歌舞伎俳優・坂東三津五郎さんは、お城めぐり、お城の調査が大好きなそうである。城めぐりが終生の趣味とまで書いている(p.116)。
本書は、その三津五郎さんに白羽の矢をたて、JALグループ機内誌「SKYWARD」に連載された「坂東三津五郎の城めぐり旅日より」に加筆されたもの。幼少の頃より、お城めぐりが好きだったとのことで、13歳のとき、上田城を訪れたおりの感想文が掲げられている(p.101)。学生時代の「城見学記」ノートの写真もあり(p.62)、自身の体験を「僕の『城見学記』」にまとめている(pp.60-62)。
見方にも個性がある。大坂城は秀吉がつくった絢爛豪華な城というより、徳川家のターニングポイントになった城、とおさえている(p.106)。
現存する天守は12あるそうだが、著者がもしひとつ譲りうけることができるとしたら、丸岡城を選ぶと書いている。質朴なところがお気に入りなのだそうだ(p.45)。
門、櫓、欄間、橋、瓦屋根、出窓への観察も細やかだ。歌舞伎の演目との関わりにふれたり、「功名が辻」などの時代劇番組に出演したこととを思い出しながら記述しているところも著者ならでは、で興味深い。
多数の写真は、絵島正志さんいよるという。
わたしは三津五郎さんほどあちこちの城はみていないが、また見ていても表面的だが、訪れた城がいくつかあった。姫路城、犬山城、上田城、松本城、江戸城、熊本城、名古屋城、二条城、大坂城、川越城。このなかでは、姫路城、犬山城、松本城は比類のない美しさだ。
巻末に「お城データ」があり、本文中ではあまり出てこない史実が記録されている。日本のお城の素敵なガイドブック、三津五郎さんという案内人を得て、またしばし日本の城の魅力を堪能した。
今年の春、歌舞伎座が新装オープンとなりました。その記念に、歌舞伎座の会員になりました。先日、初めてこの新しい歌舞伎座に行ってきました。この日の昼の演目を観劇しました。演目は、「加賀見山再岩藤(かがみやまごじつのいわふじ)」(歌舞伎座新開場杮葺落)です。加賀騒動での主君の誤殺という題材を、鳥居又助の悲劇に仕立てたものがこの作品(「加賀見山再岩藤」)です。作者は河内黙阿弥です。
ストーリーの概略は、次のようです。(劇場で購入したパンフレット、チラシなどから引用しながらの説明です。)
この物語のテーマは、加賀百万石のお家騒動を題材とした『鏡山旧錦絵』の後日譚です。『鏡山旧錦絵』で、召使のお初は、主人である中老尾上を自害へとおいつめた局の岩藤を討ち、その功により二代目中老尾上にとりたてられられました。
召使のお初に討たれ、その白骨が野ざらしにされていた岩藤は幽霊となり、恨みをはらそうと、再びお家騒動をくわだてます。
騒動から5年、主君である多賀大領の側室お柳の方(尾上菊之助)と兄の望月弾正(尾上愛之助)は、お家横領を企てていました。実はお柳の方は望月弾正の妻だったのですが、妹を偽って主君の側室とし、機会をねらっていたのです。
多賀家の忠臣花房求女(尾上松也)は、家宝だった金鶏の香炉を悪人蟹江一角に奪われ、主君の勘気にふれ、浪人となって下僕の鳥居又助の家で暮らすことになりました。その家来又助(尾上松緑)も弾正に騙され、お柳の方を討てば求女の帰参がかなうという言葉を信じ、浅野川の辺でお柳の方と間違って、正室梅の方を殺害してしまいます。又助は川に飛び込みますが、殺人に使った刀の鞘は忠臣安田帯刀の手にわたります。
この作品は通称「骨寄せの岩藤」と呼ばれますが、それは二幕目で散乱した白骨が寄せ集まり、岩藤の霊があらわれるからです。二代目尾上(尾上菊之助)が岩藤を回向しようと、岩藤の骨が埋められている八丁綴の土手で念仏をとなえていると、岩藤の霊が二代目尾上(尾上松緑)となったお初に恨みをのべる怖い場面となります。思いなかばで討たれた怨みを抱く岩藤の亡霊は、一転、春景色の花の山を背景に、岩藤が宙乗りをみせます。幻想的な場面です。
三幕目。多賀家の息女花園姫は岩藤の亡霊による病をわずらっていました。花園姫のいる奥殿に上使としてあらわれた望月弾正は、陸奥の太守との婚姻を花園姫がいやふがっているのも、金鶏の香炉を紛失したのも中老尾上の仕業と尾上を問いただします。身に覚えのないことと尾上が弾正と言い争っているうちに、弾正の姿は消え、岩藤の霊が出現し、尾上を草鞋で打ちすえます。
