先週末から聖路加国際病院に入院していて、昨日退院しました。
病名は鼠蹊部ヘルニアです。鼠蹊部というのはお腹と足のつけねのあたりにあり、鼠蹊部ヘルニアはここから腸がはみだしてくるといもので、病気と言えるかは疑問ですが、病院に行かなければなおらないので、ここでは病気としておきます。
原因は老化とのことでした。筋肉が衰えて腹膜が弱くなり、鼠蹊部の筒状の管が緩んでその隙間から腸が隆盛してきます。寝ているときはなんでもなく、普通にへこんでいるのですが、起きると上記の症状がでてきます。とくに生活に支障があるわけではありません。しかし、長時間歩くと、違和感を覚えてきます。痛くてどうしようもないということはありませんが、チリチリとしてきます。
困るのはほうっておいてよくなることは絶対ないということで、そのまま進行しなければよいのですが、症状が悪化してくると、その部分を押しても戻らなくなり(専門用語では嵌頓[カントン])、最悪の場合は腸が壊死することもまれにあり、そうなると大変とのことです。5-6年くらい前から少し変だなと感じていましたが、この数カ月で症状がめだってきたので5月上旬に診療してもらいました。
ということで、早めに処置しようと決意し、医師とも相談して、手術することにしました。手術は簡単ですが、そうは言っても麻酔をかけ、お腹の該当箇所を切り、メッシュを入れて鼠蹊部から腸がはみでないようにします。全体で2時間ほどかかりました。
病室で手術用に着衣し、手術室までは歩いていきます。帽子をかぶって、手術台に横たわると、天井からテレビの手術室でよくみる丸い蛍光灯が輝いていました。
心電図、血圧計がつけられ、左手に麻酔の点滴。鼻に酸素吸入を入れられました。足に弾性ストッキングがつけられ(定期的にふくらはぎが圧迫される、血栓防止のため)、要領よくことが進んでいく感じです。、それから意識がしだいに朦朧としてきてきましたが、半麻酔なので医師が何か措置していること、何かしゃべっていることはわかりましたが(執刀医のほか、助手が2人ほど、麻酔専門の女医はひとり、あと看護師が2名ほどついていたようです)、部分麻酔をしていたのでしょう、痛いということは全くありません。それから、2時間ほどで意識回復。手術は終わっていました。
ストレッチャー(移送ベット)にその場で移され、部屋に戻されました。痛み止め、化膿どめ、栄養補給の点滴があったあと、翌日からは通常の食事に戻りました。御飯だけはお粥にしてもらいました。
入院、手術は、しないにこしたことはありませんが、いい経験(?)になりました。手術前には厭だなという思いがなかったとは言いませんが、もう観念して、あきらめていました。
今日は術後、3日目になります。痛み(咳をするとかなり痛い)、腫れはまだあるものの、日に日によくなっていることは確かです。
医師は主治医とそれに5人の若い医師がついてチームで対応してくれました。看護の優しいナースは交替でケアをしてくれました。感謝です。
一週間後に外来で、傷口の上に貼ってあるシートをはがしてもらうことになっています。
この間、ブログ投稿に穴をあけないようにと、できるだけ投稿の予約設定をしていたので、日曜日以外は毎日更新しました。
この間、そんなことがありました。
わたしたちの生活と密接なところにあるコンビニ。全国で約50000店ほどあり、1日の利用客約3000万人、一店平均一日600人以上が利用しています。その売上高は少ない店でも20万円、多いところでは100万円にもなります。
コンビニはフランチャイズ・チェーンという形式をとっています。フランチャイズ方式とは何か? それは「ある事業を開発した企業が、それをさらに広げるため、その事業の一定のノウハウを別の事業者に提供し、統一した看板を使って事業展開することを契約する」方式のことです。「その元になる企業がフランチャイズ本部(フランチャイザー)であり、その方針のもとに営業するのが加盟店(フランチャイジー)」です。
本部があって、加盟店を募集し、両者が契約を結ぶのですが、店を開くための資本と労働力は加盟店もちになります。
