【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

山下文夫『津波てんでんこ-近代日本津波史-』新日本出版社、2008年

2011-04-30 00:32:48 | 歴史

              津波てんでんこ
 「てんでん」というのは「てんでんに」「てんでんばらばらに」という意味で、「てんでんこ」と「こ」が付いているのは、岩手の方言で、可愛らしく表現するときのやり方です。

 「津波てんでんこ」は、津波がきたら、「てんでんばらばらに、他人のことをかまってないで(場合によっては家族も)、一目散に逃げろ」ということです。

 本書で民間の地震研究者である著者は、日本に起きた8つの津波の実態を紹介し、そこから教訓をひきだしています。8つの津波とは、明治三陸大津波(1896年6月15日)、関東大震災津波(1923年9月1日)、昭和三陸津波(1933年3月3日)、東南海地震津波(1944年12月7日)、東海地震津波(1946年12月21日)、昭和のチリ津波(1960年5月23-24日)、日本海中部地震津波(1983年5月26日)、北海道南西沖地震津波(1993年7月12日)です。日本は世界一の地震国であり、三陸海岸は津波常習海岸、宿命的な津波海岸とのこと。

 明治三陸大津波、関東大震災津波、昭和三陸津波は、吉村昭の本で詳しくしっていましたが、東南海地震津波、東海地震津波のことはあまり知りませんでした。それもそのはずで、この2つは太平洋戦争敗戦前後の地震にともなって生じた災害、、被害の実態はほとんど隠されていたとのことです。

 また、昭和三陸津波は日本の中国侵略の頃で、被害にあった東北地域の青年は家族の被災を背負いながら大陸に派兵されたとのことです。

 地震にともなう俗説がたくさんあること(井戸が渇水すると津波が来る、地震が起きてからご飯が炊きあがる時間に津波が来る)
、また地震災害は風化しやすいことを踏まえて、とにかく防災教育、訓練、意識が肝要と、繰り返し述べられています。

 ちなみに、著者は今回の東日本大震災の最中、陸前高田の県立病院に入院中で、4階の病室にいたそうで、研究者として津波を見届けたいとの思いがあり、逃げ遅れ、ようやく助けられました。「すぐに逃げなかったことを反省している」と弁明しています。以上は、朝日新聞4月3日付朝刊の記事で紹介されていました。


坂口三千代『クラクラ日記』(ちくま文庫)、1987年

2011-04-29 00:05:05 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
                  
              
  高校3年生の頃、TV番組「クラクラ日記」というのを観ましたが、妙に印象に残っています。安吾役は藤岡琢也さん、妻役(ただし八千代という名前になっていました)は若尾文子さんでした。坂口安吾との生活を妻の側から描いた内容ということだけは覚えていますが、細かなことは忘れてしまいました。

 その原作が本書です。安吾夫人である三千代さんが執筆しています。クラクラの意味は今回初めてわかったのですが、フランス語で野雀、そばかすだらけでその辺にいる平凡なありふれた少女の含意があるらしいです。そして三千代さんが安吾没後、経営した銀座のBARの店の名前だそうです。獅子文六の発案とか。

 さて、本書ですが、坂口安吾のこと、ふたりの生活のことが実によくわかります。文章は淀みなく、独特の文体で、「ぐずぐず長いあいだ書いておりました習慣の故か、私はえんえんと死ぬまで書いてもいいような気分になり、最後の原稿用紙に『おわり』と書いて編集者の方に渡してしまうと急に未練が出て、アレもコレも書き落としているこちに気がつき、『おわり』と書いた原稿用紙を取り戻したい気持ちになりました」(p.334)とのことです。何のてらいも、技巧もないのですが、単調ではなく、言葉使いはたおやかに、飽きさせず、不思議に引き込まれます。松本清張とか(本書の末尾に掲載の「周辺の随想」)、松岡正剛さんも感心して誉めています。

 清張は「筆に抑制がきき、ムダがない。感情の説明も少なく、叙景描写もほとんどない。それだけにリアリティが底に光って、迫真力がある」と評しています(本書346ページ)。

