【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

「くし路」(札幌市:ススキノ)

2007-07-27 16:31:32 | 居酒屋&BAR/お酒

「くし路」(札幌市:ススキノ)
                           
  最近は札幌にでかけることも少なくなりましたが、行く機会があるとここを訪れます。それでも昨年、行ったときは驚きました。まったく、店構えが変わっていました。ススキノ4丁目のカドのビルのなかにあります(札幌市中央区南4条西3 すすきのビル3F)。地下鉄南北線、「すすきの」駅で降りて、1分です。

 このお店には、20年ほど前に知人に紹介され、時々、お邪魔していました。元気のよい女将さんと、活きのよい食材が魅力でした。そのお店が「まだあるかな」と思って行ったところ、なんとまだ健在で感激したのですが、店のつくりが全く変わってしまっていたのです。そして、あの女将さんは、いらっしゃいませんでした。

 北海道らしい炉ばたの味は大変美味しいです。豊富に取り揃えた北海道ならではの新鮮なうに、魚介類に舌つづみです。

  すすきのの真ん中でゆっくり旬の料理を楽しめるのは、なんとも贅沢なことです。落ち着いた雰囲気が気持ちよく、友人と語り合いたいときには利用できますよ。昨年訪れたときは、刺身、天ぷら、ブリのカマ焼き、寿司盛り合わせなどを楽しみました。

 かにが一匹、限定数で500円の特価でした。ハッカクの揚げ物を紹介してくれた人がいて、これは噂どおりの絶品でした。日本酒とよく合います。道産の地酒の飲み比べセットもあります。


 わたしの思い出のお店です。いろいろな意味で・・・。
おしまい。


永井愛『中年まっさかり(文庫)』光文社、2004年。

2007-07-27 12:38:29 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談

永井愛『中年まっさかり(文庫)』光文社、2004年。
               クリックすると拡大画像が見られます


 「ら抜きの殺意」「時の物置」などで人気の高い劇作家の永井愛さんのエッセイ。『小説宝石』の2000年1月から2年間にわって掲載されたものの文庫化です。

 世間でいうちょうど中年にさしかかった著者の目でみた「中年」論(そういうものがあるとすれば)、「おばさん」の考察から始まります。

 読み通して、観察眼が鋭く言葉に敏感という印象をもちました。また、男社会に対する健全な反骨精神がしっかりあることが好ましいです。この問題をおざなりにしていません。

 とかく、否定的に捕らえられがちなこの人生の中年の時期を前向きに考え、行動しようとしています。いわく、「中年は守りの季節どころか、最も冒険するにふさわしい」「中年時代は社会的なレッテルをあえてはがし、何者でもない個人としての自分を見つめ直すべきとき」等々。

 パソコンに初めて接した時のとまどい、ガンコおやじの考察、矍鑠とした祖母の生き方、同窓会でのひとこま、遅筆のこと、演出家としての役者への対応の仕方、など伸びやかに筆は進んでいます。そして歯切れも良いです。

 如月小春さん、加藤治子さん、大石静さん、渡辺えり子さんとの出会いと交流も、地味あふれた筆致で闊達です。(この文庫は、何故か著者のサイン入りでした)

おしまい。


堀内純子『ハルモニの風』ポプラ社、1999年

2007-07-24 13:20:21 | 詩/絵本/童話/児童文学

堀内純子『ハルモニの風』ポプラ社、1999年。
                                     ハルモニの風(ポプラ社)
 童話です。ハルモニとは朝鮮語で「おばあちゃん」の意味です。

 主人公のキム・ヘジャの満州の牡丹江、4歳の記憶から始まります(それ以前は間島[カンド]に住んでいたが記憶がない)。

 キム・ヘジャが、日本の敗戦、満州帝国の崩壊により、朝鮮へと難民同然で逃げ帰るまでの苛酷で壮絶な話ですが、しかしなんとも人間らしい愛情に満ちた物語でもあります。

 とくに、家族をはじめ周囲の人々(伸二兄ちゃんとソンホなど)との、また友人(チョンミなど)との助け合いのなかで、ヘジャが短い期間に個人として成長していく様子がまぶしく感じられます。

