【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

マヌエル・ブイク・堤康徳『グレタ・ガルボの眼』青土社、1999年

2007-09-30 13:38:53 | 映画

マヌエル・ブイク、堤康徳訳『グレタ・ガルボの眼』青土社、1999年
                   
 「訳者あとがき」の「解説」部分が行き届いています。それによると、本書は「フィクションという形をとった映画名作選」で、イタリアの雑誌「コーラス」に発表され、イタリアでは
1991
年に出版社レオナルドから刊行されました。

 「映画的手法をとりいれたこれまでのプイグの小説と同じように、手紙や対話の形式が・・効果的に使われている(が)、・・・これまでの作品とちがうのうは、映画そのものが主題となった点である。もっと正確に言うと、本書の主役は、映画のヴィデオテープである」
(pp.112-113)
とのことです。

 かつて観た懐かしい映画が紹介されています、「自転車泥棒」「無防備都市」「戦火のかなた」「輪舞」「メトロポリス」「木靴の樹」「にがい米」「歴史は女で作られる」等々。俳優も懐かしい、「ジーナ・ロロブリジダ」「シルヴァーナ・マンガノ」「グレタ・ガルボ」等々。

 著者はアルゼンチンの作家、小説『蜘蛛女のキス』で有名です。
1956年ごろ映画実験センターで学び、映画監督、脚本家を目指していたらしいです。3000
本以上のビデオ・コレクターでもあるそうな。

 「あとがき」にはさらに、本書のなかで示された「ネオ・リアリズモの功罪」、「親から子へ」「子から親へ」の視線、「映画史から早くも忘れ去られようとしている傑作」に対するプイグのまなざしに言及があります。

おしまい。


劣化する日本人 香山リカ『なぜ日本人は劣化したか』(新書)講談社、2007年

2007-09-30 13:30:08 | 評論/評伝/自伝

香山リカ『なぜ日本人は劣化したか』(新書)講談社、2007年
                   なぜ日本人は劣化したか

 劣化してしまった日本人はいたるところに見られます。本が読めない人、使命感のない医者、「正当な権利」と「個人の身勝手」をはきちがえる人、「不可」をもらってひきこもってしまう学生、ゲーム愛好家の想像力の欠如。全階層、全分野、全世代に「劣化」が急速に進行しています。

 その具体的現状と、理由をさぐるのが本書ですが、著者はそれを新自由主義政策の結果とみています。

 「アメリカ同様、日本でもこの新自由主義が、結果的にさまざまなレベルでの人や社会の劣化を招く要因となったことは、否定しようもない。『百害あって一利なし』とまでは言わないが、グローバリズムや新自由主義、もっと言えば強者の論理に基づく市場主義や拝金主義は、日本を一流国にしなかったどころか、もともとあった”良いもの”までを次々に奪ってしまったのである」
(p.138)
。これが著者の診断です。

 それでは、これをどう治療したらよいのか? 著者はまず、「自分たちは劣化している」という認識をもたせ、「劣化は結局のところ損だ」という思いをもたせることが重要と説き、そのうえで支援を基礎とした互酬的な関係の構築、利他的な関係の実現にまでもっていくこと、さらに「個人的な課題を社会的な問題としてとらえ直す」ことの大切さを提言しています。

 劣化の一例として、今どきの若者がゲームソフトで壮大なRPGを面倒くさく思うようになり、手軽な実用ゲームへ関心を移行させているとの指摘[
p.67
以降]も面白かったです。

おしまい。


高橋哲哉・斉藤貴男『平和と平等をあきらめない』晶文社、2002年

2007-09-29 00:49:43 | 科学論/哲学/思想/宗教

高橋哲哉・斉藤貴男『平和と平等をあきらめない』晶文社、2002年
                        平和と平等をあきらめない
 「戦争と差別の時代」。新国家主義、新自由主義が吹き荒れ、社会ダーウィニズムが社会の隅々まではびこり、国民の生活保守主義がこれを受け入れる構造に警告を発しています。

 憲法、教育基本法を護る闘いは、いまや背水の陣との認識(斎藤 p.282)。憲法9条は世界にひろめることが必要だし(高橋 p.275)、平和国家の外交のカードとして使えるはずだといいます。

 憲法はアメリカに押し付けられたという人がいるが、いまの改憲論議も結局、アメリカのいいなりではないか?

