【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

ベルリン公演から凱旋した早稲田大学交響楽団

2009-09-30 00:18:22 | 音楽/CDの紹介

早稲田大学交響楽団の秋季演奏会
                       Berlin

 過日、新宿文化センターで早稲田大学交響楽団の秋季演奏会がありました。チャイコフスキー特集で、曲目は・・・

 歌劇「エフゲニー・オネーギン」作品24よりポロネーズ
 バレエ音楽「白鳥の湖」作品20より抜粋
 交響曲第6番ロ短調作品74「悲愴」        ・・・・でした。

 オール・
チャイコフスキーは15年ぶりとのことです。

 「エフゲニー・オネーギン」は2年生、「白鳥の湖」は4年生、「悲愴」は3年生が主体とパンフレットにありました。

 どの曲もわりと有名で、聴きやすいものです。楽団員の多さにびっくり。音楽大学でもないのに、日々学業につとめながら、いい演奏にまでもっていくのですから、素晴らしいです。そして、大学の交響楽団は学生が毎年入れ替わり、同じ水準を維持していくのは大変と思います(ちなみに創立は1913年です)。

 この日の演奏も一糸乱れぬハーモニーがあるかと思えば、ヴァイオリン、ティンパニ、オーボエ、チェロ、ハープ、ファゴットなどそれぞれの楽器の個性が十分に引き出され、かつ一気に怒涛のようにもりあがっていくところもあり、学生らしく溌剌とした演奏が印象的でした。

  これは作曲家チャイコフスキー自身のオーケストレーションの魅力にあずかっているところが大きいですが、それとともも指揮者の寺岡清高さんのエネルギッシュな指導にもよるように思います。


     


学習院大学が東都リーグで奇跡的優勝

2009-09-29 01:25:05 | スポーツ/登山/将棋
門田隆将『神宮の軌跡』講談社、2008年

               

  野球は筋書きのないドラマです。本書は昭和33年に東都六大学野球で逆転優勝した学習院大学野球部の奇跡をルポルタージュ風にまとめたものです。

 学習院大学の東都リーグでの優勝は後にも先にもこの一回限りで、そのことの経緯がドラマになっているのですが、本書はそのことに留まらず、当時のキャプテンの田辺、エースの井元の人生を盛り込み、くわえて学習院大学の卒業生である皇太子のご婚約の逸話を挿入し、全体として壮大な昭和のドラマになっています。本書が単なるスポーツ読物ではないのは、この点で出色の出来になっているからです。

 東都大学は4部まであります。毎シーズン各部の最下位とその次の部の最上位との熾烈な入替戦があります。学習院大はどちらかというと弱小チーム、それもそのはず甲子園出場高校からの選手はいないし、プロ野球にいく選手もいません。合宿所もありません。

 それにも拘わらず昭和33年の秋季リーグで。学習院大学は中大、日大とともに勝ち点3、同率となり、三つ巴の決定戦となりました。しかも、巴戦の一回目、二回目は3大学とも1勝1敗。優勝預かりになるところでした。

 3回目の決定戦が神宮球場ではなく駒沢球場で行われ、学習院が2勝して優勝しました。島津監督指導のもと、井元、根立、田辺、穴沢、北田、江野沢らチーム一丸となって掴んだ勝利の美酒でした。

 当時の皇太子も2回目の巴戦に球場に足を運び、声援しました。そして、学習院大学優勝の3日後、皇太子は美智子さんとの婚約を発表したのです。

 本書は優勝に関わった井元、田辺、その前に一部リーグ昇格に貢献した草刈ら個性的な選手群像の人生に多くのページを割いています。彼らの人生は昭和の日本人の歴史そのもののように読者に迫ってきます。

近代日本庭園の嚆矢である無鄰庵の庭園

2009-09-27 00:33:25 | 旅行/温泉
京都散歩⑬ 「無鄰庵」 京都市左京区南禅寺草川町 075-771-3909

 無鄰庵は明治時代の元勲で政治家、山形有朋の別荘でした。無鄰庵の名の由来は有朋が長州に建てた草菴が隣家のない閑静な場所であったということで、その名が付けられました。