 ヘジャの家族は、1945年8月のソ連侵攻により、牡丹江の家を脱出し、八達溝(パダコウ)農場に一時逗留します。彼女はここで大好きだったハルモニ(牧場の持ち主のぺクさんの母親)と泣く泣く別れをつげます。叔父、叔母ともに、伸二兄ちゃんがこっそり届けてくれたトラックでソウルに向かうのです。

 ソ連兵士の目をかすめ、匪賊の襲撃に注意をはらい、国府軍と八路軍の内戦を避けて南下。豆満江(トマンカン)を渡り、会寧、清津、明川、元山、鉄原と別れた父親とあうこと願いながら(父は関東軍に物資や資金を供給する日本の商事会社に勤めていたため狙われ、この八達溝農場から突然姿を消す)避難生活を続けます。

 ようやく、ソウルに到着(本田屋旅館に投宿)。父はすぐには見つからなかったのですが、しばらくして邂逅した時には既に重い病にかかって、その後まもなく亡くなってしまいました。

 そのことをヘジャは、ハルモニに手紙で伝えます。満州では日本人であったヘジャが、しだいに朝鮮人として自覚し、日本語がしだいに消え、朝鮮語が自然にでてくるようになるところは感動的です。

 そんなヘジャは、「自分がりっぱになる。世界じゅう、ひとりひとりがみんなそうなればもう戦争なんかおきるわけがないんです。つまりよい朝鮮人になるということのなかにほかへの憎しみがまざってはいけない、愛でなくては」というハルモニの教えを、みんなに自慢したいのでした。

おしまい。


茨木のり子著『個人のたたかいー金子光春の詩と真実』童話屋、1999年

2007-07-23 12:55:54 | 詩/絵本/童話/児童文学

  茨木のり子著『個人のたたかいー金子光春の詩と真実』童話屋、1999年。

               個人のたたかい―金子光晴の詩と真実

 一貫して反骨の詩人であった金子光晴の生涯(1895-1975)。著者はそのことを次の文章で見事にまとめています。

 「若いころはヨーロッパ・東南アジアをさまよい歩き、太平洋戦争中は、信念をつらぬきとおして反戦詩を書きつづけた詩人」(最初の扉の言葉)、「その半世紀にわたる長い詩業には、恋歌あり、抒情詩もあり、ざれ歌もあり、弱さをそのままさらけだした詩もあり、一読考えこまざるをえないエッセイ集もたくさんあり、じつに大きなスケールと、振幅をもっていますが、とりわけその詩の、もっとも鋭い切先は、権力とわたりあい、個人の自立性は、たとえ権力によってだって奪われないといった、まことに『無冠の帝王』にふさわしい、人間の誇りをかがやかせたのでした」と(p.151)。

 この本ではとくに金子が、戦争中、「節をまげ、体制に迎合し、戦争を賛美した文人、作家が大多数」だったときに、反戦の姿勢をまげず、官憲に屈しなかったこと、「法燈をつぐ」気持ちで詩を書き続けたこと(p.103)、息子の乾を徴兵からまもったこと、が特筆されています。

 戦中に反戦思想を貫いた文学者は意外と少なく、金子の他には、秋山清、永井荷風、宮本百合子、久保栄などごく少数でした(p.134)。

 この金子光晴の生きかたも素晴らしく、迫力がありますが、著者の抑えた筆致でありながら、真実を伝えようとする姿勢も金子につながる思想があるような気がしました。

おしまい。                


小森陽一著『小森陽一、ニホン語に出会う』大修館書店、2000年

2007-07-20 12:46:18 | 言語/日本語
小森陽一著『小森陽一、ニホン語に出会う』大修館書店、2000年
                小森陽一、ニホン語に出会う
 父親の仕事の事情で小学校初学年から約6年間でプラハのロシア語学校で過ごした小森陽一氏が自らの日本語とのかかわりを語った本です。

 「第一部 日本語に出会う」「第二部 日本語と格闘する」「第三部 日本語を教える」。

 最初のプラハのロシア語小学校では、ロシア語がほとんど分からず、バカにされたり、誤解されたり。しかし、しだいに、学校でのロシア語学習で「出来る」ようになっていく言語習得のプロセスが語られます。

