転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



忠臣蔵に熱中している娘が、先週、
『山科閑居が観たいから、日曜日に歌舞伎座昼の幕見に行く』
とメールして来たので、幕見席の買い方を指導した(笑)。

一幕見席について(松竹株式会社)
歌舞伎座「四月大歌舞伎」幕見席のご案内(歌舞伎美人)

ついでに、今回のは仮名手本忠臣蔵の九段目ではなく、
近松の『碁盤太平記』のほうであることも書き添えた。
そうでないと、現地に行ってから
「え、やってない?どこにも書いてない!???」
と青ざめることになるやもしれぬ、と心配になったから。

しかし果たしてあれが、娘の思っているような忠臣蔵だっただろうか、
例えばこのへん(YouTube)とは全然違うからな、
……と危ぶんでいたら、昨日の夕方、
無事に幕見席で座れたこと、非常に感動し泣きそうになったこと等々、
メールで言って来た。
ほほー、良かった良かった。
祝・転娘、幕見デビュー(笑)。

……にしても扇雀、さすがに凄いじゃないか。
歴女の腐女子が観ても合格だったらしい(爆)。

四代目中村鴈治郎襲名披露 四月大歌舞伎(歌舞伎美人)

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まともな人は、古いものや思い出のある品を捨てるときに
そのようにたびたび罪悪感を覚えたり、憂鬱な気分になったりするものなのか。

罪悪感なしで思い入れのあるモノを手放す方法(lifehacker)
『部屋を片付けている時、思い入れのあるモノは罪悪感を感じてなかなか捨てにくいと思います。今回は、憂鬱な気分にならずにモノを捨てるコツをご紹介しましょう。』

私は心が冷たいらしくて、大抵のものは簡単に捨てることができる。
自分の所有物に関しては基本的に、過去3年間必要としなかったものは、
そのまま捨てて差し支えない、という感覚だ。
勿論「これは、かけがえが無い」と思って、長年手元に残している、
というものはある。
例えば、今のところは私でも、自分の婚約指輪や娘のへその緒を、
使用する機会が無いからという理由で捨てる気にはなっていない(爆)。
3年、というのに別に科学的な根拠があるわけではないのだが、
結婚してからかなりの期間、3年ごとに転勤があったので、
なんとなく、3年がひとつの「限度」になっているだけだ。

私は所有するより捨てることで安心する性格で、
我が家のリビングダイニングには決まったものしか無く、
テーブルにも出窓にも流し台にも、ほぼ何も置いていない。
「ほぼ」、という言い方をするのは、主人の読みかけの雑誌とか
きょうの郵便物程度のものは、放置されていることが多いからだ。
世の中には、ものがたくさんある部屋のほうが落ち着く人もいるので、
何でもかんでも捨てるのが立派だと言うつもりは全くないが、
私自身は、がらんどうみたいな部屋にいることが好きなので、
それが実現するよう、捨てられるものはすべて捨てているのだ。

もし、何かを買って間無しに捨てることになったとしても、
「そのときに必要で、そのときに役に立ったのなら、もういい」
と私は思っている。
長く愛用できるようなものを買うほうが良いのは明らかだが、
たった一度使っただけでも、本当に切実に必要だったのならそれで良かったのだし、
その機会が過ぎれば、その品物は役目を終えたと思って良いのではないだろうか。
ろくに着ていない服など、傷んでいないから勿体ないという考え方もあろうが、
しかし着る機会のない服を、長い間クローゼットに眠らせておけば
供養になるというものでもないだろう。
反省すべきことがあるとしたら、今それを捨てる行為が是か非かよりも、
むしろ、本当にその服は必要なものだったのか、
それを買ったこと自体が、そもそもの無駄遣いだったのではないか、
という点のほうだと私は思う。
娘の服は勿論、作品類も、本人が要らないと言ったら私は全部捨てている。
新品だろうと思い出のナントカだろうと、私はウェットな愛着は持たない。
今まで、捨てて後悔したものなど思い出せないから、大丈夫だ(笑)。

私が捨てる作業ができないときというのは、思いが深いからなどでは毛頭無く、
ただ、ものを分類したり紐でくくったりする時間がないのが理由だ。
例えば、家の中で私のいる納戸部屋だけは、
目下、わけのわからないものが窓際の床に積んであって、
私としては、これらを根こそぎ袋に入れて明日ゴミ置き場に持って行くことに、
情緒的な面では何の抵抗もないのだが、
ただ、そこに人様から借りたものとか娘のものとか、
私の私物でないものが混ざっている可能性が、結構ありそうな感じがするので、
そうした簡単で荒っぽいやり方が、実行できないでいるのだ。
更に、可燃ゴミ不燃ゴミ、その他プラスチック、などという分別が大変だ。
要らないものを一切合切、袋か箱に詰めて外に出しておけばいい、
というやり方なら、明日にでも私の納戸部屋はスッキリするのに(--#)。

それと、昨今は個人情報の保護が問題になっているので、
住所や名前が丸見えになる書類や手紙類を捨てるのに手間が掛かって困っている。
住所氏名を消したり、シュレッダーにかけたりということが必要でなければ、
私は家にあるすべての手紙や葉書を今すぐゴミ置き場に出しても、何の悔いもない。
思い出は私の頭の中にあり、住所録はパソコンの中(+バックアップ)にあるのだから。
また、粗大ゴミに関しては、事前に市の担当部署に連絡を取って、
出すものを申告して日を決めて、粗大ゴミ券をコンビニで買って貼って、
指定された日に収集場所に持って行く、という手続が必要であるために、
時間的気分的余裕がない昨今は、それが面倒で取りかかれないでいる。
この状況について、私は内心忸怩たるものがある。
私はまさに今、粗大ゴミを家で養ってやるために、
ローンの一部を費やしているのだ。嗚呼!

ただひとつ、私が細大漏らずとっておくことを心がけているのは、
イーヴォ・ポゴレリチ関連の記事や資料だけだ。
これだけは、彼の名に触れたのが一行だけ、という記事でも、
気がついたものはすべて残してあるし、
同じものが二部以上あっても、積極的に捨てることはしていない。
特に、80年代のチラシなどうっかり捨てようものなら、
もう二度と、どんな大枚をはたいても現物を買い戻すことはできないので、
そういう愚だけは犯さないように、私は細心の注意を払っている。
しかしそれらとて私がいつか棺桶に入ったら、一括してゴミに出していい、
と家族には常々言ってある。
私にとってのみ、どのような宝物にも勝る値打ちがあったが、
一般的にはただの中古ディスクや古びた雑誌切り抜き等に過ぎないものだからだ。
私が愛してやらなくなったら、それらが存在する理由など、どこにあろうか。
「オークションとかで、値がつかんかね?」
と娘は言うのだが、よほど同じ趣味の人でなければ、まあ買わんわな(笑)。

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