 とにかく、安吾との生活は大変だったと想像できます。壮絶と言っても過言でありません(それでもあまりそういう感じは出していません)。当時の流行作家であり、仕事熱心でしたが、睡眠薬、覚醒剤にたより(アドルムとヒロポンの多量併用)、大暴れで他人に迷惑をかけ、警察沙汰になり、新聞記事になり、家庭でも怒鳴ったり、モノをなげたり、三千代さんをトイレに閉じ込めたり、急にいなくなって帰ってこなかったりとさんざんです。心中を思い立って挙行しようともしました。

 よく、耐えて生涯を共にした思います(別れようと思ったこともあるらしく、そのことも書いてある)。ある意味で、不思議な女性です。

 引っ越し、文人との付き合い、酒、囲碁、競馬、ゴルフ、飼い犬、子どものこと、とにかくいろいろなことが出てくるので、興味つきないです。それが上記の文体で日記のように書かれているのです。

藤沢周平『海鳴り(下)』文春文庫、1987年

2011-04-28 00:22:07 | 小説

                

 下巻でこの小説の描こうとしたものが何だったのかがはっきりしてきます。それは男と女の(時代を超えた)途方もない惹かれあう想いというもので、そこに秘められた底知れぬ貪欲さとでもいうものです。男女の危険な逢瀬、そこに口を開いている闇は深く、無限です。それでも仄かな一条の光をもとめて男と女は生涯の真の同伴者をもとめあうのです。
 
 商いの得意先のきりくずしにあう小野屋。そこには暗躍する人物がいて、新兵衛は当該人物、長兵衛をさぐりあてます。発覚したその人物には、おこうの夫、丸子屋の旦那の関与していました。

 家族は依然として不安定で、新兵衛は息子の幸介を後継ぎとしての期待を込めて、激しく叱責しますが効果なく、ついに 心中事件を起こす始末です。

 おこうとの逢瀬は続きます。しかし、彦助に再び嗅ぎつけられ、またまた脅しをうけます。ニッチもサッチもいかなくなったところで、二人は路上で揉み合いになり、彦助は気を失い瀕死の状態に。新兵衛は窮地にたちます。

 下巻はこのような事件が次々に起こり、サスペンスタッチと推理の要素がくわわって、一気呵成に読めます。結局、新兵衛は・・・・・読者をひやひやさせながらの終結。藤沢ワールドを耽溺したひとときでした。


藤沢周平『海鳴り(上)』文春文庫、1987年

2011-04-27 00:05:14 | 小説

             

 藤沢周平の世話物です。NHKラジオのラジオ深夜便という番組で松平定知さんが朗読していたので(現在も進行中)、読みたくなりました。

 紙問屋の小野屋新兵衛は46歳、潰れ問屋相模屋孫八の株をめぐって競り合い、仲買から問屋株を買い受け問屋仲間に入りました。商売はそれなりに順調でしたが、体力に生活に疲れがでていることを自覚し始めています。

 妻、おこうは、夫の新兵衛がかつて奉公女中おたみとの浮気をかぎつけてから、冷淡そのもの。夫婦関係は冷え切っていた。倅の幸介はそれにつけこんだのか、おたみに甘やかされ、悪い仲間と岡場所に遊び三昧でした。小野屋を継ぐそぶりもありません。

 生活に陰りがみえた頃、新兵衛はふとしたことで同じ紙問屋丸子屋の女将、おこうの窮地を助けたことがきっかけで、以来、おこうに好意以上のものを感じます。おこうを介抱した場所が「曖昧屋」であったことで、新兵衛はおこうともどもに、この件を耳にした塙屋彦助に脅されますが、百両の取引で口封じをします。

 新兵衛はおこうとその後も逢瀬を重ね、荒布橋の袂から少し歩いたところで抱擁、心を許しあう仲になりました。禁断の道に一歩足を踏み込むことになったのです。

 新兵衛は他方で大店(須川屋、森田屋、万亀堂)業界の世話役たち(おこうの旦那、丸子屋も関わる)が意図した直取引の一手販売に反対しているとの嫌疑をかけられ、呼び出され指弾されます。その場をどうにか切り抜けた新兵衛でしたが・・・。


