【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

網野史学への橋渡し

2009-02-28 00:28:54 | 評論/評伝/自伝

中沢新一『僕の叔父さん 網野義彦』集英社新書、2004年

         僕の叔父さん網野善彦  /中沢新一/著 [本]
 友人に紹介されました。伝統的歴史学,唯物史観,民衆史観とも異なる「網野史学(中世史)」の立役者網野善彦の歴史の方法と思想の枠組みを,従弟にあたる著者が解き明かした異色の読み物です。

 故網野善彦氏への追悼文として書かれたものです。

 著者は5歳になる直前に善彦氏と出会い,以来,ふたりの間には濃密な時間が共有され,歴史学をめぐる熱い議論が繰り返されました。

 本書のような細部にわたる,しかし簡明な「網野史学」の本質とその形成過程の記述は,著者でなければできなかったものでしょう。

 「網野史学」は,「悪党」「飛礫」「博打」「道祖神」概念の着目から出発し,アジール(避難地)の側にたつ歴史学を構想し,「天皇制」の基盤として「非農業民」概念を探りあてました。このうち,社会的な規則の体系と人間の本質である根源的な自由への欲望との相克,後者の現実世界での表現が他ならぬアジールで,網野は中世の日本に存在した公界,楽をその諸形態と見たといいます。


「道州制」の背景は何か

2009-02-27 00:33:49 | 政治/社会
鈴木文熹『道州制が見えてきた』本の泉社,2008年

           
道州制が見えてきた   [本]

 現行の47都道府県を10前後の道州に再編する道州制の可能性が、かなり前から喧伝されています。市町村の平成の大合併が一段落し、次の課題が「平成の廃藩置県」である道州制ともいわれてますが、この背景には一体何があるのでしょうか。

 本書で、著者は究極の構造改革である道州制の背景、意図、内容を詳らかにしています。

 この本によると、地方分権改革が90年代後半からしきりに宣伝されるなか、文書として初めて「道州制」が記載されたのは、03年11月に公表された第27次地制調(地方制度調査会)の「今後の地方自治制度のあり方に関する答申」です。

 また、道州制導入の背景には、トヨタの世界戦略があります。本書からこのことがわかったのは収穫です。すなわち、トヨタが目指しているのは「世界企業」であり、従来の三河一極集中を脱却し、九州、東北、北海道に子会社を設けて「クルマ版列島改造」による生産の集積基地を目論むことの延長で、世界の列強と戦って勝てる体制の構築、それが道州制の背景にあるというのです。

 名古屋市が中部国際空港(貨物空港)を開港し、愛知万博を開催したのは国際都市への布石です。中部5県が州としてまとまることは、多国籍企業トヨタの悲願です。

 道州制は結局のところ産業界の強い要請が背景にあり、その全体像は国際的な問題の処理を国が、産業関係については道州が、国民の生活については基礎自治体(市町村)があたるという住み分けの構想に他なりません。

 それゆえ、道州制への再編は州内にある住民にとって重要な資源を大企業、巨大グローバル企業の利活用に供する「からくり箱」です。

 経団連の奥田前会長、御手洗現会長が道州制実現にやっきになのもむべなるかな、と思いました。

 議論に多少、強引なところがあったり、仮説を支える論理的連関が弱いところも散見されますが、ひとつの警告として押さえておく必要があるかと考えました。

ヨーロッパのたえなる大河-ドナウ

2009-02-26 00:30:50 | 旅行/温泉
加藤雅彦『ドナウ河紀行』岩波新書、1991年

        
       

 ドナウ河はドイツのシュバルツバルトの森から2900km,8つの国を通過して旧ソ連のウクライナまで流れる大河です。

 著者はこの河をくだりながら,諸民族の興亡,文化の往来,何よりもかけがえのない人々の生活を見つめています。冷戦で引き裂かれた世界が民主化の波で揺り戻しを受け,眠っていたドナウ世界が浮きあがってきました。著者は,それをまず確認しています。