この方式はコンビニばかりでなく、ダスキン、吉野家など他にもたくさんありますが、本書はコンビニに絞ってその問題点と可能性を展望したものです。
問題点としては、純利益が非常に少ないこと(年間一億の以上の加盟店オーナー夫婦の可処分所得が300-400万円)、本部と加盟店との関係で、両者は対等平等ではないこと(フランチャイズ契約は事実上、「本部の権利、加盟店の義務」を定めたものになっている)、加盟店から本部に支払う「上納金」であるロイヤルティがあり、これが加盟店の経営を逼迫させていること、などがあります。また、24時間営業が一般的になっていますが、加盟店オーナーは家族総動員でこれに対応しているケースがあり、生活破壊につながっていること。さらに、中途解約違約金の法外なありかた、ドミナント方式(集中出店方式)の矛盾が指摘されています。
著者は、ロイヤルティには逓減制を、24時間営業にはその選択権を加盟店にもたせるべきこと、中途解約違約金についてはFC契約条項からのその削除を提案しています。
他にもコンビニで働くパート、アルバイトの厳しい労働条件にも触れられています(著者は時給1000円を提唱)。
以上のように多くの問題点の指摘がありますが、かといって著者はコンビニに否定的であるのではなく、その公正な取引ルールを定めたフランチャイズ法(仮称)の制定をもとめつつ、地域経済活性化への役割を評価し、地域への定着、住民との連携の可能性を追求しています。
全国FC加盟店協会[会員数約1000人]の結成は(1998年4月)はその可能性の担い手になるはずで、著者はそこの事務局長です。
補論に「東北地方太平洋沖震災とコンビニ・フランチャイズ」があります。
劇団四季。「マンマミーア」などいくつかミュージカルは観たことがあります。本書は、その劇団四季で演出の仕事に長くたずさわった梅津斎(ひとし)さんが人生のエネルギーの半分以上を四季につぎ込んだその道のりで、頭に浮かんだこと、心で感じたこと、身体で受けとめたことを吐露しています。
そこにあるのは、自身の入団の経緯、四季の舞台稽古の様子、舞台をつくるまでの確執、俳優との出会い、全国公演の苦労とハプニングへの対処、他劇団との対峙など、誰でも経験できるわけではない、それぞれにわけありのエピソードです。
とりわけ、著者にとって「神様」のような存在である団長・浅利慶太への全幅の傾倒、信頼が随所に垣間見られます(自称浅利慶太の不肖の弟子)。叱られても、それが快感になっているような感じです。
それにしても、「世界一の演劇工房」といわれた劇団四季のユニークさ、他の劇団との違いがよくわかりました。全国公演の展開もそうですが、ジャン・アヌイ、ジャン・ジロドゥの作品の上演、同時並行での何本もの公演、長期ロングラン、寺山修司との出会い、発声の「シキ節(発音切り)」、日生劇場との提携、企業(ヤクルトなど)との提携、ミュージカルの子供無料招待などなど。
「もと四季」団員を含めるとここで育った(育ちそこなった)俳優の人数が凄い数にのぼります。このなかでは、日下武史、三田和代、市村正親、加賀まり子、平幹二朗が四季を代表しています。輝かしい歴史を飾る作品は「オンディーヌ」「ハムレット」「エレクトル」「キャッツ」「ジークフリート」「リチャード三世」「イフィジェニ(ラシーヌ)」「オペラ座の怪人」「美女と野獣」「ライオンキング」などなど数えきれません。
叙述はいい意味で主観的調子で続き、しばしば逆説的表現があるので、読みの方向に逡巡をきたすところがありますが、それも著者の無意識の計らいかと思います。
北海道稚内市で生まれ、学生時代を札幌市で過ごしたということがあるためか、北海道公演の話題になるともともと高いテンションがもう一段高くなっています。
ちなみに、劇団四季の名づけ親は、芥川比呂志とのこと。知りませんでした。
さらに海野宿まで足をのばしました。鉄道で行くには、軽井沢駅からしなの鉄道に乗り、田中駅または大屋駅で下車、そこから10分ほどです。
東御市には、海野宿があります。北国街道の宿場で、江戸幕府がつくりました。
もともとここは海野郷や海野庄と呼ばれ、東信濃の豪族滋野氏やその嫡流にあたる海野氏の領地として榮え、集落となっていました。