 「9条がなくなった日は、アメリカがこれから世界でやる戦争に全部くっついていかなければならない」(p.276)と斉藤氏は言います。

 愛国心を育てる教育は、結局「お国のために犠牲になる」人間を育てようという狙いがあります。その「お国」とは「国体」、司馬遼太郎の用語で言えば「この国のかたち」、これは「罪深い言葉」との言及があります(p.129)。

 教育改革も、司法改革も最悪のところに来ているというのが両者の認識です。COEなどの予算で誘導する文科省の政策は「金儲けだけが尊いなどという、ばかげた価値観」を生み出し、競争に駆り立てられ「考える時間は確実に減」らされる結果を招く、法科大学院制度の導入は経済的に豊かな人でないと法曹界に入っていけない仕組みをつくりだしたと批判しています(p.173)。

 高橋氏は東大教授、哲学専攻。斎藤貴男氏はジャーナリスト。熱い対談になっています。

おしまい。


中国映画の現在

2007-09-26 23:53:34 | 映画

藤井省三『中国映画ー百年を描く、百年を読む』岩波書店、2002年。
           中国映画―百年を描く、百年を読む


 中国、香港、台湾の映画を歴史と社会のコンテクストに納めて読み解いています。中国語圏映画批評の集大成(p.245)です。

 第一章から第三章までが中国映画、第四章が香港映画、第五章が台湾の映画の解説と評価にあてられています。

 中国映画を熱かった3つの章は歴史を「動乱の中華民国期」、「恐怖の毛沢東時代」「小平時代から世紀末・新世紀へ」と区分され、26本の映画が紹介されています。

 陳凱歌監督の「さらば、わが愛」は、「世界映画市場においてエンターテイメントとしての中国映画の地位を確立したが、・・・第五世代の批判精神を喪失して限りなくハリウッドの商業主義、オリエンタリズムに傾斜している」(p.75)と手厳しく批判されています(わたしはこの映画が好きですが・・・)。

 また、「初恋のきた道」の張芸謀監督に対しては「『活きる』のようなすぐれた文革映画を製作できる優れた才能の持ち主なのだが、器用すぎるのであるか、時としてハリウッド映画のお手軽なラブストーリーを借りてきて、中国版の矛盾だらけのメルヘンを作ってしまう困った監督」と評しています(p.85)。

 「変臉」「紅夢」「「春桃」「紅いコーリャン」「南京1937」「乳泉村の子」「青い凧」「活きる」「シュウシュウの季節」「秋菊の物語」「山の郵便配達」「心の香」、以上がわたしが既に見ていて、この本で紹介されている作品です。

 映画の背後にある歴史に触れ、そして場合によっては原作と対比しながら解説するという著者のねらいは成功しています。得がたい中国映画論。香港映画、台湾映画には疎いので格好のガイドブックになりそうです。

おしまい。


乙川優三郎『露の玉垣』新潮社、2007年

2007-09-24 17:22:38 | 歴史

乙川優三郎『露の玉垣』新潮社、2007年
                               
 天明6年(1786年)に新発田藩の溝口家の家臣の譜を編み始めた溝口半兵衛長裕(31歳の若さで家老になる)。藩の正史(廟記)の編纂を終えてからのことです。

 藩を襲った飢饉と財政難、火災、洪水のなかでこつこつと書きつづけられたのが、この家臣の記録です。6年後の寛永4年に一度脱稿。文化8年まで訂正、加筆を続け約25年、19巻10冊の「世臣譜」がまとめられました。

 この「世臣譜」は当初、「露の玉垣」と題されていたらしいが、著者はこの題名に触発されて、小説を書こうという動機をもらったといいます(著者による短い「あとがき」から)。

 半兵衛長裕の執筆の経緯は、最初の小説「乙路」に詳しいです。続く「新しい命」「きのう玉蔭」「晩秋」「静かな川」「異人の家」「宿敵」「遠い松原」の6編には、新発田藩の当時の武家の生活環境、人間関係、家のなかのそれぞれの男と女の思いが偲ばれます。

 飢饉、冷害、水害は繰り返し、この地を襲った。義務である江戸詰、普請があれば、家の困窮は極まりました。指導力、知恵、才覚がもとめられるが、しかし理不尽な階級関係のなかでの生活。思うとおりは到底生きられず、武士のはしくれでる男性は責任をとるために切腹や自裁に追い込まれ、女性は子を生めないからと離縁されたり、食い扶持を確保するために半ば進んで育介(いくかい)を引き受けました。

 「小藩の家臣の移ろいやすい運命と、窮乏に喘ぎながらも主家を支えてきた彼らの思い」が著者の筆によってなった雅文に織り込まれ、しばし時を忘れて当時の世界にのめり込みました。幸福な時間であした。

