【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

田辺聖子『田辺聖子珠玉短編集(1)』角川書店、1993年

2008-09-30 23:01:09 | 小説
田辺聖子『田辺聖子珠玉短編集(1)』角川書店、1993年

 図書館で借りました。この本をなぜ手にとったかというと、まず田辺聖子さんという作家が、言葉使いとか言い回しでユニークという印象があり、いくつか短編を読んでみたいと以前から思っていたこと、そしてこれが決定的だったのですが、この本の最初の小説が「ジョゼと虎と魚たち」で、この映画(犬童一心監督、2003年)をTVで過去に観たからです。短編小説の映画化とは想像がつきませんでした。

 本書は、30年間ほどに書かれた短編を池内紀氏が選択の按配をしてなったシリーズの第一集です。

 男女の生き方の機微、恋愛の事情が関西文化でオブラートされ、どの小説も面白い表情をもっています。そして、若干のエロチックな仕掛け。池内紀氏は「解説」で、彼女の作品には「男と女の『欲しがる水』を見きわめるにあたって、なんと見事な目をもっ」ているのだろうと舌を巻いています(p.340)。

 この短編集は「おいしくて綺麗なお菓子」(著者の「あとがき」p.338)の陳列です。

特別展「源氏物語の1000年-あこがれの王朝ロマン-」(横浜美術館)

2008-09-29 21:23:28 | 文学

横浜美術館で、特別展「源氏物語の1000年-あこがれの王朝ロマン-」が開催されています。開催期間は830日~113日です。

   国宝 紫式部日記絵巻 五島本第三段 絵・詞 [鎌倉時代/五島美術館] 8/30~9/6展示   

 

 この展覧会には、国宝では、「紫式部絵日記絵巻」(五島美術館本・第三段 詞書・絵)、金銅藤原道長経筒、御堂関白記(自筆本・藤原道長)、金銀鍍宝相華文経箱、倭漢抄下巻(第一巻)[伝 藤原行成]、千代姫婚礼調度初音蒔絵見台(幸阿弥長重)、千代姫婚礼胡蝶蒔絵挟箱(幸阿弥長重)の7点が出展されています。これらはみな貴重ですが、藤原道長の筆跡をみることができ、感動しました(紫式部の筆跡は残っていないとのこと)。この他、重要文化財もたくさん出品されています。

 源氏物語はいわずと知れた紫式部の作品です。今からおよそ1000年前に書かれました。「紫式部日記」の記述から、寛弘5年(1008年)には宮中で読まれていたことが確認されています。2008年は源氏物語が歴史上に登場してちょうど1000年にあたるというわけです。

 世界で最も古い物語といわれ、
400字詰の原稿用紙では2300枚ぐらいになるそうです。

 主人公は光源氏と息子の薫たち。全部で54の話になっています。

 光源氏は天皇である父(桐壺帝)と母(桐壺更衣)の間に生まれました。3歳で母と死にわかれ、12歳で元服。仕事ができ、ハンサムで天皇の次の位までになりました。多くの女性とめぐりあい、50歳ぐらいで出家、数年後に亡くなりました。

 展覧会では、源氏物語のさまざまな場面を絵にしたもの、紫式部を描いたもの、源氏物語の時代の貴族のくらしぶりなどに触れることができます。

 紫式部が源氏物語を執筆して以来、この物語を好んだ菅原孝標女、藤原定家をはじめとする源氏学者の営為を経て、愛読者はたくさんいます。また、執筆された平安朝から源氏物語は絵画となり、「源氏絵」の系譜があります。展覧会にはその一部が展示されています。

 多くの現代語訳が出ています。与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子、田辺聖子、そして瀬戸内寂聴などの現代語訳も展示されていました。また海外でも英語はもちろん、フランス語、ロシア語、中国語など18カ国の国々の翻訳があります。

 気がついたのは、結構、外国人が多かったことです。熱心に鑑賞していたのが印象的でした。


井上ひさし『ボローニャ紀行』文藝春秋、2008年

2008-09-28 23:07:03 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
井上ひさし『ボローニャ紀行』文藝春秋、2008年

           ボローニャ紀行

 本書は、著者が2003年12月初旬からボローニャを訪問したおりのレポート。初出は『オール読物』2004年2月号から10月号です。
 
 冒頭、ミラノ空港で鞄を盗まれた話から始まります。鞄のなかには1万ドルと100万円の札束2つ、帰りの航空券、筋子のおにぎり2つ、それと貴重だった30年間のボローニャ研究のメモノート。