 国別の章立てになっていますが,「ドイツ」では源流を巡る論争,「ニーベルンゲンの歌」の解説が興味をひきます。

 「オーストリア」ではワインの産地ヴァッハウ,ウインナ・ワルツ,ウィーン料理(レティコバ夫人)の魅力とともにハプスブルク家盛衰の記述が面白いです。

 「チェコスロバキア(本書執筆当時)」では「プラハの春」を忘れてはならないと語っています。あわせて大戦後のドナウ改造計画の失敗が紹介されています。

 「ハンガリー」ではブダペシュトの美しさが語られています(わたしは25年ほど前、そして4年ほど前に訪問)。

 「ユーゴ」では色濃いトルコの影響とともに,諸民族を国という単位でまとめる難しさを痛感しました。

 「ブルガリア」では正教の布教に使われたキリール文字に関する知見を得ました。

 「ルーマニア」ではローマの影響の強さを再認識しました。

 そして,ソ連。豊かなドナウ下りが愉しめる一冊です。

津村節子さんと吉村昭さんの二人三脚

2009-02-25 22:56:25 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
津村節子『ふたり旅-いきてきた証としてー』岩波書店、2008年

             
         



  著者の自伝的エッセイであり、夫でありかつ同業の小説家だった吉村昭さんとの二人三脚の人生航路をつづった本です。

 福井県で織物取引をしていた北原家の二女として生まれ(三人姉妹)、生来虚弱でしたが、書くことと小説を読むことが好きだった幼年時代。母、父、祖母を早くに次々失い、人の死を間近に感じ続けました。

 時代は急速に軍国主義の暗黒時代へ。戦時中の女学校生活、勤労動員で働いていた軍需工場、小林理学研究所(国分寺)での勤務、基地化した疎開先での経験(入間川)、自立をめざして通ったドレメ女学院と洋裁店の経営、そして向学の志消えず女子学習院への入学と学生としての文学活動。

 ここまでが人生の前半とするなら、後半は学習院での吉村昭さんとの文学的邂逅から死別までです。結婚後、小説だけを書いて生活していくことが難しいなか、東北、北海道への行商生活。

 転居が続く苦しい生活のなかで小説を書き続け、道をもとめてひたむきに生きるふたりは徐々にその世界で認められるようになり、その後それぞれ押しも押されもせぬ小説家となり、人生航路を進みした。そして、不意の夫との別れ。

 本書は人生「ふたり旅」の結晶です。エッセイなので多くのエピソードが挿入されていて興味深いです。

 また、著者の小説は「智恵子飛ぶ」しか読んでいませんが、「玩具」「茜色の戦記」「瑠璃色の石」「石の蝶」など読みたいと思いました。

 著者は作品を書く際、歴史的事実、背景を踏まえながらフィクションを盛り込むを自身の作法について次のように述べています、「吉村はこれらの作品を歴史小説とは言うまいが、私の場合歴史上の人物の実名を使ってフィクションを書く歴史小説とは違う。あくまでも歴史の調査には徹しながら、その時代を背景に生きた無名の人々を書いている」と(p.195)。


ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタをCDで 

2009-02-24 00:26:40 | 音楽/CDの紹介

BEETHOVEN:VIOLIN SONATAS ”KREUTZER”&”SPRING”
TEIKIKO MAEHASHI (violin),  CHRISTOPH ESCHENBACH (piano)

  「前橋汀子:ベートーヴェン・ヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会」でもとめたCDです。「ソナタ第9番イ長調Op.47『クロイツェル』」と「ソナタ第5番ヘ長調Op.24『スプリング』」がおさめられています。10曲あるベートーヴェンのヴァイオリンソナタのなかで最も有名なのがこの2曲です。本当は10曲全部が入っているCDが欲しいのですが、前橋さんがベートーヴェンのヴァイオリンソナタ録音したのはこのCDしかありません。残念至極。