 「家庭」で忘れないようにと身に付けた筈の「正しい」日本語が妙ちくりんで帰国後、友人との関係で悩むことに。その時、現代の日本語は言文一致体でないとを知りました。

 教室では、プラハでのロシア語教育の仕方と日本での国語教育の仕方との違いに愕然とします。日本の「国語」の時間に意味段落をとることのつまらなさ、主題の要約という作業の味気なさ。

 大学は「スラブ研究センター」があるという表向きの理由で北海道大学へ。文学部国文科に進み、卒業論文は二葉亭四迷のツルゲーネフの「あひびき」の翻訳の問題について考察したとか。そこで「文体」というものを知りました。

 学部の「方言学」での実習では「標準語」と「地方語」の差別の問題に直面します。大学院に入ってからはバイトに勤しみましたが、そのひとつであった高校(男子校と女子高)の非常勤講師の仕事では漱石の「こころ」を教材にとりあげ、子供たちの理解の仕方から「一つのテクストに対しては一つの解釈しかありえない」という幻想から解放されたと述べています。

 その後、成城大学に職を得、ここでの教育実践を詳しく紹介しています。さらにアメリカ、カリフォルニア大学のアーヴィン校での樋口一葉「たけくらべ」の講義体験も興味深く回顧しています。

 最後は、「道場破り」と称して、成城学園初等学校4年生(教材「我輩は猫である」、同中学校(教材、谷川俊太郎「朝のリレー」)、自由の森学園の高校生を相手した授業(教材「どんぐりと山猫」)がライブ形式で展開されています。臨場感満点、このうえなし。

おしまい。

田中優子著『芸者と遊び-日本的サロンの盛衰-』学習研究社、2007年

2007-07-17 16:00:06 | 歴史

田中優子著『芸者と遊び-日本的サロンの盛衰-』学習研究社、2007年

                                          商品画像:芸者と遊び

  「芸者」とは「芸をもって人をもてなす人」(p.194)のことだそうです。「芸者」の全盛期は、江戸では1750年代から約40年間に盛隆をみ、明治に入って華やかな展開がありましたが、大正の初期にはその文化は滅んでしまいました。

 「芸者」の来歴を辿れば、女歌舞伎に始まり、芸も売り、色も売っていた遊女のなかの高級遊女(太夫)のうち、歌舞音曲の芸のみを売るにいたったのが「芸者」で、また女歌舞伎の系譜からでた踊子の発展形態が「芸者」であるそうです。

 「芸」を売ることを専らとする吉原芸者がこの伝統を引継ぎましたが、「町芸者」は裏芸として色も売りました(p.181)。

 吉原の芸者は「客とは寝ない」のが原則で、このためか(?)明治の「芸者」の全盛期には吉原が衰退し、そこから吉原芸者が柳橋、新橋、赤坂に流出したそうです(p.173)。

 著者は、「日本文化を通低する基奏低音といったものは、芸と色ではないか」「であるならば、芸と色との二本立てで生きてきた芸者が、日本文化を象徴しても何もおかしくはない」という仮説を出しています(p.206)。

 そこにあったのは伝統芸能の伝承だけではなく、「人間関係の洗練」にかかわる一連の文化であり、「のんびり」とか「いき」といった美意識であったそうな(p.209)。

 本書は第一部が「江戸の芸者とその歴史」、第二部が「明治の芸者 その栄華と終焉」となっており、前者は文献考証的で叙述が硬いですが、後者は谷崎潤一郎、吉井勇、永井荷風などの具体的記述にたよって書かれていて生気があります。

 芸者文化、花柳界での「社交」のあり方とその文化的な意味を明らかにした本書の功績は大きいと思います。

おしまい。


小森陽一著『天皇の玉音放送』五月書房、2003年。

2007-07-17 15:28:26 | 歴史
小森陽一著『天皇の玉音放送』五月書房、2003年
            天皇の玉音放送
 昭和天皇ヒロヒトの戦争責任,また戦後日本の対米従属構造に果たした役割を解明した快著です。