ここはまた木曽義仲が挙兵した地であり、海野平の闘いがあった地でもあります。
海野宿は約650メートルほど古い街並みがつづきます。映画のロケ地に最適なたたずまいです。かつては、本陣1軒と脇本陣2軒が設けられ、佐渡の金を江戸におくったり、長野善行寺までの参拝客でにぎわい、また北陸諸大名の参勤交代などに利用されました。
明治時代には鉄道網の発達によって急激に宿場の利用客が減り、養蚕事業が目立つようになりました。
いまでも、本陣、脇本陣、問屋、旅籠の跡がのこっています。1987年に海野宿は重要伝統的建造物保存地区に選定されています。
土日で軽井沢に行ってきました。新緑の軽井沢で森林浴が目的です。土曜はいい天気で暑いぐらい(最高気温26度)、二日目の日曜日は朝から雨にたたられました(最高気温12度)(日曜日には軽井沢ハーフマラソンというのがあるのを現地でしり、交通規制がずいぶんかかっていました)。
日曜日には標記の「ヴィラデストガーデンファーム&ワイナリー」に、車を借りて訪問しました。場所は軽井沢から浅間サンラインを道なりに走り、小諸を経由して東御に入り、山を少し登るとあります。
ここは玉村豊男さんが切り開いた広大な農園に、ワイナリーがあり、食事ができます。面白いのは、閉店時間が日没時間ということで、この日は6時53分でした。毎日変わるわけです。
ここで軽い昼食をとりました。レストランの入り口に玉村豊男さん、帰りには奥様がいらっしゃいました。メニューには「ヴィラデストランチコース」というのがありますが、「カフェランチコース」という軽めのものを注文しました。パンは追加自由で、「カフェランチコース」にはサーモンのフライとコロッケがでます。食前にビシソワーズがふるまわれ、これは美味でした。
ここにはレストランのほか、女性が喜びそうな(?)、カバン、食器はもちろん、各種ワインなどの食材が販売されています。
驚いたのは玉村豊男さんはエッセイストであり、画家であることは知っていましたが、さらにたくさんの本を著していました。玉村豊男さんの本は読んだことがないので、これから数冊読んでみます。そしてこの農園経営です。
朝からずっと雨が降っていましたが、帰り際に少しづつ晴れてきました。カーテンが開かれるように眺望が開け、広大な農園の行きとどいた手入れの美しさもさることながら、北アルプスをのぞむ景色の美しさにうたれたことでした。
所在地:長野県東御市和6027 ☎0268-63-7373
公式サイト:http://www.villadest.com/
日本敗戦直後に約200万人ほどいた在日コリアン、彼らはその後どうなったのでしょうか。まず、終戦の1945年から50年までに、約140万人が「南」(韓国)へ公式ルート(日本政府の費用負担が原則)、非公式(自力で船を調達など)で帰国しています。その後、第一期、第二期の帰国運動を経て、第三期のそれへとつながっていきました。このあたりの事情は現代史の一局面としてあまり知られていません。
そこには非常に複雑で、難しい問題がありました。国際的に東西冷戦の構造があり、当該の朝鮮半島では38度線を境に南北に分裂、冷戦構造の縮図がそこにあり、50年には朝鮮戦争が勃発したこと。南は李承晩から朴正煕とつながる軍事政権のもと抵抗運動があり、北は金日成が支配する社会主義政権という構図があり、早期の南北統一が希求されていました。在日コリアンの間には、朝鮮総連と民団との対立がありました。国際的には国際赤十字委員会、日赤、朝赤が、またアムネスティが、国内的には政党の政策と運動とが絡んでいました。
在日コリアンは生活困窮者が多く、差別を蒙り、いろいろな理由から朝鮮に還りたかった人は多かったと思われますが、複雑な国際事情、朝鮮半島情勢のなか、社会主義へ国家への幻想にも踊らされ、その実現は困難を極めました。
本書ではこうした複雑な情勢が客観的に整理され、解きほぐされています。第三期の帰国運動は1959年から84年までの約四半世紀(途中中断あり)で、約9万3千人が帰国。帰国は本人の帰国意志の確認のもとで行われました。
