パリにある七つの美術館の訪問記。
その七つの美術館とは、ドラクロワ美術館、ピカソ美術館、エスパス・モンマントル=サルヴァドール・ダリ美術館、ブールデル美術館、クリュニー美術館、マルモッタン美術館、モロー美術館。このうち五つの美術館には行ったことがあり(訪れていないのはピカソ美術館、ブールデル美術館)、親近感を覚えるし、著者の語り口に実感をともなって、その場所を思い描ける。
ドラクロワ美術館はなかなか見つからない場所にある、クリュニー中世美術館の荘厳な建物、マルモッタン美術館との関係でとりあげられているジヴェルニーのモネの家の庭園のすばらしさ、モロー美術館の内部の独特の空気、このあたりはみなソウソウうなずきながらの読書だった。
それぞれの美術館がその特徴、雰囲気、そこに展示されている個々の作品をとおして、的確に、いきいきと描かれている。同時にそれらの美術館がある地域の様子も細かく描写され、これによってまたそれぞれの美術館の個性が際立つしかけになっている。
新たにいろいろ新しい知識も得た。モンマントルのテルトル広場にいる似顔絵描きは登録制である、ダリ美術館はパリっ子がそこをパーティで貸し切りで使うこともあるらしい、マルモッタン美術館の傍にあるラヌルグ庭園にある像は羅・フォンティーヌ像である、ブールデルはベートーベンに傾倒していた、マレ地区はユダヤ人の街でファラフェルという食べ物がお勧め、などなど。
パリの街をしりつくした著者が伝える、パリの香りがいっぱいの素敵なガイドブックだ。
歴史に名高い「本能寺の変(天正10年)」の小説化。
下級武士から身を立てた明智光秀。信長に重用され、丹波、丹後を治めるまでになったが、もともと軍事の才に乏しく、度量は狭いが、知識豊かで、実務にたけた武将だった。その光秀が、なぜ、信長を討つにいたったのか。
この小説は、本能寺の変に前後する約一か月間の苦悩と、謀反からその死までの経過が描かれている。6つの構成(「坂本城」「白l綸子」「大彗星」「小谷城」「本能寺」「小栗栖」)。
その頃、織田信長は飛ぶ鳥をおとす勢いで、天下取りの最前線にあった。彼の人材登用の手法は、家柄よりも実力、過去の業績よりも、現時点での力量に重きをおくやり方だった。これは家臣側からみれば、能力のあるうちは活躍の場を与えられるが、いったん無能と判断されれば転落を意味する。著者はもともと信長配下で寵臣だった光秀が次第に疎まれ、それが光秀のなかで猜疑心となって澱のようにたまっていく過程を浮き彫りにしている。
備中高松攻めで、光秀が信長により秀吉の援軍に向かうことを命ぜられるに及び、光秀の苦悶は頂点に達する。チャンスをまった光秀は、信長が馬廻り衆他70余人で安土をたち、京都の本能寺に宿陣したのを知って、1万3千人で攻撃をしかけた。世にいう本能寺の変である。
信長は討死、著者は本能寺の地下に煙硝蔵があったため、そこに火が入って大爆発を起こし、死体が吹き飛んだ、としている(このため信長の死体は確認されていない)。
先日、読了した井上慶雪の「秀吉の陰謀」は明智光秀冤罪説をとっているが、本書は従来説で終始し、それゆえに問題の建て方は信長に重用され、性格温厚だった光秀がなぜ謀反にいたったのか、その動機の究明におかれている。井上氏が「ありえない」と主張した中国大返しに関しては、「秀吉の兵団は一日二十里を走ることもたやすい。裸で走るので、現代のマラソンと変わらない」と、やや安易に書いている(p.204)。
わたしは、このへんの議論に介入する能力も、知識もないが、この小説はこれはこれでひとつの一貫した理解のもとに完結しているので、面白く読ませてもらった。
西村由紀江さんの想いが伝わってくる珠玉の作品集。優しい、ほんとうにやさしいピアノの音色だ。
導入部(ピアノ)。ややけだるい感じ。陽だまりのなかでのくつろぎの表現のようでもある。そのうち、伸びでもしたのだろうか。血が少しづつ体のなかを巡回しだしたような・・・。
やさしいリズムで懐古的。曲想がまわっているように思える。すると、アクセントがついて、音を確認しながらの演奏。(「忘れないで」)
そのうち、メロディは心のうちをひらき、素直に想いを語りだす。いろいろたどってきました。あちこち歩いてきました。いまも歩き続けています、と。
ときどきおどけたような節回し。そして深刻な影をも示しだす。自由な、心の歌声が、こだまする。
一番、気持ちに入ってくる曲は、「世界をつなぐもの」、そして「自由への階段」
<収録作品>
・ピアノ
・風の旅(BS朝日「世界の名画~華麗なる巨匠たちへ~」テーマ曲)
