【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

司馬遼太郎『坂の上の雲(第2分冊)』文藝春秋、1999年

2008-07-31 00:06:41 | 小説
司馬遼太郎『坂の上の雲(第2分冊)』文藝春秋、1999年

           新装版 坂の上の雲   二 

  「坂の上の雲」の第二分冊。この分冊では日清戦争(黄海海戦、威海衛、旅順)とその後の日露戦争にいたるまでの列強の動きがテーマです。

 サブテーマとして子規が病の進行にもかかわらず、渇望して従軍記者になったこと(旅順など)、帰国後の松山での「愚陀仏庵」「獺祭書屋」のこと、根岸の「子規庵」での様子が書かれています。

 明治維新からそれほど時間がたっていない日本が清国になぜ勝利したかが、よくわかりました。その理由は著者によれば、清国に国家的なまとまりがなく、軍に覇気がなく、兵に帝国への忠誠心がなかったからでした。「勝利の最大の因は、日本軍のほうにない。このころの中国人が、その国家のために死ぬという観念を、ほとんどもっていなかったためである」(p.118)と書かれています。

 著者はこの時代の「気分」を描いていますが、特筆すべきは戦争を合戦のように思う無邪気な興奮と高揚が日本の社会を覆っていたことであり、知識人といえども戦争を否定するものはなかったことです。それが「戦争そのものについての懐疑や否定の思想が知識階級の間にめばえるのはさらにのちのことである」(p.123)という叙述になっています。

 日清戦争後の列強の中国への帝国主義的進出と角逐、思惑と駆け引きの様相はこと細かに書かれていて勉強になります。

 また軍人であり、子規と出身地を同じくし、お互いに交流のあった軍人秋山兄弟の活動も入念に書き込まれています。好古の騎馬隊の研究、日露戦争に至る前の清国での外交ぶり、米西戦争での真之の観戦武官としての軍事研究についてはの活写は、生き生きとしていて、目の前に彼らが居るようでした。

[忘備録]登場人物は他に、高浜虚子、河東碧梧桐、夏目漱石、正岡八重(母)、正岡律(妹)、陸羯南、小村寿太郎、ベルナップ、マハン大佐、ウィッテ、ピョートル大帝、アレキサンドル三世、ニコライ二世、丁汝昌、袁世凱、李鴻章、等々。


東京散歩① 「子規庵」

2008-07-30 13:12:35 | 散歩

東京散歩① 「子規庵」 台東区根岸2-5-11

                   
 根岸に正岡子規が病の床に臥していた「子規庵」があります。いま、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んでいて、子規のことがたくさん書かれているので、この「子規庵」の紹介をおもいたちました。一度、行ったことがあります。中に入れていただき、そこにいた方が説明してくれました。小さいですが庭があり、そこには種々の植物が育っていました。

 明治27年、子規はこの地に移り、故郷松山から母と妹を呼び寄せ、この「子規庵」を病室兼書斎と句会歌会の場として活用し、多くの友人、門弟と俳句や短歌の普及と刷新につとめました。
 
 子規没後も、子規庵には母と妹が住んでいました。大正12年の関東大震災の影響を受け昭和元年に解体されたのち再建工事がなされました。

 昭和2年母八重(83歳)が没。その後、子規の遺品や遺墨等を保管するため土蔵(子規文庫)建設が着工されました。

 昭和3年、子規門弟を中心に子規庵維持保存会が「財団法人子規庵保存会」として認可されました(初代理事長、正岡律)。
  
 昭和20年4月14日の空襲で「子規庵」は焼失。幸い土蔵は難をまぬがれ、貴重な遺品はいまも大切に保存されています。

 現在の子規庵は昭和25年、寒川鼠骨らによって再建され、同27年東京都文化史蹟に指定されました。

     http://www.shikian.or.jp/sikian0-0.htm

 


大野敏明『日本語と韓国語(新書)』文藝春秋社、2002年

2008-07-29 00:40:39 | 地理/風土/気象/文化
大野敏明『日本語と韓国語(新書)』文藝春秋社、2002年

            

