【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

アガサ・クリスティ/清水俊二訳『そして誰もいなくなった』早川文庫,2003年

2011-08-31 00:02:15 | 小説

         
 アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった(And Then There Were None)』は、1939年に彼女が絶頂期にあったときに書かれたミステリーです。あまりにも有名で、表題だけなら、わたしもよく知っています。しかし、恥ずかしいことに読んだことはありませんでした。知っているつもりで、実は何も知らなかったのです。

 そこで、手に取って、読了しました。唸ってしまいました。

 ストーリーは、南デヴォンの海岸沿いにあるインディアン島(その所有者は富豪のU.N.オーエン)に呼び出された10人が、おりからの嵐もあってここに足止めされ、そこでひとりひとり順番に殺されていくという話です。

 その10人とは・・・
 高名な元判事のローレンス・ウォーグレイブ
 秘書で家庭教師の娘であるヴェラ・クレイソン
 元陸軍大尉のフィリップ・ロンバート
 信仰の暑い老婦人エミリー・ブレント
 医師のアームストロング
 遊び好きの青年アンソニー・マーストン
 元警部のブロア、オーエン家の執事夫妻、すなわちトマス・ロジャースとエセル・ロジャース

 それぞれ何がしかの犯罪のような事件にかかわったいわくつきの過去があります。

 彼らを呼びだしたのは富豪のオーエンですが、10人はその島に肝心の招待主オーエン夫妻がいないことを知ります。

 執事のロジャース夫妻は客を丁寧に接待しますが、そのうち悲劇が起こりました。殺人です。一人が殺され、最初は他殺か自殺かということが問題となるのですが、殺人は次々に連続しておこります。

 並行して暖炉の上に置かれた十体の陶器のインディアンの人形が殺人に連動してひとつづつ消えていきます。不気味。

 しだいに、他殺であることがはっきりしてきます。生き残ったものが島を捜索するのですが、島には他に人がいないことが判ります。となると殺人者は、呼ばれた客のなかにいることになりますが、みな半信半疑。

 各自の身体、宿泊の部屋などを捜索。しかし、殺人は止まることなく進み、最後に2人が残り、そのうちのひとりが射殺され、最期のひとりも首を括って死にます。

 10人全員が死んだことになるのですが、話がそこで終わらず、殺人者が最期に殺人の動機と経過をしたためた告白書を封入して海の投じた瓶が漁船「エマ・ジェーン」号の船長に拾われ、事実が明るみになるという仕掛けになっています。

 プロットがよくできていてミステリーのお手本のような小説でした。もっと若いころに読んでいたら、ワクワク感があったと思います。


夏の旅2011(秋吉台・鍾乳洞)

2011-08-30 00:02:30 | 旅行/温泉

     秋吉台の石碑   

 子どもの頃から、秋吉台という地名、鍾乳洞が頭のなかにありました。切手収集少年だったので、記念切手にあった秋吉台国定公園のそれの影響です。
 しかし、この年齢になるまで、そこを訪れたことはありません。一生ダメかなとなかば諦めていましたが、このたび萩・津和野に行き、そこからそう遠くないので、寄りました。

 広大な秋吉台の風景に感動しましたが、鍾乳洞には本当に度肝をぬかれました。日本にこのようなところがあるとは。鍾乳洞は全長10キロくらいあるのだそうですが、観光客がみることができるのはそのうち1キロほどです。本当に大きな空間です。ランプがついているもののかなり暗く、足元はぬれています。気温は17度ほど。夏ですと、涼しく気持ちよいです。
         

 石筍という石灰岩の柱は、天上から(?)ぽたぽたと落ちる地下水のなかに含まれている石灰岩が何億年、何万年もかけて出来上がったものです。その時間の長さは、創造を絶するものです。

 そして鍾乳洞のなかには小さくはない川が流れています。濁流となって渦をまいているところもあちこちにあります。わたしがここを訪れた前日に雨が相当降り、その影響で鍾乳洞のなかはかなり多くの水がありました。降雨がものすごいときには、人間が入れないこともあるのではないでしょうか?