・忘れないで
・道の途中で
・鬼政(BS朝日系スペシャル「鬼龍院花子の生涯」より)
・前へ
・回想(BS日本「こころの歌」エンディング曲)
・椿(BS朝日系スペシャル「鬼龍院花子の生涯」テーマ曲)
・あっ、見つけた
・世界をつなぐもの
・自由への階段
・いつか踊る場所
山種美術館(広尾)で、速水御舟展が開催されていました。10月14日に閉幕でしたが、その一日前の日曜日に行ってきました。
岡倉天心が東京美大を辞し、谷中で院展(日本美術院)の活動を開始したのは明治31年。その後、岡倉は渡米、そして死去。院展の活動は一時低調化しますが、大正3年(1914年)、横山大観を中心に復活。再院展が再出発しました。その再院展で、当初から活動したひとりが速水御舟です。
山種美術館は、日本美術院の画家たちの作品を多く、所蔵しています。来年は、その再興院展が100年を迎えます。
今回の展示会では、同時代に活躍した日本画の大家の作品に過囲まれて、御舟(1894-1935)の作品がずらりと一覧できる贅沢なもの。幼少のころの作品、もっとも成熟した活動をしていたころの作品がずらりと展示されていました。「翠苔緑芝」は、再興院展出品作です。「炎舞」は、重要文化財です。他に「白芙蓉」「百舌巣」「春昼」「夜桜」。御舟以外では、菱田春草「雨後」、前田青邨「大物浦」、横山大観「富士」、安田靫彦「平泉の義経」、今村紫紅「早春」、小茂田青樹「春庭」、奥村土牛「姪」、小倉遊亀「舞う」などが展示されていました。
今回で、パリ旅行の備忘録は終了します。
最終回はオペラ座界隈。宿泊したホテル付近です。オペラ座は、正式には「オペラ・ガルニエ」と呼ばれ、定期的に公演がありますが、オペラを観なくともなかに入って、その荘重な内部の意匠を楽しめます。オペラが演じられるホールものぞけます。その天井には、シャガールの画があり、それだけでも見る価値はあります。
オペラ座が完成したのは1875年。ナポレオン三世とオスマン男爵の大事業である「パリの大近代化計画」の一環として建築されました。大理石がふんだんに使われ、古典様式からバロック様式までを取り入れた劇場で、かつてはニジンスキーやマリア。カラスが舞台にたったこともあります。
ショップには、クラシック音楽関係の品々が販売され、手に取るだけでも楽しいです。バレエやオペラのDVD、楽器をかたどったブローチ、トゥシューズがデザイン化されたお土産品、などなど。わたしはここで、クラシックの珠玉の作品が収録されたCDを買いました。
オペラ座の裏手(?)には、デパートのギャルリー・ラファイエットがあり、買い物を楽しめます。こちらは1895年に完成したデパートです。ラファイエットは3つの建物からなっています。また、ラ・プランタンというデパートも近くにあります。1865年創業です。
MONOPRIXというコンビニも近くにあり、毎日のように利用しました。手軽に日用品、食品、ビール、ワインなどを買うことができます。
オペラ座界隈では、食事で、たくさんのお店を利用しました。日本食の店にも入りました。日本酒は高価です。「獺祭」を小瓶で買ってのみましたが、日本円換算で、数千円したのではなかったでしょうか。ラーメン屋にも入りましたが、何か一味足りないラーメンです。気が抜けたビールのような感じです。しかし、フランス人の利用者は多いです。
「人間喜劇」「従妹ベット」「谷間の百合」などの小説で有名なバルザックの記念館は、パッシー地区にあります。この日も暑く、汗をかきながらようやく見つけました。
バルザックはここに1840ー47年まで、生活していたようです。乱費、女性関係でもめごとが多く、あれた生活をおくっていた、とあります。住居を利用した記念館なので、さほど大きくありません。ロダンが制作した、バルザックの顔の彫刻、それから挿絵なのでしょうか、それらが随分たくさん展示されていました。
この他、思い出に残っているのは、「動物園」、そして「パレ・ロワイヤル」です。「動物園」は、昨年訪れた「自然史博物館」の裏手にありました。ベルシー地区からセーヌ川沿いにずっと歩いていくと、「動物園」に出ます。入ってみました。ルイ13世が造らせた王立薬草園が前身という、由緒正しい植物園内にあります。大都会の真ん中にありながら、どこか時代遅れで懐かしく、ゆったりとした時間が流れています。
パリ植物園内に開園したのは1794年。ウィーンのシェーンブルン動物園についで、世界でも二番目に古い動物園のひとつだそうです。子ども連れの家族が多く、憩いの場所になっています。