ヴィジェ・ルブラン展-華麗なる宮廷を描いた女性画家たち-(三菱一号館美術館)

2011-04-25 00:03:22 | 美術(絵画)/写真

      
 NHK教育TVの日曜美術館で、女性画家ヴィジェ・ルブラン(Madame Vigee Le Brun)の紹介がありました(4月17日朝、24日夜)。番組では、同時代の画家ダヴィッドと対比させて、画の解説、作風、生涯が解説され、ルブランのそれは三菱一号館美術館の館長・高橋明也さんが、 ダヴィッドのそれは「怖い絵」で有名な中野京子さんがそれぞれの立場で説明していました。
   http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2011/0417/index.html

            ←マリー・アントワネット

 そのヴィジェ・ルブランの画の展覧館会が有楽町の三菱一号館美術館で開催されています(3月1日~5月8日)。画家と言えば男性ばかりが有名ですが、女性の画家もたくさんいたのです。

 美貌のヴィジェ・ルブランはマリー・アントワネットと同じ年に生まれ(1755-1842)、アントワネットのいわば専属の画家になりました。女王の肖像画をたくさん描きました。同年代ということもあり、人間としても親しく、お互いに信頼関係があったようです。
           ←自画像

 ヴィジェ・ルブランは、フランス革命後、女王が断頭台の露と消えたあと、当然自分の身も危うくなり、祖国をすててイタリア、ドイツ、ロシアなど長きにわたって亡命生活を送りました。しかし、画筆はすてがたく、肖像画を中心にいい作品を描き続けました。時代を反映してロココ風の作品が目立ちますが、デッサン力がすぐれ、卓越した技能と藝術性を秘めています。個性までうかびあがらせた素晴らしい絵をたくさん遺しました。

 今回のヴィジェ・ルブラン展は、彼女を中心に、女性画家によって描かれた作品が並んでいます。ヴィジェ・ルブランの展示会は、フランスでも開催されたことはなく、アメリカで一度もたれたようですが、今回の日本での展示会はそれに続くものです。

 当時の画は神話が題材にされたりもの、歴史事件の記録としての絵画が評価されましたが、当然そこには男性、女性の裸体、凄惨な場面があらわれましたが、女性の画家がそのような題材をとりあげることができる環境にはなく、したがって作品の題材は人物画、静物画などに限定されています。女性画家にとっては、不満もあったことと推測できますが、それでも彼女たちは制約された条件のなかで、歴史に残る大きな仕事をしました。
              ←ポリニュック夫人

 *なお、ルブランについて
は、本ブログで2009年5月14日でとりあげた、若桑みどり『女性画家列伝』に載っていて、参考になります。
                 


東日本大震災(ブログ通報⑫)

2011-04-24 00:37:38 | その他

 今回の震災によって首都圏で大きな打撃を受けたのが、千葉県の浦安市です。10日(日)の統一地方選挙(県議選)はこのため浦安市地区に限り、選挙が延期されました。24日(日)の市議選はどうにか実施されるようです。

 浦安市は、本ブログで以前に紹介した(2008年1月26日)、田村秀著『自治体格差が国を滅ぼす』(2007年、集英社新書)で、「究極の勝ち組自治体」として取り上げられた市です。(わたしは、この「勝ち組」「負け組」という用語、またものごとをこのような用語で説明していく姿勢そのものが大嫌いなのですが、いまはそのことを議論する場ではないので、やめます。)

 この本の紹介では、浦安市は日本一の人口増加率を誇り(2000年国調⇒2005年国調)、各種の都市ランキングでも好感度で上位にランキングされる都市ということになっています。

 浦安市はかつて漁村でした。それが埋めたてにより開発が進みました。1983年には舞浜地区に遊園地、東京ディズニーランドが開園、その周辺に大規模なリゾートホテルが続々とオープン、日本一の図書館があり、財政も豊かで、近未来都市が実現したとも一時報道されました。

