大岡昇平による同名の小説の映画化。
どこでロケを行ったのだろうか。フィリピンのレイテ島での出来事のようだ。帝国陸軍の兵士といっても、実際はこの映画にあるように普通の青年がいたずらに駆り出されて戦場におくられたのであろう。みな痩せこけている。とにかく、食べ物がないのだ。畑から芋を盗んだり、襲撃された小屋でみつけた塩をなめている。
何のための戦争だったのだろう。日々、闘いがあるわけでもはなく、することもないので壕を掘ったりしている。それも意味のある仕事なのだろうか。と、突然、敵機が銃撃をしかけてくる。やはり戦場である。当たればおだぶつである。途方もなく広い平原を、あてもなく歩き、同じ日本兵と出会えば、どこの隊の人間かを名乗って合流したり、一緒に生活したり。
主人公は田村一等兵(船越英二)。冒頭、病気をわずらった田村は、上官にびんたを喰らい、怒鳴られている。田村は病院を出され、隊に戻ってきたのだが、そこではもう彼を受け入れる余裕はない。「病院に帰れ! 入れなくとも入れるまで待て! それでも受け入れられなかったら手榴弾で自決せよ!」と命令されているのだ。仕方なくとぼとぼと病院に戻るが、そこは砲撃を受けていて、敗走した兵士がたむろしていた。
田村はあてどなくさまよい、途中であった日本兵のグループについていくのであるが、出会った兵隊は食べ物のかわりに死んだ人間を「サル」とみたてて、その肉をくっていた。
この映画に出てくる兵隊はみな若い青年だ。心が痛む、の感情をとおりこして、人間のおろかさに言葉はない。
未来社会の話です。本がかたっぱしから回収され、焼かれています。それは消防士の仕事になっています。本が隠匿されているとの情報が入れば、消防士たちは緊急出動で現場に向かい、そこにある本が一か所にかき集められ、火炎放射器で点火されます。小説はもとより、哲学書、伝記などありとあらゆる本は、見つかり次第、焼かれます。
モンターグ(オスカー・ウェルナー)はその仕事に熱心に関わる消防士のひとりで、近々、「昇進」が約束されていました。タイトルの「華氏451度」(=摂氏233度)は、本(紙)の発火点です。
が職場に通うモノレールのなかで時折、会う女性がいました。名前はクラリスです。本が好きなようです。そして彼女は妻のリンダに似ていました。長髪でないということを除いては。映画のなかではジュリー・クリスティが二役を演じています。妻のほうは大画面テレビのクイズ番組に熱中している平凡な女性で、ふわふわ生きています。それは妻だけではなく、みなそうのようです。本を読んで何かを考えたり、感じたりということがなくなり、テレビなどの情報のなかで生きている人たちばかりです。
モンターグはあるとき、本をとって読み始めます。読み始めて、その世界にのめりこんでいきます。クラリス の言っていたことがわかり始めました。しかし、彼の仕事は消防士です。「昇進」も控えています。モンターグははまよったあげく、仕事を止める決意をしました。あわてる上司の隊長。リンダの密告で、モンターグは自分の家の本が標的にされ、焼かれる羽目に陥ります。隊長はモンターグに命令に従うように追い詰められますが、モンターグは逆に火炎放射器を隊長に向け、焼死させてしまいます。
モンターグは殺人犯として、追われることになります。さて、この結末は・・・。
ショッキングなシーンで始まります。舞台の上で、男女が死んでいます。女性(テレーズ)は腹部を刺され、男性(ローラン)も胸などを刺されたようです。近くには車いすに乗った、半身不随のラカン夫人がいます。壮絶な場面です。そこに元警部のラタンが訪れます。二人の死体を発見して、物語が展開していきます。
話を聞いていると、どうやらこの二人の若い男女は、テレーズの夫カミーユを舟から川のなかに突き落として殺したようです。テレーズは夫の幻影にさいなまれています。ローラン自身もこの殺人に悩んでいるようで、二人は痴話喧嘩になり、その結末が冒頭のシーンの原因です。
この演劇は、場が変わるごとに、過去にさかのぼっていきます。そして徐々に、真相が明らかになっていくようになっています。さわりだけ書きますと、テレーズはカミーユと愛のない結婚をしいられ、義母のラカン夫人ともそりがあわず、不本意な生活を送っています。そこへカミーユの親友だったローランという画家がラカン家にくるようになって、テレーズとローランはいつしか愛しあうようになります。二人はカミーユが邪魔になり、殺人を計画します。そして、それは一旦は成功したかのようでしたが・・・