しかし、「地上の楽園」と宣伝された北朝鮮の現実は厳しく、多くは監視と差別のもとで劣悪な生活を強いられ、また少ない人が根拠の乏しいまま思想犯にでっちあげられ処断され、悲劇的な結末を迎えました。
本書は、一方では社会主義の優位を宣伝し、南北統一を意図した北朝鮮の政治的思惑の欺瞞性を検証し、他方では日本政府の意図、すなわち過激な政治分子と貧困層の排除の目論見をあぶりだし、極東の悲劇が生まれた背景を解明しています。
なお、在日コリアンの帰国事業は4期にわかれ、それぞれ政策的な位置づけが異なりますが、本書ではそれらがクリアに分析されています。
著者は読売新聞の記者。一貫してこのテーマを追い、近年、ようやく明らかになってきた膨大な資料をふまえ、本書に結実しました。叙述はこの種のテーマになると、とかくありがちな妙なイデオロギー色がないのがいいところです。
前進座は1931年に設立されました。今年が80周年です。
記念の公演が国立劇場で開催されています。演目は「唐茄子屋」(一幕6場)と「秋葉権現廻船噺」(三幕7場)です。
「唐茄子噺」は落語でおなじみの「唐茄子屋政談」を舞台化した、人気の世話物です。腰ぬけ若旦那と奮闘の顛末が描かれています。筋はおよそ次のとおり。
日本橋の大店のひとり息子徳三郎(嵐芳三郎)は、道楽がすぎ、廓がよいの毎日で、勘当されました。伯父の六兵衛(村田吉次郎)は、女房のおとめ(いまむらいづみ)とともに心配しますが、本人は馬耳東風です。業を煮やした六兵衛は徳三郎に唐茄子売りを命じます。
天秤棒に唐茄子を入れた篭をかつぎ、徳三郎は貧乏長屋に迷い込みます。徳三郎の事情に同情して長屋の人達は徳三郎の売る唐茄子を全部買ってくれたのですが・・・。徳三郎役の芳三郎がなよなよとして、笑わせてくれます。
「秋葉権現廻船噺」は76年ぶりの上演です(創立メンバーが昭和9年に復活した宝暦歌舞伎「秋葉権現廻船噺」)。河内黙阿弥(1816-93)の「白波五人男」で知られる大盗賊、日本駄右衛門が戯曲に登場した古劇で、お家騒動に恋愛がからむ大活劇です。
遠州月本家が東山家との結納の品として収めるはずだった家宝・紀貫之自筆の古今集一巻。東山家上使信濃之助(中村梅之助)が受け取るはずだったのが、盗まれます。これをたくらんだのは、月本祐明(藤川矢之輔)と大盗賊日本駄右衛門(嵐圭史)。彼らはお家を滅亡させて、天下をとりを狙っていたのです。
この野望により、家老玉島逸当(山崎竜之介)は忠義の切腹。当主は落命し、月本家はお家断絶の憂き目にあいます。しかし、逸当の弟で、浪人だった玉島幸兵衛(嵐芳三郎)と若殿始之助(祐一郎)が仇打ちに立ち上がります。
玉島幸兵衛らと対決する日本駄右衛門が大暴れし、そこに謎の女、お才(河原崎国太郎)が絡みます。
「唐茄子屋」と「秋葉権現廻船噺」の間には口上が。第二世代の中村梅野助、嵐圭史はじめ、第三世代の藤川矢之輔、河原崎國太郎ら17名が裃すがたで挨拶。前進座の歴史にふれ、将来を展望しました。
座席が花道に近かったので、臨場感を愉しめました。
紹介されているお店はほとんどがすすきの、狸小路の界隈です。わたしが住んでいた琴似にあるお店が載っていますが、知りませんでした。
札幌市から東京にでてきて20年ほどになります。札幌市での生活が断然長いです。その札幌市で学生時代を過ごし、それから仕事をもつようになったわけですが、飲み屋事情には疎いです(東京にきてガラリと変わりましたが)。知っているのは北海道大学の付近、「今日庵」「しべちゃり」「ゲルマン亭」など。学生時代にはお金がなかったので、すすきのに繰り出すことはほとんどありませんでした。大学付近の比較的安いところばかりです。
たまにビール酒場の「ローレライ」、ロシア風居酒屋の「コーシカ」(ロシア語で仔馬の意)に行きました。安い居酒屋と違って、ちびちび酒を飲むというのではなく、ワイワイ楽しかった記憶があります。
本書には、その「コーシカ」が載っています(pp.166-168)。女将さんの写真がありますが、彼女を思い出しました。大きくととりあげられてはいませんが、「ゲルマン亭」(p.18)、「ローレライ」(pp.186-187)の名前も見つけました。このふたつのお店はもうないのかもしれません。