 この本にはそうした浦安市に一抹の不安があると、書かれています(p.47)。それは大震災が起きると埋めたて地に液状化現象が想定されるというのです。実際に、市は「浦安市地震防災基礎調査報告書」を2005年3月に作成し、阪神・淡路大地震並みの直下型地震が発生した場合の被害の資産をしていたようです。

 著者の田村さんは次のように指摘しています、「浦安市に数多く見られる中高層マンションは、原稿の耐震基準を満たしている限りは倒壊の恐れはほとんどないだろうが、液状化現象が発生して上下水道、ガスなどのライフラインが多大なダメージを受けることも考えられる。そうすると建物は無事でも日常生活に大きな支障が生じ、再び、埋立地の時代のような陸の孤島状態に逆戻りしてしまう危険性すらある」と(p.48)。

 図らずもその指摘があたってしまったのですが、地震に対する大都市の防災の必要性は、これまで以上に慎重に、きめ細かくおこなわれなければならない、ということが教訓として残りました。


東日本大震災(ブログ通報⑪)

2011-04-23 00:05:28 | その他

 先日の朝日新聞(4月17日)埼玉版に興味深い記事がのっていました。
 
 3月11日の東日本大震災のおり、その時点で東京・汐留にいて、わたしと同じ埼玉県蓮田市に住んでいる人が「徒歩で」帰宅したという記事です。この距離は約42キロ。夕方5時半に出て、家についたのは午前3時半、約10時間かかって帰宅したという記事です。経験談ですが、それにとどまらず国や自治体の防災指針が役に立ったのか、日ごろからの心構えが書かれています。

 携帯電話は使用できない状態。これはだれもが経験したことです。この方はスマートフォンでひたすら最短経路を呼び出して、たどったとのことです。

 都心の歩道は帰宅する人であふれ、東京、秋葉原、上野駅を通過するたびに群衆はふくらみ、大渋滞。荒川を超えると漸く人の流れがしだいにすくなくなったとのことです。川口で小休止。栄養補助食品をかじり再スタート。

 午前2時にコンビニでトイレタイム、休憩。そして自宅へ。

 この方は、家に着いたのですが、秋葉原で歩くのに邪魔とコインロッカーにいれたリュックにカギが入っていて、家に入れず、近くの公民館で一泊したそうです。

 とにかく東京の端から蓮田市まで歩いたというのですから凄いです。わたしなどはJR駒込駅で地震に遭遇し、職場の池袋に戻りました。徒歩で蓮田市にかえることなどは、無謀と判断したのですが・・・。ちなみに、国の基準では20キロを超える徒歩帰宅は不可能と定めているそうです。

 教訓あるいは注意事項としては、非常時に電子機器にたよりきるのは禁物、帰宅ルートを明示した手製の地図を持参し、いつも手許にもっておくべき、とのこと。

 東京ではこの日、外出者約1000万人の3割にあたる約300万人が帰宅不能におちいったとか(調査会社サーベイリサーチセンターによる)。政府の中央防災会議の推定では、もし首都直下でマグニチュード7.3クラスの地震があった場合には帰宅困難者が650万人になるとのことです。この記事も同じ日の朝日新聞に掲載されていました。


季旬「鈴なり」(新宿区荒木町7-1清和荘1F TEL03-3350-1178)

2011-04-22 00:05:42 | グルメ



 そのお店は四谷の荒木町にあります。丸ノ内線の「四谷三丁目」で下車、そこから新宿通り沿いに2-3分歩き、杉大門通りを左手におれ、この道をくだっていき、若干路地をくねくねと進み、あまり目だたないところに瀟洒なこのお店が構えています。

 ここに来たのは、TBSの番組「チューボーですよ!」でここのマスターが「街の巨匠」として紹介され、興味をもったからです。番組でのそのときの総菜は「キンキの煮つけ」でした。いまの時期、この種の単品はなく、3つのコースでまわっています。

        