四幕目は純粋な忠臣鳥居又助の悲劇の話です。又助の家には、足萎えの病に苦しんでいる求女が身を寄せていました。そこに訪れた家老の安田帯刀に浅野川でおとした鞘をつきつけられ、又助は自分が弾正に騙され、誤って主君正室梅の方を手にかけたことを知らされます。求女からも責めを受けた又助は、盲目の弟志賀市が琴を奏でる傍らで、切腹します。
安田帯刀の詮議が進んでいるのをみながら、弾正とお柳は多賀家下館の奥庭で密談し策をねります。しかし、お柳の方は放蕩からめざめた大領から悪人たちの連判状をつきつけられ、首をはねられます。弾正もその場で切腹。さらに鬼子母神の力で岩藤の霊の白骨も散り砕け、多賀家に安堵が訪れます。
久しぶりに華やかな歌舞伎の世界にひたりました。新装なった歌舞伎座は、綺麗で、広くなったよう、気持ちのよい一日を過ごしました。
過去から現在にいたる日本語の「ゆらぎ」を考察。日本語の奥行きの深さは、いろいろな側面から語ることができるが、言葉をひとつひとつとりあげて、その変遷をたどるという視点はわたしにとっては得難いもので、勉強になった。
たとえば、「電覧」という言葉があり、この言葉自体がいまはもう使われないもので、その意味は「人がもの見ることに対する敬語」であるにもかかわらず、「ひととおりざっと目を通す」という意味で使っている人がいる。
ときおり目につく「店がはねる」「芝居がひける」などの誤った言い方にも苦言を呈している。もともと「ツルノハシ(鶴嘴)」だったのにいまは省略形で「ツルハシ」になってしまっている。平清盛は「たいらのきよもり」で「の」が入るが、足利尊氏は「あしかがたかうじ」で「の」は省略されている。このような省略を、著者は「無用の合理主義」と呼んでいる。
他にもたくさんの指摘がある。このようなことができる能力をもった人はそうはいないので貴重だ。著者は、敏感な触角で、文献、小説などにあらわれる言葉の蒐集を行っては、辞典(『言海』『大言海』『広辞苑』『広辞林』、さかのぼっては『日葡辞書』『ヘボンの辞典』『節用集』)にそれがあるのかないのか、どのように整理されているのかを検証している。
それでは、「闇から牛」「三十一字」は、本当は何と読むか。「言語同断」は間違いだろうか。(「やみからうし」「みそひともじ」ではない)。トランプの「ジャック」は日本語ではどう表現したらよいのか(「キング」は「王」、「クイーン」は「王妃」)。正解は本書で。
昨日、紹介した「さくら草」のすぐ近くにあるのが、この「土筆」です。焼き鳥のお店です。
最近は、お店に対する「勘」がよくなり、ここぞと入って、まず「がっかり」ということはありません。以前は、ずいぶん失敗もしましたが、このごろでは「勘ピュータ」の性能があがっています。
とくに調べてきたわけでもなく、店の構え、立てかけてあるメニュー、全体のオーラで、わかりました。ここは結構、いいのでは、と。あたりでした。いままで何箇所かで、焼き鳥を食べたことはありますが、ここはそのなかでも格段によいです。竹に刺した、トリの処理が丁寧です。また、焼き方にもハートが入っています。備長炭で焼いています、とありましたが、そういうことよりも、焼き方のタイミングがよいのだと思います。
ここは、メニューに「おでん」もありました。ネタをいくつか注文しましたが、薄味でこちらも上品でした。
お店が独自につくったパンフをみると、鍋ものも予約制で提供しているようです。きっと、絶品だと思いますので、いつか試してみたいと思います。
JR新橋駅に近い、銀座の8丁目界隈。どこか夕食にいいところはないかを探していたら、目に入ったお店。お店の前にたてかけてあるメニューをみると、いろいろなものがそろっていて、ちょうどよさそう。お店にはいると、まだ6時ころだったので先客はいず、板前さんがカウンターの向こう側で笑顔で迎えてくれる。女将がひとり、この方も大層、愛想、気前がいい。
おなかがすいていたので、白身の刺身、鯵の塩焼き、焼きナス、氷下魚、肉じゃがなどを注文。ビールと一緒に出てきた突き出しの、海老とトウガンの煮びたしがおいしい。出しがよくきいて、冷えている。次々に出てくる品に舌鼓。他にモロコシのかき揚げ、しめサバを注文するが、これは今日はできないという。それで、稲庭うどんで締めることにする。