 かつて朝鮮語を勉強しようとしましたが、忙しすぎて継続的にそのための時間がとれなかったこと、そして老化(?)もあってあまり進歩しませんでした。カタコトで少ししゃべれる程度ですが、これとて喋れるといえたものではありません。本書を読んでまた少し韓国語に対する関心が戻ってきました。

 2000年の交流の歴史をもつ日韓両国。文化、言語で重なる部分は大きいです。同じ発音の語が多いことはよく知られています。

 昔からの共通の固有語(例えばカマ)、近代になって生み出された漢字語(例えばヤクソク)、日本統治時代に残してきた言葉(例えばワリバシ)、近年韓国から入ってきた言葉(例えばキムチ)、そして文法の9割は同じです。助詞もわりと簡単に覚えられるはずのようです。

 それでも韓国は儒教の国であるので、気をつけないと大きな失敗をしかねません。

 「第3章:朝鮮と韓国」ではその歴史が明快に説明されています。北朝鮮では「韓国」と言う言葉は一切使われず、「韓国」の名は「南朝鮮」です。一方、「韓国」側では「韓国人」「韓国語」「韓民族」「韓半島」のように使いつつ、「朝鮮」という言葉も使うそうです。この章は、その経緯をひもといています。

 閔妃(ミンピ)暗殺の2年後の1897年李氏朝鮮は国号が大韓帝国となり、王は皇帝を名乗りました。しかしその13年後、日韓併合で大韓帝国は滅びますが、1945年に日本の敗戦で再び独立。大韓帝国は「大韓民国」として復活しました。

 ところが北朝鮮の歴史理解は封建主義の李氏朝鮮からいきなり日本の植民地となり、その後社会主義国として朝鮮が独立したことになっているので、そもそも「韓」など認めていないとか。

 複雑な歴史認識の相違がそこにあります。他にも韓国では朝鮮征伐の豊臣秀吉が大嫌いだそうで、李氏朝鮮の時代には豊臣家を倒した徳川家(江戸幕府)に好意的で、通信使も12回ほど江戸幕府のもとに往来があったとか。逆に明治維新後、この友好関係が失われることになってしまったそうな。

 その他、ハングル文字のこと、同本同姓(本貫[氏の初代の出身地]が同じで姓名も同じ)のこと、韓国のことわざなど、話題満載で格好の韓国文化と言語の入門書といえます。

司馬遼太郎『坂の上の雲(1)』文藝春秋、1999年

2008-07-28 00:08:10 | 小説
司馬遼太郎『坂の上の雲(1)』文藝春秋、1999年

             坂の上の雲 1 / 司馬遼太郎/著

 世評の高い司馬遼太郎「坂の上の雲」の文庫版の第一分冊です。伊予の松山藩当主は久松家。第一分冊では、この松山でお徒士の子として生まれた秋山好古(よしふる)とその弟真之、それに正岡子規らが東京に出て、それぞれの道を歩み始めるというのが話の中心です。

 好古は師範学校から陸軍士官学校に入り、フランス留学へ。子規は、松山中学から共に東京に出、受験勉強のために共立学校に一時籍をおき、その後、大学予備門(のちの一高)の時代を経て帝国大学文学部へ。真之は大学予備門まで子規と行動をともにしますが、海軍兵学校へと異なった道へ進みます。

 重要なモチーフは、脆弱な基盤のうえに成立した近代国家としての日本を支えるために、青年たちが自ら国家の一分野を担う気概を持って学問や専門的事象に取り組む人間像です。

 好古は騎兵、真之は海軍戦術の研究、子規は短詩型文学と近代日本語による散文の改革運動です。

 肺病で喀血しますが、じっとしていられない子規が痛ましいです。子規がベースボールが好きだったことは知られていますし、これを「野球」と訳語をつけたのは子規であるという説もありますが、本書ではそうではなく訳語の発案者は一高で子規と同期だった中馬庚(かのえ)であると書いてあります(p.292)。

 また、子規は小説も試みましたが、この「独りだけの仕事」にあきたらず、俳句の運座にみられるように、運座のお膳立てをし、雰囲気をつくり、選をし、互いに論評しあって歓談するということを子規が好んだという指摘は興味深かったです(p.309)。