 懐石料理がリーズナブルな価格で大変においしいです。お皿は吟味されていますし、料理はひとつひとつは量は多くなく、全体の色あいのバランスに十分に配慮されています。こうなごのから揚げ、蛍いかの酢味噌あえ、カツオのタタキ、焼き魚(マス)、どれもこれも新鮮な食材が使われているので、美味そのものです。

 茶碗蒸しなどもウニ入り、ご飯も小エビが入っていたり、きめ細かい工夫がほどこされています。

 席は多くなく18ほど(カウンターに7席)、予約をしないとまず入れません。「なだ万」で3年間修業したあとにこのお店をもったマスターは、料理をつくるのに専念し、厨房はおお忙しです。巨匠と若い料理人と、若い女性が慣れた身のこなしで仕事をしています。

 お酒も日本酒、焼酎、ワインと豊富です。
            ←カウンター7席

【豆知識】荒木の由来

 町名は荒木坂・荒木横町に因むが、それは荒木志摩守政羽(浅野内匠頭の赤穂城を受け取りに行った人)の屋敷があったことによる。坂は急で雁木(段々)の坂だったが今は削土されて緩やかになった。この辺りは昔から植木屋が多く〝新木〟から来たともいわれる。江戸時代のガーデニング・ブームは現在の比ではない。また後に荒木屋敷は高須松平摂津守義行が拝領したので荒木坂は「津の守坂」と呼び変えられるようになった。どういう訳なのか摂津守だけは「せ」を略して「つのかみ」と読むことがある。玉川上水に「津の守橋」があった。現在は北沢橋といい暗渠ながら橋の形体を残していたが、平成16年末中野通りの延長で消え右岸の親柱だけが少し向きを変えて残された。

 


笠智衆『小津安二郎先生の思い出』朝日新聞社、2007年

2011-04-20 00:05:07 | 映画

             

 著者、笠智衆は小津安二郎監督を敬愛するドイツのヴェンダース監督の『夢の果てまでも』に出演させてもらったという話で、この本を始めています。長い俳優人生の帰結です。小津安二郎監督の映画に、いなくてはならなかった俳優。そのほとんどの映画に出演しています。

 小津映画は世界的に有名でありますし、その価値についての評論はたくさんありますが、出演していた俳優は監督をどう見ていたのでしょうか?

 本書では、その一端を知ることができます。笠智衆は恵まれた人です。ご本人がそれを自認しています。熊本県の来照寺という江戸時代から続いているお寺で生まれ、たまたま目にした新聞の広告に応募して松竹キネマ・俳優研究生になります。もちろん最初は大部屋で過ごす日々でしたが、小津監督に登用され、以来、小津映画になくてはならない存在となりました。

 著者はそのことをよくわかっていて、小津監督を「先生」と呼んで、生涯、敬服しました(妻の花観さんは監督のことをオッチャンと呼んでいたそうですが)。本書にはそのことが滲みでています。

 撮影ではダメだしの連続であったらしいです。それでも監督は、「不器用」な笠智衆を好んでいた。著者は好きな小津映画は「東京物語」と書いていますが、巻末の息子さんのエッセイでは「父ありき」が本当ではなかったか、と述懐しています。

 小津監督の演出の仕方、撮影のおりの雰囲気、監督の趣味と人柄が丁寧に紹介されています。また、撮影担当の厚田優春、俳優の原節子、岸恵子、岡田茉莉子、岸田今日子、佐田啓二、東野栄治郎、佐分利信などのエピソードも興味深いです。映画のことを「シャシン」と書いています。

 表紙にある笠智衆は、「男はつらいよ」でよくみた御前様のおだやかな表情で、好ましいです。

HOTEL BLESTON COURT(中軽井沢)

2011-04-19 00:11:38 | 旅行/温泉

        

 中軽井沢にあるすばらしいこのホテル。初夏には新緑の森に包まれ、冬は冬でまわりはクリスマスの雰囲気があふれるそうです。

 近くには、石の教会・内村鑑三記念館、高原教会があり、キリスト教(聖公会)の色彩です。ホテルの名前にGod Bless Youの「ブレス」が入っているのもそのせいです。不思議なことに、一瞬、敬虔な気持ちになります。雑念、都会の垢がそぎ落とされます。