 最初、京都の木屋町二条に別荘を構え、無鄰庵と号しましたが、その後新たな場所に好みの別荘を求めて建てられたのがこの無鄰庵です。

 明治3年(1870年)に、桂小五郎(首相)、小村寿太郎、山形有朋、伊藤博文らが日露戦争開戦を決断したときに使われた部屋(母屋の隣の洋館)が、当時のまま残っています。

 広い庭園は山縣が七代目植治(うえじ;屋号)、小川治兵衛に作らせたものです(1896年完成)。植治は池、川の流れ、飛び石、手水鉢などを配すという景物の扱いに卓越した感性をもっていました。

 この庭園は山縣三名園のひとつに数えられています。東山を借景とし明るい芝生に琵琶湖疏水を引き込み、浅い流れを配した池泉廻遊式庭園です。近代的日本庭園の嚆矢です。その広さは約3,135平方メートル。

 庭園の奥には醍醐寺三宝院を模した三段式の滝石組から水を落とし、落ちた水は池泉となり、ふた筋の川が芝生を曲折して流れるように工夫されています。伏石が多用され、庭全体の印象がやわらかくなっています


 画像は筆者撮影。

臨済宗・金地院で心を清める

2009-09-26 00:31:08 | 旅行/温泉

京都散歩⑫ 「金地院」 京都市左京区南禅寺福地町

  金地院は南禅寺に隣接しています。静謐な境内、庭をみると心が洗われます。
 

 応永年間(15世紀初頭)に室町幕府4代将軍足利義持が大業徳基を開山として洛北・鷹ケ峯に創建した塔頭です。慶長年間に徳川家康の信任が篤く「黒衣の宰相」と呼ばれた以心崇伝が中興し、現在の地に移されました。

 方丈は重要文化財です。狩野探幽、尚信兄弟による襖絵、茶室「八窓席」が有名です。

 枯山水の鶴亀の庭(筆者撮影)は鶴島の石組と植栽された赤松とのとりあわせがすばらしく、また背後の大刈込が印象的です。小堀遠州が設計し、庭師賢庭の作庭といわれています。

 ここにも東照宮があります。崇伝が徳川家康の遺言により、家康の遺髪と念持仏とを祀って寛永5年(1628年)に造営したものです。


苔地に臥牛石のよこたわる圓光寺

2009-09-25 00:47:28 | 旅行/温泉
京都散歩⑪「圓光寺」 京都市左京区一乗寺小谷町

 ここには曼殊院、詩仙堂とセットでいきました。

 圓光寺は慶長年間(1596年ー1615年)に徳川家康が伏見に開いた学問所で、圓光寺版と呼ばれる図書も存在し、日本最古と言われる仏典木版を所蔵しています。

 多くの芸術作品を所蔵していることでも知られ、運慶作「千手観音像」、円山応挙作の「竹林図屏風」があります。

 寛文7年(1667年)に現在の場所に移転しました。明治13年(1880年)に臨済宗南禅寺派の尼僧専門道場となり、多くの尼僧を輩出しました。しかし、昭和63年に尼僧専門道場(重要文化財)は閉室しました。

 庭園は江戸時代に作庭され、「十牛の庭」と呼ばれます。というのは苔地に臥牛石を中心にさまざまな形の石が配されているからです。

 小高い山があり、石段を登っていくと、家康を祀った東照宮があります。


 


桂離宮庭園の影響色濃い「曼殊院」

2009-09-24 00:14:55 | 旅行/温泉
京都散歩⑩ 「曼殊院」 京都市左京区一乗寺竹ノ内42   075-781-5010

 曼殊院は京都の東北にある、天台宗の寺です。代々皇族が跡をつぐ、宮門跡寺院でした。今の庭園は、桂離宮を創建した八条宮智仁親王の次男良尚法親王による造営です。1656年に完成しました。