 「きのう玉蔭」「静かな川」「宿敵」にとりわけ感銘を受けました。今年、出会った最良の書です。

 
おしまい。


池澤夏樹のファンタジーの世界

2007-09-23 17:58:59 | 詩/絵本/童話/児童文学
池澤夏樹『キップをなくして』角川書店、2005年
              キップをなくして
 池澤夏樹の独特のファンタジー。

 偶然に一箇所に集まった子どもたちの共同生活。鉄道の世界、死とは何かを問いかける。

 切手収集が趣味の小学生、イタル(遠山至)が有楽町にある切手店に行こうと有楽町で改札を出ようとしたがキップがない。

 女性のフタバコに呼びかけられ、東京駅にある詰所に連れて行かれると、そこには大勢の子供たちがいた。彼らは改札をくぐって外に出ることなく、そこで生活している。食事は駅構内の食堂で、必要なものは持ち主のいない遺失物でまかなっていた。電車は乗りたい放題。そして、彼らは駅員さん、車掌さん、食堂のおばさん、キオスクのおばさんに見守られながら生きている。そして、彼らの仕事は、登校する小学生が安全に学校に通えるように、プラットフォームや電車のなかでのトラブルにあわないように、また危険なときには超能力で時間をとめて助けること。

 彼等は人呼んでステーション・キッズ。ユニークな連中ばかりだ。ちょっと変わった集団で、変わり者がたくさんいた。フタバコさん、ロック、ポック、フクシマケン、タカギタミオ、ユータ、いつも一緒の緑、馨、泉。

 その中にミンちゃんという女の子がいて、ほとんど何も食べない。駅長さんに聞くと、彼女はプラットフォームから落ちで轢死したのだった。まだ、あの世に往けないで、詰所で暮らしていた。

 イタルはミンちゃんと一緒に目白に住むお母さんに会いにいく。そして、お母さんとの出会いのあと、ミンちゃんは北海道のグランマのところに行くといいだし、これが発展してステーション・キッズ皆なの旅行に。日高の方面の春立、というところでミンちゃんとはお別れ。彼女はもうひとつの世界にグランマに手をひかれて旅立っていった。キッズは東京に帰って解散。自身の家のドアを叩くのだった。

 こんな筋です。久しぶりに魂が子どもの世界に戻ったような気がしました。切手のコレクションとか、蒸気機関車とか、駅弁とか・・・。懐かしいものがたくさん出てきます。しかし、設定は特殊な空間。テーマは「死」です。

戸坂潤と私ー常とはなる愛と形見と

2007-09-23 00:45:48 | 評論/評伝/自伝
光成秀子『戸坂潤と私ー常とはなる愛と形見と』晩声社、1977年

 東京神田区に私生児として生まれ、観念論的空間論(新カント派)から出発しながら戦闘的唯物論、マルクス主義者となって論陣をはり(『科学論』『日本イデオロギー論』など)、ファッショ的軍国主義下の弾圧と闘い、思想犯として逮捕、投獄され、敗戦直前に長野刑務所で獄死した戸坂潤(1900-1945)。

 本書は著者による、戸坂潤との出会い、生活、別れの私記。というのも戸坂潤は最初の妻と死別、再婚したが、本書の著者は愛人であり、子もいた。戸坂と著者は、いわば自由恋愛の関係にあった。

 著者は戸坂の仕事を、唯物論研究会の活動などを通じて理解し、また性関係で貪欲であった。そうしたことが赤裸々に、激しく、綿々と書き込まれている(文章はくせがあって読みにくい)。

 戸坂は母(おふくろさん)の秘蔵子であったので、著者にしてみれば正式の妻とおふくろさんに対し、時には嫉妬が顔をのぞかせ、時には精神をさいなまれ、苦しんだが、戸坂と一緒に居るときは彼を溺愛し、離さなかった。そういうことが明け透けに記述されている。

 いろいろな人が出てくる。田中清玄、西田幾多郎、田辺元、小林多喜二、古在由重、等々。

 また、2・26事件のその日の様子、終戦間際の米軍機空襲など、時代を見る庶民の眼がある。

 著者(1907-)は広島県に生まれ、軍人と結婚したが、夫の女遊びが原因で離婚。20歳代には喫茶店の女給として働きながら(ここで戸坂と出会う)、救援会活動に参加、以後、唯物論研究会に参加する一方、出版社、新聞社など職を転々とし、戸坂との間に生まれた女の子(明美)を育て、戦後、共産党に入党、船橋市の市会議員をつとめた。