おいしい肴で、お酒(神水、一本義など)も話も進んだ。歌舞伎、相撲、江戸文化などなど。日本ではむかしスポーツそのものを楽しむ、あるいは観て楽しむということはあまりなかったのではないか。相撲ぐらいだろうか。しかし、それだって神事やお祭りのなかの行事のような感じだった。近代オリンピックが発祥したヨーロッパでは、相当むかしからスポーツはあり、観客が観てエンジョイすることも多かったような気がする。
いま、わたしたちのまわりにあるスポーツはほとんど西欧から入ってきたものだ。ゴルフ、サッカー、バスケット、バレーボール、野球、陸上の諸種目、水泳、体操、自転車などなど。スポーツというものが日本に独自に育ったなっかったのはどうしてだろう・・・。そんな話で盛り上がった。そんな他愛のない話。
日本酒も相当入ってホロ酔い。しかし、いい時を過ごしました。「さくら草」は開店後12-3年と女将さんが言っていたような。銀座にしては、リーズナブルな値段でした。
横浜中区にある三溪園。美術館の帰りにここによった。しかし、戸外は35度の高温で多湿。園は大変、広そうだったが、歩き回ることはやめ、藤棚の下の木陰に座って、自然のなかの憩いを楽しんだ。
三溪園は、国の重要文化財。建造物が横浜市指定有形文化財建造物3棟を含め、17棟ある。
土地は、原富三郎三渓の養祖父、原善三郎(原三渓)が1868年(明治元年)頃に購入したもの。広大な敷地(175,000平方メートル)の起伏を生かし、調和のとれた建造物の配置になっている。
原三渓は岐阜県出身の実業家。横浜の原商店の養子となり、生糸貿易で財を成した。芸術家や文学者などの文化人と広く交流し、ここは美術・文学・茶の湯などの近代日本文化を育んだ場所のひとつでもある。
原三渓は事業のかたわら茶道具などの古美術に関心を持ち、それらをコレクションすることに情熱をもった。
関東大震災と第二次世界大戦中の大空襲で甚大な被害を受けた。原富太郎の古美術コレクションは戦後の混乱期に散逸、建造物だけがかろうじて残った。2007年、国の名勝に指定され、庭園全体も文化財として認定された。
このように歴史的価値がある建物があり、見どころいっぱい。それが大自然に抱擁され、そこにいるだけで、安堵する。また、でかけてみたい庭園である。
東京に20年ほど前に出てきて、その後、一番認識が深まったのは、江戸のこと、江戸時代のことだと思う。とくに意識してそうつとめたわけではないが、東京圏で仕事をしていれば、関心は自然とそこに向かう。
今回、江戸東京博物館で開催されているのは、「江戸絵画の奇跡」。江戸時代の絵画といえば、浮世絵や襖絵、屏風絵があり、有名な絵描きも何人も知っている。しかし、過去に知っていた知識は狭すぎた。驚くほどの多様な絵画があり、また多くの絵師がいた。このイベントでも、そのことを再認識した。
展示されていたのは、85点前後の作品。お目当ては、酒井抱一、鈴木基一など。酒井抱一は、「十二カ月花鳥図」「柿に目白図」「遊女立姿図」、鈴木基一は「群鶴図屏風」「山波図小襖」など。「群鶴図屏風」は圧巻だ。
他に俵屋宗達、池大雅、与謝蕪村、伊藤若冲、曾我蕭白、谷文晁、円山応挙、いい作品がそろっている。曾我蕭白の「宇治川合戦図屏風」があるのは、このコレクションをいいものにしている。
注目は、伊藤若冲の「菊図」。掛け軸3幅の作品で所有者が日米両国に分かれていたが、ファインバーグ夫妻所有の2幅と、日本のコレクターが所有する1幅とが、この展覧会でそろって公開されている。
ファインバーグはアメリカの日本美術収集家のひとり。元実業家のロバート・ファインバーグ氏とベッツィー夫人のコレクションの特徴は、江戸時代の画家が描いた自由で活気に満ちた肉筆画が中心となっていることである。琳派、浮世絵に加え、与謝蕪村らの詩情豊かな文人画、円山応挙ら円山四条派の写生画、伊藤若冲らの型破りな奇想画など、内容は実に多彩である。
1970年代から集め始めたというから、まだ40年ほどの収集歴。そんなに短期間で、こんなに名品があつめられるのだろうか?