 このホテルそのものは、結婚式場がメインです。大変人気があるようで、なかなか予約がとれないとのこと。もっとも、わたしにはもう関係のないことですが・・・。

 宿泊施設は、3つのコテージ群からなりたっています。デザイナーズ・コテージ、テラスヴィラ、スタンダードコテージの3つです。森のなかのコテージで、もちろん全部を見たわけではありませんが、シンプルそのもの。

 コテージのなかには、簡素な机と椅子、バスルームなどです。テレビというものはありません。そして高い天井に、白い壁。清潔感だけがあるような部屋です。

         ←デザイナーズコテージの内部

 朝食はかなりよいです。バイキングですが他のホテルとは全く違ったものがでてきます。フランスで親しまれている、そば粉を使った塩味のクレープがでます。信州産のそば粉と高原野菜、小布施の有精卵を使用したクレープです。それに「タパス」。「タパス」とは、スペインの一品料理の総称ですが、信州の旬の味覚を小さな器に閉じこめた12の世界を楽しめます。
 また、夕食はここのレストランでとれますが、ハルニレテラスといエリアにいくと(シャトルバスで運んでくれます)、「沢村」というレストラン、「川上庵」という有名なお蕎麦屋さんなどがあり、ここでも十分に満喫できます。さらに、もし時間に余裕があれば近くに星野温泉(トンボの湯)があります。優待料金(500円)で入浴できます。

            


櫻田忠衛『昔、聚楽座があった-映画館でみた映画』かもがわ出版、2010年

2011-04-18 00:05:42 | 映画

                        

 本書は三部構成です(「聚楽座の人びと」「昭和の小学生が見た映画」「映画バンザイ」)。第一部は、著者が子ども時代を過ごした北海道の妹背牛にあった「聚楽座」という映画館の想い出です。著者の人生の原点がここにあるのだそうです。第二部この「聚楽座」で観た映画のなかで、印象に残っているものの紹介です。第三部は2007年以降に著者が観た映画の感想です。

 忙しい中、よく映画を観ていると感心させられました。わたしの映画人生はおくてで、子どもの頃から映画に慣れ親しんでいた人には、観賞力では全くかなわないとよく思うのですが、この本を読んで、その想いを新たにしました。

 映画の見方で、共感する個所は多かったです。「風が強く吹いている」(大森寿美男監督、2009年)では、チームとしての陸上競技(箱根駅伝)のこの映画化が共感をもって受け入れられたのは、昨今、人間関係が現実の世界でズタズタにされているなかで、やはり人と人のつながりを修復させたいという願いをだれしもがもっているからだろうという意見には同感できました。

 「京都太秦物語」(山田洋次・阿部勉監督、2010年)では、立命館大学の職員の労働条件の描き方が浅いと注文をつけています。著者は労働組合運動に関わり、京都の大学教職員の職場の実情をよく知っているので不満だったのでしょう。

 東京での仕事の帰りの新幹線までに時間があったので日比谷シネカノンに飛び込み、「ラストゲーム・最後の早慶戦」(神山征二郎監督、2008年)を入場料千円で観て、思いもかけずいい映画で「こんな時生きてて良かったと思ってしまう。なんともちっぽけな人生なんだろうと我ながらあきれてしまうが、これが庶民の偽らざる気持ちである。こうした幸せ、満足感が戦争を忌避するのである」(134ページ)と率直に語っていて、好感がもてました。

 映画を観るセンスも冴えています。「ゼロの焦点」(犬童一心監督、2009年)で、佐和子の派手な服装が彼女の人生(戦後の混乱期の娼婦から這い上がって、それを隠して生きていく)にそぐわないと論評しています。

 著者紹介の最近の映画では、わたしは「母べえ」「インビクタス」「シッコ」「ドレスデン・運命の日々」「おとうと」くらいしか観ていませんでした。

東日本大震災(ブログ通報⑩)