ラカン役を演じた木場さんは芝居をたのしんで円熟した演技です。テレーズの奥村さん、ローランの浜田さんも若々しく難しい役どころを無理なく演じていました。銀粉蝶さんもいぶし銀(あまり女性には使わない言葉で失礼!)です。サスペンスのタッチもあり、男女の葛藤表現もあり、1時間半の充実した時間を過ごしました。
◆第一場/夏の午後 発見
◆第二場/夏の夜 一場の前日
◆第三場/冬の夜 半年前
◆第四場/夏の午後 さらに半年前
・原作 エミール・ゾラ
・作・演出 谷賢一
・奥村佳恵(テレーズ)
・浜田学(ローラン)
・銀粉蝶(ラカン夫人)
・木場勝己(マルタン)
老人女性と青年との心の交流。
ロンドンのクレアモントホテルに長期滞在したサラ・パルフリー(ジョーン・プロウライト)。ホテルは期待したほどよくないが、ひとまず部屋も決まり落ち着く。亡き夫の遺影にも挨拶して、ホテルのなかのレストランに向かう。先客がいて、このホテルに宿泊している人が多いようだ。みな個性的にみえる。
ある日、散歩に出ようとしたサラは、ホテルの宿泊人、アーパスノット夫人(アンナ・マッセイ)に図書館で借りた本をとってきてくれるように頼まれる。それほど知り合いでもないのに、ちゃっかりした夫人だ。ところが、サラはその帰りに歩道で転倒し、動けなくなる。そこへ、青年ルドヴィック(ルパート・フレンド)がかけよってきて介抱し、おまけに自宅で応急処置をしてくれる。サラはこの青年の行いに気分よく、ホテルに帰ってくる。
サラにはロンドンに住む孫がいるので、電話するが出ない。留守電を入れたのだが何の応答もない。ホテルの宿泊人たちはサラの様子をなんとなく観察し、彼女に孫がいることもわかり、ホテルにあらわれるのを待っている。サラは音信のない孫の代わりに、先の青年ルドヴィックにその代理を頼み、ホテルにきてもらうことにする。「代役」は成功で、好感度の高いルドヴィックに関心をよせる。
この後、本物の孫がホテルにあらわれたり、その母親とであったり、オズボーン(ロバート・ラング)という男性老人に求婚されたり、といろいろあり、サラはルドヴィック、その彼女と小旅行にでかけたり・・。
さて、この顛末は?
3か月ほどかかって「ジャン・クリストフ」全巻を読了しました。オリジナルは全10巻で、現行岩波文庫版では4冊に納められています。
構成は、以下のとおりです。
「第1章:暁」「第2章:朝」「第3章:青年」「第4章:反抗」「第5章:広場の市」「第6章:アントワネット」「第7章:家の中」「第8章:女友達」「第9章:燃える茨」「第10章:新しい日」
クリストフが生まれてから亡くなるまでの波乱万丈の生涯が描かれています。ローランがこの小説で書きたかったことは、ひとことで言えば、西欧の当時の音楽世界にはびこっていた因習に対する批判であったと思います。
ドイツのライン河のほとりで、宮廷音楽家の長男として生まれたクリストフは、父から厳しいピアノの手ほどきを受けます。才能もあり、次第に音楽家として大成しますが、生活は苦しく、もって生まれた強い個性のために敵が多く、苦しい生活が続きます。とくに音楽の世界、文明の世界に淀んでいた党派性、汚い批評のやりとりに批判を行い、その結果クリストフはその世界から締め出され、寂寞感にさいなまれます。しかし、生涯の親友オリヴィエや心寄せる女性もたくさん出てきて、このあたりには読者は癒されます。
この小説が書かれた頃のことを念頭に置きながら読まないと、とても続けられません。映画もテレビもなかった時代、こういう長編小説は読み手にとって、大きな楽しみだったことと思われます。しかし、現代では、このようにとてつもなく長い小説は受け入れられないのではないでしょうか。
事実、読んでいて退屈なところもたくさんありました。また、わかりずらいところもありました。とくにクリストフの当時の西洋の音楽的雰囲気に対する不満、批判、あるいはドイツに生まれたクリストフの母国ドイツやフランスの文化に対する感じ方は、すぐにはすとんと胸におちません。この小説は、若いころに読んだほうがよいという意見もしばしば耳にしますが、現代の高校生、大学生が読みとおすのは大変だと思いました。
小説の構成としてみても、違和感のあるところは多かったです。ローランはどれだけ時間をかけて書き上げたのでしょうか。推敲などにどれだけ時間をさいたのでしょうか。内容はドラマティックなのですが、書き方が感情を煽るようなところは少なく、たんたんと、それもかなり抽象的な思惟の描写が長く続く箇所がめだちます。