             

 聴きながら演奏会のことを想い出しています。CDのなかに入っている解説には、作品解説と将棋の米長棋聖(執筆当時)のコメントがあります。

 共演者のクリストフ・エッシェンバッハさんはもともとはピアニストですが(若い頃は貴公子と言われていました。札幌でリサイタルを聴いたことがあります)、指揮もしています。解説によると「エッシェンバッハは、音楽を走らせるというより、むしろ立ちどまって音楽の深淵をみるのを好むタイプの音楽家」と書かれています。
 米長さんは、将棋指しにはクラシックファンが多いこと、将棋の名局は脳味噌に汗をかくことによって誕生するが、前橋さんの演奏にも共通するところがあるのでは・・・と、書いています。

 1986年、旧西ドイツのハイデルベルクでの演奏です。

 SONY RECODS;SRCR 9190 


前橋汀子:ベートーヴェン・ヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会② 王子ホール

2009-02-23 00:32:38 | 音楽/CDの紹介
前橋汀子「ベートーヴェン・ヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会」②王子ホール

          
            王子ホールのサイトより

 2日目の演奏曲は、下記のとおりです。
 パンフレットによると、使っている楽器は1736年のジェス・グェルネリウスとのことです。


<第2日>

  ・ヴァイオリン・ソナタ 第4番 イ短調 Op.23
 ・ヴァイオリン・ソナタ 第3番 変ホ長調 Op.12-3
  ・ヴァイオリン・ソナタ 第6番 イ長調 Op.30-1
  ・ヴァイオリン・ソナタ 第8番 ト長調 Op.30-3
  ・ヴァイオリン・ソナタ 第9番 イ長調 Op.47 「クロイツェル」

 4番は短調の作品です。緊迫した2つの楽章に挟まれて、明るい中間の章が特徴です。3楽章が好きです。ヴァイオリンとピアノが寄り添い、反発しながらテンポよく駆け抜けていきます。
 3番は明解な構成と曲想とが印象的です。ピアノ演奏家にとっては1楽章が難しいようですが、それゆえでしょうか優しいメロディーで口ずさみたくなるような感じです。ヴァイオリンがピアノを励ましながら、追走します。
 6番シンプルで穏和で、おとなしい構成です。ピアノの軽快な音色とヴァイオリンの優しい音色がうまく溶け合います。第2楽章の、清澄で端正な響きがどこまでも心に沁みます。
  
8番は明るく、「田園」的ともいわれています。第2楽章はメヌエットの要素をはらんでいます。第3楽章での、汀子さんのアレグロ・ヴィヴァーチェは素晴らしい。
 9番はヴァイオリン・ソナタの最高峰で、協奏曲のような感じです。無伴奏のソロで始まるのが斬新です。

 前橋さんの演奏はメリハリがあり、優美です。クロイツェルでは弓の毛が再三切れるほどでした(演奏には影響ありません)。ブラボー、スタンディングがあり、拍手は鳴りやみません。アンコールはクライスラーの「愛の歓び」でした。

 パンフレットに汀子さんのメッセージがあります。控え目ですが、意欲がうかがわれる音楽家としての発信です。全文を引用します。
 
「ベートーヴェンほど、人生の苦しみ、悩みに対し全人的に取り組み、また、それを素晴らしい作品に昇華させた作曲家はいないでしょう。私は若いころからベートーヴェンに親しみ、幾度となく演奏して来ましたが、歳を重ねるごとに、その作品の深み、訴える力に触れて、新たな感動を覚えます。/「バッハ:無伴奏ソナタ&パルティータ」全曲のあとは、この作品しかないという強い思いで「ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ」全曲に改めて挑戦いたします。幸い優れたピアニストである江口玲さんとの共演が王子ホールで実現できることになりました。/この機会に、私なりの想いを皆様にお伝えすることができれば大変嬉しく存じます」(前橋汀子)。
 