 桂離宮の美意識が継承され、江戸時代初期の代表的な書院建築になっています。枯山水庭園は枯滝と鶴島、亀島の絶妙な配置が評価され、名勝に指定されています。桂離宮との関係は他にも見られ、キリシタン灯籠があることも共通しています。ただし、ここの灯籠は上部がなく竿だけです。形は丸みをもつことなく、十字架型になっています(筆者撮影の画像の左奥にその灯籠が見えます)。

 桂離宮を絶賛したドイツのブルーノ・タウトは、この庭園も訪れ賞賛しています。
 

中国の36人の詩人の詩と狩野探幽が描いた画像がある「詩仙堂」

2009-09-23 00:24:56 | 旅行/温泉

京都散歩⑨ 「詩仙堂」 京都市左京区一乗寺門口町27 075-781-2954
 
 詩仙堂は、1641年に石川丈山が59歳から90歳までの31年間、隠棲した寺(曹洞宗永平寺派)です。ここの庭を造った丈三は、大坂夏の陣で抜け駆けをしたために軍律違反の罪に問われ、文人の世界に入りました。

 詩仙堂には、「小有洞」という門をくぐり、竹林の中の道を行く表門からゆるやかな石段を登って入っていく感じになります。石段の上に「老梅関」という門があります。その先に詩仙堂の玄関があります。建物の内部に中国の36人の詩人の詩と狩野探幽が描いた画像があるので、詩仙堂と名がつきました。

 玄関の上は3階建の「嘯月楼」となっていて、その右手(西側)には瓦敷の仏間と六畳、八畳の座敷、左手には四畳半の「詩仙の間」、「読書の間」など多くの部屋があります。このうち嘯月楼と詩仙の間の部分のみが丈山当時の建築です。

 庭には四季折々の花を楽しむことができ、特に春(5月下旬)の「さつき」と秋(11月下旬)の「もみじ」が有名です。縁の前に大きく枝を広げた白い山茶花も見ごたえがあります。添水(そうず)と呼ばれる仕掛けで時折り響く音は、鹿や猪の進入を防ぐという実用性(ししおどし)とともに静寂な庭のアクセントになっています。

 上記画像は、筆者撮影です。
 


臨済宗大本山の南禅寺とその庭園

2009-09-22 01:19:10 | 旅行/温泉

京都散歩⑦ 「南禅寺」 左京区南禅寺福地町86 075-771-0365

 しばらく京都を庭園を中心に紹介していきます。最初は南禅寺。

  東山の山麓にあります。臨済宗南禅寺派の大本山で、広い境内には勅使門、山門、法堂、方丈が並んでいます。方丈の襖絵には狩野元信、探幽の筆によるものです。

 画像(筆者撮影)
はその庭園です。1629年、小堀遠州の作です。江戸時代初期の枯山水を代表する名勝です。南部から西部にかけて5本の定規線を配した薄青色の筋塀(築地塀)がめぐらされ、東西に細長い地形に作庭されています。石組はこの筋塀に添って配置され、大きな石組を方丈側から見て左奥に配し、前方と右手には、白砂の広い空間が印象的です。

 方丈庭園の石組みは、後列の石の直径が東から順に3.7,2.8,2.0メートルと減少、高さも1.8,1.5,0.8メートルと低くなっています。周辺の樹木の数もそれにあわせて植えられています。その結果、東西方向に遠近感が強調されることになっています。パースペクティブ効果が使われています。

 巨大な石を横に寝かして配置する手法は、それまでの須弥山・蓬莱山などの仏教的世界観などを表現した庭園から脱した構成です。俗に「虎の子渡し」の庭とも呼ばれています。昭和26年に国指定の名勝となりました。


全編イタリアロケの「アマルフィ」

2009-09-21 01:16:26 | 映画
西谷弘監督「アマルフィ・女神の報酬」125分[フジテレビ開局50周年記念]

        