この小説はベートーヴェンの生涯が念頭にあると書かれたものがあります。クリストフは作曲家ですし、ローランに「ベートーヴェンの生涯」という有名な作品がありますから、クリストフの生き方、思想がベートーヴェンのそれとオーバーラップしているところがあるのかもしれませんが、素人のわたしにはそこまで読みこむ力がありません。
ただ、子どもの頃のクリストフの家にベートーヴェンの絵がかけてあったり、クリストフがベートーヴェンよりも後期のブラームスの音楽にたいして感想をもたったりしている記述はあるので、クリストフがベートーヴェン自身ではありえません。
長編小説に挑戦しようと思い立って3冊目が終わりました。トーマス・マン「ブデンブローグ家に人々」、谷崎潤一郎「細雪」、そして今回のロマン・ローラン「ジャン・クリストフ」です。次はヘミングウェイにしようと思っています。そのうち、ダンテの「神曲」を目指しています。
抱腹絶倒の作品です。どうやって人は生きていくのかも考えさせます。
多佳子(松金よね子)は落ち込んでいます。占いがよくあたるという噂の近隣の八百屋の大将から、今日の深夜12時にあなたは死ぬ、と告げられたのです。冷蔵庫の残り物の野菜を整理するために八宝菜をたくさんつくっています。
友達の真知子(田岡美也子)、邦江(岡本麗)が次々にやってきます。真知子は結婚式で歌うために、昔、歌った替え歌の歌詞がないか、探しにきたのです。邦江はお葬式で着る喪服の調達のためです。3人は若いころからの親友です。たか子が告げられた占いの話を聞いて、友達の2人は笑い飛ばしたり、その八百屋を非難したり。邦江にいたっては、八百屋に怒りのメモを置いてきます(八百屋はお遍路にでかけけて不在だったため)。
多佳子のところに、便利屋(大谷亮介)が来て、ふとん圧縮器を売り込みにきます。この営業マンは、長く苦労し、営業を続けてきたので、口がじょうずで、開放的人柄で、面白いのです。ほかの2人も雰囲気で圧縮機を買ってしまいます。
それはともあれ、多佳子の死の予告時間まであと数時間。問題はどうやって時間を過ごすかです。思いついたのが、若かった頃、3人のあこがれの男性であった人に電話をかけること。会えたらいいな、という期待半分です。電話をかけると出てきた男性は、その息子、芹沢保(本間剛)でした。聞くと彼の父はロサンゼルスに出張で不在とのこと。それなら、こちらに来ないかと、邦江が誘い、約束が成立します。
またもうひとり風采のあがらない男(酒向芳)がやってきました。彼の名前は松原光夫で、宅急便の運転手です。この男も八百屋に明日の12時にあなたは死ぬ、と言われたと落ち込んでいます。
この際、みんなで鍋でも囲んで楽しもうと、女性3人、男性3人、色めきたっています。
途中で、便利屋と松原とのラーメンのブログをめぐる掛け合いは、大いに笑わせてくれました。ふたりはそれぞれラーメン・オタクで、自分が食べたラーメンをブログにUPしていたのです。
そうこうしているうちに、多佳子が告げられた12時がいよいよ近づいてきました。さて、多佳子の人生の結末は・・・。
エーベルハルト・イーサク・ボルイ(ヴィクトル・シェストラム)は78歳の医師(博士)である。50年、その仕事をしてきて、名誉博士学位授与をお祝いする祝典が催され、車で14時間かから当地に向かう(ストックホルムからルンドまで)。前日は自分の死を暗示する夢をみたので、気分がすぐれない。
連れは息子の妻であるマリアンヌ(イングリット・チューリン)である。マリアンヌは、イーサクの息子(グンナール・ビョルンストランド)と別居しているようで、実家にはいない。二人は連れだって出かけ、その道中での話しがメインである。イーサクの身の回りの世話をしている老家政婦アグダは、車ではいかないと言う。この家政婦がいい演技をしている。
といっても、イーサクの思い出、夢なども主題である。「野いちご」という映画のタイトルは、彼が昔の思い出にひたっているなかに出てくるフィアンセのサラが野いちごを摘んでいることからきている。
運転しながらイーサクはからずも自分の人生を振り返ることになる。青年時代に婚約者を弟に奪われたこと、妻がイーサクの無関心に耐えられず不貞にはしったこと。マリアンヌに子どもがないのは、息子のエーヴァルドがイーサクをみて家庭に絶望してるからだということも告げられたりする。
