【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

「刑務所のリタ・ヘイワース」(スティーヴン・キング「ゴールデンボーイ」[新潮文庫]所収)

2018-01-21 18:25:55 | 小説

中編小説「刑務所のリタ・ヘイワース」は「ショーシャンクの空に」という題名で映画化されました。わたしはこのブログで、それを本年1月3日に紹介しました。映画を観たので原作にあたってみました。

 「リタ・ヘイワース」はハリウッドの有名な人気女優です。妻とその不倫の相手を銃殺したとの疑いをかけられ、刑務所に入った主人公のアンディが、独房の壁にはっていたのが大きなリタ・ヘイワースのポスターでした。

 映画は原作に忠実といっていいと思います。というか、むしろ、この中編小説をよくあれだけの映画にそのまま再現したと感心します。あえて大きな違いを指摘すると、小説では主人公のアンディは比較的小さな男ですが、映画でアンディを演じたティム・ロビンスは大柄な好男子です。

 主人公のアンディは壁を少しづつけずって細いトンネルをつくり脱獄するのですから、小柄な主人公というのは理解できます。

村松友視「時代屋の女房」角川書店、1982年

2017-12-22 20:32:47 | 小説

       

 昨日、紹介した映画「時代屋の女房」の原作を読む。村松友視の作品である。それほど長い小説ではない。短編といってもいいほどである。


 小説をもとにした映画はよく原作に忠実かどうかがひとつの見方の基準になるが、その観点からみると骨董品屋の「時代屋」の様子は見事に再現されている。場所の設定はほぼ小説に書かれているとおりで、その記述の映像化に感心した。時代屋の一階の雑然と並んだ商品の様子、二階が主人である安さんの寝床であり、住処であるが、その周りにも商品が並んでいる様子もそのまま映像化されている。

 主人公の真弓が並んだ骨董品のなかから「涙壺」をとりあげている様子もそのままで、夏目雅子の演技を彷彿させる。真弓が連れ込んだノラ猫のアブサンのことは丁寧に書き込まれてる。映像ではネコは演技をしないので印象が薄いが、小説では文字の力で描写は細かい。

 安さんがなぜこの骨董屋を始めたのか、またどのように大井町のその場所で店を開いたのかは、映画ではよくわからなかったが、小説では詳しく説明されている。父との葛藤もあって、安さん子どもの頃から好きだったその商売を始めたということである。最初は消極的姿勢でいわば食べていくために始めた骨董屋なのだが、真弓があらわれて姿勢が変わることも小説ではわかりやすい。ついで言えば、映画では真弓が安さんと結婚しているのか、単に同棲しているのかは不明で、タイトルが「時代屋の女房」なので結婚しているらしいと判断したのだが、小説では結婚しているときちんと書かれてる。


 安さんの周囲の人間関係も、映画は割と原作のとおりである。ただ夏目雅子が二役で演じた美郷の役割は小説では小さい。映画のほうがしっかり登場している感がある。関連して盛岡で展開される旅館での騒動は小説にはない。この部分、すなわち映画の後半部分は、脚本段階での創作と思われる。他にも、安さんの伯母にあたる人物は小説では出てこない。

 この本には、他に短編「泪橋」が収録されている。


加藤大介「南の島に雪が降る」(知恵の森文庫)、2004年

2017-12-12 11:33:16 | 小説

                

 作者の加藤大介は舞台俳優。明治44年生まれ。昭和4年に二代目市川左団次のもとに入門。昭和8年に前進座に入座。18年衛生伍長として応召、21年に復員。戦後は舞台、映画、テレビで活躍しました。


 この小説は、加藤さんが戦中、パプア・ニューギニアで兵隊生活をおくっていた最中、隊のなかに芸達者なものが多くいたこと、師団の隊長に理解があったことで、「マノクワリ歌舞伎座」を立ち上げ、兵隊生活で疲弊したいた男たちを精神的に支えたという実話です。奇跡のような話ですが、本当にあったことでした。