 下の写真は鍾乳洞出たところですが、この濁流は鍾乳洞からのものです。このような勢いで、流れているのですが、写真で見るより、実際はもっとすごいです。

          


夏の旅2011(萩②)

2011-08-29 00:05:58 | 旅行/温泉

  萩では、松蔭神社の次に、菊屋横町に行きました。この界隈は、碁盤の目のように区画された町筋になっています。円政寺、青木周輔旧宅、木戸孝允(後の桂小五郎)旧宅、志賀義男旧宅、高杉晋作誕生地などがあります。なまこ塀、白壁が美しく続いています。

 時間がなかったので、菊屋家住宅に入り、なかに入りました。この住宅、全国でも最古に属する町家で、重要文化財になっています。
         

 陽ざしのなか、庭が濃い緑で包まれ、綺麗でした。庭のなかほどに大きな平の石があり、そこで遠方から御上使を運んだ籠を置いたという話でした。また縁側には、すのこが敷いてあり、それを持ち上げると欅(ケヤキ)の板になっていて、聴くところによると町人は欅材を使えないことになっていたので、隠すためにそうしたのだそうです。

 菊屋家は慶長9年(1604年)毛利輝元の山口から萩に移ったおりに、城下の町づくりに尽力し、呉服町に屋敷を拝領しました。

 その後、代々大年寄格の任につき、藩の御用達を勤めました。屋敷は御上使の本陣となり、しばしば御用宅に借り上げられ、御究場所、恵民録役所に使われました。

 母屋、本蔵、金蔵、釜場、米蔵、これらが国の重要文化財です。また、庭も綺麗です。美術品、民具、古書籍、500余点が常設されています。往時の御用商人の暮らしぶりをしのぶことができます。また、珍しいものとして、伊藤博文がアメリカ留学からお土産にもちかえった柱時計がありました(下の画像)。いまも正確に時を刻んでいます

              


夏の旅2011(萩①)

2011-08-28 00:20:01 | 旅行/温泉

 萩では、松蔭神社と菊屋家住宅とその界隈を観てきました。

 萩は幕末の志士ゆかりの地です。伊藤博文、高杉晋作、木戸孝允、吉田松蔭、久坂玄瑞。江戸から遠く離れたこの地はなぜ新しい時代を動かす人たちを、次々と輩出できたのでしょうか。          

 いろいろな理由があるのでしょうが、そのひとつに彼らが学問を志し、書から学んだということがあったのではないでしょうか。いつの時代でもそうですが、人間の行動を駆動する要因に想像力があります。頭のなかで想いをめぐらし、得られた知識が実際上はどうなのか、また自分の力をためすにはどうしたらよいのか、そういった境地がだんだん大きくなると人は目的をもって動きだします。神社にはいってすぐ、左手に大きな石碑があり、「明治維新胎動の地」と書かれていました。
         
 萩には寺や塾で学ぶ環境があったので、若者たちは書から学び、想いをふくらませ、若さの気概もあって、行動にでたというわけです。

 まわったところはまず松蔭神社です。この神社は、明治23(1890)年に吉田松陰を祀って建てらました。松蔭は萩で生まれ、諸国を遊学しました。その後、実学を重んじた松下村塾で学びました。この塾は、松蔭が始めたものではありません。松蔭の叔父、玉木文之進が開いた私塾です。この塾は維新の指導者としての人材をつくったことで有名です。松蔭自身は、安政の大獄で処刑されました。

 村塾がいまでもここに残っていますが、あまり大きくはなく、ここで塾生が学んでいたのかと思うと不思議な気がします。

 村塾の西側に土蔵造りの小祠があります。これは松下村塾改修時に、松陰の実家である杉家により私祠としてが建立されたものです。その後、門人の伊藤博文、野村靖などが中心となり、神社を公のものとして創設しようという運動が起こり、明治40(1907)年、県社の社格の神社創設が許可されました。

 現在の社殿は昭和30年に新しく完成したものです。御神体として松陰が終生愛用した赤間硯と父兄宛に書いた文書が納められています。松蔭の遺言によってです。

 旧社殿は「松門神社」として、松陰の門人であった人々の霊が祀ってあります。学問の神として信仰が厚く、境内には有名な松下村塾、松陰ゆかりの史跡や展示館などがあります。

 また松蔭が安政の大獄で処刑された直前に詠んだ歌の石碑もありました。

 親思う心に勝る親心 今日のおとづれ何と聞くらん

                


夏の旅2011(津和野)

2011-08-27 00:12:22 | 旅行/温泉

          
 萩、津和野をメインに、宮島、秋吉台、広島あたりをひとまわりしてきました。順不同で、旅の断章をメモ風にブログに書きこんでいきます。

 まず、津和野から。津和野は山口県の萩市から車で1時間ほどです。津和野は島根県に属しますが、山口県に非常に近いことと、「萩・津和野」とまとめて語られることが多いので、山口県にあると思っている人がいるようですが、そうではありません。地元の人も気にしているようで、「山口県の津和野」と言わないでください、と語っていました。