 著者はまず,ポツダム宣言の受諾の遅れの理由にヒロヒトが「三種の神器」をどこに移すか(=「国体」を守る)に異常な執着があったことを暴露しています。受諾の遅延は広島・長崎への原爆投下だけでなく,朝鮮半島の分断国家の歴史的悲劇まで生み出したとも推測できるのだから致命的な判断だったということになります。

 次いで,「玉音放送」を解読しながら,時代錯誤的な状勢認識がそこにあること,自己の戦争責任回避に全力が注がれていること,平和がこの「聖断」によって齎されたような錯覚が与えられたこと,国民が天皇に「一億総懺悔」する空気ができあがったことなどが明らかにされます。

 さらに,ヒロヒトの戦争「全責任発言」のまやかし(文書記録なし),東京裁判を前に戦争責任免責の日米合意,新憲法での「戦争放棄」と「戦力不保持」の画策,アメリカに沖縄を売り渡した「沖縄メッセージ」での憲法違反とでもいうべき外交介入,戦後の米軍駐留・全土基地化の自発的オファーを糾弾し,今日の日本の対米従属構造の原点と本質を分析しています。いろいろな意味で、問題定期の本です。

 「玉音放送」の全文CD付きで、これが貴重な(!)「おまけ」です。

 著者は,北大大学院文学研究科修了、現在,東京大学教授です。

米原万理著『オリガ・モリソブナの反語法』(文庫)集英社、2005年。

2007-07-14 17:58:15 | 小説

米原万理著『オリガ・モリソブナの反語法』(文庫)集英社、2005年。

 タイトルから内容は、全く想像できません。

 オリガ・モリゾヴナは、主人公のシーマチカ(東京在住の離婚子持ち女性。ロシア語の翻訳業)が通っていたプラハのソビエト学校にいたダンスの先生です。

 その先生が生徒を罵倒するときに反語表現を使っていたことから、この小説の表題があります。謎めいたふたりの先生、オリガともうひとりのエレオノーラ・ミハイロヴナが一体、何者であったのか、主人公はソ連崩壊後のモスクワにとび、資料にあたり、人を訪ね、わだかまっていた問題を解決していきます。

 謎解きは、スターリン体制下の30年代に思想犯を収容していたラーゲリの実態にいきあたります。オリガが実は姉がスパイ容疑で銃殺されたときにすり替わった妹であったこと、エレオノーラの不幸な過去が明るみに。強制収容所体験を綴ったガリーナ・エヴゲニヴナ(スパイ容疑で銃殺された夫[ポーランド人]に連座していたとのかどで逮捕、ラーゲリ送りとなった女性)の手記は凄まじいものがあります。

 ソ連崩壊後のモスクワ、60年代のプラハ、スターリン時代のラーゲリと時間と空間が交錯し、重いテーマですが、ミステリータッチのゆえか、読者の心をひきつけて離しません。

 「解説」で亀山郁夫が著者を「女ドストエフスキー」と呼んでいます(p.528)。


沢木耕太郎著『危機の宰相』魁星出版、2006年。

2007-07-13 16:56:54 | 政治/社会

沢木耕太郎著『危機の宰相』魁星出版、2006年。

                危機の宰相
 著者、沢木耕太郎が1977年の「文芸春秋」に発表したこの著作の原型を2002年に「沢木耕太郎ノンフィクション」の刊行の折に、完成させたものです。

 1960年ものといわれる他の『テロルの決算』と『一瞬の夏』との3部作のひとつです。

 この本で、著者は1960年代がその後の日本の軌道が決まった10年とし(「復興期」から「勃興期」)、池田勇人首相が大蔵省入省の「敗者」組でありながら、政治の中枢に上り詰めた経緯、そしてそのトレーゾマークとなった「所得倍増」の構想が生まれるにいたったプロセスを、骨太のデッサン力さながらに、書き込んでいます。

 後者に関していえば、「所得倍増」のヒントは、読売新聞(1959年1月)紙上に掲載された中山伊知郎のエッセイのタイトルに同紙の整理部が付けた「賃金2倍を提唱」というタイトルであったそうです。