 戦闘の話は一切でてきませんが、食糧難、病気の蔓延、戦死の報などは出てきます。

 「マノクワリ歌舞伎座」には、加藤さんはじめ、浪曲をうなるもの、三味線をひくものの他、大道具、小道具、衣装、カツラを作る人がいました。加藤さんはかれらをたばね、稽古をかさねました。舞台は隊のなかで人気を博し、ニューギニアに駐屯していた兵士たちがかわりばんに観に来ていました。入場料は、お芋だったようです。

 タイトルの「南の島に雪が降る」はこの一座が、負傷した東北出身の兵士が「雪を見たい」と死の直前にもらしたのを聞いて、その場面を彷彿させる演目を披露したことから来ています。


松本侑子『恋の蛍-山崎富栄と太宰治』光文社、2009年

2017-04-26 18:07:56 | 小説

             

 太宰治が山崎富栄と玉川上水で心中したのは、1948年6月である。


 今から考えると、売れっ子作家だった太宰は当時結核をわずらい、アルコール依存症、不眠症の状態にあり、独自の作風も限界に近づいていた。志賀直哉、井伏鱒二と敵対し、そして家族とは断絶し、極限状況にあった。常に死をちらつかせながら生き、実際に数度の心中事件を起こしている。

 山崎富江についてはあまり知られていない。評判はよくない。亀井勝一郎、臼井吉美は山崎が太宰の首をしばって、玉川上水にひきずりこんだかのようにとなえ、この説が影響力をもって、定着しているふしもある。

 本書はこのいわれない富栄に対する誹謗中傷を否定し、富栄の名誉回復をはかった。富栄は実際には聡明な知的女性である。若くして英語、フランス語、ロシア語をまなび、まじめな女性であった。父は日本の美容業の先駆者で、富栄がまだ小さいかったころからしっかりとした女性に育て、ゆくゆくは後継者に考えていた。

 富栄は一度、結婚している。夫は三井物産の社員で、結婚後、フィリピンで現地召集され、戦死した。富江の結婚生活は、わずか10日間ほどであった。

 富江は夫が生きていると信じて待ったが、念願はかなわなかった。富栄には兄が3人、姉が1人いた。しかし、姉は生後すぐになくなり、兄も病気で次々と病死した。年一という名の兄とは年齢も近く、よく一緒に遊んだ。その年一は旧制弘前中学にまなんだが、太宰もその学校に通っていた。ほとんど同期である。富栄はまだ小さかった頃、父に連れられて弘前の年一のところに遊びにいっている。その年一は、若くして病死した。

 太宰と面識のあった富栄の友人、今野貞子は、富栄に太宰が弘前中学に在学していたことを教え、太宰に紹介する。富栄は兄の年一のことを少しでも知ることができると思い、太宰とあう。三鷹のうどんやの屋台で、である。1947年3月末のこと。

 お互いに直観的にひかれあうものがあったのかもしれないし、太宰一流の話術的魅力があったのかもしれない。富栄は富栄で、日々の美容院での仕事(その頃、その仕事にたずさあわっていた)のなかでの会話には欠けている、太宰の知的な話に惹かれたのかもしれない。ふたりは急速に親しくなり、同棲生活に入る。太宰には、妻と3人の子供があり、また太田静子という愛人(「斜陽」の資料として使われた日記を書いた女性)がいたのだけれども。

 富栄は太宰に私的生活はもとより、創作活動の助手のようなこともし、もっていたかなりの額の貯金を全て太宰のために使った。

 ふたりは一緒に死ぬことを語り合っていた。すでに心中の一年前に、富栄は遺書を書いている。真面目で一途なところがある富栄は、太宰から離れられなくなっていた。一心同体であった。誰がその私生活をただすことことを忠告しても、聞く耳はなかった。

 富栄が太宰を殺したというのも、彼女が知的レベルの低い女だというのも、事実無根である。本書はそのことをつぶさに明らかにしている。

 


松本侑子『みすゞと雅輔』新潮社、2017年

2017-04-18 11:03:45 | 小説

         

 昭和初期に多くの童謡をよんだ金子みすゞの名は、矢崎節夫氏が彼女の手帖を「発掘」、紹介して以来、一気にひろがった。故郷には記念館があり、在りし日のみすゞの面影を伝えている。