 真之が海軍の練習艦で訓練中に台風に遭遇して沈没したトルコの軍艦エルトグロールから生存者(69人)を救出し、練習艦「比叡」「金剛」でトルコに帰還させた逸話も織り込まれていました(pp.332-339)。

『虚構の劇団』旗揚げ公演「グローブ・ジャングル」

2008-07-27 00:47:15 | 演劇/バレエ/ミュージカル

『虚構の劇団』旗揚げ公演「グローブ・ジャングル」

 シアターグリーン(池袋)40周年特別公演

        
           globe%20jungle.JPG     

  本年度前半に観た演劇ではこの演劇が印象に残っています。5月頃の観劇でした。

 誹謗中傷が日常茶飯事のネット世界。ブログ炎上、プライバシー暴露。ネットをつうじた苛めが日常生活に横行しています。七海はこのネットでの誹謗中傷にあい、痛みをひきずり、ぼろぼろになった心で日本を脱出、ロンドンの日本語学校へ。

 場所はロンドン、わけありの日本の若者がここにいました。彼らは日本語学校で芝居を上演しようと集まっています。言うにいわれぬ事情を抱え日本から逃避してきた彼ら。「ここではないどこかへ」。


 しかし、WEBなどグローバル化が進んだ今、完全な逃避行はできません。その結果、過去の痛みと憎しみからは逃れられず、結局それらに直面せざるをえません。


 彼らの関係の顛末は??
 

 鴻上尚史さんの魅力。現実を直視し、人と愛の普遍性を描き、問題点を肩肘張らずにタイムリーに伝えます。役者の息づかい、汗が伝わる小劇場空間、小気味よくスピーディな展開に我を忘れます。真摯な言葉、切なさにかもし出された笑いと涙。原点回帰現象が体のなかにほてります。

 複雑な現在が抱える問題点をとらえた物語をストレートに心を射抜く言葉で若い劇団員達が演じていました。みんなの個性は嬉しく魅力的です。小野川さんはアイドル顔で毒も吐いていますが、真摯な演技にうたれました。小沢道成さんは、健気な切ないキャラクタで、いい演技でした。好きな俳優さんです。

 いたるところに工夫がありました。舞台はシンプル至極ですが世界の記号化、匿名者=顔文字人型、外国人=人型+扮装、エネルギッシュなダンス、劇中劇(桃太郎)等々。


 かつて公園にあった遊具グローブ・ジャングルは危険であるといわれのないクレームがつけられ、今ではその存在は絶滅寸前です。そんな遊具など見たこともないという子どもはたくさんいます。表題のグローブ・ジャングルの意味は・・・・。

 鴻上ワールドの新しいスタートです。

作・演出:鴻上尚史
美術:池田ともゆき
音楽:
HIROSHI WATANABE
照明:伊賀康

音響:オフィス新音
衣裳:小池れい
振付:安達桂子

舞台監督:中西輝彦 牧野剛千 
演出助手:松村悠実子 映像編集:新生璃人

小道具製作:川岸真由美
記録写真:阿部章仁
記録映像:板垣恭一

宣伝美術:冨田中理
制作:中山梨沙
プロデューサー:細川展裕

企画製作:サードステージ 主催:サードステージ

 <出演>

 山崎雄介(沢村邦生)
 小野川晶(青木七海)
 大久保綾乃(石丸唯)
 三上陽永(北野良一)
 渡辺芳博(長谷川哲次)
 高橋奈津季(吉川麻美)
 小沢道成(住田政信)
 杉浦一輝(千葉大樹)
 小名木美里(堀井千春) 


ウドンゲ(三軒茶屋婦人会、第3回公演)

2008-07-25 00:27:22 | 演劇/バレエ/ミュージカル
三軒茶屋婦人会(第3回公演)『ウドンゲ』  作=赤堀雅秋
                           演出=G2
 <出演>  篠井英介(岡部絵美)
         大谷亮介(山本澄子)
         深沢 敦(大黒 薫)

    
 
       