2011-04-17 00:39:37 | その他

 今回の震災関係で,身近なところで,予測できなかった事態を「想定外」とする行政の姿勢をみました。埼玉県久喜市でおきた液状化による住宅災害の責任をめぐってのことです。

東日本大震災から一カ月余。関東でもいまなお強い余震があります。関東で被害がとりわけ甚大だったのは,千葉県の沿岸部にある浦安市です。市は液状化現象(地震の際に地下水位の高い砂地盤が,振動により液体状になる現象。埋立地や河口など砂質の地盤で起こりやすく,地盤の上の建物を傾かせ,道路を液状に破壊する)で,泥との闘いを今なお強いられています。


 液状化が問題になった市が,内陸の埼玉県にもありました。久喜市です。この市は,浦安市とは異なり関東の内陸の地。埼玉県東部に位置し,人口約
156千人です。都心まで約50km。面積は82.4 km²です。利根川の沖積平野にある平坦な土地柄です。この久喜市の南栗橋の一部で,今度の震災によって液状化現象にみまわれました。



 問題の液状化地域は南栗橋の新興住宅地で,約
2000戸に8000人ほどの人が住んでいます。今回の震災では,約130戸が大なり小なりの液状化被害を蒙り,生活基盤に大きな支障がでました。具体的には,複数の家が傾き,道路の至る所でアスファルトがもちあがり,亀裂がはしり,汚水にまみれた土砂があふれました。上下水道の一部は使えない状況でした。

 

 南栗橋地域は市が分譲した住宅用地です。この地一帯はもともと水田などの湿地帯で,地盤が軟弱でした。これまでとくに問題がなく経過してきましたが,大震災で住宅地として適格ではないことが図らずも露呈してしまったかたちになります。

 
責任は誰にあるのかでしょうか。この土地を分譲した自治体なのか,湿地帯を実際に埋め立てた造成業者なのか,住宅の基礎工事にたずさわった業者なのでしょうか。誰がどの範囲で責任をとるのが妥当なのでしょうか。

 


東日本大震災(ブログ通報⑨)

2011-04-16 17:21:56 | その他

 今朝も大きな余震がありました。仕事関係で2泊3日で名古屋方面に行ってきましたが、この間地震に全く遭遇せず、東京に戻ってくるとまたいきなり強い余震。地震を忘れていた数日間と東京、ひいては東北との状況の落差を実感しました。

 もちろん、名古屋のあたりでも地震のニュースは流れています。しかし、大きな違いは、東京ですと居酒屋にいくと、わたしと一緒のだれかがこの話題をだしますし、あるいはお店にきているお客の誰かが必ず地震とか原発災害の話をしているのを耳にしますが、名古屋あたりではそういうことが一度もありませんでした。普通の会話で時間が流れています。

 東京は東北からはかなり距離があるものの、3月11日のショッキングな経験はみな何かしらしていて、その時どこにいたのか、何をしていたのかが、話のきっかけになります。また、自分の家の近くに浜岡原発があるがはやく止めてほしいとか、浄水場の汚染が話題になります。

 震度6弱を経験したり、水道の汚染に警戒したりという体感があるのと、ないのとでは相当、市民の意識がことなあるものだと実感しました。

 もっとも、わたしの小さな実感をあまり一般化することはできませんが・・・・。


ヒヨコ舎編『本棚』アスペクト、2006年

2011-04-14 00:05:13 | 読書/大学/教育

                     本棚
 人の本棚を覗くのは何がしかの楽しさがあります。ある意味ではその人のことを理解するには、その人の話を聞くより、本棚をみるほうがよくわかるかもしれません。

 それは逆の言い方をすると、自分の本棚はあまり覗かれたくない、信頼できる人にしか見せたくない、ということです。

 本棚には、その人の過去の関心が蓄積されています。取材にあってとりつくろうことをしなければ、本棚の表情は嘘をいわないのです。

 その人の性格、関心、意欲などの履歴がそこにあります。

 次に、本書からは読書の作法、リテラシーを読み取ることができます。いつから本に関心をもったのか、どのような分野の本に関心があるのか、本から何を読み取っているのか、貯まる本をどのように整理しているのか、捨てる本はどのような処分を行っているのか‐本書を読みながらそのようなこと考え続けました。