 池田はこのタイトルをヒントに、田村敏雄の編集する「進路」(池田勇人の後援会組織・宏池会の機関誌)に掲載された下村治の経済成長理論をつないで、「所得倍増」のタームを紡ぎ出しました。しかし、所得2倍論に関心をもっていたのは池田だけではなく、福田赳夫もそのひとりであったとか。福田は独自に「国民所得倍増計画」のプランを着想、経済企画庁のなかで「計画化」という枠の中でこの案が審議されましたが、議論ばかりが続き結実せず、これとは別に「政策」として所得倍増を打ち出した池田によって現実化され、高度成長のなかでブームとなっていったとのことです。この「所得倍増」登場の背景の説明が興味深く、池田、田村、下村の人生そのもの、そして人生観が細かく描かれています。

 60年安保で岸内閣が倒れ、池田はそのあとを継ぎ、東京オリンピック直後に総理の座を明け渡しました。開放経済体制への移行が予定しつつ、高度経済成長への離陸を整えた60年代前半の政界の様子が、綿密な資料分析をふまえて活写されています。時代を髣髴とさせるノンフィクションの醍醐味がここにあります。

 ただし、わたしの満足度はいまひとつでした。おしまい。


大山真人著『昭和大相撲騒動記-天竜・出羽ケ嶽・双葉山の昭和7年-』平凡社新書、2006年

2007-07-11 12:02:37 | スポーツ/登山/将棋
大山真人著『昭和大相撲騒動記-天竜・出羽ケ嶽・双葉山の昭和7年-』平凡社新書、2006年
                                   昭和大相撲騒動記(平凡社)
 組織として見たときに大相撲の世界は、保守的かもしれません。今日では状況は変わってきていると思いますが、戦前であれば力士の待遇は悪く、彼らがその改善に立ちあがれば、出る釘はうたれる式で封じ込められ、村八分にされてしまったことは容易に想像できます。

 かつて、角界にその種の待遇改善活動がありました。明治44年の新橋事件、大正12年の三河島事件、昭和7年1月の春秋園事件がそれです。本書は、とくに天龍を筆頭に起こした春秋園事件を中心に、相撲界の改革運動の顛末をまとめたものです。

 春秋園は中華料理店(大井町)、ここに天龍を中心とする出羽の海部屋の幕内・十両の力士32名全員が集まりました。目的は相撲界の全般的改革です。かれらは相撲界の腐敗、協会の杜撰な経営、一部の親方の利権、力士の給料の安さ、茶屋制度のあり方などを問題視し、十か条要求を協会につきつけました。世に言う春秋園事件です。

 協会はこれを問答無用同然でつっぱねたため、力士たちは反発、「大日本新興力士団」を結成しました。次いで14名の力士が新たに協会を離脱、「革新力士団」を名乗りました。「新興力士団」は髷を切り(出羽ヶ嶽以外)、ユニークな取り組みを組んで独自の興業を行い、人気を博しました。

 協会の面目はまるつぶれ、実力派の人気力士が不在で、興業はままならなかったようです。「新興力士団」はその後、地方巡業などで成功裡にことを進めましたが、次第に財政的にも運営が困難になり、ついに7年後の昭和12年12月に解散。多くの力士が協会に復帰し、事件は収拾しました。

 改革運動は実らず、一部を除き、旧態依然のままでした。著者はこの逸話をメインに据え、他に時津風理事長(双葉山)時代の改革、また2メートルを超える巨漢、出羽ケ嶽のエピソードを興味深く、織り込み、この「昭和相撲騒動記」を書きおろしました。

 著者は、平成17年に貴乃花親方が相撲道改革を提唱したさいに、これが「協会批判」と受け取られ、北の湖理事長に口頭で厳重注意を受けたことを契機に、本書の執筆を思い立ったそうです(p.202)。

おしまい。

藤井淑禎著『清張闘う 作家-「文学」を超えて-』ミネルヴァ書房、2007年

2007-07-10 15:33:42 | 文学

藤井淑禎著『清張・闘う作家-「文学」を超えて-』ミネルヴァ書房、2007年
                 商品画像:清張闘う作家
 著者は立教大学文学部の先生です。 