 この本の執筆の動機は、本多顕彰氏が『指導者ーこの人々を見よー』(光文社、1955年)で、科学者としての戸坂潤を評価しながら「その私生活では批判の余地がある」と書いたのを、1972年になって偶然に著者の目に入り、私生活の本当のことを書かなければならないと思い立ったことのようである。

 たぶん、この本が出版された頃に、センセーショナルな話題になり、購入したまま、読むことなく今日まできたが、読みとおしてよかった。

おしまい。

トルコ旅行覚書③

2007-09-13 17:52:59 | 旅行/温泉

イスラム教のこと

 日本人には分かりにくいイスラム教。誤解もあり、イスラム教は怖いと思ったり、テロを連想する人がいますが、おおいなる間違いです。

 世界3代宗教のひとつです。610年マホメットが啓示を受け、メッカで創始し、以来アラビア全土に広まりました。トルコはイスラム教徒の9割を占めるスンニ派が主流です。マホメットがアラー神から受けた啓示を集めたコーランが教典です。コーランを学ぶにはアラビア語からの翻訳が必要です。しかし、祈祷はかならずアラビア語で行われます。翻訳すると解釈がそこに入ってきたりすることがあるので、分かって分からなくてもアラビア語で行われるそうです。

 イスラム教では次の6
つが重要です。
① 信仰告白:「アラーのほかに神はなく、マホメットは神の信徒である」と唱えること。②洗礼:1日に5回メッカに向かって祈る。③喜捨:富める者は貧しい者に施しをする。④断食:イスラム暦第9月に30日間行う。⑤巡礼:一生に一度はメッカに詣でる。⑥偶像崇拝の禁止。

 イスラム教の戒律は生活の隅々にまで及んでいます。休日の金曜日の正午にはモスクに行って集団礼拝するのが普通。豚肉は食べず、飲酒も禁じられています。断食(ラマダン)の1ヶ月は日の出から日没まで水を含めて一切の飲食を絶たなければなりません。

 街を歩くとスカーフを被った女性をたくさんみかけます。政教分離ですから、公務員は仕事場でのスカーフは禁止されているとか。

 モスクはイスラムの象徴です。そこでは多くの人が祈りをささげています。


 おしまい。


トルコ旅行覚書②

2007-09-11 18:07:11 | 旅行/温泉

トルコの歴史

 トルコの歴史と言ってもどのように書いたらよいのかわかりません。ブログに日記風に書き込むのだから、詳細は無理です。旅行中にしいれた知識を中心に、以下に簡単にまとめます。

 まず、現在のトルコは共和国で、ケマル・パシャ(アタチュルク)の力によって生まれ変わりました。1923年のことです。イスタンブールの街には、彼の肖像があちこちにみられます。丁度、旅行中の8月30日が建国日とのことでした。アタチュルクは初代大統領で、首都をアンカラにおき、政教分離、近代ヨーロッパ法の採用など、トルコの近代化につとめました。

 もちろん、現在のトルコの大半はトルコ人ですが、この民族はもともとはウラル=アルタイ語族でアジア系でした。紀元前2000年ころに小アジアの原住民を征服したのは、ヒッタイトです。ヒッタイトは紀元前1650年ころに北シリアからエーゲ海にかけて大帝国を築きました。その後、ヒッタイト帝国など東地中海が倒れ、アッシリア帝国がこれに代わり、紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシャが勃興し、小アジアを支配しました。しかし、この国はマケドニアのアレキサンダー大王の東方遠征によって滅ぼされます。アレクサンダーの死後、小アジアはベルガモン、セレウコス朝シリアに分割されます。この時代が、ヘレニズム時代です。

 そして、ローマ帝国の支配下になります。帝国の首都はローマからコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)に移されました。そのローマ帝国も4世紀に東西に分裂後、小アジアは東ローマ帝国の版図となりました。この時代には生まれたのが、ヘレニズム文化とギリシャ正教とが融合したビザンチン文化です。

 トルコ人は上述のように、アジア、それもモンゴル高原のあたりを拠点としていましたが、9世紀後半に中央アジアに移動、イスラム教の影響を受けました。そのなかのセルジュク族が11世紀にセルジューク朝(首都はコンヤ)を開き、バグダットに入ります。彼らは小アジアにも進出して、ビザンチン帝国と対峙、200年間ほど十字軍と戦います。