 津和野は、市のなかの掘割に泳ぐ鯉で有名です。江戸時代から続いているようです。当初は、飢饉があったときの食用と考えていたようですが、今は蚊が大量発生するのでぼうふら対策に、そして市民との共存です。前日、大雨で、掘割の水もだいぶ濁ったようですが、かなりもとに戻っていました。

 印象はずいぶん大きい鯉という感じです。まるまる太っています。他にうぐいとか鮒など小さい魚も泳いでいます。昔はほとんど黒い鯉だったようですが、現在は色とりどりです。

 山陰の小京都と呼ばれるこの津和野ですが、人口は6000ほど。過疎化してきています。今から約700年前、開祖吉見頼行が封地されて以来吉見14代、坂崎出羽守16年、亀井藩主11代の居城として殷盛をきわめました。

 町には殿町一帯、藩邸跡嘉楽園、鷲原公演などの景勝地があります。文豪森鴎外、哲学者西周、国学者大国隆正、女優伊沢蘭奢の出身地です。

 太鼓谷稲成神社(安永2年[1772]に亀井氏7代藩主貞が京都の伏見稲荷を勧進して創建)は車から遠望しました。近くに城址もみえました。町の中心からは相当離れています。

 下の写真は無形文化財、鷺舞[さぎまい]の像です(逆光で見にくいです)。名菓に源氏巻があります。他には石州和紙が有名です。これは坂崎出羽守が民生の安定、産業振興のために和紙の生産を奨励したことで、この地に定着し、長く藩の財政維持に貢献しました。
            

 昼食は、このあたりで有名な「うずめ飯」というのをいただきました。人参、シイタケなどの野菜が小さなサイコロ状に刻んだものを丼のなかに、それを隠し、埋めるかのように白米が盛られています。それにたっぷりのワサビがのせてあり、これにお茶ずけのようにだし汁をかけて、食べます。言われはいろいろですが、昔、贅沢な総菜を隠すために、そうして食べたそうです。


С.Л.ブトケヴィッチ/中山一郎訳『ゾルゲ=尾崎事件』青木書店、1970年

2011-08-26 00:24:06 | 歴史

 ゾルゲ=尾崎事件は、その真相究明に不可欠の文書が戦争中に焼失したり、意図的に破棄され、くわえて種々の事実を歪曲した宣伝が功をそうして、戦後なかなか真実がわからなかったようです。
 しかし、みすず書房が1962年に資料を『現代史資料・ゾルゲ事件(1-3巻))』として刊行し、客観的分析が可能になり、状況は好転しました。この資料には1933年から1941年まで、日本で活動したゾルゲ諜報団に加わった人々に対する捜査尋問、裁判に関係した資料がおさめられ、さらに尋問と裁判に関係した補足的資料が付け加えられている、といわれています。

 著者のブトケヴィッチは、この資料を丁寧に読み込み、ゾルゲ事件が全体としてでっちあげの冤罪であることをクリアにしました。

 起訴されたゾルゲ諜報団が極刑を受けたその罪状は、「治安維持法」「国防保安法」「軍機密保護法」「軍用資源秘密保護法」の4つの法律に違反したかどでした。とりわけ「治安維持法」「国防保安法」違反の罪が大きかったといわれていますが、ゾルゲ諜報団は国体を覆すような企てはおこなっていませんし、彼らが得た情報は大使館レベルで公的に入手可能なものに限られ、その他の情報も個人的見解にすぎないものでした(国際政治の諸問題、極東における国際関係の発展傾向ならびに日本の体内諸問題と対ソ政策)。

 少なくとも、コミンテルンの命を受けて、日本を共産化する活動を展開していたという事実はなかったにもかかわらず、ゾルゲ諜報団は理不尽な解釈のもとで逮捕され、予審という裁判の原理を無視した条件のもとで、予審判事の主観的判断が議論の余地のないものとして受容され、被告の運命が予審判事によって決定されたも同然の状況でした。

 本書は前半の7章(Ⅰ 特高との対決、Ⅱ 取り調べの舞台裏、Ⅲ 訊問調書はなにを物語っているか、Ⅳ 検事局と特高による訊問調書の偽造、Ⅴ 予審、Ⅵ 公判)を費やして、ゾルゲ事件、ゾルゲ裁判の実態、ゾルゲ、尾崎秀美の人柄、彼らがそこでどう闘った、当時日本の政治状況などを詳しく分析し、その成果を解説しています。

 「Ⅷ訊問調書の歴史」では、日独協定から日独同盟への展開経緯、アメリカの対ソ政策、軍部の対ソ戦略の確執、などが明らかにされています。

 ドイツがソ連に侵攻した事実が日本にとって寝耳に水だったかのように言う研究者がいますが、そんなことは全くなかったこと、当時、日ソ不可侵条約があったにもかかわらず軍部のなかにはそれをいつでも無視するつもりでいた人がいたことなどが指摘されています。