 休憩後の演奏から(8番、9番)、皇后、美智子さまが見えました。聴衆に予告なしだったのでびっくりしました。 


前橋汀子さんによるべートーヴェン・バイオリンソナタ全曲演奏①

2009-02-22 02:31:24 | 音楽/CDの紹介

前橋汀子:ベートーヴェン・ヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会① 王子ホール

          
                
 ベートーヴェンは、バイオリン・ソナタを全部で10曲書いています。10曲中9曲は、1798年(27歳)から1803年(32歳)までの5年間に作曲されています。10曲目だけは、注文に応えて作られました(1812年)。10曲とも圧倒的に凄い曲です。なかでは9曲目のクロイツェルソナタが有名です。この作曲以降、ベートーヴェンはバイオリン。ソナタに関心が失せ、その対象は弦楽四重奏曲に移っていきます。

 今回、汀子さんは2回の連続コンサートで、10曲全部を弾きました。
第一日目は、下記の5曲です。

ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ全曲 

 ・ ヴァイオリン・ソナタ 第1番 ニ長調 Op.12-1
 ・ ヴァイオリン・ソナタ 第2番 イ長調 Op.12-2
 ・ ヴァイオリン・ソナタ 第5番 ヘ長調 Op.24 「春」
 ・ ヴァイオリン・ソナタ 第7番 ハ短調 Op.30-2
 ・ ヴァイオリン・ソナタ 第10番 ト長調 Op.96

 1番は、溌剌とした若々しい曲です。2番は、フレッシュでチャーミングな曲です。5番は「春」という名前が付いています。のびやかな名曲です。7番はハ短調の厳しさと力感のある曲です。10番はクロイツェルのライバルだったフランスのバイオリニスト、ロードのウィーン訪問のさい、ルドルフ大公のピアノとの共演を予定して作曲された献呈曲です。

 いずれもバイオリンの奏法のテクニック(デタッシュ・テヌート・ポルタート・レガート・スタッカート・マルテラート・サルタート・ピッチカートなどがいろいろ用いられていますが、汀子さんは情熱的に、音楽性豊かに演奏しました。ピアノは江口玲さん。息のあった演奏でした。

 アンコール曲は、「ハンガリー舞曲」でした。


川畠成道さんの奏でる珠玉の音色

2009-02-21 00:13:36 | 音楽/CDの紹介
川畠成道『僕は、涙の出ない目で泣いた』扶桑社、2000年

                
             



 国際的バイオリニストである著者は、8才の時にロサンゼルスで風邪薬の副作用で視覚障害に陥りました。

 10才からヴァイオリンの教師をしていた父の考えでヴァイオリンを習い始めめきめき上達。浦川宣也,江藤俊哉に師事し,桐朋学園大学卒業後,英国王立音楽院で学び,押しも押されぬソリストに成長(音楽院から授与されたスペシャルアーティスト/スタイタス,ウィグモアホールでのコンサートデビューなど)しました。

 薬害から命を救ってくれた医師,厳しくも優しい音楽の先生,暖かい家族,同僚の支えがあって,今のわたしがあると著者は述懐しています。そのことを一番知っているのは本人です。心が伝わる音楽を自分のために弾くという川畠さん(1770年作のガダニーニ)。

 ソリストでなければわからないことが書かれています。 弾き始めはアップボウ(p.94),ドイツのシュトゥットガルト駅で聴いたジプシーの「チゴイネルワイゼン」(p.176),メデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲は,誰でも通過しなければならないが「一番弾きづらい曲のひとつ」(p.191),相棒のピアニスト,南アフリカ出身のダニエルとは曲の作り方がアベコベで成道は細かく丹念に積み上げる方法,ダニエルは全体から細部へ(p。193),等々。

 川畠成道さんのコンサートは,2001年の12月に川口総合文化センターで聴きました。この3月にもあるので行きたいと思っています。


明治の二大思想家(諭吉と兆民)