 第二次世界大戦でナチスのドイツ軍、ムッソリーニのファシスト軍と命がけで闘って、ボローニヤの街を解放した煉瓦工場の職工たち、彼らが中心になって戦後のこの街は革新自治体として再建されました。

 ボローニャは世界最古の大学をもち(創立1088年)、ポルタ・ラヴェニャーナ広場にたつ2つの塔(アッシネッリの塔、ガリゼンタの塔)がとりわけ有名。産業では小型精密機械、包装機械メーカーIMA社が知られます。

 しかし、この街の強さは何と言ってもボローニャ方式といわれる都市再生のモデル(1970年代頃から)と社会的協同組合の存在です。

 前者は過去の歴史的遺物(建物)を現在の必要に応じて使うというもの、後者は住民の間に発生した問題を解決するために自発的に組合を組織していくというやり方です。それにくわえて貯蓄銀行も投資銀行も文化やスポーツや弱者に資金を積極的に提供する伝統があります。すべからく、自治というものが市民にも企業にも身についているというわけです。

 その他にもこの街は、セント・ドメニコ教会、映画の保存と修理の複合施設「チネチカ」、ワイシャツのフライ、パスタ料理、めちゃくちゃうまい生ハム、最強のクラブ・サッカーチームの存在でも有名です。

 一時ボローニャでは政権をとった中道右派のグアザロッカは、ボローニャの良き伝統を壊し始め、歴史的市街地区への車の乗り入れ、移民の追い出し策、文化施設の縮小をはかりました。しかし、この行政に危機感をもった市民は中道左派のコフェラァティを市長に送り込むことに成功。ボローニャは自治と文化の伝統を回復します。そのあたりの経緯は、本書のなかの「市長の作り方」に記されています。


伊藤潔『台湾(新書)』中央公論社、1993年

2008-09-26 22:49:15 | 歴史

伊藤潔『台湾(新書)』中央公論社、1993年

 1624年のオランダ支配から1990年代前半までの400年にわたる台湾の歴史。

 この本を読むと、台湾は歴史のなかで他国の蹂躙を受け、多くの内戦と混乱を経験し、略奪、虐殺の対象となり、列強によって翻弄された歴史の連続であったことがわかります。

 この国をめぐる複雑な歴史は、簡単な言葉では要約できません。一例をあげると、台湾は澎湖列島とともに1895年の日清講和会議で清から日本に割譲されたのですが、清国はこのことを台湾住民に隠したうえ、イギリス、フランスは日本の台湾占領に反対しました。台湾は日清条約に
よって直ちに日本の植民地となったわけではないのです(pp.65-68)。

 台湾の外来政権はオランダ、スペイン、鄭氏政権、清国、そして日本、最後が国民党政権といったようにクルクルと替わり、台湾住民はそのたびに苦汁を嘗めさせられました。

 日本の植民地経営の下では多くの台湾人、土匪が犠牲になりました。台湾を植民地化した日本は抵抗する土匪を虐殺、1898年3月の後藤新平台湾総督府民生局長就任から1902年までの5年間までに3万2千人を処刑しました。他にも北埔事件(1907年)、林杞埔事件(1912年)、羅福星事件(1913年)、西来庵事件(1915年)でも多くの犠牲者がでました(p.97)。日本の行った野蛮な行為は、決して許されるものではありません。

 しかし、著者はそうしたことがありつつも、日本植民地下で教育が重視されていたことを評価しています。「もとより日本の植民地支配を肯定するものではないが、植民地化の近代化、わけても教育の充実がなければ、1970年代以降の台湾経済の飛躍的発展はなく、いま少し先のことになっていたと思われる」と(p.117)。

 記憶されるべきは、1947年の2月28日に国民党政権下でおこった2・28事件です。経済混乱、社会不安、国民党軍兵士の強奪と狼藉、官吏の腐敗への不満から起こった暴動に対し、行政の側は殺戮と粛清で対抗しました。事件一ヶ月で、約2万8千人の台湾人が殺されました。

 台湾はその後、1949年5月から1987年7月まで約40年間、戒厳令下にありました。台湾独立の戦いはこの間、海外で続けられました。

 本書で語られるのはこうした受難の歴史と、そのなかでも勇気ある人々によって進められた民主化の確固たる歩みです。1952年以降の台湾の奇跡ともいえる経済成長、1970年以降進められた急テンポの民主化。漸く台湾にも光が差しつつありますが、真の独立までの道はまだまだ険しく長いようです。

