたからだ。

上杉謙信の父、長尾為景は越後での戦いに敗れた後、1年間羽茂の地で隠遁生活を送っている。その住まいが羽茂小学校前の仮屋城跡だと言われている。従って、上杉家と本間家は謙信の時代までは何かと良好な関係にあった。ところが、上杉景勝の時代になると、豊臣秀吉の意向で西三川金山を手中に収めるために、本間家は狙い撃ちにされた。群雄割拠の戦国時代を生き延びてきた越後勢はよく訓練されており、佐渡島で、のほほんと暮らしていた佐渡勢などは鼻っから相手にはならず戦う前から既に勝負はついていた。鎧袖一触、羽茂城はたった一日で落城した。羽茂城主「本間高貞」は命からがら落ち延びたものの、海上で捕えられて送り返され、国府川畔で斬首された。かくして西三川金山の繁栄と肥沃な羽茂平野に支えられ、400年の栄耀栄華の歴史を誇った羽茂の本間家は落日の時を迎え、そして滅亡するに到る。落城に関する悲話も数多く残されており、犬おとしの滝や千手院の観音像などの逸話がそれにあたる。


沢崎集落       投稿者:佐渡の翼

2010年11月22日 06時00分55秒 | 佐渡及び首都圏近辺の面白観光スポット

新潟交通バスの宿根木線の最終バス停のある集落で、沢崎鼻灯台の近くにあるのがこの沢崎集落だ。戸数30軒ほどの小さな集落で、深浦同様、入り江と山に挟まれたわずかなスペースに軒を接するようにして各家々が建ち並んでいる。集落の東側の道に入ると間もなく一見すると民家と見まごうほどの庵のような外観の小さな可愛いお寺が見えてくる。これが有名な沢崎の薬師寺である。本堂の右手に僧形に似た石像がある。これは佐渡郡役所の水産技手であった児玉祐蔵の像である。児玉はダイナマイトで岩礁を爆破しそれをならして平坦にし、岩海苔の養殖場を造成した。これにより、沢崎集落の岩海苔の生産量と品質は飛躍的に向上したという。その功績を称えた村人達が碑を建立したところ、建碑の話を伝え聞いた遺族が金井町児玉家にあった祐蔵の像をここに移した。薬師寺は集落の谷の東側の山を背にして建っている。山門などはないし庫裏もない。この寺には昭和初期に一時期夫婦者の堂守りが住んでいたが、以後は村人が交代でこのお寺を管理しているそうだ。

真夏の暑い日に訪れたが、路地裏に佇むと海からの潮風が心地よく吹きぬけ、一時暑さを忘れさせてくれた。路傍でこの潮風を受けながら座り込む老婆に「今日も暑いのお~」と声をかけられた。のんびりゆったりとした時間が流れていく沢崎の集落だった。

参考文献:山本修巳著、佐渡古寺巡礼


定福寺(佐渡市橘)     投稿者:とある旅人

2010年11月21日 02時50分24秒 | 佐渡及び首都圏近辺の面白観光スポット

8月のとある日、私はこのお寺を訪ねてみた。七浦海岸沿いの道路を走り、ホテル「みさき」へと向かう小道に入る。ホテルの駐車場に車を停めると、右手に集落の方向へと降りていく道路がある。ここを下れば定福寺に到ると地元のおじさんが教えてくれたので、そのとおりに進んでみた。やがて左手に寺の本堂の黒い屋根が見えた。私は左手に周りこむようにして山門に到達した。この寺の眼の前は長手岬の海岸だ。通常、お寺というものは平地か山の上、あるいは深山幽谷の地に建立されるものだが、このお寺は海岸に面して建てられていた。海が寺の庭園代わりというのも何とも贅沢な話である。寺名は「泡海山」、この寺にぴったりの名前だ。

1802年8月31日に測量のために来島した伊能忠敬が同日宿泊した寺だそうである。また寺承記によれば、寺の建立の際、材木が足りずに困っていたら、材木を積んだ難破船が寺の前の海岸線に漂着したため、天佑とばかりにこれを利用して寺を建てたという実に都合のよい言い伝えがある。本堂脇にある右手の小道を歩いて行くと観音堂のようなものがあった。そこには随分立派な観音像が建っていた。



塩窯神社(相川江戸沢町)    投稿者:とある旅人

2010年11月20日 03時50分59秒 | 佐渡及び首都圏近辺の面白観光スポット

天麩羅と蕎麦の美味しい「磯の屋」さんが面する通りを民宿「朝日荘」の方に向かって歩いていくとその突き当たりにこの神社がある。塩焼きの神様だが、製塩が専売制となってからは安産の神様へと衣替えした。この神社は金山が隆盛を極めた頃は塩を売る商売の人々が信仰する神社で、長坂の登り口にあたる塩屋町にあったが、この場所に牢屋が作られたのを機に、江戸沢町へと移された。相川金山の絶頂期には、この小さな一寒村に過ぎなかった相川の人口は5万人にも膨れ上がったという。そうした人々の生活を支えるために様々な物資が流入し、いろんな商売人が相川の街に住みついた。その面影は相川の街のそこかしこに残っているが、塩屋町、味噌屋町、米屋町、八百屋町などの町名にもその名残が見て取れる。