 清張文学に関心があるので手に取りました。いい本です。

 著者は、清張がハミルトンの『小説の材料と方法』とこれを下敷きにした木村毅の『小説研究十六講』に小説の技法を学び、菊池寛、芥川の技巧、夏目漱石の多元的な描写という方法を継承したことを重視します(日本型私小説の批判と克服)。

 また、乱歩流の「本格派」ミステリーを排すとともに、純文学なるものと、それを支える「文壇」のあり方に疑問を感じ、いわば「戦略的」に戦いを挑んだ作家です。

 「天城越え」が、天下の名作といわれる「伊豆の踊り子」に対する大胆な挑戦であり、「知的階層固有の考え方や価値観につきまとう一種の高踏性、独善性、さらには傲慢さや差別意識への断固たる批判」(p.67)を作品化したものだったとは(!)、目からうろこが落ちました。

 著者はまた、「箱根心中」「遠くからの声」「二階」「愛と空白の共謀」「遭難」などの作品が、女性の心をつかみ、圧倒的支持を得た理由を詳らかにしています。さらに清張文学と水上文学との継承と断絶の明快な説明も印象に残りました。

 「・・・『純』文学的あり方の対極に位置する多元をキーとして、漱石から菊池・芥川へ、そして清張へ、という脈々たる流れを想定できるのである。主流たる『純』文学の自閉的独善的世界のひからびた果実を尻目に、豊穣な多元的世界を構築することによって多くの一般読者に小説の面白さを実感させたこの文学的系譜こそが、ありうべき日本小説の本流だったのではないだろうか」(p.34)、これが著者の中間的結論です。

 おしまい。


藤沢周平著『白き瓶』(「文庫)文藝春秋、1988年

2007-07-05 17:19:38 | 小説

藤沢周平著『白き瓶』(文庫)文藝春秋、1988年
                                    表紙
 読み始めは退屈な小説だと思いました。第20回吉川英治賞を受賞したおりに選考委員の吉村昭が「小説としての伸びに問題が生じていよう」(p.488)と評したとありますが、その感じです。

 しかし、読む進むうちに、次第にその味わい深さに惹かれました。終わりに近ずくにつれ、読了が惜しくなったほどです。

 題名の「白き瓶」は、主人公の長塚節が好んで詠んだ「白い瓶」に由来します。

 37歳で夭折した長塚節(1864-1913)。茨城県岡田郡国生村で、豪農で政治家志向の父、源次郎と母たかの長男として生まれ、幼少の頃より歌詠みの才能に恵まれていました。

 正岡子規に師事し、伊藤左千夫らと「馬酔木」「アララギ」の中心人物として活躍。小説でも「芋ほり」「開業医」「菜の花」などを発表、とくに夏目漱石の推薦で書いた朝日新聞紙上の小説、「土」が有名です。

 と、このように書くと順風満帆のように見えますが、その人生は波乱万丈でした。父がつくった莫大な借金の返済などで家は傾き、農業経営も安定していませんでした。歌の世界でも、豪放磊落で感情を短歌にたくすべしとする左千夫に対し、子規ゆずりの客観的写実主義の道を極めた節、ふたりは短歌論また歌の作風で対立することが多かったようです。

 体躯は比較的大きかったようですが、理知的で、人前にでるとことを好まず、ナイーブでかつ真面目一辺倒でした。大変な旅好きで、日本中を歩いています。それは歌の材料をもとめる旅でしたが、家での煩わしさからの回避の旅でもありました。若い頃から健康とは言いがたかったのですが、喉頭結核を煩い、晩年には肺結核も併発して、始終微熱、高熱に苦しみました。

 黒田るい子との愛は、病に冒されている身の節には苦しいものであったが、心温まる瞬間でもありました。

 根岸短歌会に集う節や左千夫らと「明星」歌人との対立、島木赤彦、斉藤茂吉らの台頭、小説世界での自然主義以降の流れなども細かく書きこまれ、さながら良質の文学史をおさらいしているような気持ちになりました。