 著者の伊藤潔さん(1937-2006)は、台湾に生まれ、日本に帰化した評論家です。東京大学出身でもと杏林大学教授でした。
本名は劉明修。日本国籍取得時に「伊藤潔」に改名しました。


伊藤セツ『女性研究者のエンパワーメント』ドメス出版、2008年

2008-09-25 23:03:59 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談

伊藤セツ『女性研究者のエンパワーメント』ドメス出版、2008年
          
             女性研究者のエンパワーメント

 「女性が大学院の博士課程で論文を仕上げて、研究者として大学等に正規の在職権をもって就職し、それを継続する」(p.192)ということを前提に女性の若手研究者に向け、そのエンパワーメントのために書かれた本です。

 著者はクラーラ・ツェトキーン研究者として知られ、女性労働、家庭経済、生活時間研究など幅広い分野で仕事をされています。この本を読むと、それだけではなく、社会政策学会、女性労働研究会、JAICOWS(女性科学研究者の環境改善に関する懇談会)などの社会活動で精力的な活動をしている他、大学院生の教育にも並々ならないエネルギーを使っていることがよ
くわかりました。

 これだけのことはやって当然と著者は考えているのですが、同業者のわたしとしては敬服とするとともに、耳の痛い部分もありました。

 とくに社会政策学会の改革を身をもっておしすすめたことを書いてあるくだりは、迫力があります。

 大学院教育は著者自身が大学院生であった時代と現在の院生とでは大学院そのものの位置、内容が大きく変わってきているので、変わってこざるをえません。多様化の進行は顕著です。その両方を体験され、このことに関連した叙述は具体的なので興味深いです。

 また大学院時代に結婚し、その後子どもを保育園通いさせながら伴侶と協力し合い研究を進めたことを回顧したくだりは、心をうたれました。

 女性研究者だけでなく男性研究者にも読んで欲しい一冊です。「うまくできなくとも、あてられたらしり込みしてはいけないのです。何でも経験であり、チャンスであり、場に立たされるのが必要なのです」(p.97)との言は、肝にめいずるべしと思いました。

 この本は、著者からいただきました。


ラッセル・ロバーツ『寓話で学ぶ経済学-自由貿易はなぜ必要か-』日本経済新聞社、1999年

2008-09-24 23:27:00 | 経済/経営
ラッセル・ロバーツ『寓話で学ぶ経済学-自由貿易はなぜ必要か-』日本経済新聞社、1999年。

             寓話で学ぶ経済学

 自由貿易のメリットを大筋のところで分かりやすく説いた書です。工夫が施され、自由貿易論者のかのデビット・リカードが1995年のアメリカに降り立ち、保護貿易政策で大統領選挙候補者の支持演説をしようとしているエド・ジョンソンに接触、エドの自由貿易に対する疑念をディベート形式で取り除いていくという内容です。

 自由貿易の利益と保護主義の弊害をアメリカ経済の実態に即しながら、経済理論的な説明をしています。

 論点は、貿易戦争、輸入による雇用の喪失、関税、数量規制など多岐にわたります。自由貿易により「富の迂回の論理」によってアメリカ国民全体が豊かさを享受できるのだ、というのが結論です。

 関税・数量規制が結局、国内価格の上昇を招き、消費者に損失を与えること、完全な保護貿易が雇用と就業の構造を閉塞させ、自給自足が貧困へ導くことが明示的に説明されています。

 アメリカの貿易相手国として、日本が再三、登場します。

 全体としてこの話を自由貿易の手放しの礼賛につなげてはまずいですね。注意しないと、アメリカの身勝手な議論になってしまうのではないでしょうか・・・。

千の風になって

2008-09-23 23:16:33 | 音楽/CDの紹介
千の風になって

   秋川雅史さんの「♪千の風になって」が流行っていたころもとめたCDです。他にたくさん歌が入っていますが、「♪千の風になって」ばかり聴いていました。今でもそうです。カラオケのために練習もしました。そのような時期がありました。懐かしい思い出です。


          威風堂々

   