ここにいる動物は、ほ乳類、鳥類、両生類、は虫類など2千匹といわれています。かつてはキリンやゾウなど大きい動物もいたのだそうですが、今は小動物と、絶滅の危機にある動物が中心です。鳥類が多いのが印象に残っています。
「パレ・ロワイヤル」は1632年、枢密卿リシュルーがルイ13世の住んでいたルーブル宮の傍に、自身の館を建設したことに始まります。1642年の彼の死後、遺言により建物は、王宮(パレ・ロワイヤル)と呼ばれるようになりました。それから、オルレアン家の手に渡り、ルイ14世の弟オルレアン公フィリップ1世の住居となりまし当時は、建物の中には貴族や金持ちしか入れませんでしたが、一般公開されていた庭園では庶民が散歩を楽しみました。その後、リシュリュー時代の建物は取り壊されました。
現在は文化省や国務院などがたっています。ブティック、画廊、骨董品店などが軒を並べ、気軽にウインドーショッピングが出来ます。中庭の広場には1986年に完成したダニエル・ビュラン作の白黒のストライプ模様の260本の円柱や、ポール・ビュリイ作のシルバーの球体が集まった噴水があります。
有楽町の東京宝塚劇場でミュージカル「ルパン」が上演されていたので、観に行きました(10月6日で終演)。
今回の月組「ミュージカル・ルパン」は「ルパン、最後の恋」のミュージカル化です。この「ルパン、最後の恋」は、フランスの人気小説「アルセーヌ・ルパン」の作家モーリス・ルブラン没後70年だった2012年に発見されたものです。
第一部。パリのイタリア大使館の舞踏会に出席していたレルヌ大公の令嬢は、屋敷からの連絡で急遽呼び戻されます。レルヌ大公が謎の死を遂げたのです。1921年という時代設定です。
悲しみにくれる令嬢は、自身の思いがけない出生の秘密を知ります。これをきっかけに、彼女は国際的陰謀の渦に巻き込まれることになります。
彼女には4人の親友がいました。その一人は、何とアルセーヌ・ルパンその人でした。永遠のヒーローは、どのようにして彼女のこの窮地を救うのでしょうか……。そこが見所です。
姿なき強敵との死闘が、始まるのです。
第二部はいつものようにレビュー。鍛え抜かれた美女たちが、舞台で乱舞。圧巻です。
<配役>
・龍真咲(ルパン)
・愛希れいか(カーラ・ド・レルヌ)
・飛鳥裕(ビクトワール・エルマモン)
・北翔海莉(モーリス・ルブラン)
・越乃リュウ(ヘンリボーン)
・星条海斗(ジュスタン・ガニマール) 他
問題提起の書として受け止めたい。内容は過激(?)。また、文章がねられておらず、言葉遣いに配慮がなく、頭に想いうかんだことをワープロを便利に使い、おしゃべりする感覚で(あるいは独り言を言う感覚で)、タイピングしてできあがった本なのではなかろうか(そういう本が増えています)。
近年、この種の医学批判、医療批判の本が随分出ている。著者自身もこの本の前に、『精神科は今日も、やりたいほうだい』『大笑い!精神医学』という本を出版している。
医学への過信に警告を発する本書の内容を以下に紹介する。
多くの国民は誤った医学的常識に洗脳され、それが医療関係者を富ませ、社会保険を空洞化させ、患者が死へと追い詰められている。
現代の医療は、そのほとんどが対症療法であり(アロパシー医学)、本来はほうっておいても治癒するものを、気休めに投薬し、よくても症状を軽くしているにすぎない。本質的な治癒のための処置をほどこしているのではない。病院に行かなくとも治るものを、そうはしないで意味のない診察を受け、薬を出してもらって、安堵している。社会保険制度、国民系保険制度の弊害である。
最悪なのは、「医原病」である。「医原病」とは、医学的措置が病気の原因となるもので、先進国に多い。どうしてこのようなことになってしまったのか。著者はそれが「イガクムラ」の陰謀であるという。イガクムラの住民は、厚生労働省、医師会、医学関係の学会、病院協会、製薬会社、患者会、家族会、病気の啓蒙を行う慈善団体、NPO法人、医療ジャーナリスト、医学雑誌社である(著者は他にも「彼ら」「支配層」という名称で、この社会を牛耳る人々を糾弾している)。彼らの行動原理は、「カネ」であり、業界による社会の支配、統制である。
そして「社会毒」がでまわっているのも、今日の社会の特徴。「社会毒」とは、人間社会がもたらした古来の生物的世界とは反する内容をもった物質の総称で、具体的には、西洋薬に代表される薬と呼ばれる物質、農薬、食品添加物、遺伝子組み換え食品、環境ホルモンなどである。