 外交官・黒田康作(織田祐ニ)はイタリアで開催される国際会議G8で予告されたテロに対応するためにローマに派遣されました。日本大使館では、大使(小野寺昭)、参次官(佐野史朗)、外交官(大塚寧々)たちが、G8に出席する外務大臣(平田満)が準備に追われていました。

 クリスマス前のローマ。現地で日本人の女の子が誘拐されます。女の子は、亡き夫の思い出の地を訪れた矢上紗江子(天海祐希)の愛娘でした。

 大使館に赴任して間もない黒田は、研修生(戸田恵梨香)とともに、誘拐事件の通訳を担当するなかで、この誘拐事件に巻き込まれていきます。彼は誘拐犯人からかかってきた身代金要求の電話を受け、自分が女の子の父親だと名乗ったことで、紗江子の偽装の夫として行動することになります。

 警察の介入が犯人に嗅ぎつけられ、事件の解決は遠のいていくかに見えました。黒田は独断で調査に入りますが、外交官に捜査権が認められていないので、イタリア当局ににらまれます。

 誘拐事件は連鎖テロに発展し、イタリア全土が広がっていきます。黒田は事件解決のカギが南部のアマルフィにあることを突き止めますが・・・・。

 久しぶりに映画館での鑑賞でした。知人にチケットをもらい、新宿ピカデリーへ。テンポの早い構成、緊張感あふれる展開、織田祐二さんと天海祐希さんの好演、効果的に挿入されるサラ・ブライトマンのソプラノのアリア、そして何よりも全編オールイタリアロケによるスクリーンの美しさ。いい時間を過ごしました。(下の画像は世界で最も美しいといわれるアマルフィ海岸)

     ポジターノ周辺

札幌の老舗バー

2009-09-20 00:31:21 | 居酒屋&BAR/お酒

「バー キャラベル(CARAVEL)」
            グランドホテル(札幌・地下)中央区北1条西4丁目                              
                                TEL 011-261-3311

                   レストラン一覧 バー「キャラベル」

 札幌の記事をもうひとつ。「バー・キャラベル」です。グランドホテルの北側に入口があり、そこから入店となります。それほど大きな入り口ではないので、うっかりすると見過ごしてしまうかもしれません。

  なかに入ると広大な空間があります。大きな帆船の模型がすぐに目に入ります。ここのモチーフは大航海時代の帆船の内部の意匠です。

 「キャラベル」とはポルトガルで開発された小型の帆船のことだそうです。かつて、最新の舵を備え、向い風の航行が可能なように設計され、小回りが利きました。向かい風でも航行できたと言われています。多くの船乗りに支持され大航海時代を支えた帆船です。その船室でグラスを傾けるような感覚をもって、ウィスキーに挑戦しました。

 1934年に開店という老舗です。ジャズが静かに流れています。座席の数は30ほど。カウンター席が別にあり、2人がここで飲んで話をしていました。

 ウィスキーはサントリー。「余市」などを注文しました。カクテルは豊富です。      


サッポロビール園でジンギスカンに舌鼓

2009-09-19 00:17:48 | グルメ
サッポロビール園   札幌市東区北7条東9丁目 0120-150-550                  画像:サッポロビール園本館                           

 先日(9月10日)、札幌に出張したおりに「千歳鶴直営展」を紹介しましたが、あと2つ記事を書かせてください。

 今日はそのうちのひとつ。サッポロビール園です。ここは昔から札幌の名所のひとつなので知っている人は全国にたくさんいるはずです。会議のあとの懇親会でここに行きました。

 かつては札幌で暮らしていましたから、かなりの数、ここを訪れました。ジンギスカン料理と生ビールです。ジンギスカンは関東圏ではあまり食べる機会がありません。札幌では多くの家庭でもよく食べます。ラム肉をスーパーなどで手軽に買うことができます。関東では売っていないことはないですが、目立ちませんね。