1 Pride~威風堂々 
2. 津軽のふるさと
3. タイム・トゥ・セイ・グッバイ 
4. ヴォラーレ 
5. カルーソー 
6. 千の風になって 
7. グラナダ 
8. 歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲 
9. いい日旅立ち
10. 君と旅立とう(「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」) 
11. ここに君がいれば(歌劇「イーゴリ公」
12. Pride~威風堂々

♪私のお墓の前で
泣かないでくださいそこに私はいません
眠ってなんかいません
千の風に千の風になって
あの大きな空を吹きわたっています

秋には光になって
畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように
きらめく雪になる
朝は鳥になって
あなたを目覚めさせる
夜は星になって
あなたを見守る

私のお墓の前で
泣かないでくださいそこに私はいません
死んでなんかいません
千の風に千の風になって
あの大きな空を吹きわたっています

千の風に千の風になって
あの大きな空を吹きわたっています
あの大きな空を吹きわたっています


アーサー・ケスラー『ヨハネス・ケプラー-近代宇宙観の夜明け-(新書)』筑摩書房、2008年

2008-09-22 23:03:48 | 自然科学/数学
アーサー・ケスラー/小尾信弥・木村博訳『ヨハネス・ケプラー-近代宇宙観の夜明け-(文庫)』筑摩書房、2008年

          ヨハネス・ケプラー

 ドイツの天文物理学者ケプラー(1571-1630)の評伝です。

 本書の原題は「分水嶺(The Watershed)」。これは知性の分水嶺を意味し、古代・中世の思考を近代の観測科学の精神から分かつ地点に天才ケプラーがたっていたことを意味しています。

 ケストラーの『夢遊病者たち』(1959年)からケプラーについて書かれた1章を取り出して独立の本にしたものが本書です。

 ケプラーは「ケプラーの3つの法則」で知られています。すなわち、惑星は、太陽をひとつの焦点とする楕円軌道上を動く(第1法則 )、惑星と太陽とを結ぶ線分が単位時間に描く面積は、一定である(面積速度一定)(第2法則)、惑星の公転周期の2乗は、軌道の半長径の3乗に比例する(第3法則)です。

 第1法則および第2法則は1609年に発表され、第3法則は1619年に発表されました。

 この本を読むとケプラーはもともとは占星術などにこっていた人物のようで、あらゆることでの奇行の目立つ人だったようです。ケプラーの業績は惑星の軌道を楕円と考えたことです。

 それまでは天動説のプトレマイオスはもちろん、地動説のコペルニクスも惑星の運動は円軌道として考えていました。

 また、ケプラーは太陽と惑星はその距離の二乗に反比例する力によって引かれていると考えました。その力の証明はニュートンの万有引力の発見につながったとか。

 ケプラーは数を宇宙の秩序の中心と考え、天体音楽論を提唱するなどピタゴラスの信奉者であり、法則の予想は専ら幾何学的の発想からスタートして物理学の要素を取り入れることで成しえたようです。

 またチコ・ブラーエは独自に膨大な観測を行ってデータをもっていましたが、そのデータの解析からもケプラーの予想は実証されました。

 ケプラー自身は法則の発見者ということにあまり頓着がなく、上記3法則の意義はニュートンによって認められました。

 本書はケプラーの著者『宇宙の神秘』『新天文学』『世界の調和』『ヨハネス・ケプラー全集』などからの多くの引用を行いながら、ケプラーの業績と人となりを論じています。その宗教的立場、人格形成、職業的不安定、チコ、ガリレオとの交流、2度の結婚の顛末、母親が魔女と攻撃されたことなどについても詳しく書かれています。

 ケプラーは今から考えると恐ろしく非合理的で、難しい社会、人間関係のなかを生きるなかで、宇宙と天体にたいする驚異的な粘着力と執着心が近代科学の扉をこじあけたということになるのではないでしょうか?