 江東区のベニサン・ピットで「ウドンゲ」という演劇が行われています。喜劇です。「三軒茶屋婦人会」というのは大谷亮介さんの呼びかけで結成された篠井英介さん、深沢敦さんとの3人会です。

 同級生の通夜で、高校卒業以来30年ぶりで再会した3人の女性。絵美(篠井英介)、澄子(大谷亮介)、薫(深沢敦)。お通夜が終わって居酒屋を経て、帰宅できなくなった絵美と薫と泥酔の加藤君とがひとり暮らしの澄子の家に転がり込みます(加藤君は酔って寝てしまったことになっていて舞台には登場しない)。

 この3人の女性を演じているのは、篠井英介さん、大谷亮介さん、深沢敦さんの男優。要するにこの3人の男優が女装して登場するのです。これだけでも話題性があり、観たいという期待をいだかせます。

  30年ぶりの再会で「奇跡の夜」としておおはしゃぎの薫。ここまでの人生の軌跡、家族のこと、昔話・・・、思い出話などにハナが咲くようでありながら、何となくギスギスした感じ。やや暗い、どうでもいい話が続きますが、それを女装した3人が上手に演じて、大笑いさせてくれます。

 実は、絵美が澄子の部屋に押しかけたのには理由があったのです。しかし想定外の存在である薫の言動でその思惑は微妙にずらされていきます。絵美はそんな薫に苛立ち、それと同時に高校時代とはうってかわって覇気のない澄子とその暮らしぶりにがく然とします。

 この三十年で澄子に何が起きたのか? 絵美の秘めたる目的は何なのか? 一人はしゃぐ薫の正体は?

 ベニサン・ピットは小さい劇場です。観客は150人くらいでしょうか? 舞台は狭く6畳ひとまに、小さい台所がついています。この狭い空間で、観客が舞台に迫るようなところで、俳優はよく自然に演じられるものなのだなと感心しました。 

 「ウドンゲ(優曇華)」というのは、3千年に1回、花をさかせる仏教の伝説上の植物です。「奇跡の夜」を象徴する植物です。

上久保敏『下村治-「日本経済学」の実践者-(評伝:日本の経済思想)』日本評論社

2008-07-24 12:18:49 | 経済/経営
上久保敏『下村治-「日本経済学」の実践者-(評伝:日本の経済思想)』日本評論社、2008年

             下村治 「日本経済学」の実践者 / 上久保敏/著

 下村治といえば日本の高度成長の立役者というイメージが強いです。

  本書ではその「下山理論」がどのようなものか詳細に解説されています。

 まず、下山がケインズ経済学者かというと、ただちにYESとは言えないとのこと。1948年ごろ病床にあってケインズの『一般理論』を自らのものとしましたが、「ケインズ理論の本質的な価値を認めつつも、有効需要の理論だけでは経済変動の現実的な説明ができないとして、ケインズ的な乗数理論の批判を出発点とし、経済変動の分析により説得力がある理論を自ら提示しようとした」(p.62)し、どちらかというとハッロド=ドーマーの流れにあると言ったほうが適当であるようである(p.225)と書かれています。

 次に、いわゆる「所得倍増計画」の推進者であったかどうかというと、違うとのこと。倍増計画を策定した経済審議会の委員・専門委員239名のなかにも入っていないのです(p.138)。下村理論は民間企業の設備投資意欲、技術革新(イノベーション)に最大限の信頼をおき、理論の枠組みとしては国際均衡、国内均衡の同時達成をはかる最良の方途としての「高度成長による安定均衡論」とでもいうべきものだそうです。

 下村は1974年以降、ゼロ成長論を主張しますが、これは見解が変わったのではなく国際均衡、国内均衡の同時達成をはからなければ経済の発展はありえないとする理論的枠組みそのものに変更はありませんでした。

 さらに、下村理論は論争のなかで鍛えられていった点にも特色があります。後藤誉之助との在庫論争(1957年)、大来三郎、都留重人との成長論争(1959年-60年)、吉野俊彦(「安定成長論」)との論争、鈴木淑夫とのインフレ論争(1973年)、等々。