就職してからは車で職場に通っていたことと、子どもが小さかったかともあって、「おでん屋」「焼き鳥屋」、居酒屋、カクテルBAR、音楽酒場の類に出掛けることはほとんどありませんでしたから、この本に載っている老舗はほとんど知りません。
「生き馬の眼を抜く」すすきのあたりで今なお健在のお店が紹介され、どこも個性的で魅力的です。「長く続くには、ワケがある」わけです。今度、札幌市に行ったら、この本を持参して、歩いてみたいと思います。
もうずっと前から(学生時代から)気になっていた小説です。野上弥生子の作品としてあまりにも有名ですが、内容はよくわからず、これまで過ごしてきました。完読して了解しました。
高級官僚であった曽根家の末娘の生き方を描いたもので、時代は昭和の初期と想定されます。いまの女性がおかれている環境とはほどとおいです。
彼女は大学の聴講生として社会学を学んでいます。いまから見れば何のことはないのですが、当時としては大学で女性が学ぶということ自体が大変なことで、それもよりによって社会学ということで、周囲は文学を勉強するならまだしも、社会学などやめてほしいと眉をしかめています。
その周囲は、社会的地位の高いひとばかり。財閥、医者、大学教授、プチ・ブルの人たち。定期的に園遊会も開かれています。真知子はそうした人々の発想、行動、しきたりの俗っぽさに辟易しています。
真知子は24歳なので、当然、結婚問題に悩まされ、御見合いの勧め、男性の紹介があり、それらにうんざり。愛のない結婚など考えられないのです。
彼女には米子という友人がいて、米子は東北の没落地主の妹、真知子と同じように聴講生でしたが、それをやめ三河島にあった貧民教育の社会事業(セツルメント)に関わっていました。
真知子はプチブルの生活にあきたらず、社会学を学び、米子そして彼女の知り合いの活動家・関との接触もあってマルクシズムに傾倒していきます。関との結婚も考え、ついに家を飛び出しますが、彼の不誠実さに絶望し、婚約を破棄。
関との関係ができるまえに、一度は結婚の話があったもののの、実現しなかった河合財閥の御曹司(考古学者)との新しい出発の予感があって、小説は終わっています。
真知子の考え方は、いまの時点からみると甘いといわざるをえませんが、冒頭にも書いたように昭和の初期の状況を考えると真知子をせめるのは酷でしょう。
また、当時の日本文学の世界ではとりあげられなかったテーマであり、この作品の登場は衝撃的だったと想像するに難くありません。
松岡正剛「千夜一夜」では、選ばれた著者の本は一冊限りということになっています。藤沢周平の本はこの「半生の記」が採択されています。それで、読んでみました。
著者自身は自伝とか自分史を書こうとは思っていなかった、と語っています。作品に自ずから自分が出るのだし、振り返ってみる自分の過去に書き残すに値するものはないからだ、と言っています。藤沢周平はそれで「含羞の作家」とも呼ばれています。
それでは、なぜ「半生の記」を著したのかというと、それは自身が「小説を書くようになった経緯、・・・どのような道筋があって私は小説家になったのだろうか」を確認しておきたいから、ということのようです(p.10)。
東北の田舎の農家に生まれ(1927年12月26日)、いろりのまわりで父母のむかし話を聞き育ち、学校は嫌いでした。本を読むことは好きでした。
5年生のときにの担任の先生の教育(授業をつぶして本を読んでくれた)が著者のとりとめもない活字好き明確に小説好きに変える鍵となったとあります(p.40)。小説好きの友人も多かったとのこと。
その後、昼間は印刷会社で働きながら鶴岡中学校夜間部に通います。さらに、湯田川中学校の教員をつとめながら(結核の療養生活を経験)、同人誌に参加し、小説家の道に近づいていったのです。この湯田川中学校の校長が、著者に東京で小説家になるのがよいのではないかと示唆したようで、このアドバイスが大きな影響を与えたようです(pp.100-103)。