 この本は、そのみすゞと弟の正祐との関係をフィクションで仕立てたもの。フィクションと言っても素材は、正祐が遺した膨大な日記とみすゞと正祐との往復書簡なので、リアルである。視点は主として正祐からみた、当時の彼自身の生活と姉弟関係である。

 みすゞが詩の投稿で島田忠夫と競っていたこと、西条八十との関係(一度会っている)、自分の500余の詩を推敲しながら3部清書していたこと、出版を願っていたことなどを知ることができた。

 また正祐は正祐で個性的な人物で、才能もあり、数度、東京に出て古川ロッパ、菊池寛らと関係をもっていたことなども新しい知見で眼のうろこが落ちた。

 著者の松本侑子さんの筆は達者で、読ませる本にできあがっている。構成は次のとおり。
・序章「電報」
・第一章「カチューシャの唄」中山晋平
・第二章「赤い鳥」鈴木三重吉
・第三章「かなりあ」西条八十
・第四章「片恋」北原白秋
・第五章「金の鈴」上山正祐
・第六章「芝居小屋」金子みすゞ
・第七章 関東大震災
・第八章「大漁」金子みすゞ
・第九章「沼」島田忠夫
・第十章  結婚
・第十一章 『ジャン・クリストフ』ロマン・ロラン
・第十二章  芸妓花千代
・第十三章「映画時代」古川緑波
・第十四章「東京行進曲」菊池寛
・第十五章「鯨法会」金子みすゞ
・第十六章『復活』トルストイ
・終章  朝日丸
































 

 


李恢成「伽倻子のために」(新潮文庫,1975年)

2017-03-24 21:10:56 | 小説

 「伽倻子のために」を読了しました。樺太からわたってきた父のもとを離れ、東京の大学で学ぶ主人公・林相俊(イム・サンジェニ)。種々の偏見のなかで二世として生きていくなかで、朝鮮人の家庭に育った日本人・伽倻子と出会い、生活(同棲)し、そして別れていく。サンジュは「伽倻子のために」何ができたのだろうか?

 直前に小栗康平監督の映画を観ていたので、どうしても原作と映画との相違が気になります。


 この原作では朝鮮人の二世が日本で生活していくことの難しさ、心の問題が細かく丁寧に書かれています。またサンジュニが大学で演劇(構成劇「白頭山をめざす若者たち」)に関わり活動する様子も紹介されています。50年代末以降の朝鮮帰還運動も背景に登場し、友人の女性・崔明姫が登場します。彼女はサンジュニに少ないくない影響を与えていますが、映画には出てきません。

 伽倻子についても、幼少期に不幸があったこと、東京での相 との同棲生活から故郷にもどってからバーの男と関わったこと、その後、その男ともわかれ別の結婚生活が始まり、美和子という女の子を産んだことなど、映画で描かれているよりも深刻な人生をおくっています。


       


ヘミングウェイ「誰がために鐘は鳴る」(新潮文庫)

2016-10-28 01:02:04 | 小説

       

 2か月ほどかかってヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る」を読了しました。映画を観て、原作に関心をもったからです。


 原作者のヘミングウェイはこの映画を観て、失望したと伝えられています。最後まで見ることなく、退席してしまったとの話もあります。

 原作と映画の関係の難しさがあります。まず映画は2時間ほど、小説は読み始めると終わるまで相当かかります。2時間では、到底読めません。この制約は大きいです。映画の2時間は結構長いです。この間、途中でわからいところがあっても振り返ることはできません。読書ではそれができます。数ページ前から読み直すとかできます。また2時間、あきてしまって、退屈する映画は困りものです。観客をひきつけなければなりません。小説も退屈する叙述がえんえんと続くのは経営したいところですが、それでも何度も読み返すことで理解が深まり、面白くなるということはよくあることです。映画も最近はDVD化され、見直したりすることができるようになり、それは歓迎ですが、やはり映画は即興的に面白くないとなかなか受け入れてもらえないメディアです。