 アカデミズムから離れた大蔵省出身のエコノミストでしたが、官庁の公式見解におもねることなく、自らの信念をまげて発言したり、言いたいことを抑えることはなく、「四面楚歌の状態にあっても自らの考えを撤回することはついに一度もなかった」「経済論争において下村が譲歩することは全くなく、孤高の道を歩んだエコノミストであった。誰かと共同で論陣を張るということもなく、独自の理論を展開していった下村は、まさに経済論壇における『高踏派』とも呼ぶべき存在であった」と著者は結んでいます(pp.224-225)。

メジューエワさんのベートーヴェン

2008-07-23 00:23:25 | 音楽/CDの紹介
Ludwig van Beethoven: Piano Sonatas Nos.1,2,6,24,25,26,27
  Ирина Межуева(Irina Mejoueva)

              
 イリーナ・メジューエワさんは、今年、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲の演奏を開始しています。すでに2回の演奏会がありました。

 イリーナさんによるベートーヴェンのピアノ・ソナタ集のこの録音は、初期と中期のソナタを7曲収録(全て初録音)した2枚組です。鮮やかなテクニック、多彩な音色と響き、力強さと繊細さを兼ね備えたタッチを駆使した独自の感性に貫かれた演奏は、ベートーヴェン音楽の素晴らしさ・偉大さを改めて感じさせてくれます。演奏会でもとめました。

 [disc-1]
●ピアノ・ソナタ 第1番 ヘ短調 作品2の1
●ピアノ・ソナタ 第2番 イ長調 作品2の2
●バガテル 《喜びと悲しみ》 WoO54
●ピアノ・ソナタ 第26番 変ホ長調 作品81a 《告別》
[disc-2]
●ピアノ・ソナタ 第6番 ヘ長調 作品10の2
●前奏曲 ヘ短調 WoO55
●ピアノ・ソナタ 第24番 嬰ヘ長調 作品78
●ピアノ・ソナタ 第25番 ト長調 作品79
●ピアノ・ソナタ 第27番 ホ短調 作品90

録音:2007年5月、6月、9月 & 2008年2月
新川文化ホール(富山県魚津市)

高宮利行『グーテンベルクの謎(活字メディアの誕生とその後) 』

2008-07-22 00:52:45 | 歴史
高宮利行『グーテンベルクの謎(活字メディアの誕生とその後) 』岩波書店、1998年
             


 15世紀の半ば、活字印刷技術を発明したグーテンベルク。印刷技術の発明は火薬、羅針盤のそれとともに中世ヨーロッパの三代発明といわれます。

 それまで書物の生産は、一部木版印刷(ザイログラフィー)もありましたが、基本的に手書きでした。しかし、グーテンベルクの登場以降、書物の印刷は革命的ともいえる進化をとげました。ここまではよく知られた事柄です。

 この本を読むと、ことはそれほど単純ではないようで、そもそもグーテンベルクその人がいつどこで生まれたのか、どういう経歴の持ち主かもあまりわかっていないそうです。

 生涯の後年になって、1450年頃から「聖書」の印刷を始め、その普及に貢献しましたが、仕事半ばで印刷機に投資した借金の不払いにより、シェーファーに印刷機械一式をとりあげられ、シェーファーが「四二行聖書」を完成させたというのです。

 この逸話を含め、誰が印刷技術の発明者であるかについては論争があったようですが、いまでは「辛うじてグーテンベルクの活版印刷術発明者としての地位は守られた」らしいです(p.75)。

 この「グーテンベルク聖書」の上巻を(下巻は遺失)慶應義塾大学は、1996年に購入しました。この本は4世紀の終わりに聖ヒエロニムスがラテン語に翻訳した「ウルガタ聖書」をグーテンベルクがマインツで1455年頃に活字印刷本として完成させたものです(p.2)。

 慶応大学はプロジェクトHUMIをくみ、これをデジタル化して公開しています。

 http://www.keio.ac.jp/staind/230.htm ← 慶応義塾大学のこのサイト参照

 「終章:マルチメディアの時代へ」では稀覯書のデジタル化が課題となっている今日、「グーテンベルクによって西欧にもたらされた印刷メディアは、20世紀後半にマルチメディアに取って代わられた。しかし、この『第二グーテンベルク革命』は、再びグーテンベルクの印刷文化やそれ以前の写本文化にメスを入れる機会を与えている。古い酒を新しい皮袋に盛るということは、こういうことを指すのであろう」と結んでいます(p.200)。