 ビール園に到着すると、明治23年に建てられたレンガの建物。サッポロビール園開拓使館が目に入ります。

 入口を入ると右手の暖炉にサッポロビールを象徴する星に2匹のクマ。ドイツ語で「BIER GARTEN(ビールガルテン)」と書かれています。

  ビールや食事を楽しむのは、開拓使館の向い側にあるガーデングリル。サッポロビール園でしか飲むことのできないサッポロファイブスターは、昭和42年~47年に発売されていたプレミアムビールを、同園の開園40周年を記念して2006年に復刻発売したものです。

 サッポロビール園ではこのジンギスカンを野趣あふれる感じでジュージュー、野菜と一緒に焼きながら、たれをつけて口に運びます。懐かしい味がしました。久しぶりでした。ビールとうまくあって、口のなかでいいハーモニーが感じられます。

 2時間食べ放題というコースがあり、むかしは皿のお代りをしました。いくらでもおなかに入ったのです。ところが、今回、そうそうに満腹。すぐにもう十分ですという状態になりました。やはり年輪を重ねてしまって、若いころのようにはいきません。

 なお、魚介コースもあり、若干割り高ですが、こちらもお勧めです。

         
         (写真は4名様のイメージです)


京都の庭園の魅力を余すところなく表現した写真集

2009-09-16 00:38:11 | 美術(絵画)/写真

水野克比古『京都名庭園』光村推古書院                        
              
 京都の庭園はすばらしいです。ようやく今頃になって気づきました。古刹の訪問は何度もしていますし、庭がきれいなことはよくわかっています。目にしていないはずはありません。

 造園、作庭
には思想があり、思想の具現であり、それを石、樹木、植栽で造形するのです。庭の向こう側にある景色を借景として利用するここともあります。見る人の位置を念頭に、そこからどう見えるかを計算して庭はつくられています。

 このように庭園はすばらしいの一言につきるのですが、この本はその精髄をまた見事に表現しています。京都の曼殊院に行ったおり、写真家の水野さんの撮った庭が院の壁に掲げてありました。そのすばらしさに驚嘆して、その場でこの本をもとめました。ただよく撮れているというのではなく、上記の庭園の魅力をあやまることなく引き出しているところに感激です。技術だけでなく、庭園の本質を理解する力が写真に表現されています。

 どれほどすばらしいかを理解してもらうには、実際に本を開いていただく以外に不可能です。


山田洋次×藤村周平

2009-09-13 00:44:49 | 映画
吉村英夫『山田洋次×藤村周平』大月書店、2004年
             
           
 藤沢周平の小説と格闘する山田洋次監督、両者の相乗効果で時代劇の新境地が切り開かれました。それが「たそがれ清兵衛」と「隠し剣 鬼の爪」。この2作品の魅力を解明しようというのが本書のねらいです。

 山田洋次がいろいろな映画への思いを込めてこれらの作品を制作したことがよくわかります。

 「たそがれ清兵衛」では「笛吹川」(木下恵介)、「夜の鼓」(今井正)、「血槍富士」(内田吐夢)、「化石」(小林正樹)、「シェーン」、「マディソン郡の橋」「地獄の黙示録」などのシーンが隠し味になっているとか(p.21)。

 「隠し剣 鬼の爪」ではアントニオーニ監督、アンゲロプロス監督、タルコフスキー監督の映画のシーンが参考になったとか(pp.149-151)。

 黒澤の時代劇と山田の時代劇との対比もクリアです。ヒロイズムの前者、底辺を生きた武士の生活を描いた後者。そして黒澤は女性の描き方が弱かったのですが、山田はしっかりコンセプトをもっています。

 また、若い頃の山田は小津を懐疑的に見ていたそうですが、いつか山田のなかに小津の精神が血肉化されて生きていた(p.130)という指摘も重要です。


田舎暮らしと帰農

2009-09-12 00:32:25 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
中田水幸『幻の花-田舎暮らしと帰農-』角川書店、2005年