おしまい。


清水真砂子著『子どもの本の現在』大和書房、1984年

2007-07-04 16:08:48 | 詩/絵本/童話/児童文学
清水真砂子著『子どもの本の現在』大和書房、1984年

                 
 児童文学論、より正確には児童文学作家論です。石井桃子、乙骨淑子、神沢利子、松谷みよ子、上野瞭、灰谷健次郎、今江祥智と7人の作家が俎上にのっています。

 著者の目は、このうち松谷みよ子、灰谷健次郎に辛いです。松谷みよ子に対しては、生理のゆたかな作家であると一応肯定的に評価しているものの、その上にあぐらをかき(それを解放するのではなく)、母子関係(血の関係)に絶対的な価値をもたせ、そこを砦とし、自己の体験を絶対視し(直接体験主義)、外部の力に押されてモノを書いてきた作家、と手厳しく論評しています。
  ちょっと書きすぎのところもあるような気がします。

 また、灰谷健次郎に対しては、「残酷な作家」、「冷酷な作家」と断定しています。著者によれば、灰谷は弱者によりそい、弱者を代弁しているにすぎないからです。「反」の立場に身をおけば、人は皆、優しくなるのであり、こうしたスタンスは、良心的に見えるかもしれないが、自己満足である、と著者は述べています。

 松谷、灰谷に対する厳しい批判は、「時にそれが過剰とさえ見えるとしても、それはほかでもない、そっくり同じ批判を私自身が引き受けているせい」なのであると著者は弁解していますが・・・。「次の一歩を踏み出すために、私自身の中にあるもろもろのものを一度明るみに出して検討」したのが本書というわけです(p.226)。

 他の5人の作家を論じるさいの「生理のゆたかさ」、「生理的なもの」と「論理的なもの」との相克、「近代主義的な」職業人と自己の相対化、自身とのあるいは外界とのおりあいのつけかた、「闇(をみすえる)」と「光」、「時代の先をいく思想」、「人間のなかを状況が通る」などのキーワードとした込められた思いはそっくりそのまま著者の理論の枠組みです。

 石井桃子の『幼ものがたり』がよいようでえす。「美意識を警戒し、美学をもつことを拒否する」(p.143)上野瞭論では彼の『ひげよさらば』をギリシアの映画監督アンゲロプロスの「アレクサンダー大王」を引き合いにだして論じています。

 「その作品の生命がまっすぐな明るい笑い」(p.207)であり、「すばやい視点の転換」「まじめさと同居する笑い」(p.209)を身上とする今江祥智荷大しては、「軽み」というキーワードでこの作家の独自の境地を展望しています。

 小宮山量平が乙骨淑子の『ピラミッド帽子よ、さようなら』の終章を書き加えたことに対して、小宮山は乙骨の目差したものがわかっていない、と失望の色をあらわにしています(p.80)。

 いずれにしろ、紹介された作家の作品を、灰谷健次郎の若干のもの以外、読んでいないので、わたしのこの本の理解は半分といったところ。

佐々木庸一著『魔のバイオリン』音楽の友社、1982年。

2007-07-03 16:51:36 | 音楽/CDの紹介
佐々木庸一著『魔のバイオリン』音楽の友社、1982年

 マニアックといえばマニアックな本です。ヴァイオリンにまつわるエピソードがずらり。

 ストラディバリ、グァルネリ、グァダニーニ,シュタイナー。名器の条件は何か? それは職人的技術、材質、ニスです。使用木材は、北イタリア・クレモナ郊外のバルサム唐檜によるという説も。

 偽物も横行しました。しかし、ストラディバリは2人の息子と協力して造ったということもあるので、ひとからげにニセモノと断定できません。

 それでも、レッテルのニセモノ、表板だけ本物などさまざまです。ニセモノ作りのチャンピオンはヴィヨームです。

 現在(この本が書かれた時点)、ストラディバリの本物はヴァイオリンが334個、ヴィオラが21個、チェロが47個とか。ものすごい高価な値段で流通しています。かつてはその繁栄を謳歌していたイギリスがストラディバリの宝庫でした。