このように、医学不要論の基礎理論を組み立て、著者は「治す」ではなく「その場しのぎ」の治療、不要なX線撮影、薬効の捏造、基準変更による病気予備軍の創出、代替医療のまやかし、などを次々暴いている。
著者はこうした現状へのアンチテーゼとして、生命維持のための必要物を提言している。それはロジャー・ウィリアムズのいわゆる「生命の鎖」(46種の栄養素)にプラスする「精神の輪」である。以上が本書の第一部で医学不要論の「原論」であり、第二部では個々の病気にどう対応するかが、解説されている。原論の応用編である。
本能寺の変は、豊臣秀吉の陰謀によるものである、明智光秀は冤罪である。著者が長らく主張してきたこの主張の集大成が、本書である。
秀吉陰謀説の根拠は、信長が本能寺で横死したおり、秀吉は高松城で毛利を水攻めにしていたが、翌日には小早川隆景との間に講和を成立させ、直後、いわゆる中国大返しによって山崎まで、2万の兵を移動させ(約218キロ)、山崎の合戦で光秀軍を打ち破ったというが、そんなことができるはずがない、ということである。兵への食糧はどうしたのか、雨中の行軍だったというが、草鞋の調達はできたのか、これらはきわめて疑わしい、という。
秀吉は天下盗りにむけて、水面下で動いていたというのだという。著者は書く、「本能寺の変」の通説とは、「初めに光秀の謀反ありき」に端を発し、『信長公記』に起因し、『川角太閤記』で潤色され『明智軍記』で完成された歴史事象が、さまざまな分野にも飛び火して、たとえば歌舞伎・文楽などの『絵本大功記』や『時今也桔梗旗揚げ』などの大衆芸能まで敷衍されて、江戸時代後期につくりあげられたものを、現代の作家諸氏の力作の賜物でまた引き継がれているのである、と(p.228)。
著者は「本能寺茶会」に端を発し、信長の「御茶湯御政道」の一端にも触れながら、周到緻密に仕組まれた「秀吉の陰謀説」を明るみにだし、さらに明智光秀が祀られている御霊神社を取材し、奉納されているある系図の意図的書き違いにま言及している。著者は種々の歴史的資料を批判的に読み込み、光秀主犯説の誤り(本当の実行犯を著者は杉原家次とみている)、秀吉の陰謀、本能寺の変の真相を傍証している。
本書に対しては、歴史の専門家からの反論もあり、斯界では論争になっているらしい。門外漢のわたしには、どちらが正しいのかを判断できる決定打がない。しかし、この本を読む限りでは、歴史上の大事件であるにもかかわらず、通説どおりの理解では、不可解なことが多すぎる。今後の研究の進展を期待したい。
バスチーユ広場に行ったおり、ピカソ美術館まで歩き、ピカソ美術館になっていたことはすでに書きました。この日、ハイキングはそれで終わったのではなく、そのあと、ポンピドゥーセンター(国立美術館)、ストラビンスキー公園、市庁舎へ、さらにサン・ルイ島に入って遅めの昼食をとって、ホテルに帰りました。相当、歩いたはずです。
ポンピドゥーセンターは、国立近代美術館をはじめ、図書館などが入った一大文化センターです。リチャード・ロジャース、レンゾ・ピアノによる超奇抜なデザインは、開館当初(1977年)から賛否両論を巻き起こしました。国立近代美術館に入りましたが、展示されている作品は、シュールが多いです。
ストラビンスキー公園は、このポンピドゥーセンターのすぐ近くにあります。観光案内にはあまり出ていませんが、地図にあったので寄りました。
そして市庁舎。重厚なルネッサンスの意匠で身をつつんでいます。正面の時計の下には、フランスの社会と文化の象徴である「自由・平等・博愛」の文字が刻まれています。現在の壮麗な庁舎は、1871年に旧市庁舎が消失したのちに、再建されたものです。
パリ滞在の半日を利用して、ジヴェルニーのモネの家に行きました。バスでパリから1時間半ほどです。
ジヴェルニーは、印象派の巨匠クロード・モネが1883年から1926年まで住んだ家がある村です。息子がモネの死後、美術アカデミーに寄贈し、大規模な修復工事を経て、1980年にクロード・モネ財団として開館しました。
見どころは、花咲き乱れる庭園です。花の咲いている時期こそ、訪れる価値があり、冬は閉館です。モネの需要なテーマのひとつである睡蓮は、季節がはずれていたとはいえ、池にまだ少しばかり咲いていました。日本庭園が隣接しています。そこには太鼓橋もあります。モネがいかに日本の絵画、文化に憧憬をもっていたかをおしはかることができる象徴です。
睡蓮の連作を手がけたアトリエが公開されています。モネの貴重な日本の版画コレクションも展示されています。
在りし日のモネをしのぶことができる、恰好のひとときでした。