横浜美術館で、プーシキン美術館展が開催されています。この企画は、2年ほどまえに一度あったのですが、東北の地震と福島原発事故があった直後の企画だったので、プーシキン美術館側が出展を躊躇し、順延になっていたものです。
朝日新聞社が主催者に入っていて、先日、読者へのサービスとして、貸し切りでこの展示会場に観光バスで運んでくれ、それに横浜中華街での昼食、三渓園散策がセットになっていて、これを利用しました。サービスといっても、もちろん有料です。
今回の展示会は、プーシキン美術館が所蔵している作品を、フランス絵画にしぼって展示、その300年の歴史をみていきましょうというものです。17-18世紀の古典主義、ロココの時代、19世紀前半の新古典主義、ロマン主義、自然主義の時代、19世紀後半の印象主義、ポスト印象主義の時代、20世紀のフォービズム、キュビスム、エコール・ド・パリの時代に区分けされ、作品が配置されています。
プッサン、プーシェ、シャルル・ル・ブラン、ダビッド(17-18世紀の古典主義)、ドラクロワ、コロー(新古典主義、ロマン主義、自然主義の時代)、マネ、モネ、ルノワール、ドガ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン(印象主義、ポスト印象主義の時代)、マティス、ピカソ、アンリ・ルソー、シャガール(フォービズム、キュビスム、エコール・ド・パリの時代)のような、日本人にとって有名な画家の作品もあれば、あまり知られていない画家の作品もあります(シモン・ブーエ、ニコラ・ランクレ、ジャン=バチスト・ブルーズ、ブノワ=シャルル・ミトワール、ルイジ・ロワールなど)。それは日本では知られれていないというだけのことで、作品そのものと対峙すると、品格、力量で遜色のないものばかりです。
目立ったのは、アンリ・ルソーの「詩人に霊感を与えるミューズ」、アングルの「聖杯の前の聖母」。作品そのもののサイズも大きいのですが、画家の描こうとしたかった意図がはっきりおしだされていて、見るものの感覚にせまってきます。
プーシキン美術館に所蔵されているものはみな一級品ですが、これらはかつて産業革命で財をなした実業家、シチューキン、モロゾフなどのコレクターが、芸術作品をみるすぐれた眼をもっていて、当時まだ評価が定まっていなかっ画家の作品を逸早く認め、収集したものです。
名称にあるプーシキンは、ロシアの有名な詩人の名前です。
著者は昭和21年生まれ。生まれ育った北海道の北東の一地域、稲富町での、かつての生活のひとこと、ひとこまを切り取り、分類した生活誌。5歳ごろから大学(北海道大学)に入るころまでの様子だ。
わたしはやや年齢が低く、育ったところも札幌市なので、ここで明らかにされている生活とはかなり異なるが、時代状況が重なるので理解できるところもたくさんある。しかし、内容は、狩猟、川猟、ランプ生活、冬季のマイナス30度での生活、あたりになるとまるで知らないことばかり。これは著者の生活遺産そのものであり、貴重な記録だ。
目次だけを示してもそれはわかろうというもの。第一章「狩猟」では自ら幼いころから体験したウサギ、スズメ、リス、ライチョウなどの狩猟、イタチなどの罠猟、カワハギの仕方などが語られている。
第二章「川猟」では、ウグイ、ヤマメ、アメマス、サクラマス、ドジョウ、トンギョ、カジカ、ザリガニ、ヤツメウナギ、トゲウオ、フナなどをどこでどのように釣ったかが書かれている。爬虫類、昆虫とのつきいあいは、わたしもだいたい同じだったが(第三章)、ヘビ退治はしたことがない。
第四章に出てくる「スキー・スケート」の経験は北海道ならでは(わたしはスケートに関しては大学に入ってから経験)。スキーの「つっかけ式」「フィットフェルト式」「カンダハー式」のスキーはわたしも使った。いまの若い人は、見たことも、聞いたこともないだろう。博物館でみるしかない代物である。