 話を戻して、「誰がために鐘は鳴る」の原作と映画との関係で言えば、映画のほうはゲーリー・クーパー演じるロベルト・ジョーダンとイングリット・バーグマン演じるマリアの恋愛がよりクローズアップされています。小説でも、二人の関係は重要で細かく描かれていますが、それはあくまでもスぺイン内戦の一齣での話です。小説ではロベルトが山中のゲリラ部隊に参入し、目的である橋梁の爆破という任務遂行がメインテーマで、ロベルトとマリアの恋愛はエピソードという感じです(エピソードというよりもっと大きな扱いかもしれませんが、映画の取り上げ方とはだいぶ違います)。

 原作と映画との関係は微妙で、(1)映画が原作の案だけをかりて、独創的に作られる場合、(2)原作に丁寧に忠実に映画に描く場合、(3)原作のある表層を切り取って映画化する場合、などいろいろです。「誰がために鐘は鳴る」は(3)でしょうか。

 注意しなければならないのは、映画を観て小説を読んだことにはならないことです。極端な場合、最後の部分(いわば結論)が全く違うこともあるので、要注意です。「誰がために鐘は鳴る」も最後の場面は負傷したロベルトとマリアの別れ、そしてロベルトの死ですが、描写の仕方は微妙に違います。






 

 


ロマン・ローラン/豊島与志雄訳『ジャン・クリストフ』岩波文庫

2016-09-17 11:40:16 | 小説

          

 3か月ほどかかって「ジャン・クリストフ」全巻を読了しました。オリジナルは全10巻で、現行岩波文庫版では4冊に納められています。


 構成は、以下のとおりです。
 「第1章:暁」「第2章:朝」「第3章:青年」「第4章:反抗」「第5章:広場の市」「第6章:アントワネット」「第7章:家の中」「第8章:女友達」「第9章:燃える茨」「第10章:新しい日」

 クリストフが生まれてから亡くなるまでの波乱万丈の生涯が描かれています。ローランがこの小説で書きたかったことは、ひとことで言えば、西欧の当時の音楽世界にはびこっていた因習に対する批判であったと思います。

 ドイツのライン河のほとりで、宮廷音楽家の長男として生まれたクリストフは、父から厳しいピアノの手ほどきを受けます。才能もあり、次第に音楽家として大成しますが、生活は苦しく、もって生まれた強い個性のために敵が多く、苦しい生活が続きます。とくに音楽の世界、文明の世界に淀んでいた党派性、汚い批評のやりとりに批判を行い、その結果クリストフはその世界から締め出され、寂寞感にさいなまれます。しかし、生涯の親友オリヴィエや心寄せる女性もたくさん出てきて、このあたりには読者は癒されます。

  この小説が書かれた頃のことを念頭に置きながら読まないと、とても続けられません。映画もテレビもなかった時代、こういう長編小説は読み手にとって、大きな楽しみだったことと思われます。しかし、現代では、このようにとてつもなく長い小説は受け入れられないのではないでしょうか。


 事実、読んでいて退屈なところもたくさんありました。また、わかりずらいところもありました。とくにクリストフの当時の西洋の音楽的雰囲気に対する不満、批判、あるいはドイツに生まれたクリストフの母国ドイツやフランスの文化に対する感じ方は、すぐにはすとんと胸におちません。この小説は、若いころに読んだほうがよいという意見もしばしば耳にしますが、現代の高校生、大学生が読みとおすのは大変だと思いました。


 小説の構成としてみても、違和感のあるところは多かったです。ローランはどれだけ時間をかけて書き上げたのでしょうか。推敲などにどれだけ時間をさいたのでしょうか。内容はドラマティックなのですが、書き方が感情を煽るようなところは少なく、たんたんと、それもかなり抽象的な思惟の描写が長く続く箇所がめだちます。


 この小説はベートーヴェンの生涯が念頭にあると書かれたものがあります。クリストフは作曲家ですし、ローランに「ベートーヴェンの生涯」という有名な作品がありますから、クリストフの生き方、思想がベートーヴェンのそれとオーバーラップしているところがあるのかもしれませんが、素人のわたしにはそこまで読みこむ力がありません。