 登場している人は次のとおりです。作家が多いのは当然ですが、イラストレーターも複数です。後者は本にたいしてデザインの観点からの愛着が語られていて興味深いです。


・穂村弘(歌人)
・山本幸久(作家)
・角田光代(作家)
・長崎訓子(イラストレーター)
・みうらじゅん(イラストレーター)
・喜国雅彦(漫画家)
・大森望(翻訳家)
・中島らも(作家)
・金原瑞人(翻訳家)
・宇野亜喜良(イラストレーター)
・吉野朔実(漫画家)
・川上未映子(作家)
・山崎まどか(ライター)
・石田衣良(作家)
・桜庭一樹(作家)。

 本書には写真が多く挿入され、それは本棚を撮っているのだけなのですが、いろいろな表情がそこにあります。本の背表紙は、ほんとうに美しいですね。感激。


東日本大震災(ブログ通報⑧)

2011-04-13 00:11:20 | その他

 余震が相変わらず続いています。福島の浜通り、中浜通りは、震度6弱なり、震度5,4の余震が頻発しているようで、気の毒です。1日も早い収束を期待しているのですが、長期化が懸念されます。
 義援金の第一次配分基準が決まり(8日)、仮設住宅建設も少しづつ進み、一条の光がみえてはいるものの、被災地に暮らす方々の生活上の苦労はいかばかりかと察します。
 復興計画の話が徐々にでてきていますが、依然として不明者、避難所での生活を余儀なくされている方が15万人を超えているというのが現状で、事態は改善されていません。

 そんななか、原子力安全・保安院は、福島原発事故の国際原子力事故評価尺度(INES)の評価を、あのチェルノブイリ原発事故(炉心溶融[メルトダウン]の後爆発)と同じ水準のレベル7にひきあげると発表しました。根拠は3月11日から4月5日までに原子炉から大気中に放出された放射量が63万テラベクトルに達したからです。その大部分は3月15日から16日にかけて2号機から出たものと言われています。テラというのは1兆の1万倍です。しかもこの数字には、大気中にでた放射能物質の量だけから生まれた値で、海水への放水に含まれている分、地面や地下水に及んだと思われる分は含まれていません。
 ちなみに、今から15年前の1986年4月に、チェルノブイリ原発事故では、10日間で520万テラベクトルでした。

 これまでレベル5だったものが、レベル7にあがれば、当然、世界からの福島原発事故への評価は厳しくなることが予想されます。評価レベルの変更が、遅すぎるという批判もでています。NYダウ平均株価は、現在、その値をさげていますが、これは福島原発被害がレベル7にあがったことを一部織り込んでのことでしょう。

 チェルノブイリ原発事故と福島原発事故の違いは、しかしいろいろあります。今のところ、後者から大気中に放出された放射能は前者の1割程度です。とはいえチェルノブイリ原発事故は、放射能放出が10日間ほどでとまりましたが、福島原発は現在進行形で、収束の方向が見えていません。
 今日漸く、6万トンの高濃度汚染水の2号機トレンチから復水器への移出が始まりました。それが遂行されたとしても(40時間)、冷却器がうまく再生し、循環系がが回復するかどうかは未知数です。以前として「悪い状態で安定している」という状況は変わらず、予断は許されません。今後の処理の難しさがひかえています。

 福島原発災害はいまや人類史上前例のない国際的な問題です。世界の英知を集めて、この災害を終息させる必要があります。アメリカは合同調査委員会をスタートさせました。ロシアはチレルノブイリ事故とかかわるいろいろな実践上のノウハウをもっているはずです。国際的協力をもとめることは、いまや喫緊の課題です。

 後遺症はまだまだ続きます。問題解決の方向が見えないところが、ストレスのたまる原因です。