 最後の「Ⅸ ゾルゲ事件とイデオロギー闘争」では、ゾルゲ事件あるいはゾルゲその人をとりあげ、勝手な事実無根の反共宣伝をおこなった小説、怪文書に徹底的な批判をくわえています。

 全体を読了すると、ゾルゲ諜報団はコミュニズムが世界を救うイデオロギーだと信じた人々の集合体で、日本に潜入したさい(1934年)のミッションは日本がシベリアに軍事的進行するのかを当時の国際環境のなかで分析するための情報収集であり、デマ宣伝、テロ支援、国家転覆などを目的とした組織ではなかったのです。

 今から振り返ると、ゾルゲ諜報団は日本の軍部が当面シベリア侵攻しないという確かな情報を流したことで、ソ連極東軍をナチスドイツに対するモスクワ防衛にまわすことができ、結果的に大祖国戦争を勝ち抜き、ナチスの世界支配の野望の実現を阻んだともいえます。その歴史的意義は、大であったのではないでしょうか。


内田康夫『恐山殺人事件』光文社文庫、1995年

2011-08-24 00:23:48 | 小説

         
 今回はTVドラマ製作の世界での事件です。

 東日テレビで連続ドラマ「まぼろしの女」の企画がもちあがり、ほとんど素人同然の藤波紹子がオーディションに合格します。プロデューサーの井口が何かと彼女の世話を焼いています。

 この直前、紹子は六本木のレッドデビルで歌っていました。紹子はアルマンドレコードとコネがある高川音楽教室でレッスンを受けていたのです。

 教師は高川と杉山博之の二人。そのうちのひとり杉山が事件にまきこまれ殺されます。杉山は死の直前、母に紹子を紹介しようとしていました。母は博之から預かっていた紫水晶の玉を紹子に形見のように渡します。

 実は博之の祖母杉山サキは恐山のイタコでした。彼女は「北のほうからよ、何かよくねんもんが通って行っただ」と不吉な予言をしていました。

 予言があたったかのように、杉山に続いて教室のもうひとりの教師、高川が変死します。ふたりとも「北からくる男」を恐れていたのでした。高川に生前、杉山事件の真相究明を依頼されていた浅見は光彦は、呼び寄せられるかのように、愛車ソアラで「北」へ向かう。杉山の生まれ故郷、下北郡大畑町に向かいます。

 事件がさらにもうひとつ起こります。外出していた杉山サキが深夜、何ものかによって渓谷に突き落とされて殺されました。

 浅見は高川の暗い過去、そしてその地であった事件に直面します。浅見はさらに高川の出身地角館へ向かいます。一連の殺人が、イタコのサキの予言とどうかかわっているのか。「北からくるもの」とは一体何なのか。

 キーワードは何と「ナスカザンタイ」。北海道、東北に関係する殺人事件の真相に、浅見光彦が迫る。犯人は意外な人物でした。


内田康夫『歌枕殺人事件』角川文庫、1995年

2011-08-23 00:08:25 | 小説

             
 歌枕とは、古歌に詠まれた諸国の名所。この小説では「すゑのまつやま」がキーワードになって、その地で殺人事件が起こります。

 正月、浅見家では、百人一首のカルタ会が、例年のように行われました。読み手は母の雪江。

 いつもと違うのは、浅見家とは遠縁の娘、奈美の紹介で東京カルタクイーンの朝倉理絵が参加していることです。光彦との対戦で、理絵は不用意なお手付きをし、敗れます。

 対戦後、理絵は光彦に敗北を認めて語り始めます。3年前に多賀城市の「すゑのまつやま」で理絵の父(公務員)が「白波が松山を超える」のメモを残して謎の死を遂げていたいたことが関係していました。

 光彦は理絵と真相究明に多賀城に向かいます。地元の刑事、千田に当時の事情、その後の経過を聞き、光彦は行動を開始します。いつものように行動力があります。理絵の前なのではりきっている節もあります。

 当地で光彦がわかったのは、多賀城市の末の松山からは海岸線も松も見通せないこと、大学教授で短歌の権威の窪村教授が助手の浜田とともにこの地をたびたび訪れていること、12年前に川崎町で女性教師殺人事件が起きていたこと、「すゑのまつやま」と関係のある地は東北地方に4カ所あること、などでした。