2009-02-20 00:20:59 | 科学論/哲学/思想/宗教
松永昌三『福沢諭吉と中江兆民』中公新書、2001年
       
            
        
 1901年、時を同じくして生涯を終えた、福沢諭吉(1835-1901)と中江兆民(847-1901)。ほとんど同時代を生きたふたりでしたが、彼らの明治維新、西欧文明に対する評価、アジア観は、全く異なりました。

 本書は、そのディテールを執筆された著作、論稿を使って明らかにした本です。

 著者の叙述に従って簡単に要約すると、諭吉は明治維新をを肯定的に捉え、日本の西欧化に積極的でした。さらに、人類の発展の方向を、野蛮→未開→文明で捉え、未開の段階にある日本が文明の域に到達することを展望しました。願っただけでなく慶応義塾という私学を創設し、ここで西洋文明の教育をその神髄にある実学主義、功利主義の教育とともに行ったはよく知られたことです(漢学には否定的)。
 諭吉はさらに日本の国家的独立を志向し、富国強兵に賛成でした。いきおい壬午(じんご)事変を契機とする対朝鮮政策では、西欧の侵略を防ぐ意味で日本のこの国への干渉を肯定しました。

 これに対し、兆民は明治維新後の日本の立国には懐疑的で、自由民権の思想を重んじました。功利主義を是認せず、自由主義、教養主義に徹しました。兆民も仏学塾という私学を創設しましたが、ここでの教育内容は史学、哲学を中心とした西洋の思想でした。同時に東洋文明の素養(中国の古典の学習)をつけることににも心をくだきました。対外問題に関して、兆民は朝鮮問題よりも内政問題、とくに立憲政治の確立が先決との考えていたようです。

 著者は欲望の肥大、進歩への幻想、効率至上主義、強者優者などを是とする現代文明のあり方に疑問をもち、深刻な危機に直面している現代文明の方向性を見極める観点を模索するために、諭吉と兆民の思想をとりあげ、そこからなにがしかの示唆を得ようと考えて本書を執筆したとのことです。(「あとがき」pp.215-216)。

偶然入った天ぷら屋さんの美味

2009-02-19 00:12:50 | グルメ

富山発 天ぷらの「天米」県庁前店 富山市桜町 076-441-4324

          

 出張の楽しみは、その地でいい食にありつくことです。現在、進行中のプロジェクトでの出張は、日中のスケジュールがタイトで観光はできません。朝から夕方まで、仕事がひきもきらず続きます。というわけで、せいぜい、昼食とか夕食で、土地の名店や地方色のある居酒屋に出会えたらいいなと思います。

 しかし、これについてもわたしは事前の下調べなどしないものぐさなので、行き当たりばったり。また行先は県庁、市役所が多いので、お役所の安価な食堂で、急いで昼食をとるという場合がほとんどです。

 ところが今回、富山市で昼食をとるために入った天ぷら屋さんは、店の構えが大きく、通されたところが個室でゆっくりでき、また味も上々でした。

 その名は、「天米(てんよね)」です。ネットで調べると、かなり有名な天ぷら
屋さんのようで、ルーツを訪ねると明治の中ごろに東京の神田で前田米吉という人が創始者のようです。

 天ぷらはもちろんですが、ごはんにもこだわりがあるとのこと。油は高級なゴマ油を使用しているようです。また、ごはんは富山が誇る「コシヒカリ」とありました。頷けます。

 確かに、出てくる天婦羅はサクッとした歯ごたえもよく、揚げ具合もほどよく、食材の海老、穴子など、またシイタケ、レンコンなどの野菜の味が生きていて、一時幸せな昼食になりました。こういうお店は付け合わせの漬物も保証出来ます。また、ミソ汁は赤だしでお願いしましたが、これも美味しくいただきました。