 全編で421ページ。あまり読みやすくはありませんが、読後感は充実でした。

吉村昭『透明標本』學藝書林、1990年

2008-09-21 20:48:30 | 小説
吉村昭『透明標本』學藝書林、1990年

 「鉄橋」「少女架刑」「透明標本」「石の微笑」「煉瓦塀」の5編。

 「鉄橋」では、鉄道自殺と扱われたボクサーの轢死をめぐり、その経緯が主人公北尾の意識と言動をとおして描かれます。

 「少女架刑」は、急性肺炎で死んだ少女が解剖され、焼かれ、骨壷に納められ、納骨堂に並べられるまでが当の少女の一人称の意識と感性で綴られています。

 「透明標本」は、病院で死体から骨の標本をつくる男(検四郎)が再婚した妻の娘(百合子)の死体から美しい透明の骨標本を製作を思いつくという話。

 「石の微笑」は廃虚となった墓場から地蔵(石仏)を採集して売る友人の言動と出戻りの姉との関係、失踪に主人公が苛まれる物語。

 「煉瓦塀」はハブの血清のために使われる馬をいとおしむ兄と妹の話。

 「鉄橋」「透明標本」「石の微笑」は芥川賞の候補作品となりました。会社勤めをしながら小説を書いていた頃の著者30代の作品集です

前田朗『軍隊のない国家』日本評論社、2008年

2008-09-20 21:05:50 | 政治/社会
前田朗『軍隊のない国家』日本評論社、2008年

             軍隊のない国家 27の国々と人びと / 前田朗/著

 本書執筆の契機は、著者がスイスの弁護士バルビーが「軍隊のない国家について教えてくれ」と問われたからだそうです(p.)。

 著者もバルビーも「軍隊のない国家」を27としています(ただし著者はバルビーのあげているハイチをおとし、代わりにルクセンブルクを入れている)。

 コスタリカだけが例外的に軍隊をもたない国なのではありません。日本は憲法9条がありますが、この27カ国にはもちろん入っていません。当然です。

 27カ国はいろいろな切り口で分類されています(pp.243-247)。非武装憲法をもつ国(リヒテンシュタイン候国、コスタリカ共和国、キリバス共和国、パナマ共和国)、軍隊がもともとなかった国(アンドラ公国、サンマリノ共和国、モナコ公国、アイスランド共和国、ルクセンブルク大公国、ヴァチカン市国)、軍隊が国民を殺害したため廃止した国(コスタリカ共和国、ドミニカ国)、外国軍によって軍が解体されて無い国(グレナダ、パナマ共和国)、集団安全保障体制があるので軍を不要としている国(セントヴィンセント・グレナディンズ、セントクリストファー・ネヴィス)、外国との自由連合協定下にあるので軍を不要としている国(ミクロネシア連邦、パラオ共和国、マーシャル諸島共和国、クック諸島)等々です。この他、トゥヴァル、サモア独立国、ナウル共和国、モーリシャス共和国、モルディブ共和国、ヴァネアツ共和国、セントルシア、ソロモン諸島、ニウエ。

 もっとも国家とは何か、軍隊とは何か、定義が難しいことは著者もわきまえています。いくつあるのかではなく、非軍事化に向けた運動、理念、考え方が重要なのです。国連加盟国は現在(2008年6月)192カ国ですから、世界の国家の7分の1ほどで軍隊がないのです。そして更に重要なのは、時間とともに徐々に増えていることです。(上記のうちクック諸島とニウエは国連に加盟していない)。

 日本の憲法が世界の他の国の非軍事化に影響を与えてない現状を著者は嘆いています。もっと国際的に普及すべし、「輸出」すべしということです。自身のあげた27カ国は全てまわってヒアリングをしているところが凄いです。

 日本政府が9条を守らないのであれば、市民は無防備地域宣言などで抵抗するのがよいようです(pp。253-254)。

新宿 土佐料理 祢保希(ねぼけ)

2008-09-18 01:33:23 | グルメ
土佐料理 祢保希(ねぼけ) 新宿区西新宿 野村ビル 03-3343-9640
          
 新宿西口から徒歩10分ぐらいの高層の野村ビルの50階にこのお店があります。かなり広いいい感じの空間です。お店の方はみな和服です。

 50階ですから、夜の東京の見晴らしが抜群です。この前は、丁度、中秋の明月の直後でしたので、丸い月がビルの谷間からのぼっていくのが見事に見えました。

 コースターには土佐出身の吉田茂首相とか、ジョン万次郎とかが漫画風に描かれています。ここにまず「土佐」を感じます。

 次はもちろんメニューです。ここは土佐料理の店です。土佐は皿鉢(さわち)料理で有名ですが、それは避けました。出てくるものは凄くおいしいです。焼き鯖棒寿司とか、松茸の土瓶蒸しとか、鰹のたたきとか、口に入れるとグッとくる美味さです。