 調査が進む中で、光彦は有耶無耶に赴き聞き取り調査、実地見聞につとめるとともに、窪村教授と浜田助手の奇妙な関係にあること(博士号取得に成りうるテーマに関する仮説を窪田教授は浜田に譲ろうとしていた)、理絵の父が「白波が松を超える」を観たらしいこと、殺された女性教師と理絵の父の死との間につながりがありそうなこと、をつきとめます。

 光彦と理絵は、刑事の千田とも連携し、推理を働かせ、調査、捜索し、真相が究明されたかに見えました。しかし、悲劇的結末が用意されていました。

 今回は光彦と理絵のいい関係があって楽しいです。理絵役はTVドラマではどなたが演じるかと思って観ると、野波真帆さんでした。正解です。


高橋伸彰『少子高齢化の死角-本当の危機とは何か』ミネルヴァ書房、2005年

2011-08-22 00:18:37 | 政治/社会

                      少子高齢化の死角
 本書は国民生活に近い経済社会の問題を正攻法で、切れ味よく検討しています。

 現代日本社会の直面する課題の話になると、必ず少子高齢化がキーワードになるようになって久しいです。しかし、少子高齢化を指摘しただけでは、議論は一歩も進まなくなっているのも事実です。

 本書は、少子高齢化を枕詞にするだけでは問題解明に結びつかない現状をふまえ、その内容を細かく具体的に論ずる方向を指南しています。それと同時に、少子高齢化対策を国策として展開しなければならない当事者が無為無策であることを衝いて、本気にこの問題にとりくむべきことを訴えています。

 本書が扱った分野は出産、介護、年金、医療、などで、福祉、社会保障が中心問題です。高齢化の問題に関しては、65歳以上の老年人口をひと括りにするのではなく、75歳以上と以下とで区分して議論すべきこと、2つの種類の高齢化を考慮すべきこと(相対的、絶対的なそれ)、平均余命を考えた具体的施策が必要なことを、縷々述べています。

 出生率低下に関する議論では、その原因を女性の社会進出にもとめる議論の誤り、また男女雇用機会均等法の成立、育児休暇制度の導入によって子どもを産む産まない自由が拡大したわけではないことが指摘されています。

 また、小泉政権下で提案された2004年の年金改革が欺瞞であること、抜本的改革に値しないことが具体的に掘り下げられています。

 さらに、高齢者問題に関わって、日本の高齢者は一般に考えられているほど毎日のように病院に通っているわけではないこと、高齢者の外来受療率は高くないこと(2002年で11.5%)、2002年から導入されている介護保険ではその利用率が低いこと、外部のケアサービスより家族に頼っているケースが意外に多いことを、その実体の背景にあるものの具体的分析、それが高齢者やその家族の生活に与える影響の詳細な検証とともに、叙述されています。

 本書の後半では、日本の福祉の立ち遅れを、一般に低福祉と言われるアメリカと比較してもそうであることが明らかにされています。

 家族依存型の福祉レジーム(エスビン-アンデルセンによる3つの福祉レジームのひとつ)を採用する日本、イタリア、ドイツで1970年以降、共通して出生率が低下していることの解明、日本の少子化対策(とくに2004年に閣議決定された「少子化対策大綱」の批判)ではその原因究明のまともな検討がなされていないことの指摘、は参考になりました。

 本書は2005年刊であるので、データなどはその前年までのものです。したがって、読者は2005年以降の当該問題の状況の把握を追跡する必要があります。


津村節子『紅梅』文藝春秋、2011年

2011-08-20 00:01:33 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談

              紅梅

 著名なふたりの作家、とくに著者の夫君であった吉村昭さんは、わたしがよく読んだ作家のひとりで、近しい気持ちをもっています。

 この書は、その吉村さんの晩年の闘病の様子とそれを支えた津村節子さんの二人三脚の記録です。

 夫が舌癌と診断され、その治癒が進んでいたおりの膵臓がんの発見。作家としての仕事(執筆、講演、サイン会など)をこなし、著者はあるときは気丈に、またある時は絶望のなか、家族、知人の支援も受けながら治療と介護に誠心誠意あたったことが滲み出ています。

 吉村さんは自身が癌を患、入院したことを、知人に知られないように最大限の努力をはらっていたようですから、本書のような内容のものが出版されることは不本意だったかもしれませんが、著者にとっては書かずにはいられなかった鎮魂歌であったと思います。

 治療の内容が克明に記録され、また吉村さんがかかさず日記を書いていたこと、死の直前まで短編小説、エッセイを書いていたこと、最期まで編集者とかかわるその姿勢が折り目正しかったこと、遺言書をしっかり遺していたことなど、いつも傍らにいた妻でなくては書けなかった吉村さんの一面が紹介されていて、好ましかったです。