 富山市にでかける予定はもうしばらくありませんが、再訪するとしたらまた覗いてみたいお店です。また、もし富山市に出かける人には、お勧めです。夜のお酒もきっとおいしいと思います。


白山茶屋(金沢)で乾杯

2009-02-18 00:20:33 | 居酒屋&BAR/お酒

金沢発 「白山茶屋」  金沢市此花町6-10都ホテル地下 076-264-7420

             画像1『郷土料理 白山茶屋』

 出張で一昨日から金沢市、富山市でした。現在、走っているプロジェクトに参加しているいつもの同僚と一緒です。

 今年は雪が少なく、観光客は兼六園の雪景色を見ることができずに、がっかりしているほど。それでもわたしたちの滞在のおりは、適度に雪が舞いました。

 16日(月)は、金沢市役所、石川県庁、中小企業基盤整備機構・北陸支部で仕事をしたあと、夜は夕食をかねて、駅に近い、「白山茶屋」に腰を落ち着けました。基盤機構の方の紹介です。

 夜、6時ころでも駅西口の地下は、歩行者が絶えてありません。たまに人を見かけても点景です。

 ところが、このお店に入ると賑わいがあります。仕事を終えて、仲間と一杯ひっかけている人がいます。

 肩の凝らないいいお店です。何でも、石川県の白山市の鶴来町に「菊姫」の本家(酒蔵)があって、その系列店のひとつがここです。このあたりに人気は少ないのに、ここだけは飲み仲間が気焔を吐いています。熱い語りがあります。

 わたしたちは小上がりにあがり、生ビ(生麦酒)でまず乾杯し、「牛すじ」がきたところで、刺身、おでん、もろきゅう、はたはた、「ぬた」などを注文しました。そして焼酎に日本酒。もちろん日本酒は「菊姫」です。

 となりでは2人の女性をまじえて若者たちが、元気に飲んでいました。カウンターにはずらりと腰をおちつけたサラリーマンが、おばんさいなどをつまんで、ご満悦の様子。いい風景です。

 わたしたちは和気あいあいで、日中の疲れを癒しました。

        


「求道と放恣」の空間 池袋モンパルナス

2009-02-15 12:31:21 | ノンフィクション/ルポルタージュ

宇佐美承『池袋モンパルナス』集英社、1990年

            池袋モンパルナス(二)

 昭和の初期から戦中にかけて、池袋に一風変わった絵描きや芸術家が生きていた地域がありました。そこには「すずめヶ丘」「つつじヶ丘」「桜ケ丘パルテノン」「ひかりケ丘」「みどりヶ丘」といったアトリエの村があったのです。飲み屋、喫茶店、ミルクホール、玉突屋など種々の店がひしめいていました。喫茶店ではセルパン、コティ、酒場では梯梧、錦、おもろ、バー・カフェではブルネリア、処女林など。

 軍国主義の道をひたすら歩もうとしていた日本とは無関係に(あるいは無関係を装って)、画家たちはアトリエで絵を描き、飽いては酒を飲んで、この界隈を徘徊していました。よく知られた画家としては、熊谷守一、松本竣介、靉光、麻生三郎、寺田政明、井上長三郎、長谷川利行、丸木位里、俊、らがいました。

 他にも、福沢一郎、吉原義彦、古沢岩美、長沢節、鳥居敏文、矢部友衛など数えきれません。

 ここを「池袋モンパルナス」と名付けたのは、夭折した詩人小熊秀雄であると言われています。

 「みんな貧乏で、酒好きで女好きで喧嘩っぱやく、絵を描くことのほかにはまるでデタラメだった。考えることといえば、いい絵を描くことだけだった。あげくに軍人や右翼など自称愛国者に脅され、行儀のいい人からは顰蹙を買っていた。だけどわしらが住む界隈は別天地で、一度住めば抜けだせなかった。そこはうす汚れていたが、だれもがフランスに恋こがれていて、”池袋モンパルナス”などと称して酔っていた」。これはかつてここに住んでいた絵描きの言ですが、この言を聞いて著者は池袋モンパルナスのことを書こうと思いたったといいます(p.508)。