 オスマン・トルコはセルジューク朝に属してオスマン・トルコ族のオスマン1世が1299年に小アジア西部に建国したイスラム国家です。最初の首都はブルサ、その後アドリアノープルからイスタンブールへと遷都、16世紀のスレイマン1世のころに最盛期でした。勢力は非常に大きく、ヨーロッパのキリスト教から恐れられました。そのオスマントルコも徐々に衰退し、第一次世界大戦の結果、領土を削られ、さらにギリシャの侵入があり、危機に瀕します。ここに登場したのが、ケマル・パシャで、彼は国民軍を指揮してギリシャを破り、スルタン制を廃止して、オスマントルコを集結させ、近代国家の道を進む先頭にたちました。

 トルコは歴史の大舞台です。おしまい。


トルコは魅力的な国です

2007-09-09 16:03:48 | 旅行/温泉

 トルコに行ってきました。イスタンブール、イズミール、パナッカム、エフェソス、カッパドキアとまわってきました。トルコについては、日本ではほとんど知られていません。また、トルコの人のなかには親日家が少なくなく、また田舎にいくと日本人を見たことがないトルコ人が多く、近くに親しげによってきて、写真に入ってくれと言われたりします。いずれにしても、ほとんど情報の行き来がないのです。それで、数回に分けて、トルコを紹介します。

 わたしは大学入試の社会の科目で「世界史」を受験しましたが、そのときに学んだ、ボスフォラス海峡、ダーダネルス海峡など、教科書で学んだ場所を今回、目の当たりにしたことに感動しました。トルコは日本の約2倍の面積(75万平方キロ)、人口は7500万人、イスタンブールの人口は1300万人です。99%が「イスラム教信者、しかしイスラム世界では、唯一の政教分離の国です。

 イスタンブールは、マルマラ海をはさむこの2つの海峡のよって、ヨーロッパ地域と、アジア地域とに別れています。日差しの強い一日、この海峡を渡りました。約30-40分くらいかかります。この海峡をまたいで大きな長い橋がかかっていますが、これは日本の石川島播磨によるものとか、また今、ボスフォラス海峡の下の地下道を掘って、ヨーロッパ地域とアジア地域を結ぶ計画が進行中ですが、これは大成建設が担っているということでした。

 歴史的に、このイスタンブールがさまざまな文化が交錯する地であり、政治・経済の情報が飛び交う地であり、十字軍の通路であり、シルクロードのはずれであったことはよく知られています。いまでも、シリア、イラン、イラク、ブルガリア、ギリシャ、アゼルバイジャンなどに囲まれ、軍事的な緊張を強いられています。そのため、財政の30%近くが、軍事費で削られ、徴兵制(男子のみ、過去には18ヶ月、現在15ヶ月)もあります。

 イスタンブールでは、アヤ・ソフィア、ブルー・モスク、トプカプ宮殿を回りました。この3つの建物は、ヨーロッパ側にほとんど一箇所に固まるように並んでいます。全部ゆっくりみると最低でも半日かかります。

  ブルー・モスクは正式の名前を「スルタン・アフメット・ジャミイ」と言います。内部装飾に使われているイズニック産のブルーのタイルがあまりにも綺麗なのでブルー・モスクと呼ばれているそうです。高さ43メートル、直径23.5メートル、周囲に6本のミナレット(尖塔)を持ちます。17世紀にスルタン・アフネットにより建設されました。

 アヤ・ソフィアは、直径30メートル、高さ54メートルのビザンチン建築の巨大ドームです。ローマ時代にキリスト教会として建てられましたが、第4次十字軍、オスマン・トルコ軍に略奪されました。ビザンチン美術の傑作ともういうべきモザイク画(「キリストを抱いた聖母マリア」など)が並んでいます。

 トプカプ宮殿は、15世紀にイスタンブールを征服したメフメト2世にとって建設され、1839年にアブドゥル・メジト1世によって増築されました。トプカプの意味は、トプが「大砲」、カプは「門」です。この宮殿には、オスマン・トルコ時代の至宝が展示されています。ルビー、サファイア,ダイアモンドで飾られた、王冠、玉座などが陳列されていました。財宝には、あまり興味がありませんが、かつての権力の極地を知ることができます。[一部は、いま東京の都美術館で展示されています(未見)]。中門をぬけて、第2庭園の右側にはユニークな建物がありますが、ここはかつての厨房です。いまでは、陶磁器の展示室になっています。第4庭園の奥にあるメジディエ・キョシュキュとバグダット・キョシュキュからの海峡の眺望はすばらしく異国的です。

 次回は、トルコの歴史について・・・・。今日はおしまい。