 吉村さんが最期に周囲の阻止を振り切って、自分で点滴の管のつなぎ目をはずし、胸に埋め込んであるカテーテルポートをひきむしった壮絶の場面もかなり詳しく、描写されていて、痛ましいです(pp.166-167)。

 本書の末尾で、「育子が夫の背中をさすっている時に、残る力をふりしぼって躯を半回転させたのは、育子を拒否したのだ、と思う。情の薄い妻に絶望して死んだのである。育子はこの責めを、死ぬまで背負ってゆくのだ[著者は自分のことを本書のなかで育子としています]」(p.170)と書いていて、ここはこの本の最初から読んできたものにとっては胸に迫る文章で、思わずウルウルしました。

 なお、表題の「紅梅」は、吉村さんの書斎の窓から見えていた庭の樹です。


「空海と密教美術展」(於:東京国立博物館 平成館)2011年7月20日~9月25日

2011-08-19 00:02:06 | イベント(祭り・展示会・催事)

           

 宗教には関心がありますが、その本当の理解は容易ではありません。かつてラジオ番組で、仏教の講義をある大学の先生がおこなっていましたので、聴いたことがありましたが、内容が専門的でほとんど理解できませんでした。大学の仏教関係の学科には、このような講義がずらっと並んでいるのでしょうが、そうなるとその履修と単位取得は簡単ではないと感じました。

 そのことはそれとして、真言密教の祖、空海と関連した美術の展覧会が上野の国立博物館で開催されていたので、鑑賞してきました。

 密教は来世より現世を重視し、究極の理想はこの世を「密厳浄土」と化すこと、人間のひとりひとりが即身成仏を達成することです。

 「密厳浄土」とは本尊大日如来の絶対の悟りがあまねく満ち溢れる楽土です。また即身成仏とは、現在生きているこの身のまま仏の悟りを得ること、おのおのが即身成仏を達成すれば、この世はおのずから密厳浄土へと昇華することになります。

 密教は古代インドの呪術的宗教儀礼に淵源があり、教義を言葉だけでなく、曼荼羅に託して密教の真髄を伝えようとしているところに特徴があります。曼荼羅には無数の仏が描かれ、エキゾチックなデザインで目をひきます。

 真言仏像は、当時それまでになかった怒りの仏像が登場しているのが革新的です。仏像を仔細にながめると、リアリズム的手法が確信的に定着していることに驚かされますが、当時としては非常に前衛的であったのではないかと推察されます。

 展示会では、空海が中国から持ち帰った絵画や仏像、法具のほか、空海の構想によって造られた東寺の講堂の「立体曼荼羅(りったいまんだら)」を構成する諸像を観ることができます。空海自筆の書「聾瞽指帰(ろうこしいき)」なども展示されています。

 金剛峯寺、神護寺、東寺、醍醐寺などから数々の仏像や法具が提供され、一同にかいしています。

 圧巻は展示の最後の部分の仏像曼荼羅です。曼荼羅が空間的に再現されています。居並ぶ仏像は、金剛法菩薩坐像、梵天坐像、帝釈天騎象像、持国天立像、増長天立像などなど。京都の東寺から借りてきたものですが、東寺の講堂には21体並んでいるのですが、そのうち8体が陳列されています。

 本展のみどころは、以下のように宣伝されています。
 ① 密教美術1200年の原点―その最高峰が東京国立博物館に大集結
 ② 展示作品の98.9%が国宝・重要文化財
 ③ 全長約12mの「聾瞽指帰(ろうこしいき)」を始め、現存する空海直筆の書5件の展示
 ④ 東寺講堂の仏像群による「仏像曼荼羅」の体感
 ⑤ 会場全体が、密教宇宙を表す"大曼荼羅"

 第1章 空海-日本密教の祖
 第2章 入唐求法-密教受法と唐文化の吸収
 第3章 密教胎動-神護寺・高野山・東寺
 第4章 法灯-受け継がれる空海の息吹
 「仏像曼荼羅」


戸石四郎『津波とたたかった人-浜口梧陵伝』新日本出版社、2005年

2011-08-18 00:02:58 | 評論/評伝/自伝

          
 浜口梧陵(1820-1885)という大きな仕事をした人でありながら、あまり知られていない人物の生涯を平易に紹介した本です。あまり知られていない人とはいえ、古い小学校の教科書にのっていた話「稲むらの火」(原典は小泉八雲の「生ける神」)のその人といえば、知る人ぞ知るということらしいです。