 最近読んだ2冊のルネサンスに関する本で知ったアルド・マヌツィオ(1452頃~1515)が「西洋の書物史や印刷・出版史に金字塔を打ち立てたひとり」(p.137)として紹介されていました。長く読書をしていると、知識はこういうふうに繋がっていくのだと思いました。

Mozart:Piano Concertos No.20 KV466.No.21 KV467

2008-07-21 00:34:02 | 音楽/CDの紹介
Mozart:Piano Concertos No.20 KV466.No.21 KV467
 Mitsuko Uchida、Jeffery Tate + English Chamber Orchestra                                           

          モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番/同第21番    

Piano Concertos No.20 in D minor、 KV466
  ① Allgro     (14'52")
  ② Romance   (10'12") 
  ③ Allegro assai (8'20") 
Piano Concertos No.21 in C major、 KV467
  ① Allgro     (14'49")
  ② Andante    (7'01")
  ③ Allegro assai (6'33")                

Piano Concertos No.20 in D minor、 KV466
 ピアノ協奏曲が盛んに作られていた時代に作曲されたモーツアルトのこの20番(初演1785年2月10日に完成、翌11日にモーツァルト自身によって演奏されました)。
 モーツァルトのピアノ協奏曲のなかで最も優れていると評される作品です。それを内田光子さんとジェフェリー・テイトさん指揮のイギリス室内管弦楽団が演奏しています。

 この曲はいろいろな工夫が施されています。

 まず、第一楽章の入り方が、不安をかきたてるような旋律。この頃の協奏曲は比較的明るいイントロの曲が多かったのですが、モーツアルトのこの不安の「惹起」は当時の常識を逸脱するものでした。それだけで、話題性があったと言えます。その後、ピアノが有名な主題を弾きます。しかし、オーケストラは同じ旋律を演奏しません。それぞれ独自の道を歩むかのように異なったメロディを展開します。

  次いで、第ニ楽章。安堵の色濃い、優しい旋律です。わざわざ(?)、ロマンスと名づけられています。右手と左手でソプラノとテノールでデュエットするかのような雰囲気もあります。

 第三楽章は、希望がみえてくるような感じです。第一楽章で示されたピアノの旋律が再登場します。そして、今度は、オーケストラも同じ旋律を演奏します。カデンツァの部分はベートーヴェンによって書かれました。

Piano Concertos No.21 in C major、 KV467
 21番は、20番の一ヵ月後に仕上げられ、やはりモーツアルト自身によって初演されました。明るい気分に満ち、典雅なメロディーが示され、ピアノとオーケストラの関係がよくできています。

                          PHIRIPS 416 381-2

                               

東儀秀樹さんのCDをもう一枚

2008-07-18 00:57:33 | 音楽/CDの紹介

東儀秀樹 "I am with you"  TOCT-24845(東芝)

        
I am with you

 東儀秀樹さんの9枚目となるオリジナルCDだそうです。この盤は大島ミチルさんをアレンジャーに迎え、篳篥(ひちりき)とさまざまなジャンルの音楽とのコラボレーションを楽しめます。

「篳篥=雅やかな楽器」という固定観念を払拭するかのような現代的でメロディアスな作品にしあがっています。

1. Eternal Vision
2. ブルターニュの丘 
3. 海の向こうのさがしもの
4. The Reason I'm Here 
5. Slide Into The Night
6. Over The Rainbow
7. Vent du Midi -南仏の風- / Au bord du Rhone -ローヌのかたわらで- / Reverie -- / La Balade d'un Chat -猫の散歩- / Vin Noble -高貴なワイン- / Le Cafe Jaune -黄色いカフェ-
8. どんな夢を見ているの?
9. New ASIAPower Version
10. ふるさと(Strings Version
11. I am with you

 わたしは、「1. Eternal Vision」「2. ブルターニュの丘」9. New ASIA」「11. I am with you」が気にいっています。


森内VS羽生 名人戦(TV番組「プロフェッショナル」)