そして結婚。業界新聞者を転々とし、生活は不安定でした。最初の妻は若くして亡くなりました。小説を書き始め、「冥い海」がオール読物新人賞に選ばれましたが、それでも「このとき、私にしても妻の和子にしても、将来小説を書いて暮らして行くことになるとは夢にも思っていなかった。そのあとのことは成行きとしてしか言えない」と書いています(p.110)。昭和46年(1971年)、44歳の時でした。
半生の記はここで終わっています。本書にはもう一遍「わが山形の思い出」が入っています。青春記です。「半生の記」「わが山形の思い出」ともども、読みやすく人柄が滲みでています。藤沢文学という人肌温泉の源泉かけながしです。
いま、評判のポーランド映画です。
おおきな、ドラマティックなストーリーはありませんし、白黒映画です。それでも観終わって、久しぶりに映画らしい映画を観たと満足しました。
ワルシャワ郊外の田舎にある比較的大きいが、もうかなり古い家(屋敷)に、91歳のおばあさんアニェラがひとりで暮らしています。「ひとりで」というのは正確でなく、フィラデルフィアという犬と一緒です。ここは戦前に両親が建て、彼女が生まれ、成長し、夫と暮らし、一人息子を育てた家でした。家は深い森のなかにあり木漏れ日が窓ガラスに映えています。
この家を売却しようと息子が考えていますが、アニェラは拒否しています。頼りにならない息子で、自分のことしか考えていません。息子の娘も可愛くなく、好きになれません。
アニェラの暮らしは質素ですが、心は豊かです。隣に若い夫婦が子どもたちをあつめて音楽隊をつくって、教えています。練習の様子を双眼鏡でながめたりして、ときおり自分の若かった頃を思い出しています。戸外にはブランコがあり、子どもたちが乗ってあそんでいます。子どもが突然、窓から入ってきて遊びにくることもあります。時間が静かに流れています。
主演の女優グヌタ・シャフラフスカさんはやはり90歳を超えています。95歳のいまも舞台で現役で活躍しているそうです。アニェラ役では矍鑠として元気です。家の1階と2階の階段の往復を苦にせずしています。精神、心も強く、なよなよ、めそめそしていません。
それから犬のフィラが本当によく訓練されていて、いい演技(?)をしています。アニェラをみあげる目の動き、食べ物や電話の呼び出しへの反応など、随所に笑わせるシーンがあります。
先に書きましたように映像が綺麗で、また飽きさせません。とりたてたストーリーがないのに飽きがこないのは、映像が工夫されているからです。
監督は女性のドロタ・ケンジェジャフスカさん、その夫君アルトゥル・ラインハルトさんが撮影担当です。息のあった合作です。
アニェラはこの家を売ってしまおうとうする周囲の雑音にたいして。意を決したかのようにある決断をします。それが何かは????
邦題は「木漏れ日の家で」。わたしはポーランド語は読めませんが、原題を観て何となく邦題とは違うように思いました。帰宅して調べたところ、原題は「死んだほうがまし」とい意味のようです。そっけないというか、そのままというか、驚きましたが、ヨーロッパ映画の題はそういうものが多いです。邦題は、感覚的すぎ、本質的でありません。
先日読んだ、この本の著者の角さんの『美の心』の「離婚」の、もっとくわしい展開が書かれています。
著者の鄭雨沢との出会いから、結婚、中留での生活、離婚まで。夫だった鄭は日本の憲兵に追われながら植民地下で少年時代を過ごし、解放後の韓国で米占領軍や李承晩政権と闘い、逮捕され拷問を受け、その後故郷とも肉親とも別れれて日本に密航してきた人物でした。三鷹にあった著者が住んでいた家で、鄭は過去を語りました(鄭の出自と李承晩政権下のたたかいは本書の「往還」に詳しい)。そして結婚。
著者は日本の警察の目を避けながら、転々。朝鮮人街・中留(川崎市の町はずれ[千坪ほどの土地に200世帯を超える朝鮮人が暮らしていた])での生活も体験し、気心の知れた友人、子どもたちと、貧しくも心豊かな日々を過ごしました。
1950年代後半、在日朝鮮人の間で北朝鮮への帰国運動が高まり、鄭はこの運動の最前線に立って活動。『世界』(岩波)でも論陣を張りました。