 そして最後は、お酒ですね。冷酒のあとに(銘柄は忘れました)、土佐鶴を燗で4本ぐらいも飲んでしまいました。

 古本屋で買った「太陽」(平凡社)のバックナンバー、紫式部(千年紀)、台湾、美術館めぐり、昭和44年ごろのフォークソング、リーマン・ブラザーズ破綻、軍隊のない国などの話に花が咲きました。


              

吉村昭『島抜け』新潮社、2000年

2008-09-17 12:16:08 | 小説
吉村昭『島抜け』新潮社、2000年

           島抜け  /吉村昭/著 [本]

 「島抜け」「欠けた椀」「梅の刺青」の3編からなります。

 「島抜け」は江戸時代[天保15年(1844)]、大阪で人気の高かった講釈師、瑞龍が公儀を不快にさせた講釈を読んだかどで種子島に遠島の刑を執行され、その後、ひょんなことで島抜け、その後の顛末を小説に仕立てたものです。実際にあった話をヒントに作った作品とのこと。

 講釈の内容が公儀を不快に思わせた程度であれば、高座の差止め程度の罪であったはずのものでしたが、折からの水野忠邦による緊縮の天保改革を背景に重罪とされてしまいました。

 島流しされた瑞龍はそこでやはり島流しの刑に服していた竹蔵、小重太、幸吉と出会い、4人で釣りにでたおりに丸太舟が流され、結果、島抜けをするはめになりました。

 大時化にであい15日間漂流、唐国にたどり着き、そこで便宜を図ってもらい長崎に到着。牢獄に投ぜられるが破牢に成功。その後4人はバラバラになり、瑞龍は九州に潜行、防州の三田尻で講釈師呑海を名乗りながら生きながらえたが捕縛され、・・・・・。

 「欠けた椀」は時代背景は江戸。飢饉の最中、由蔵、かよとかよの子、岩吉の悲惨な生活を描いています。岩吉は餓死同然で死に、かよも痩せこけ、半病人で気力喪失。

 由蔵は寺から施食をもらうがかよはそれを貰う意欲もありません。誰それが人肉まで食べているという風評が聞こえる中、かよは息をひきとります。由蔵はそのかよの遺体が食われるのをおそれ、川に流すのでした。

 著者は甲府市の図書館で飢餓の古い資料をあさっていたときに、流民する飢民を阻止するため村の入り口に「物乞いに入るを禁ず」という立札を立てたという記録を眼にして刺激を受け、この作品を書く気になったと書いています(p.231)。

 「梅の刺青」は明治2年に日本で最初の献体をした元遊女みきをはじめとして、初期解剖の歴史をテーマにとりあげた作品です。みきの片腕に梅の花が枝に短冊が翻るように結ばれてういるかのような刺青があったことから、この作品の題名がとられました。

 医学の進歩には解剖が不可欠ですが、明治の初期にはそれがなかなかかなわないことでした。貧しく供養もできないような遊女が、戒名を与えられ、葬式をだしてくれることを条件として献体が時々あって、解剖がほそぼそと続けられていたようです。

 その後、罪人の解剖がなされるようになり、解剖の頻度は増しました。さらに、明治5年になって最初の病理解剖がドイツの専門解剖医デーニッツと同じドイツ人医師ホフマンの執刀で行われ、次第にそれも一般化していきました。

 わたしはこの本を単行本で読みました。上記のページは単行本のそれです。ただし、画像は文庫本です。

上山信一『日本の行政評価-総括と展望-』第一法規、2002年

2008-09-15 11:16:19 | 政治/社会
上山信一『日本の行政評価-総括と展望-』第一法規、2002年

                クリックすると拡大画像が見られます

 日本の行政評価の到達点と課題を示した比較的新しい本です。

 「はじめに」で我が国の行政評価をゴルフに見立てています。わたしはゴルフをしないので実感に乏しいですが、なんとなく言わんとしていることはわかります。

 それによると行政評価もゴルフも英米からの輸入で全国的なブームになったこと、どちらもスコアがつくこと、フィールド(現場)の状況にあわせて道具を使い分けること(ティーショットのウッドには「ベンチマーク」方式)、グリーンでパットの練習は「事務事業評価」、ティーショトとグリ-ンを繋ぐアイアンは「戦略計画と業績測定」)といった具合です。