 その話とは、ある海辺の村を襲った大津波を庄屋の五兵衛がいち早く察知し、刈り取った大切な稲むら(稲の束)に火を放って村人に知らせ、おおぜいの命を救ったというものです。[この話、本当に農家の貴重な財産である稲むらだったかは疑わしく、実際にはすすき、または脱穀後の稲藁だったのではないかと、著者は推測しています(p.61)]。

 この五兵衛が浜口梧陵その人であり、紀州広村・現和歌山県広川町での実話ということのようです。

 著者は浜口梧陵のこの逸話を彼の生涯のなかで再考し、この人物を再評価しようとして、この書をあらわしました。

 通読すると浜口梧陵なる人物は、醤油醸造業を営む浜口儀兵衛家(現・ヤマサ醤油)当主で、七代目浜口儀兵衛を名乗り、紀州と江戸を行き来した豪商でした。ただ商人だったというだけでなく、儒教思想をふまえ、経世済民のもと社会福祉(とくに医療支援)、社会事業(広村防波堤の敷設)で大きな仕事を成しとげました。

 また、藩政改革、教育事業でも多大な貢献があり、故郷の広村に私塾(その後耐久社と改称)を開設し、共立学舎設立に奔走しました。

 蘭医・関寛斎、勝海舟、福沢諭吉と交流があり、広い交友関係がありました。政府駅逓頭、和歌山県大参事、国会開設建言総代、県議会初代議長などを歴任しました。経営者として、社会活動家として、江戸末期から明治初期の激浪のなかを駆け抜け、生き抜いた偉人とのことです。


永江朗『広辞苑の中の掘り出し日本語』バジリコ、2011年

2011-08-17 00:02:21 | 言語/日本語

           広辞苑の中の掘り出し日本語
  広辞苑を「読ん」で、知られていない日本語を掘り起こし、それにコメントをつけて編集された本です。選び抜かれた単語は、161。日本語研究に役立つと思って読んだのですが、期待外れでした。

 通読すると、知らなかった日本語、その意味を誤解していた日本語などは多数ありました。「相悪阻(妻の妊娠によって夫も同様な状態になること)」「枝の雪(苦学すること)」「沖を越える(技芸などがとびはなれてすぐれていること)」「奥歯に剣(敵意を隠して表面にあらわさないこと)」「貝を作る(泣き出しそうな顔をする。べそをかく)」「鎌親父(根性のまがったおやじ)」などなど。

 「面白い」と同じ意味で「面黒い」という言葉があるとは知りませんでした(p.43)。「独擅場」は「どくせんじょう」と読み、「どくだんじょう」と読むのは誤りなので気をつけたいです(p.124)。

 このように、ためになることはたくさん書いてあります。しかし、個人的コメントがついていますが、これが全くためにならないというか、面白くないのです。

 本書の冒頭に「本は引くもの、辞書は読むもの」という著者の気をきかせたような文章があります。このなかで著者は「普通の本は『読む』ものじゃなくて、『引く』ものです。辞書と反対。/本を最初から最後まで読むのはアホである、というのがぼくのモットーです。アホでいけなかったら愚か者といい替えましょうか。」と書いています。書き方が下品ですが、わたしは本はあまり面白くなくても最後まで読みとおすことを今までしてきたし、人にも勧めているので、この意見にはがっかりしました。

 本を最後まで読むべしとわたしが思うのは、最初から読んでつまらなくとも、最後まで読んでよかった、投げ出さないでよかったということをたくさん経験したからです。最後まで読むことなしにやめていたら、あのいい言葉に、あのすばらしい思想にであわなかったのかと思うと、胸をなでおろしたことが何度もありました。

 という理由で、本書も著者のコメントにはうんざりするものばかりでしたが、途中でなげだすことなく愚直に最後まで読み通しました。

 繰り返して書くのですが、著者が選択した広辞苑からの掘り出し日本語そのものには、みるべきものがあるのは確かです。


渡辺純夫『肝臓病-治る時代の基礎知識-』岩波新書、2011年7月

2011-08-16 00:01:17 | 医療/健康/料理/食文化

            肝臓病
 わたしの個人的な健康に関してコメントすると、血圧がやや高めなことと肝臓の状態についてγ-GTPの数値が高いです。後者は明らかにお酒、アルコールの影響です。

 ということで丁度、出版されたばかりのこの本を手にとって読みました。大事に至る前に予防できることがあればしておきたいという気持ちがあったからです。

 肝臓は非常に重要な臓器ですが、本書は肝臓に関わる病気がトータルに紹介され、最新の医療措置、また予防のための心得が書かれています。

 まず、わたしはこれまで血液検査の結果でγ-GTPの値にしか知識がなかったのですが、AST,ALT、ビリルビン、総タンパク、アルブミン、ALPなどの意味と重要性ががわかりました。