第五章では当時の「稲富の生活」が具体的に紹介されている。そこにあったのは、ランプ生活、有線放送、五右衛門風呂、手押しポンプ、木の窓枠、美濃板ガラス、進駐軍支援物資などである。自転車の横乗りは懐かしい(子ども用の自転車がなく大人の自転車をこのように乗り回していた)。「貧しいことに気がつかなかった子どもたち」の一節が心に響く。
そして第六章では食べ物が並ぶ。代用食、保存食、牛乳ご飯、沢庵、鰊漬、グスベリなどの木の実。著者の家は農家だったようだ。500アールの畑を耕していたとある。したがって、農作業、家畜、薪の切り出しのことも詳しい。最後の第七章は、稲富の行事のこと。もちつき、正月、運動会、学芸会、ストーブ当番、盆踊りなど。著者は四国に住んでいる知人の勧めでこの本を著したという。毎日、少しづつ、項目ごとに文章を書きため、メールで送っていたとのこと。それがまとまった。
「高度経済成長」前の、地方の、ありのままの、自給自足に近い生活である。挿絵は、知床在住の桜井あけみさん。一部は娘の木村昴枝さんのもの。
大河小説の最終巻。小暮家、悠太も年齢を重ね、周囲の人々もみな少しづつ年をとっていく。この巻でも、家族、縁者が大きな事件に巻き込まれる。息子の悠助が、地下鉄サリン事件に、そして阪神淡路大震災があり、娘夏香が嫁いだ綿貫家のご両親が被災し、死亡。悠太はそれを弔い、震災後の医療活動に一時期、専念することになる。1995年のことだ。
悠太は軽井沢に拠点をかまえ、その後は、執筆活動を続ける。妻の千束も軽井沢と東京を行き来し、音楽活動。彼女は悠助にコンクールに優勝するほどの大きな期待をかけていたが、サリン事件の後遺症で満足の行く演奏ができなくなる。
従兄脇晋助の親友であり、悠太が医学生だった頃に世話になった村瀬先生、かつてセツルメント活動をしていたころに付き合いのあった明夫。菜々子夫妻、オッコの夫君であるピエールなどが、軽井沢に集い、旧交をあたためつつ、人生最後の生活を愉しむ。
最後は、妻千束が湯船のなかで、クモ膜下の症状が出て、なかば溺死。妻の最期をみとる。小説の終わりは、子どもの悠助・夏香、火之子、明夫、村瀬先生、ピエール、海の底の桜子、天国の千束への遺言で閉められている(完)。
5巻に及ぶ大作だったが、評価の難しい小説だ。フィクションをまじえつつ、自伝的でもある。実際にいなかった人物が登場している部分がフィクションということになるのだろうが、そこには著者の独自の想いが投影されているはずだ。そう読めば、この小説は完全に私小説ということになる。自身の歴史をしっかり書き込みたかったのだろう。とすると、「雲の都=東京」の歴史の部分は描かれていないとはいえないが、影が薄い。
小説の構成としても、統一感が乏しい。2巻では、医学部の学生の授業内容、研究環境が、また東京拘置所での囚人聞き取り調査の仕事内容、患者との心の交流が、読者にとってややわずらわしいほど詳細に書かれているかと思うと、この巻では、突然、日記スタイルで経緯が綴られたり、そして最後は数通の遺書がポンと投げ出されるかのように披歴され、完となっているのである。
わたしはいまアンチエイジングとして、スクワット、腕立て伏せ、柔軟運動、ダンベル体操などをしている。毎日、行った運動の記録をExcelに記入している。それが励みになってずっと続いている。
体を鍛えるという発想はもうない。退化していくプロセスに歯止めをかけるだけの気持ちしかない(それでも続けていると、筋力はついてきている)。
そんなときに、この本に出会った。わたしの運動のやり方は自己流だから、「やってはいけない」ことをしていたら、それは素直にしたがったほうがいいと思って、この本を買った。
表題は、「やってはいけないストレッチ」と否定的な表現だが、内容はどちらかというと前向きに、あーしたほうがいい、こうしたほうがいい、といったお勧めスタイルで記述されている。