 たくさんのエッセイの前に俳句がずらりと並んでいます。著者は、教職にあって30年、農業は両親と妻にまかせていました(3ちゃん農業)が、両親の介護を契機に農業がたちゆかなくなり、宮仕えに区切りをつける意味もあっての帰農。その時、51歳でした。芭蕉が死んだ年齢であったそうです。小林一茶も51歳で帰農していたことも「ふんぎり」をつけた理由でした。

 年棒は180万になったらしいのですが、食は農でまかなえます。陶淵明も役人をしていましたが、帰農して歌を詠みました。

 時に鋭い話があります。「かつて田舎暮らしをしていた人が定年帰農する・・・のは勝手を知ったかつての暮らしがあるので」のでよいのですが(p.170)、ただ田舎暮らしをしてみたい程度のことでそういう行動にでるのは禁物、事例をあげて警鐘をならしています(p.153あたりから)。

 帰農後の生活にはいろいろなエピソードがつきまといます。幼少の頃、実体験のあった農業のあり方は様変わりしていたそうです。牛馬糞、人糞からの肥料が化学肥料になり、土は痩せていました。堆肥づくりを始めたら、隣家から苦情がきたとか。牡丹焚、落葉焚ができる環境も失せていました。だだちゃまめ、朝鮮人参を作付けしたそうですが失敗したとか。

 古典文学、艶笑も楽しいです。食にも、近現代文学にも詳しいです。

 子規の弟子であった伊藤左千夫、長塚節の確執、それを題材にした藤沢周平の「白き瓶-小説長塚節」の寸評など。また、群馬県薮塚町スネークセンターの蝮飯、さいたま市の路地裏の蛙料理店、等々(p.165-166)。

 さらに鋭い指摘がありました。河川改修は複眼的に見なければならず、洪水対策ということであれば誰も反対しないが、その本当の目的は経済優先の多目的土木工事であることが多い(p.172)とか。江戸時代も、今もそうであるようです。

 「水光」は俳号で梨の種類である「幸水」の文字を引っくり返して作ったそうな。粋人です。

幻の巨人のエース

2009-09-11 00:55:17 | スポーツ/登山/将棋
上田龍『戦火に消えた幻のエース-巨人軍・広瀬習一の生涯』新日本出版社、2009年
                                   戦火に消えた幻のエース
 1941年、巨人に入団し、ごくわずかの在籍期間に大きな足跡を残しながらフィリピン戦線で22歳の若さで戦死した広瀬習一投手の生涯、それを著者は20年間にわたって生前に交流のあった人へのヒアリング取材をし、資料調査を行ってまとまめたものです。貴重な掘り起こし作業の成果です。

 戦前のプロ野球、とくに巨人軍の選手と言えば、スタルヒン、沢村栄治が思い出されますが、広瀬投手も同じように活躍したピッチャーでした。しかし、プロ野球選手として活躍したのはわずか1年余。戦死はその矢先のことでした。

 広瀬選手は滋賀県の大津商業を卒業後、旭ベンベルクという会社に就職、野球はもとより、陸上のアスリートとしても抜群の能力をもっていました。

 高校卒業後、一旦は断念した巨人入りを、戦局がきなくさくなるなかで入団。当時の監督・藤本定義のもとで頭角をあらわし、その後も独特のサイドスローからの威力ある投球で好成績を残しました(在籍14か月で29勝10敗)。

 高校時代に甲子園出場を競った京都商業のエース神田武夫投手(21歳で肺結核のため夭折)とはよきライバルで、その後も南海に入団した神田とは何度もマウンドで投げ合うことになります。

 本書は幻のエース広瀬の生涯を掘り起こすとともに、太平洋戦争をくぐるなかで野球が敵性スポーツであるがゆえに、いわれない攻撃を受けた時期の空気を伝え、野球と戦争というもうひとつのテーマを追っています。そのこととの関わりで大リーグのジョー・ディマジオ、テッド・ウィリアムスらの名選手が戦争によってその選手生活を短くしたことの意味を問うています。

 著者は、ベースボールコントリビューター(野球記者/野球史研究家)。