 ただ、子どもの頃のクリストフの家にベートーヴェンの絵がかけてあったり、クリストフがベートーヴェンよりも後期のブラームスの音楽にたいして感想をもたったりしている記述はあるので、クリストフがベートーヴェン自身ではありえません。


 長編小説に挑戦しようと思い立って3冊目が終わりました。トーマス・マン「ブデンブローグ家に人々」、谷崎潤一郎「細雪」、そして今回のロマン・ローラン「ジャン・クリストフ」です。次はヘミングウェイにしようと思っています。そのうち、ダンテの「神曲」を目指しています。

 


谷崎潤一郎『細雪』中公文庫、1983年

2016-05-26 01:04:07 | 小説

        

 谷崎潤一郎の『細雪』を読了(「長編(大河)小説への道」の第2回目。第1回目はトーマス・マン『ブテンブローグ家の人々』)。1月末から読み始めたので、4カ月かかっているが、3月半ばから4月はまるまる読んでいなかったので実質2か月半で読了したことになる。


 時代は1930年代後半、日本が戦争に向かい、軍靴の音が聞こえてくる時代。舞台設定は芦屋と東京。

 「細雪」という表題だが、内容は「蒔岡家の人々」ということになるであろう。あるいは「蒔岡家の四姉妹」。四姉妹の名前は、鶴子、幸子(ごりょうさん)、雪子(きあんちゃん)、妙子(こいさん)。蒔岡という大阪の船場で旧幕時代から続いた商家(今は斜陽の憂き目にあっている)の姉妹とその家族の日々の生活の様子を、絵巻物のようにゆったりとした時間のなかに描写したものである。流れるような文章が小説の内容によく似合っている。

 四姉妹のうち、上の二人、鶴子と幸子は結婚している。話は雪子の数度のお見合い(縁談)と妙子の破天荒な生活ぶりに蒔岡家の人々はふりまわされるという話である。視点は二女の幸子にある。

 市川昆監督「細雪」とはだいぶ違う。この映画を観て、小説を読む気になったのだが、内容がまるで違うことがわかった。もっともこの大河小説を映画化すとすれば、かなりの部分をざっくり切り落とさなければならないのは自明である。そして市川監督による映画は、大事なところはおさえており、そこに不当な改ざんはない。わたしが言いたいのは、この映画を観て、原作を読んだことには全くならないということだけである。

 例えば、原作にある蒔岡家の隣に外国人が暮らしていて、交流があったとか、大洪水との遭遇、雪子の顔のしみ、彼女のお見合いで蛍鑑賞の場面があること、妙子が大病に罹り死線を彷徨うこと、三宅という男性との間に子ができるが死産すること、などは映画にはまったく出てこない。

 終わりが妙である。ようやく決まった雪子の結婚。雪子は幸子夫妻とともに上京するのであるが、その雪子は数日前から腹具合が悪く、下痢をしている、当日になっても止まらず「汽車に乗ってからもまだ続いていた」と書かれて、終わっている。まことに妙な完結の仕方であり、気になった。


トーマス・マン『ブデンブローグ家の人々』(『トーマス・マン全集1』新潮社/森川俊夫訳)

2016-02-09 09:44:02 | 小説

       

 トーマス・マン『ブデンブローグ家の人々』を読了しました(画像は岩波文庫版ですが、わたしは新潮社から出た『トーマス・マン全集1』所収のものを読みました。森川俊夫訳です)。長編です。就寝前に少しづつ読み、2か月半かかりました。わたしにとっては、退屈な小説でした。200年ほど前の北ドイツの小さな都市にあった「商会」の3代にわたる物語で、いまからみれば時代が離れすぎ、また知らない地方の話で、興味があまりわかないのは至極当然、と自分をなっとくさせました。しかし、完読の達成感、醍醐味はあります。


  しかし、この長編を26歳のマンが執筆したというは、驚きです。最初は兄のハインリヒと共著の予定だったのが、体調が悪く、ひとりで書いたということです。マンはのちにノーベル文学賞を受賞しますが、この作品の評価が高かったようです。