 しかし、この別天地も戦争とは無縁でありえず、あるものは従軍画家として戦地に赴き、あるものは徴兵され、またあるものは時の権力にひきたてられ、投獄されました。

 敗戦の年の4月の空襲で、ミッションスクールの立教大学と「桜ケ丘パルテノン」などのアトリエ村をのこして大半が焼けおちてしまいました。画家たちはいつしかここを離れ、戦後は一時、広大な闇市と化しましたが、さらにその後、副都心開発の手が入り、かつての面影は消えうせてしまったのです。

 著者は入念な資料調査、聞きとり調査をベースに、この夢のような「求道と放恣」の世界に蠢いてた人間の群れを暖かい目ですくい上げ、紙上に再現させました。著者が渾身を込めて書きあげた珠玉のノンフィクションです。

  時々行く、沖縄風居酒屋「おもろ」が2回出てきました(p.343、p.373)←今度、いつか本ブログで紹介します。

 本文だけで511ページの大著です。3週間ほどかかって、愉しみながら読みました。


激動の時代を生きた福澤諭吉の人と学問がよくわかる展示会

2009-02-14 23:54:30 | イベント(祭り・展示会・催事)
未来をひらく 『福澤諭吉展』 東京国立博物館(表慶館)
                        2009年1月10日ー3月8日
                              

 上野の「東京国立博物館(表慶館)」で福澤諭吉展が開かれています。諭吉が創立した慶応義塾大学150年を記念しての展示会です。

 諭吉は『学問のすすめ』『文明論の概略』で有名です。幕末、明治の激動期に西欧文明を日本に取り入れることに積極的だった思想家として知られています。

 1835年に中津藩(現在の大分県)の下級武士の子として「大阪で」生まれました。大阪の適塾で蘭学を学び、23歳のときに自ら蘭学塾(後の慶応義塾)を創設します。その後、欧米各国を3回に渡って訪問。その経験を『西洋事情』にまとまめました。

 展示会は、「第一部 あゆみだす身体」、「第二部 かたりあう人間」、「第三部 ふかめゆく智徳」、「第四部 きりひらく実業」、「第五部 わかちゆく公」、「第六部 ひろげゆく世界」、「第七部 たしかめる共感」とかなり広範です。諭吉の人となりが、遺品、遺墨、書簡、自筆原稿、著書などをとおして広がって見えます。

 たとえば硯、メガネ、印章、紋付長着など身近な生活品の他、居合刀もありました。

 人間活動の全ての基盤に「身体」を位置づけていたこと、独立心を強くもっていたこと、家族の団欒を大切にしていたこと、子どもたちに優しかったこと、女性に対して平等感をもっていたこと、写真に撮られることが好きだったことなど、諭吉の人柄がよくわかりました。

 同時に諭吉の思想家としての業績、当時の人々との交流、実践の場としての義塾の運営、門下生の活動についても、詳細に紹介されています。

 ペリー来航のとき、諭吉は19歳ぐらい。明治維新の頃、34歳。それから明治の国づくりのなか、激動の時代を生きた諭吉。その人生の軌跡を追うことができました。 
 
 

ミステリイの魅力を読み解く

2009-02-13 21:59:20 | 評論/評伝/自伝

春日直樹『ミステリイは誘う』講談社新書、2003年
                          

                    



 「死体」「探偵」「美女」「手がかり」「推理」の5つのタームから、ミステリーの魅力を読みと解いた本です。

 アメリカにヴァン・ダインという本格的ミステリイの創始者がいたらしく、その人の『探偵小説作法二十則』という本が援用されています。このテキストによれば、ミステリーには「死体を登場させるべし」[死体](p.18)、「事件には、ちゃんとした探偵が登場して問題の解決にあたるべし」[探偵](p.50)、「恋愛を持ち込むなかれ」[美女](p.78)、「手がかりはすべて明確に提示せよ」[手がかり](p.110)、「殺人方法と推理方法は合理的で科学的たるべし」[推理](p.136)という鉄則があるらしいです。