 肝機能検査の検査項目の正常値の一覧表が載っているが便利です(p.12)。ここには重症度、慢性度、肝腫瘍を判断する項目も掲げられています。ウイルス検査、腫瘍マーカーの測定も重要とのことです。

 肝臓病では急性肝炎、劇症肝炎、慢性肝炎、肝硬変、肝がんと段階があるようですが、進行しないよう心がけたいものです。

 ウイルス性肝炎にかなりのページが割かれています。分類表には潜伏期、感染経路、慢性化、予防の手立てがまとめられています(p.61)。

 A型からE型まであるようですがが、D型、E型は日本では稀とのこと。C型で日本人の推定感染者は200万人ほど。C型はわりと最近1980年代以降、クローズアップされ、治療方法も改良されてきていることが紹介されています。

 どの型の肝炎もウイルスの駆逐が鍵となるようです。そして慢性化するまえに早期発見につとめることが重要だと書かれています。

 肝がんの解説も詳しいが、個人的にはそこまで心配していないので、説明が頭に入ってきませんでした。

 それで問題のアルコールと肝臓病との関係ですが、飲まないことにこしたことはないようです。自身飲まない医者はアルコールについて厳しく戒めるが、お酒の好きな先生の判断は甘いなどという、面白い一文もありました。

 それと生がきも避けた方がいいように書いてありました。著者はお酒も生ガキも変美味しいことがわかっているようですが、医者としての判断で節酒と生ものを避けることに留意すべしと指摘しています。


内田康夫『後鳥羽伝説殺人事件』角川文庫、1994年

2011-08-15 00:08:18 | 小説

           
 ご当地ミステリーを得意とする内田康彦の記念碑的(最初の)作品です。「**殺人事件」という標題の、第一作です。

 読んで驚いたのは、浅見光彦に妹が2人いて、そのうちの一人は暴力事件に巻き込まれて(直接の原因は宿泊所で土石流で流された)亡くなっていたということでした(もうひとりの妹はアメリカ留学中といことになっている)。

 それはさておき、この作品は、東京を発って一泊目を松江で泊り、その後仁多町、三次(みよし)、尾道を経て帰京する予定で旅をしていた会社員、正方寺美也子が三次駅の跨線橋で殺されたことに端をした一連の事件の真相究明というのが筋です。

 当該女性は尾道の古書店で『芸備地方風土記の研究』という本を購入し、直後福山を経て東京行きの新幹線に乗車する予定を変更し、三次に向かい、事件にあいました。

 この小説の表題は、事件が後鳥羽伝説にでてくる土地で起こり、被害者となった女性がこの伝説に関心をもち、関連した古書を購入し、さらにこの古書の持主だった高校の教師が歴史研究家でやはりこの伝説に深い関心をもっていたという設定に由来します。

 その後鳥羽伝説とは今から800年ほど前、歴代天皇の中で英明の君といわれた後鳥羽上皇が「承久の変」で失脚し、出家の後に隠岐へ配流されたときのそのルートが定説(大阪から海路、姫路付近に渡り、播磨の国を通って船坂峠を越え、備前の国に入り、美作、そして伯耆へぬけるルート)とは別のルート(大阪から海路で現在の尾道から三原にかけてのどこかに上陸し、王貫峠を越えて出雲にぬけるルート)をたどったというものです。

 被害者はこの事件の八年前に、光彦の妹、祐子とともに、同じテーマで卒業論文を書くためにやはりこの地域に調査に入り、上記の仁多町の民宿で暴力事件にまきこまれ、さらに山崩れにあったのでした。

 三次駅殺人事件では、県警捜査一課の桐山警部と三次署の指揮のもと、野上部長刑事が被害者の旅行ルートの追跡調査にあたります。この作品では警察内部の桐山と野上の確執がもうひとつの伏線になっていて、後半この関係が思わぬ事態に発展していきます。なお、浅見光彦はなかなかでこず、100ページほど読み進んだところでようやく登場し、野上とともに協同捜査をず進めていくのですが、実はこの二人も後半で捜査方針で対立することになります。

 事件のほうは、美也子の殺人のあと、列車で彼女と席を同じくした富永が庄原市(広島県)郊外で殺害され、さらに上記の高校教師、池田が殺されます。

 殺人事件が連続し、一見相互に無関係であるかのようなそれらが同じ線上で起こったことであるのは、いつものパターンです。

 このパターンは、内田の旅情ミステリーのパターンがこの第一作で確立していたということです。

(画像は書籍版です)