この運動のなかで日本人妻は微妙な立場にありました。夫と北朝鮮に戻っても、馴染めないことが多く、またその素行が批判の対象とされたのです。そんな、ある日、著者はロシア語を教えていた朝鮮大学で突然、解雇を通告されました。何かが背後で動いていたようです。鄭との生活の継続はもはや不可能でした。
後日、1979年春、著者はもとの夫がスパイ容疑で処断されたとの記事を目にしました。本書はそのレクイエムです(p.4)。
鄭と出会う前、「ソヴェト研究会」での活動の様子もいきいきと書かれていて面白かったです。
平原綾香さんは、クラシックに歌詞をつけて、歌っています。彼女にはそうしたCDが数枚あります。今回、入手したのはNo.2です。
チャイコフスキー、バッハ、ベートーヴェン、ラフマニノフなどの名曲に歌詞がつけられ、クラシックがちかづきやすくなりました。ずっと、過去にも、たとえばチャイコフスキーの「白鳥の湖」の一節に歌詞が付され、そえを歌ったこともありましたが、なんとなく俗化した感じで厭でした。今回のCDでは、その感じがなくなり、落ち着いて聴くことができます。
3曲目のエルガー「威風堂々」は、曲と歌詞の一体感が安定的です。いくつかの曲は、TVドラマ、映画、CMなどで使われたもののようです。たとえば、「威風堂々」は、テレビ朝日系ドラマ「臨場」主題歌、ベートーヴェンの「悲愴」は映画「オーシャンズ」の日本語版テーマソング、シューベルト「アベ・マリア」は、POLA「B.A.ザリーム」CMソングといった具合です。
1. セレナーデ (アカペラ) チャイコフスキー / 弦楽セレナーデ | |
2. Sleepers, Wake! J.S.バッハ / カンタータ第140番 | |
3. 威風堂々 エルガー / 威風堂々 | |
4. my love ヘンデル / 私を泣かせてください | |
5. JOYFUL, JOYFUL ベートーヴェン / 交響曲第9番「合唱」 | |
6. adagio ラフマニノフ / 交響曲第2番 第3楽章 | |
7. ソルヴェイグの歌 グリーグ / ペール・ギュント組曲より「ソルヴェイグの歌」 | |
8. アランフェス協奏曲~Spain ロドリーゴ / アランフェス協奏曲 第2楽章 | |
9. CARMEN ~Je t'aime!~ ビゼー / カルメンより「ハバネラ」 | |
10. mama’s lullaby ブラームス / 子守唄 | |
11. Ave Maria! ~シューベルト~ シューベルト / アヴェ・マリア | |
12. ケロパック チャイコフスキー / くるみ割り人形より「トレパック | |
13. Sailing my life with 藤澤ノリマサ ベートーヴェン / ピアノソナタ「悲愴」Bonus Track | |
14. Love Never Dies アンドリュー・ロイド・ウェバー feat. 平原綾香 Bonus Track A.ロイド・ウェバー / オペラ座の怪人2「Love Never Dies」日本語ヴァージョン |
「多読術」という標題ですが、「読書論」「読書について」という標題をつけたほうが内容に即していたと思います。読書経験の内容、意義、方法について書かれた本ですので・・・(ただ、この本を「読書論」としたのでは売れ行きは「多読術」よりも落ちたでしょうが)。注意したいのは「多読術」だと読書のノウハウが書かれているかのように受取られかねませんが、そうでは全くないという点です。
ポイントは、読書を「書くことと読むこととの編集的相互作用」と定義していることです。パラフレーズすると、それは「書き手」と「読み手」との間に成立するコミュニケーションの編集なのです。読書は「意見交換のために行われている編集行為」ということです。
以上が骨の部分で、そこから派生してくる「読書はわからないから読むに尽きる」、「速読はそれにとらわれるからダメ」「読書はどんな本をどんな読み方をしてもいい」「いい本に出会う確率は最高でも3割5分くらい」「自分の好みを大切にする」「役に立つ読書をもとめないほうがよい」「読書するしくみをリズムにする」という箴言が嬉しいです。