わたしはこれから少しづつ長編小説を読み進めたいと計画しています。『ブデンブローグ家の人々』は、その手始めでした。なぜ、この作品を選んだかというと、高校時代に北杜夫の小説を読み漁っていましが、その彼が『ブデンブローグ家の人々』に傾倒し、その影響もあって『楡家の人々』を書いたということを知っていたからです。『楡家の人々』は、高校時代に読みました。これはなかなか面白かったです。歌人の斎藤茂吉の家系をあつかっていて、自伝的な要素もありましたが、北杜夫らしいユーモアもちりばめられていて飽きませんでした。『ブデンブローグ家の人々』を読んだのはそういう事情がありました。

  600ページに近い(上下2段)この小説のあらましを書くのは容易でありませんが、無理をして大筋だけ記すと以下のようになります。

  この作品は、商家ブッデンブロークスの繁栄と没落を描いたものです。冒頭はパーティーの場面。パーティーで祖父にかわいがってもらっている少女アントーニエ(トーニ)は、ヒロインです。トーニにはひそかに想いを寄せていた青年がいましたが、その想いは実現しませんでした。トーニには、グリューンリッヒという男と結婚しまする。最初の夫です。この結婚生活は、グリューンリッヒの破産で終わります。そして、トーニの父ヨハンの死によって第一部が終了します。

   父ヨハンの死によってブッデンブローク家の実権は、長男トーマスにゆだねられます。出戻りの妹トーニはペルマネーダーと二度目の結婚を果たしますが、再婚生活は彼の些細な捨て台詞であえなく崩壊してしまいます。一方弟のクリスチアンは体が弱いのを口実に仕事をせず、芝居に夢中になっている根っからの遊び人です。

 トーマスの結婚もうまくはいきません。疎遠な夫婦のあいだに生まれたハンノは、およそ商人には向かない内気な性格ですが、芸術的に豊かな才能を持ち、ピアノに天分を示します。将来に不安を抱え経営を任されたトーマス。あにはからんや、ブッデンブローク商会の経営は立ちゆかなくなり、トーマスは財産をめぐる母エリーザベトとの確執のもと次第に自信を失い、疲労をため込んでいきます。

 時代は進んで、母エリーザベトの死。トーマスは家の売却が決まります。永眠についた母の遺産をめぐって、トーマスとクリスチアンの兄弟喧嘩が始まります。仕事一徹の兄を冷酷だといって非難する遊び人の弟に対し「ぼくは君のようになりたくなかったからこうなったんだ」とつぶやくトーマス。

 心身ともに疲弊し、不出来な息子や妻の浮気によって何も信じられなくなったトーマスは、ふとしたきっかけでショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』を手に取ります。「死について」と題された章を一心不乱に読みふけり、その夜の寝室で哲学的真理に目覚めて嗚咽します。だがそれも一夜限りのことで、再びいつもの日常に戻るトーマスは、歯医者の帰りに転倒し、あっけなく帰らぬ人となります。妻からも同情されなかったトーニは、華やかな葬式の挙行で送られます。

 遺された一人息子ハンノ。学校での生活は、むなしい日々です。ハンノが戯れに弾く即興曲。そのハンノの早世によって物語は終わります。

 隆盛をきわめていた商家が、頽廃し没落していく様子は、トーマス・マン自身の家系の小説化です。


右遠俊郎『明治の碁-本因坊秀栄の生涯-』本の泉社、2002年

2014-03-16 22:08:21 | 小説

                 

 本因坊は、現在は囲碁の本因坊戦に優勝した棋士に与えられる称号であるが、もともとは碁の家元の一つ。安土桃山から江戸時代初期にかけて、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人に仕えた本因坊算砂が開祖である。


 本書は、その系譜上にいる秀栄の生涯を小説のかたちにしたもの。江戸時代からの囲碁の変遷もわかる。御城碁というものがあり、駿府城家康公御前での対局があったらしく(その最初の対局は1626年の中村道と安井算哲)、それが文久二年(1862)に中止になったあたりからこの小説は始まる。