 本書は行政評価の実践段階で重点課題を論じた8つの章からなります。
「第1章:行政評価とガバナンス政策」
「第2章:再考・日本の行政評価」
「第3章:自治体行政評価のバージョンアップ」
「第4章:行政評価と予算制度改革」
「第5章:住民参加の行政評価」
「第6章:自治体の行政経営格付け」
「第7章:中央省庁の政策評価制度」
「第8章:特殊法人と行政評価」。

 各章の冒頭にサマリーがあります。第1章では「管理」から「経営」に移りつつある自治体の運営原理のルーツを欧米企業のコーポレートガバナンスにさかのぼって考察しています。

 第2章では制度化とともに早くも形骸化・形式化の恐れがでてきている行政評価の背後にある問題点を解明しています。

 第3章では我が国の行政評価が事務事業評価に偏っていることを指摘し、それを欧米並みに戦略計画とそれにもとづく業績測定にバージョンアップすべきことを提唱しています。

 第4章では予算編成のプロセスを行政評価でバージョンアップできることを示唆し、アメリカの経験の分析とその日本への応用可能性を説いています。

 第5章では青森県の「政策マーケティング」と「シェアード・アウトカム」の考え方を紹介し、政策が行政だけでなく市民、企業、NPOも担うべきであることを訴えています。

 第6章ではアメリカの州と主要都市で始まった自治体の格付けと35の評価基準をとりあげて、自治体も信用格付けの対象となるのだと主張しています。

 第7章では意外にも早かった国土交通省の行政評価の取り組みを題材に、中央省庁の行政評価の導入の経緯と今後をレポートしています。

 第8章ではパブリックセクターの制度疲労の問題が明るみになっている特殊法人の課題が実は政府の放漫経営のつけによってもたらされた面もあることを指摘し、特殊法人に高い目標を与え、自律改革をせまらなければならないとし、そのための行政評価を義務付けるべきとしています。

 全体の読後、5章に刺激を受け、とにかく青森県のヒアリングはしなければならないと思いました。

台湾(中華民国)」旅行への道⑤

2008-09-14 22:14:27 | 地理/風土/気象/文化
 台湾訪問の事前勉強である「台湾(中華民国)」旅行への道」の最後、第5回目として、見所を書きます。

 第一は、何と言っても「故宮博物院」(台北)でしょう。中国美術の最高峰に接することができるはずです。2004年4月から改修工事が行われ、2007年2月にリニューアルオープンされました。所蔵される文物の数は70万点といわれます。
 故宮博物院は、1924年に北洋軍閥の一人馮玉祥が溥儀を紫禁城宮殿から退去させ、宮殿内にあった清朝の美術品などを一般公開したのが始まりです。1925年当時の所蔵品点検レポートでは所蔵品総数は117万件を超えていました。その後、満州に駐留していた関東軍が華北地方に軍を派遣してきたので、蒋介石の国民政府(1948年からは中華民国政府)は博物院の所蔵品を戦火や日本軍から守るために重要文物を南方へ疎開させ、膨大な所蔵品が上海経由で南京市に運ばれました。国民政府は南京市内に所蔵倉庫を建て、故宮博物院南京分院を設立しました。しかし、1937年に日本軍が南京に向けて進軍したのを契機に、所蔵品は再び運び出されて四川省の巴県、峨嵋山、楽山の三箇所に避難させられました。
 第二次世界大戦、運び出された所蔵品は重慶を経て再び南京・北京に戻されました。しかし、国共内戦の激化とともに中華民国政府の形勢が不利になり、1948年秋に中華民国政府は故宮博物院から2,972箱に及ぶ所蔵品を精選して台北へ運びました。そこで誕生したのが台北市の國立故宮博物院です。
 現在故宮博物院の所蔵品は北京と台北の二箇所に別れて展示されています。

          台北の國立故宮博物院
            台北の故宮博物院 ウィキペディアより


 第二は「日月潭」。台湾は急峻な山が多く、雨が降っても貯水がままになりません。日本統治時代に、貯水目的でこの「日月潭」が作られました。その役割は非常に大きく、台湾の人のなかにはこの「日月潭」が日本人の賜物と思う人も多いようです。景勝も見ごたえがあること間違いなし。

 第三は高雄の「澄清湖」。詩的詩情があり、中国風の塔やあずまやがあり、なかでもジグザグに作られた九曲橋は見ものです。

 第四は延平郡王祠です。オランダの植民地の民族的英雄である鄭成功とその一族を奉る寺廟です。現在の建物は1963年に復元されたものです。建築様式は当時台湾には少なかった福州式。繊細な細工が施された鴨居は必見です。