さらに具体的には、書き込みをどんどんして本をノートにする、目次にしっかり目をとおす、関連本を並行して読む(あえて言えばこれが「多読術」)、「辞典」はもちろん「歳時記」「理科年表」「人名事典」「術語集」そして「年表」「地図」も必要と言っています。
まことにセイゴオ先生の読書の蘊蓄はためになります。ご本人の読書体験はのルーツは幼少の頃の「ノンちゃん雲に乗る」のようで、この本の最初と最後に出てきます。
青春期の「カラマーゾフの兄弟」のインパクトも大きかったようです。
著者には『千夜一夜』というもの凄くボリュームのある読書体験記があり、読書論も読書実践の裏づけがあるわけです。
「三軒茶屋婦人会」という妙な名前の演劇グループがあり、初めて耳にしたときには、東京都世田谷区の三軒茶屋にある女性の地域親睦会(団体)かと思いました。実は篠井英介さん、深沢敦さん、大谷亮介さんの男性3人からなる演劇集団と知ったのは5年ほど前です。このグループは、舞台で女装して芝居をします。数年に一度の公演で、今回は4回目、「紅姉妹」です。(本ブログ2008年7月25日付で第3回公演の「ウドンゲ」を紹介しています。)
「BAR紅や」をたまり場にしていた3人の女性、本当の姉妹ではありませんが、3人でジョーという男の子を育ててきました。どうして、そんなことになってしまったのでしょうか。ヒントはこの「BAR紅や」がケンジという日系アメリカ人がヨーロッパ戦線で勇敢にも戦死し、その報奨金がもとででできたお店であり、3人の女性がいづれもケンジを好きだったということがあったのです。
舞台はニューヨーク。ミミ(篠井英介)がバーからジョーという息子に電話をかけています。ジュン(大谷亮介)がなくなったこと(その前年にはベニィ(深沢敦)が亡くなっています)、お葬式の形式をどうしたらよいか、その葬儀を手伝ってほしいと伝えています。その後、大切に保管していたバーボンをあけます。
ここから時間が逆回しになって、場が変わるごとに過去へ過去へとさかのぼっていきます。
冒頭の場に続く、次の場は2001年。21世紀最初の日のお祝いの場ですが、街に繰り出していたジュントベミィがBAR「紅や」にもどってきて、ミミと合流します。3人で新しい世紀に乾杯します。もう3人は若くはなく80才前後で、ど忘れがひどくなっていて、何に乾杯しているのかわからなくなったり、同じことの繰返しがあり、笑わせます。再婚していたミミは、居合わせたそのBARがかつて人手に渡りそうになったときに、資金繰りで助けたのですが、そのお金が亭主を見殺しにして得た保険金だったと述懐します。「帰ってくるところはここしかない」感がただよっています。
さらに時間がまき戻ります。ジュンとベニィだけの場面。ミミは心臓が悪くて入院してる様子で、舞台にいません。この場面でジュンがひとまわりも年下の男性にプロポーズされたと、舞い上がっています。しかし、この話はジュンの早とちりでした。ジュンは実家が没落し、ミミが倒れ、寄る辺なき状態になり、かといってベニィのような生き方もできず、普通の幸せな結婚を夢見たのですが、結局だまされてその夢もあわとなって消えてしまいました。
またまた時がさかのぼって・・・。息子の結婚式のために留袖の着付けのシーン、ベニィは実は男性だったのに女性に転換したのだということ、不思議な事実が次々と明らかにされていきます。どのような結末になるかは、ネタバレになるのでいつものように隠しておきましょう。
3人の俳優さんがみな男性でありながら女性の役で登場し、そのうちのひとりはわけあって性転換していて、おかしさをかもしだしていますが、深刻な事実も背景にあるようです。
第二次世界大戦のさなかの日系アメリカ人の苦労、ヨーロッパで参戦していた日系アメリカ人からなる部隊「442部隊」もからんできて、深刻な様相も呈してきます。日本で仮祝言をあげたジュンがその夫と会いにニューヨークにきて、そこにその夫と結婚して赤ん坊がいるミミがいて、この葛藤が最後に緊迫感をたかめますが、事態は別の方向へと静かに終わっていきます(この事態も内緒です)。
東京公演は4月28日に、大阪公演は5月1日に終了しました。15日(日)に北九州市で公演があります。