 幕末の混乱期、御城碁を打てなかった秀甫と秀栄。秀甫は秀策なきあと本因坊家の第1の実力者であったが、丈和未亡人の反対で、本因坊家の跡目になれなかった。秀栄は第14世本因坊秀和の第二子として嘉永5年(1852)生まれた。5人兄弟で秀栄はその2番目(秀悦、秀栄、秀元の3人は本因坊を相続している)。秀栄は林家の養子となったが、兄秀悦の発狂後、本因坊家の跡継ぎになった。秀甫と秀栄の両者の確執を通して、また旧家元(当時、碁の宗家は、本因坊、井上、安井、林が4家元として存在した)と新興勢力「方円社」との確執とともに、当時の囲碁事情が面白く描かれている。

 「虚飾を排し、金銭に冷淡であった秀栄。権力に進んで迎合しようとしなかった代わりに、権力に反逆もしなかった清廉な碁士。財力に対しても小さく反抗し、分相応に寄生し、二つの戦争を乗りこえ、上昇する資本主義の流れに浮かび、囲碁会の高峰を極めた。本因坊秀栄、偉大な明治の典型的な碁士であった」(p.150)。明治40年2月10日没。

 『囲碁クラブ』<1968年7月号~1969年6月号)連載。

 巻末に、秀栄最後の対局(先:田村保寿6段)棋譜。[明治37年10月15日、於:麹町有楽町三井集会所]160手白中押し勝。


内田康夫『小樽殺人事件』光文社、1989年

2013-12-26 20:10:50 | 小説

              

 ある広告代理店の依頼で小樽に取材旅行に行くことになった浅見光彦。運の悪いことに、薄明の小樽港に船が入ったところで女性の漂流死体に遭遇する。


 女性は勝子という小山内家の人間だった。幕末の頃、蝦夷の開拓のために渡った豪族の末裔である小山内家は小樽では有数の旧家で、かつては大尽といわれたほどの素封家だった。いまではかつての威容はなく、長男章一が跡をついで何とかしのでいるありさまだった。この長男の姉が高島勝子でなかなかのヤリ手で、忍路にクラブをもっていた。章一の妻淑江はわけあって(落ちぶれた津田家を救うために)、本州からここに嫁いできた(勝子は淑江の義理の姉にあたる)。

 その淑江は、事情があってかなり年齢の離れたOLの麻衣子を小樽に誘う。息抜きの休暇とおもって飛んできた麻衣子だったが、この殺人事件に巻き込まれ、足止めをくう。さらに勝子の妹俊子が自分の部屋で不審な縊死。勝子、俊子二人の死亡現場には、謎の黒アゲハチョウがそえられていた。

 蝶の謎を究明するために光彦と麻衣子は信州・安曇野へ赴く。そこで二人は、淑江のかつての恋人の写真を手にし、彼が自殺していたことを知る。いったい何があったのだろうか。淑江のいまは行方不明の夫、勝子の愛人が絡んで、真相はなかなか見えてこない。地元警察の捜査も暗礁にのりあげ、手をこまねいていたが、光彦は独自の推理を働かせ、聞き取り調査で裏付けをとっていく。その結末は。殺人犯は意外な人物だった。


内田康夫『崇徳上皇殺人事件』中公文庫

2013-11-29 23:41:06 | 小説

                 
 皇統をめぐる争いに敗れ、呪詛のうちに流刑の地で没した崇徳上皇。特別養護老人ホーム「白峰園」を経営する理事長・栗石はこの上皇を敬っていた。

  その施設内で、老人の不可解な死が疑われた。天皇家にまつわる怨霊伝説を追う浅見光彦は、京都で見知らぬ女性から唐突にフィルムを受け取る。女性はフィルムを渡す人を間違えたのだった。現像してみると、それには老人の死体が写っていた。不思議なことに、女性があうとしていたフリーライターが坂出で殺された。殺人事件はさらに続く。