2008-07-17 00:44:20 | スポーツ/登山/将棋
ライバルスペシャル 最強の二人 宿命の対決
   名人戦 森内俊之 VS 羽生善治

      

 一昨日(15日)のNHK番組「プロフェッショナル」(10:00~11:00)で第66期名人戦7番勝負で森内名人(37歳)と羽生二冠(37歳)の激闘の模様が放映されました。1時間番組で、引き込まれました。(以下、敬称略)

 内容は6つの対局を中心に構成され、ふたりがスタジオでインタビューに応え(別々に)、その他に過去の戦績とかエピソードが織り込まれるというものでした。
 このふたり、小学校4年生時代からのライバルとのこと。最初は天才肌の羽生がリードしていましたが、羽生から名人位を奪った森内が先に永世名人(名人位通算5期で永世名人になる。羽生を含め歴代で5人しかいない)になり、今回、羽生が名人になって永世名人の座についたというかたちで来ています。

 ふたりの勝負では、プロ棋士でもにわかにわかりずらい指し手が連発され、控え室に待機している棋士から一手一手にどよめきの声があがります。

 圧巻は第3局です。劣勢だった羽生が粘りに粘って、大逆転しました。大局後、羽生が引き上げた後も、呆然と盤を前に座り込む森内名人。しのぎをけずり、互いにいいところを出し合い、歴史に残る戦いが盤上に繰り広げられました。(羽生二冠 4-2 森内名人)

 インタビューのなかでお互いに相手の才能を認め合っていたところ、しかし互いに負けず嫌いでずっとここまできたことを語っていたところが印象的でした。

 対局前に、羽生は「玲瓏(れいろう)」、森内は「無心」という言葉を思い浮かべるようです。
 

雅楽師 東儀秀樹さんのCD

2008-07-16 01:12:53 | 音楽/CDの紹介
TOGISM』 東儀秀樹   TOCT-10188

            TOGISM

 東儀秀樹さんのアルバムは何枚かもっていますが、そのうちの1枚です。東儀さんがかつて宮内庁勤務の公務員でした。仕事は楽士としての雅楽演奏です。その仕事を辞していまでは、本格的に雅楽を発展させ、極める音楽家の道を歩んでいます。

 篳篥(ひちりき)*、笙(しょう)などの演奏で知られています。わたしはかつて2度ほど演奏会にでかけました。若い頃はロックも演奏していたそうで、コンサートではその片鱗をみせてくれました。

 * 篳篥は漆を塗った竹の管で作られ、表側に7つ、裏側に2つの孔(あな)を持つ縦笛。発音体にはダブルリードのような形状をした葦舌(した)を用いる。乾燥した蘆(あし)の管の一方に熱を加えてつぶし(ひしぎ)、責(せめ)と呼ばれる輪をはめ込み、もう一方には図紙(ずがみ)と呼ばれる和紙が何重にも厚く巻きつけて作られる。図紙のほうを篳篥本体の上部から差し込んで演奏する。西洋楽器のオーボエに近い構造をもつ。

 東儀さんの演奏をとおして、雅楽の魅力、篳篥の優しさ、力づよさを知りました。もっとも、その世界の本当の理解には到底、及んでいないのですが・・・。

 このCDには以下の曲が収められています。
① Starlight Cruise  (4'08")
② 夢路まどか     (5'01")
③  三ツ星        (3'43")
④ 翼            (5'14") 
⑤ 夕なぎ        (5'55")
⑥ 風のかたみ      (6'26") 

 月並みな言葉は使いたくないのですが、「癒される」音楽であることは確かです。そして、だいぶ前に、奈良、京都などをレンタカーでまわったときに、車のなかでBGMがわりに篳篥演奏をかけました。風景に合いました。間違いなく・・・。


日本生命に命をささげた男

2008-07-15 12:09:30 | 小説
高杉良『いのちの風ー小説・日本生命』集英社文庫、1987年

              いのちの風―小説・日本生命 (集英社文庫)