 あと食べ物が美味しいはず。

 まだまだ見所はあるので個人的勉強は続けますが、ブログでの紹介はこれでひとまず終了。あとは秋の台湾旅行の帰国後に・・・。

 

北海道(道央)に行ってきました。

2008-09-13 21:53:20 | 旅行/温泉
 出張で札幌と小樽に行ってきました。札幌は1年半ぶりです。
 9月なのに日中は暖かく、今日は暑いぐらいでした。地元の人は「9月にしては異常ですね」と言っていました。

    
札幌市役所本庁舎(札幌市中央区)北海道庁舎(本庁舎)
       <札幌市役所(左)と道庁本庁舎(右)>
     
 それでも札幌、小樽はどちらも綺麗な街です。再認識しました。東京の雑踏を毎日のように経験しているものにとってはオアシスと感じます。

 地方都市によっては、街中でも人がいないような過疎地域もありますが、札幌はそんなことはありません。ほどよい人口密度です。

 日中は仕事でした。1日目は北海道庁、札幌市役所の総合計画を作成している部署に寄り、話を聞き、資料をいただいてきました。
 北海道は本年4月から「新・北海道総合計画ー北の未来を拓くビジョンと戦略ー」というもので、これまでの総合計画とくらべると、実施計画をもたず、わかりやすく簡素にしたというのが特徴です。

 北海道の行政評価はかつて、「時のアセスメント(長期間停滞している施策(9施策)について、『時』という客観的な物差しで、一度立ち止まって、施策を再評価し、今後の対応を整理するという施策再評価のシステム)」というものが有名でしたが、今はその役割を終え、「政策アセンスメント」に移行しているとのことでした。

 札幌市は昨年度から「さっぽろ元気ビジョン第2ステージ」に入っています。第1ステージに引き続き、札幌のまちづくりを進めていくうえでの考え方をまとめた中期的な指針で、まちづくりの目標が『市民の力みなぎる、文化と誇りあふれる街』と定められ、『市民自治の息づくまちづくり』が中心にあります。札幌市は現在、札幌駅から大通りまでを地下通路で繋ぐ工事を進めています。これが完成ずると、札幌の街の構えはまた大きく変わることでしょう。

 2日目は午前中に小樽市役所に寄り、やはり総合計画を作成している部署の方から話を聞きました。小樽市はいま深刻です。昭和39年から始まった人口減少に歯止めがかからないようです。企業誘致の地域も札幌と隣接している箇所のようで、誘致によって期待されるはずの働き手も札幌手稲区、西区などに住むのではと悲観的です。

 また本州からの観光客も最近は旭川の旭山動物園にとられ気味で苦しいとのこと。また訪れる観光客は昼間は運河などに来ても、夜は小樽にとまらず、札幌に帰ってしまうらしいです。アジア(韓国、台湾、シンガポール、香港)からの観光客の入れ込みに活路を見出そうとしています。

 ところで小樽市では、1998年度(平成10年度)に「市民と歩む21世紀プラン」がを策定され、2007年度(19年度)までをその計画期間としてきましたが、現在、新たに総合計画についての見直しが行われ、今年度中に新しい総合計画がまとまるようです。9月の議会に提出されるそうで、そのほやほやの案を紹介してもらいました。試行段階に留まっていた行政評価を新しい計画のなかでは進めていこうと意欲をもっています。

 小樽の午後は光合金製作所の工場見学(朝里工場)と社長の話、田中酒造の醸造過程の見学と社長の話を聞きました。

 光合金は寒冷地用の給水栓を作っているところ(昭和22年創業)。鋳物の製造現場を初めて見ました。鋳物を作る過程では「砂」が重要だということが初めてわかりました。

 田中酒造は道内米を使った日本酒の製造で、2年連続国税庁から金賞を受けました。試飲をたくさんしてして(笑)、金賞をとった銘柄の日本酒「宝川」(あと30本くらいしか残っていなかった)を土産に買ってきました。

 札幌の夜はこのブログでも紹介したことのある居酒屋「くし路」で北海道のうまいもの(毛ガニなど)とお酒に舌鼓。

 小樽の夜はどういうわけか、イタリアンでした。札幌に夜10時半ごろ戻って北海道大学正門付近の「海鮮食堂」で小1時間、飲みなおしましたが・・・・。