 「呪われた<名器>」の章では、それを手にした物が次々と怪死する話があります。怖いがその話は本当のようです。

 「ヴァイオリンは謎の多い神秘的な楽器である。筆者はこの楽器の魔力に取り付かれ、暇があるごとにヴァイオリンに関する文献を読みあさった。・・・(そのなかから)興味深い話をたくさん紹介しながら、ヴァイオリンに秘められている数多くの謎をできるだけ解き明かそうと試みたのがこの本である」(「あとがき」より)と著者は述べています。

岩下昭裕著『北方領土問題-4でも0でも、2でもなく-』中央公論新書、2005年

2007-07-01 17:30:44 | 政治/社会

岩下昭裕著『北方領土問題-4でも0でも、2でもなく-』中央公論新書、2005年
                北方領土問題―4でも0でも、2でもなく
 第6回大仏次郎論壇賞受賞(2006年)。領土問題に関する著者の結論は、以下のようです。「あれから(共同宣言-引用者)50年。再び溝は少しづつ埋まりつつある。ロシアは二島引き渡しの立場まで回帰した。日本でも二島返還プラス継続交渉を許容しうる声が強まりつつある。忘れていけない点は、この『プラスの交渉』の可能性を残したのが1950年の鳩山・河野の闘いであったということである。そして、この『プラス』が実現されるかどうかが、日本にとってこれを『勝利』とみなせるかどうかの分かれ目なのだ。結局のところ、現在の攻防は50年前の様相が再現されている。日ロの真の攻防は『二島返還プラスα』のαにあるからだ」(p.221)と。

 サブタイトルにあるように、4島(国後、択捉、歯舞、色丹)一括返還に執着するのではなく、1956年の「日ソ共同宣言」の線で平和条約を結んで2島(歯舞、色丹)返還に満足するのではなく、日ロ双方の誠意をもって交渉のテーブルにつき、日本としては「ニ島返還+α」の戦略を考えていくべきというのが著者の主張です。

 著者はこの提案を、ロシアと中国の3000キロを越える国境の線引きが曖昧で未解決であった問題に、両国が「やれるところから先にやる」という原則にたって、双方が「フィフティ・フィフティ」で利益を得て納得の結果をえた事実と経験から問題解決の道を探る方法を学ぼうとしています。

 中ロはアバガイド島の国境問題を1991年の中ソ東部国境協定で、黒子島問題を2004年10月の北京サミットで解決しましたが、その方法は核戦争の憶測もあった1967年の珍宝島事件を教訓に、法律的問題を横におき、係争地を相互の利益を考慮して分割し、相互の勝利が確認できる妥協案で問題解決をはかっていくやり方でした。

 著者はこの方法の日ロの「領土問題に」適応します。前提条件は、中ロと日ロとでは経緯、地政学上の問題、係争地の規模などかなり異なりますが(pp.148-150)、国境画定の問題は本来避けてとおれない問題であり、また地元の住民にとっては生活と関わる喫緊の課題です。今すぐにでも解決できるなら、解決したほうがよいのです。

 とはいえ、問題は錯綜しているのも事実です。著者は、国際的なパワーポリテックスの動向にも目配りし、世論の変化にも着目しつつ、個々の難題を丁寧に解きほぐしながら、安易な妥協を排すものの、国益を考えての早期解決の真剣な姿勢が今、必要であると結論づけています。

 1993年10月の東京宣言[細川首相+エリツィン]、1997年の橋本龍太郎+エリツィンのクラスノヤルスクでの非公式会談、1998年の川奈会談での橋本首相の四島返還の方針提案、1998年11月の小渕首相に対するモスクワの「ノー」の回答、2001年3月の森首相とプーチンのイルクーツク声明。現実味を帯びてきた「二島返還」に「+α」をつけて双方勝利の妥協の道を探ろうとする著者の姿勢と方法は検討に値するのではないでしょうか。

 学生時代にはこの問題を考えるために、わたしは根室まで行ったことがあります。そんなこともあって関心があり、読了しました。

今日は、少しかたい本の紹介でした。おしまい。