この神社の鳥居を入ってすぐ左手にはお稲荷さんがある。右手に本殿があった。赤い柱と手すりが印象的な神社だ。赤は魔よけを意味するので、神社の橋などが赤く塗られているのはそのせいだ。本殿内には赤字で塩と書かれた提灯が幾つもぶら下がっていた。本殿のたもとに小さな狛犬(猫のようにも見えるが)の置物などがさりげなく置かれていたのも印象に残っている。



千畳敷      佐渡の翼

2010年11月19日 07時53分07秒 | 佐渡及び首都圏近辺の面白観光スポット

筆者は、相川ふれあいガイドの小澤さんと別れた後(2010年5月8日の記事参照)、この名勝地へと向かった。千畳敷とは、畳千畳ほどの広さを持つ平坦な岩礁である。それを見学するための遊歩道に二つの橋がかかっている。名称は「観月橋(第一と第二)」だ。さぞかしここから見上げる満月が美しいのだろう。この橋も長年(完成は昭和9年)の日本海の荒波を受けて浸食されたのか、てすりの根本が錆付き、ややぐらついていた。橋を渡りきると堤防に到るが、肝心の堤防へと登る階段がない!夏ならば安全な堤防だが、海が荒れる頃にこの堤防に登るのは危険極まりない行為ゆえ、あえて階段を作っていないのだと思った。堤防の向こう側には、コンクリートの平板が広がっていて、降りれば磯遊びが楽しめそうな場所だった。

この千畳敷に関しては、岩礁の成分がどうだの、与謝野鉄幹がこの地に来て歌った歌がどうだのと小難しい話をこねくり回したブログ記事を読んだ事があるが、「だから面白くないので読者が少ないんですよ」、と心の中でつぶやいたことがある。筆者ならローヒールのパンプスかスニーカーを履かせた女の子を連れてここへ来るだろう。まず、男が堤防をよじ登り、次いで女性の手を引っ張りあげて堤防の上へ乗せる。その際、勢い余って後退すると堤防から落下しかねないという安全上の理由を述べて、引き上げた女性の体をしかと受け止める。この時点で労せずしてハグができちゃう。運がよければ日本海からの強風が彼女のスカートを巻き上げるといういたずらをしてくれるかもしれない。5月のこの時期でも堤防の上に立つとかなりの強風を受けて体が揺らぎそうになるので、お互いに体を支えあう必要が生じる。そして、この事が二人の間の絆を強めるきっかけになるかもしれない。

とまあ、こういう少し邪(よこしま)な事を想像しつつ堤防に登る面白い方法を伝授するとブログへの訪問者が増えるだろうし、やがて千畳敷はカップルのラブラブ度を増幅させる作用のある名勝地となりうるかもしれまい。



八幡宮(歌人為兼の配所)     投稿者:とある旅人

2010年11月18日 06時00分40秒 | 佐渡及び首都圏近辺の面白観光スポット

佐渡八幡館のすぐ近くに、八幡小学校があり、その北隣に松林がある。その一角に八幡宮という神社がある。ここに佐渡へ配流となった京極為兼の住む小堂があったそうだ。私は早朝、神社で草むしりをしていたおじさんに「この神社は京極為兼ゆかりの神社だそうですが、何か為兼を偲ばせるようなものはありますか?」と尋ねてみた。するとおじさんは「何もないよ」とそっけなく答えた。境内をくまなく見渡してみたが、確かに為兼ゆかりの物は何も見つからなかった。

京極為兼は、北朝政権長期化を図るための中心的な人物であったため、南朝との政権たらい回しでバランスをとろうとする幕府の意向で佐渡へと流された。京極為兼は赤泊の禅長寺に出かけては、早く京の都に戻れるようにと必死で祈願に励んだ。その甲斐あって、5年で京へ戻る事ができた。彼の佐渡での住まいはこの八幡宮にあった小堂だ。昔は砂浜がすぐ近くまで迫っていたので夜毎海鳴りで起こされたという。為兼は歌人でもあったため、在島中に和歌をよく詠んだ。歌は島暮らしの寂しさを紛らわすと同時に京都召還への祈りを込めたものだった。



国際佐渡観光ホテル八幡館     投稿者:佐渡の翼

2010年11月17日 05時16分37秒 | 佐渡のお宿評価
言わずと知れた皇室御用達のホテルである。筆者は8月1日にこのホテルに宿泊した。午後5時頃にホテル前の車寄せに愛車を横付けしたらホテルマンのおにいさんが飛んできて、駐車場の一番いい位置へと誘導してくれた。後部ドアを開け、荷物の運び出しを依頼すると、このホテルマンは「素晴らしいお車でございます」とまずはお追従を言った。ホテルマンの鑑のようなおにいさんだ。あらかじめ、海の見えるお部屋をと予約時に伝えておいたので4階の眺望のいい部屋へと案内してくれた。10畳間と6畳間の和室に加え、6畳ほどの広さの場所に応接セットがおかれていた。トイレは勿論ウオシュレット付き。通常は定員6名ほどのお部屋だが、ここを一人占め。実に快適である。快適度は勿論