  浅見が真相究明を目的のために、探していたその女性が実はこの特養老人ホーム「大原荘」で働いていたのだが、突然行方が知れなくなる(後日、湖底に沈んだ車のなかで死体で発見される)。事件はますます、迷宮に入っていく。

  この小説、冒頭では、諏訪部恭一という人物が主宰する句会で、坂口富士子の句が評判になったところから始まる。富士子は仕事を探していたが、運よく老人保護施設の事務員におさまる。富士子はその仕事について、福祉行政、老人ホームがかかえているさまざまな問題を垣間見る。老人保護施設「白峰園」が実は一族総がかりで、福祉行政の隙間をねらって甘い汁をすっていたのだった。浅見と富士子は連携して、難しい事件の究明にあたる。老人殺しは、意外な人物がかかわっていた。


池井戸潤『株価暴落』文藝春秋社、2007年

2013-11-16 22:48:41 | 小説

              

  主人公は白水銀行の審査部に所属する坂東洋史。取引先の巨大スーパーである一風堂への融資をめぐって企画部の二戸と対立。


  そんなときに、一風堂の支店で連続爆破事件が起こる。企業テロの犯行声明に一風堂の株価は大暴落。犯人と目される男の父は、以前、一風堂の強引な出店で自殺に追い込まれていた。その男の素性、行跡はまことに怪しい。事実、警察の追跡をさけ、逃亡をしている。本当に彼が犯人なのか。一風堂への融資をめぐる銀行内の対立が事件にからまっているようでもある。

  一風堂の経営陣は、業績不振で、再建計画も出せないまま、さらに追加融資を要請してくる。

  この小説の題名は「株価暴落」なので、経済小説家と思って読み始めたのだが、内容はスーパー爆破事件の犯人捜しで、やや期待を裏切られた。


津本陽『本能寺の変』講談社文庫、2002年

2013-10-25 22:12:14 | 小説

           

  歴史に名高い「本能寺の変(天正10年)」の小説化。


  下級武士から身を立てた明智光秀。信長に重用され、丹波、丹後を治めるまでになったが、もともと軍事の才に乏しく、度量は狭いが、知識豊かで、実務にたけた武将だった。その光秀が、なぜ、信長を討つにいたったのか。

  この小説は、本能寺の変に前後する約一か月間の苦悩と、謀反からその死までの経過が描かれている。6つの構成(「坂本城」「白l綸子」「大彗星」「小谷城」「本能寺」「小栗栖」)。

  その頃、織田信長は飛ぶ鳥をおとす勢いで、天下取りの最前線にあった。彼の人材登用の手法は、家柄よりも実力、過去の業績よりも、現時点での力量に重きをおくやり方だった。これは家臣側からみれば、能力のあるうちは活躍の場を与えられるが、いったん無能と判断されれば転落を意味する。著者はもともと信長配下で寵臣だった光秀が次第に疎まれ、それが光秀のなかで猜疑心となって澱のようにたまっていく過程を浮き彫りにしている。

  備中高松攻めで、光秀が信長により秀吉の援軍に向かうことを命ぜられるに及び、光秀の苦悶は頂点に達する。チャンスをまった光秀は、信長が馬廻り衆他70余人で安土をたち、京都の本能寺に宿陣したのを知って、1万3千人で攻撃をしかけた。世にいう本能寺の変である。

  信長は討死、著者は本能寺の地下に煙硝蔵があったため、そこに火が入って大爆発を起こし、死体が吹き飛んだ、としている(このため信長の死体は確認されていない)。

  先日、読了した井上慶雪の「秀吉の陰謀」は明智光秀冤罪説をとっているが、本書は従来説で終始し、それゆえに問題の建て方は信長に重用され、性格温厚だった光秀がなぜ謀反にいたったのか、その動機の究明におかれている。井上氏が「ありえない」と主張した中国大返しに関しては、「秀吉の兵団は一日二十里を走ることもたやすい。裸で走るので、現代のマラソンと変わらない」と、やや安易に書いている(p.204)。

  わたしは、このへんの議論に介入する能力も、知識もないが、この小説はこれはこれでひとつの一貫した理解のもとに完結しているので、面白く読ませてもらった。