 モデル小説です。主人公のモデルは元日本生命常務の弘世源太郎。

 物産で働く商社マンの主人公広瀬厳太郎は、父が日本生命の社長でした。社長の強い意向で、厳太郎の引き抜きにかかります。「同族経営」の弊を懸念する厳太郎でしたが、父の妥協な要請、周囲の熱心な勧めで日本生命に入りします。

 恰幅もよく文武両道、上司、同僚、部下の信頼が厚い厳太郎はここでも持ち前の仕事熱心さを発揮し、現場に近い支社長を経験し、支部長、外務員の絶大な支持を得ます。

 本社に戻って企業保険部長に。折しも保険業務の国際化が課題とされた時期、厳太郎はアメリカの生保会社との業務提携に手腕を発揮し、さらに法人を相手にした企業保険(団体保険、企業年金保険)を手がけ、法人営業部を設置し、業界先駆けの地歩を築きました。

 他の追随を許さないリーダーシップ、同僚、部下、外務員へのきめ細かい配慮で、激変する生保業界に新風を吹き込んだ矢先・・・・。

司馬遼太郎『本郷界隈-街道をゆく37-』朝日新聞社、1992年

2008-07-14 00:18:35 | 旅行/温泉
司馬遼太郎『本郷界隈-街道をゆく37-』朝日新聞社、1992年

          本郷界隈―街道をゆく〈37〉 (朝日文芸文庫)

 今回は本郷界隈です。17年前あたりから東京を具体的に知るようになったわたしがなかでも比較的に歩いたことのあるあたりです。江戸、明治がこの界隈と直結しています。

 まず江戸に数多くあった上屋敷(将軍からの拝領地に建てられ大名が家族とともに暮らした。定府[じょうふ]という江戸詰の家来も住んだとのこと。)、中屋敷・下屋敷(町人からの借り地に建てられ参勤交代のおりにお供した”勤番侍”が住んだ。)[p.230]。その跡に明治の東京が、なかでも本郷が発展しました。前田藩の上屋敷跡に東京帝国大学、弥生町(稲作初期の土器が発掘され弥生文化と命名)は水戸藩の中屋敷跡といった具合です。

 文学関係では、夏目漱石、正岡子規、樋口一葉がでてきます。

 漱石との関連では、明治の頃、多くのお雇い外国人が教鞭をとった本郷の東大が西洋の科学の「配電盤」として機能したこと、また小説「三四郎」をひきながら明治に入って都と鄙(田舎)の上下関係が定着し、今もその残滓が遺伝子のように残っていることが述べられています。

 著者は子規が好きで、「私は、子規がすきである。子規のことを考えていると、そこにいるような気がしてくる」と書き、子規の短い一生を、「妻もめとらず、30歳前後から病床にありつつ、日本文学上、きわだったことをなしとげた。俳句・短歌を美学的に革新し、また明治の散文に写生能力を加えたことである。そのための活動期がわずか5,6年にすぎなかったことをおもうと、精霊のようなはたらきだったというほかない」とまとめています(p.201)。

 一葉の評価は高く、「私どもの文学感覚は、子規や漱石の活動期から出発している。一葉の活動期はそれよりも前だから文章が擬古的だが、もしこの明治28年に私どもが生きているとすれば、一葉の新鮮さに仰天したにちがいない。・・・不幸という”生態”のえがき方が毛彫りのように犀利で、しかも詩がある。詩の有無が、10年後にあらわれる自然主義文学と一葉のちがいといっていい」と書いています(p.217)。

 この他、人物では坪内逍遥、福沢諭吉、寺田寅彦、朱瞬水、最上徳内、近藤重蔵、高島秋帆、緒形洪庵などが、そして根津権現、湯島天神、からたち寺などのことが、またこのあたりは坂が多いゆえに「見返り坂」(かねやす)、「団子坂」(森鴎外の同名の小説)、「炭団坂」(一葉の菊坂旧居跡)、「無縁坂」(森鴎外の「雁」)、「福山坂」(一葉の旧居跡、丸山福山町)、「傘谷坂」(近藤屋敷のあたり)と次々に出てきます。

 書物をとおしての、たのしい文学散歩でした。