要は、衰えて硬くなていく筋肉をストレッチして、リラックスし、柔軟性のある体つくりをこころがけようというもの。ストレッチは「筋力トレーニング」とも、「有酸素トレーニング」とも異なり、柔軟性に的をしぼったトレーニングということになる。効果的なストレッチをするためには、まずもろもろの固定観念(たとえば、「生まれつき体か硬い」「ストレッチをすると脂肪が減る」とか)を放念し、筋肉の仕組みを理解し、長く続けることだ、と著者は言う。
「柔軟性チェックテスト」が4つあり、これでまず自分の現状を知る。最小で最大の効果をあげる7原則を確認する(「確実に効せたいなら、体温に敏感になれ」「狙った筋肉のベストポジションを追求せよ」「一人で頑張るより、体重を味方につける」「リラックス効果を妨げる機能性ウエアに注意」「呼吸を変えたら、思いのほか伸びる」「柔軟性には左右差があって当然」「動的ストレッチ、その真の実力」)。そして、老けない体をつくる基本ストレッチ12種(肩のストレッチ、胸・肩・腕のストレッチ、背中・腕のストレッチ、ふくらはぎのストレッチ、股関節のストレッチ①②、内もものストレッチ、腰のストレッチ、もも裏のストレッチ、もも前のストレッチ、脇腹のストレッチ、腹部のストレッチ)が示されている。
わたしの、アンチエイジングの新たなメニューに加えることにした。
ブーニンが来ると言うのでチケットを買った。プラハ放送交響楽団(オンドレイ・レナルト指揮)との共演である。予定されていた曲目は、スメタナ「モルダウ」、ショパン「交響曲2番」、ドボルザーク「新世界から」。実際には、スメタナ「モルダウ」、ドボルザーク「新世界から」、シューマン「ピアノ協奏曲イ短調」「ハンガリー舞曲」。
演奏はさすが。プラハの楽団らしい、聞きなれた曲とは言え、新鮮な感情にとらわれた。「新世界」では、金管、木管の音色が美しかった。この曲の本領であるが、指揮者のレナルトさんは、それをうまく引き出していた。
体調を崩していた、ブーニンさんは、シューマン「ピアノ協奏曲イ短調」の第1楽章のみを演奏した。
この日、会場にいくと、なんだか異様だった。3時開演で、2時半会場。わたしは、2時40分ごろに会場入口についたのに、長い列。なかなか中に入れない。とうのも、ロビーに人だかりができていて、ホールに入るのを待ってほしいとのアナウンス。
そして、立て看板がロビーにはあり、そこには曲目変更が掲されていた。ショパンの「交響曲2番」に変えて、シューマンの に変更とある。曲目変更はときどきあることだから、あまり気にはしなかった。ようやく、2時40分に、ホールに誘導される。開演予定まで15分しかない。15分でみながすわれるか???? と思っていると、場内アナウンスで3時15分から開演とあった。この時点で、わたしは、直観的に15分には始まらないだろうと感じた。案の定、15分になってもはじまらない。始まりそうな兆候さえない。
しびれをきらした観客のひとりが、「いつ、始まるんですか」との大きな声。それに、共鳴した観客がわずかだが拍手がおこる。そのうち、ひとりの女性が立って、「みなさん、落ち着いて待ちましょう」というようなことを言い、これに対してまた拍手がちらほら。そうこうするうちに、再びアナウンスで、演奏順が変わるという。スメタナ「モルダウ」、ショパン「交響曲2番」、ドボルザーク「新世界から」が、スメタナ「モルダウ」、ドボルザーク「新世界から」、ショパン「交響曲2番」になるというのだ。どうも、ブーニンさんが、調子でも悪いのかとの憶測が頭をもたげてきた。
やはりそうだった。スメタナ「モルダウ」、ドボルザーク「新世界から」が終わり、休憩15分をはさんで、ブーニンさんがステージに現れ、この一週間ほど体調が悪く、今日は演奏できる状態ではないが、シューマンの「ピアノ協奏曲」の最初の部分のみ演奏する、と挨拶。拍手のなかで、ブーニンさんの演奏が始まった。息をのむような気分。やはり、元気がない。それでも、いつものやわらかい音色はさすがだった。