 確かにミステリイは読者の心を摑むために「死体」を登場させることが多いですね。「死体」を抜きにはミステリイは成り立たないと著者は書き出します(p.18)。

 「死体」が登場すれば、次は「探偵」」です(p.50)。ミステリイには、いろいろなタイプの探偵がでてきますが、彼らの仕事は「あたり一面の<外観>の奥底から、大切な<存在>を取り出す」ことです(p.58)。

 ミステリイの魅力を際立たせるのは死体や探偵の傍にいる「美女」です。しかし、彼女のミズテリイの中での居場所は難しいらしいです。主役になっては困るし、しかし読者は美女の存在に気がきでないのです。「彼女に引かれるほど、彼女がわからなくなる」くらいがよいのでしょうか?

 引っ張ると謎がほどける一本の糸、それが手がかりです(p.110)。その手がかりがミステリイのなかでどういうふに重要なのかが、本書では哲学的に考察されています。

 最後に「推理」。ヴァン・ダインは上記のように言っていましたが、「探偵の推理は呪術とも科学ともいいきれない。逆にいうと、呪術にも科学にも似ている」(p.157)というのが著者の結論です。

 引用例がたくさんでてくるので、ミステリイをたくさん読んでいれば面白い本なのでしょうが、わたしのこの分野の読書は貧しいので、残念でした。

 でも、そのうちこの未開拓の分野にも分け入っていきたいとと思います。

 著者は人類学者で、大阪大学の先生です。


「戦前の四横綱展」(大相撲が輝いていた時代)

2009-02-12 23:39:14 | イベント(祭り・展示会・催事)

「戦前の四横綱展」(相撲博物館)両国国技館

   羽黒山政司使用の化粧廻し
                                 羽黒山が使用していた化粧回し

 先日、日本大相撲トーナメントを観戦したおりに、国技館のなかにある博物館での展示会に寄りました。

 相撲資料館は、両国国技館の中にあります。 

 現在は、「戦前の四横綱展」が開催されています。豪華絢爛の雄姿です。

 戦前、番付に四人の横綱がいたのは、2回。昭和13年1月から3月までの、玉錦(32代、優勝9回)、武蔵山(33代、優勝1回)、男女ノ川(34代、優勝2回)、双葉山(35代、優勝12回)。また昭和18年から20年にかけての双葉山、羽黒山(36代、優勝7回)、安芸ノ海(37代、優勝1回)、照国(38代、優勝2回)です。今回の展示会では、戦前の大相撲を支えた四横綱が資料と写真で紹介されています。

 もちろん、わたしはこの四横綱の相撲は見たことがありません。映像ではあります。日本相撲協会が保存している映像で、テレビで放映されたことがあります。

 玉錦は、現役で逝去しました。「喧嘩玉」といわれた荒武者。怒涛の寄り身で有名です。武蔵山は若いころは勝率も高かったのですが、肘を痛め、ために横綱での優勝はゼロ、「悲劇の横綱」と言われています。

 双葉山は69連勝の大横綱、その連勝を止めたのが安芸ノ海です。羽黒山、照国も強豪横綱でした。とくに照国は出世が早く、また博多の相撲人形のようで人気があったようです。男女ノ川は巨漢でした。引退後、選挙に出馬したり、物議をかもしました。

 展示品には、化粧廻し、書簡、写真など多数です。戦前の大相撲の全盛時代を彷彿とさせます。

     明治神宮 四横綱
    
太刀持、露払いを従えた四横綱(左から武蔵山、玉錦、双葉山、男女ノ川)