松林に囲まれたこのホテルのお部屋の窓から眺める真野湾の夕陽は素晴らしいの一言につきる。ホテルは真野湾の中央部に位置しているので、二見と小木の両方の景色を眺める事ができる。温泉は八幡温泉の源泉を引いており、衛生管理の観点から塩素消毒はされているものの、源泉かけ流しである。露天風呂はややぬるめなので、温泉を堪能したい方は内湯の方に入るのがよい。

洛陽さんで食事をし、メンソーレで食後酒を楽しんで帰館したら、ロビーでは鬼太鼓が演じられている最中だった。鬼さんは浴衣姿の宿泊客の間に入っていき、お客さんに握手を求めたり、お客さんとのツーショット写真撮影に応じたりして、大サービスをしていた。恒例の佐渡おけさが終了したところでお部屋に戻った。

翌朝は7階の展望室でブッフェスタイルの朝食が提供された。展望室から屋外に出られるようになっていて、ここからは小佐渡山脈から顔を出す日の出を拝む事ができる。筆者は、定番の烏賊刺し、お豆腐に加え、ふきのお煮しめを2種類の味付けで楽しんでみた。茄子の浅漬けがべらぼうに美味い!思わずお代わりをしてしまった。ホテル特製の煮卵もなかなかいける味である。焼き鮭もホテル新潟と同様で美味し。これに長藻のお味噌汁と朱鷺の認証米「佐渡産こしひかり」を2杯よそってもらった。筆者の評価は文句なしの★★★。何度泊まっても施設設備、お料理レベル、従業員教育、どれを取っても全く期待を裏切る事のない、佐渡の最高級ホテル「八幡館」さんだった。



小粋な「メンソーレ」のマスター     投稿者:佐渡の翼

2010年11月16日 07時23分00秒 | 佐渡のスナック・キャバクラ
マスター氏は、もずくよりももう少し太い「海ソーメン」という、高級料亭でしか扱わない貴重な食材があるが、「昨年はよく獲れたのに今年はさっぱり獲れない」と嘆いた。確か、キッチン「ミツコ」さんのお話では、「海藻と言うのは冬の寒気が厳しいと春先によく育つ。今年は4月頃まで寒い日が続いたので海藻の育ちがいいんですって」と言うことだったのだが。。そして鮑には雌雄があり、雄鮑を黒鮑と言い、これは大変な美味でその踊り焼きを食べたらその味は一生忘れられないだろうとも言った。更にマスター氏は烏賊の一夜干しは漁師の塩の利かせ加減と干す港の潮風の違いで味が変わると言った。マスターに言わせると、二見や稲鯨の一夜干し烏賊は両津のそれよりも遥かに美味いそうだ。七浦と両津の潮風の違いはよく分からぬが、マスターが食べてみたら、かなり味が違ったという。「佐渡ならどこで作られた一夜干し烏賊を食べても美味いとは必ずしも言えない」、これは真実かもしれないと筆者も思う。

マスター氏は筆者同様スリムな体型で、そして求道者のような精悍な面構えをしている。マスターは言った、「東京では歩く人が多いでしょ。しかも皆さん早足だ」と。確かにそうだ、東京の女性はハイヒールを履いていても皆さん早足で颯爽と街を駆け抜けていく。そして彼女らはヘルシー素材の食物に敏感で食べる量も抑制している。その努力の甲斐あって作り上げたスリムな体に、肌に密着し体の線がはっきりと現れるようなタイト目の衣類を纏わせ、これみよがしに街を闊歩している。ひるがえって佐渡の女性はどうか。公共交通機関が発達していない佐渡では車は必需品。車漬けの生活が当たり前になると、歩いて行けるような距離の所へも車で乗り付けて用を足すようになる。歩く頻度が減り、佐渡特産の美味しい食材を使用した料理三昧とくれば太るに決まっている。そして下腹の出っ張り具合を覆い隠すような、だぼついた服装で平気で街中を歩いている。その姿の多さが非常に目立った。夏は体型が露になる、男でも女でも肥満した体を人前に晒すのは醜い、周囲に暑さを振りまくだけだ。いや、隠し肥満は佐渡だけの現象ではない。東京だって、ウオーキングやジム通いをさぼり、スナック菓子をパクついて夜毎酒浸りの生活を送るキャバ嬢とて同じ事。彼女らは一見細そうに見えても、案外ドレスで締め付けて細身を装っているだけの話で、いざドレスを脱がせてみたらぽっこりとせり出した下腹の膨らみが視野に入り幻滅した諸兄も多かろう。とまあ、この趣旨の話をしたら、マスターは何度も微笑みながら大きく頷いた。

それから、これはマスター氏との会話の内容ではないが、「東京ですれ違うお洒落な女性は必ず男性の足元をチェックするものだが、佐渡では、男性氏の足元に無頓着な女性が多いような気がした」。オールドパーの水割りを7~8杯飲み、可愛い子をはべらせながら粋なマスターとの会話を楽しんだ小1時間ほどのお代は4,800円だった。




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