またドライブ中、事件にでくわし、いろいろな人にあう。口喧嘩をしていた夫婦の乗っていた車との衝突したり、ヒッチハイカーの少女とそのボーイフレンドの二人を同乗させたり、イーサクを慕うガソリンスタンドの店主とその妻、イーサクの老いた母とも出会う場面がでている。
無事に祝典を終えたイーサクはその夜、祝典に列席したエーヴァルドと家族のことについて誠実に話し合う。
フィッツジェラルドの原作の映画化。二度目の鑑賞。一度観たのだが、あまり内容を覚えていない。
主演はロバート・レッドフォード、ミア・ファロー。1920年代の舞台設定である。筋はミア・ファローが演じるデイジーのいとこニックの回想のようになっている。
そのニック・キャラウェイ(サム・ウォーターストーン)の隣にジェイ・ギャツビー(ロバート・レッドフォード)が豪邸に住んでいる。この主人であるギャツビーがどういう人物であるのかは、ニックにはよくわからない。この豪邸では定期的に派手なパーティが催され、シャンパンがふるまわれ、みなが熱狂的にダンスに興じるが、主催者の主人はそこにはいない。
ニックはいとこにデイジー・ブキャナン(ミア・ファロー)がいて、時々、行き来がある。彼女はトム・ブキャナン(ブルース・ダーン)というお金持ちと結婚して、小さな娘がひとりいるが、夫婦仲はよくない。それというのも、トムは不倫をしていて、デイジーはそれを感づいているからだ。
あるとき隣人のギャルビーがニックをパーティに招待する。表向きは隣人だからということだが、ギャツビーはニックにさぐりをいれたかったのではなかろうか。ニックがデイジーと行き来があるのをかぎつけて。ふたりは名乗りあい、以来、交際が続く。
ニックはデイジーを自分の家に招待する。同時にギャルビーにも声をかける。デイジーには秘密にして。ギャツビーがここでデイジーに偶然あったようにしかける。実はギャツビーとデイジーは、過去に愛し合った関係があったのである。結婚までちかったが、それは実らなかった。それというのもその当時、兵役上がりのギャツビーの生活が極度に貧しかったからだった。
しかし、いまやギャツビーは事業を成功させて大金持ちである。夫婦仲に破たんをきたし始めていたデイジーは、ギャツビーに心をよせる。ギャツビーもデイジーを変わらず愛していた。
この映画の結末は悲劇的である。是非とも作品を最後まで観てほしい。(わたしとは無縁の世界です)
この映画には、調度品、骨とう品、宝石、衣装、豪邸、広い芝生、プールなど、見ごたえがあるので、それらも楽しんでほしいものだ。
社会問題を真正面から真摯にとりあげた問題作。社会問題とは、黒人の男性と白人の女性との結婚である。
ジョン(シドニー・ポワチエ)とジョーイ(キャサリン・ホートン)はハワイで2週間前に出会い意気投合し、結婚の約束をする。ジョンは国際的に有名な医師で、将来が嘱望された人物である。ところが、当時のアメリカでは、白人と黒人との結婚は白眼視され、州によっては法律で認められていないところもあったという。
ジョーイの育った家庭(ドレイトン家)はリベラルな家庭で、父(スペンサー・トレイシー)は新聞社の社長、母(キャサリン・ヘプバーン)は普段から平等主義者であった。ところが降ってわいた現実のこの結婚話に、ふたりはショックを受ける。しかし、対応は微妙に異なる。父親は急なその話をすぐに了解できないことを理由に、この件に反対の立場をとる。母はショックを受けながらも娘の幸せをねがって理解しようと前向きである。
驚いたのはこの家に女中として雇われていた黒人の女性の態度で、この話に最初からあってはならないこと、といきり立ち、感情をあらわに、ジョンにくってかかる。
サンフランシスコにあるドレイトン家にあいさつに訪れた二人は当惑するが、ジョンはジョーイの両親が反対であるなら、この結婚話はなかったことにすると父に告げる。ジョンは多忙ですぐに をあとにする予定だったが、その晩に自宅でみんなで会食をとることにした。そのようなところに、今度はジョンの父母(プレンティス夫妻)が成り行きでかけつけることになった。両親はジョンが白人の女性と結婚するなどとは夢にもおもっていず、降り立った空港での紹介で事態を知り、これまたショックを受ける。もちろん、大反対である。
ジョンとジョーイの母親同士の会話、父親同士の議論、ジョンとその父との激論、それぞれの立場で歯に衣をきせないやりとりが展開される。さて、その結末は・・・。