【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」スタンリー・キューブリック監督、イギリス/アメリカ、1964年

2017-09-30 21:25:04 | 映画

博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか(Dr. Strangelove; or How I Learned to Stop Worrying and Love The Bomb)スタンリー・キューブリック監督、イギリス/アメリカ、1964年

 
この映画に描かれた不条理の度合いは極致そのもの。なぜなら、そこに示唆されるのは人類の滅亡だからである。名優ピーター・セラーズが三役をこなしている。

 ある日、アメリカの戦略空軍基地のリッパー司令官(スターリング・ヘイドン)は突然正気を失って、異常な考えに憑かれ、ペルシャ湾から北極海に配備された空の警戒部隊であるB52編隊にソ連の核兵器基地への攻撃を命じる緊急戦闘計画「R作戦」の奇襲にでた。核兵器による攻撃は、大統領権限の範囲であるが、敵からの奇襲攻撃があった場合、下級指揮官が独断で核報復することができるというのが「R作戦の規定」でリッパーはこれを不当に行使した。R作戦では攻撃命令を受け取った爆撃機は、呼び戻し地点を越えると一般通信装置がCRMという特殊暗号装置に接続され、通信を受けつけなくなる。敵の謀略電波に撹乱されないようにするためである。装置を例外的に解除するには暗号が必要となった。リッパー付きのイギリス国の副官マンドレーク大佐(ピーター・セラーズ)は、司令官のとる作戦の危険性をいち早く察したが、外部との連絡がとれなくなり、作戦の撤回ができなかった。

 事態を知った大統領(ピーター・セラーズ)は、ソ連のキソフ首相と直接電話で連絡をとり、打開策をさぐるが、この時点でソ連には自動的に作動する報復システムとしての人類に滅亡をもたらす「皆殺し」装置があることを知った。この装置は経済的に安上がりな軍事計画として開発されたもので、敵に攻撃されると自動的に作動して爆発し、死の灰を降らせ、十ヶ月であらゆる生物が死に絶える威力を持つ。ストレンジラブ博士(ピーター・セラーズ)によると、自動装置による爆発、すなわち爆発を機械にまかせるのは「人間的な失敗を排除するためである」。また、この装置は「地下に置かれるのでどんな大きな爆弾でも可能であり、それが完成すると巨大コンピュータにつながれ、爆発させる状況分析がプログラムに保存される」。

 事態の深刻さを諭った大統領とタージドソン将軍(ジョージ・C・スコット)は国防総省作戦室でソ連大使もまじえ、対策の検討に入り、リッパー司令官のいる問題のパープルソン基地を接収し、行動中の爆撃機編隊に帰還命令を出すことにした。リッパー司令官は接収に来た軍隊と撃ち合うが、敗北を認めて自殺。一緒にいたマンドレーク大佐は暗号の読解に成功し、大統領と連絡をとり、編隊は呼び出しの暗号に対し、ソ連側に撃墜された爆撃機を除く全機から了解の応答があり作戦は中止となった。編隊の行動中止決定にもかかわらず、コング少佐を機長とする一機は敵のミサイルの暴発で通信不能状態に落ちいり、ソ連の目標基地に向かって飛び続けた。大統領はソ連首相に進入阻止と撃墜を依頼するが結局かなわず、機の爆弾倉ドア解除の修理にあたったコング少佐が爆弾とともに基地に落下し、閃光を発した核爆発が起こった。

 作戦室ではストレンジラブ博士が人類の破滅と同時に、ひとにぎりのものが生残る僅かな手だてについて語っていた。生残りの対象は政府高官と軍人を優先し、他はコンピュータが生殖能力、知能などを基準として選別される。時すでに遅く、きのこ雲が地上を覆い、人類破滅の幕が引かれていた。きのこ雲で地球が覆われる場面が最後のシーン、背後に歌がながれる「また、逢いましょう。どこかも知らず、いつかも知らないけれどまた逢いましょう。いつか晴れたに日…」と。


ダンサー(Dancers)ハーバート・ロス監督、アメリカ、1987年

2017-09-29 23:37:42 | 映画

                

 
一言でいえばこの映画は、バレエ映画の主役トニー・セルゲエフ(ミハイル・バリシニコフ)と彼を取巻く女性たちに焦点を絞り、練習段階から本番にいたる経過をモチーフに描いた作品である。バレエは「ジゼル」。ジゼルを踊るのは彼の恋人だったフランチェスカ。アルブレヒト役はトニーである。森の女王役はナディン。映画撮影はローマという設定で、映画出演のためにリサ・ストラッサー(ジュリー・ケント)が現地入りするシーンでこの映画は始まる。

 トニーはバレエに行き詰まり、情熱を失いかけていた。友人にそのことを指摘された、「踊りに情熱がない、空っぽだ、何年もたつのになぜか成長が感じられない、ただのプロだ」と。彼自身も「踊っていて火花を感じない、情熱を取り戻したいのに消えてしまった」と思っていた。撮影のために練習していたが、役に感情移入できないことを悩んでいた。トニーは女性関係がだらしなかった。ジゼル役のフランチェスカとは恋人関係であったが、最近はしっくりいっていなかった。ナディンとも関係があり、彼女はトニーを今ではよく思っていない。またスポンサーとしてついているパディオ伯爵夫人との噂も絶えなかった。

 そこに村娘役で来たのがリサであった。リサはローマ入りの日に迎えに来たパオロにつきまとわられ、適当に相手をしていたが、内心そのしつこさに閉口していた。トニーはリサに近づき、しだいに好感をもち「一緒にいると心が落ち着く」と思うようになる。散歩しながらトニーは心を打ち明けた「子どもの頃、夏を田舎で過ごした。家の側に白樺の林があった。どこまでも高く、よりそうようであり、真っ白で色白の美しい女たちを見るようだった。…君を見てぼくは思いだした。すらりと伸びた白い木を」と。リサはトニーが偉大な芸術家なので、最初は遠くから憧れて見ていたが、トニーに散歩やドライブに誘われ、自分を「ただの男だと思ってくれ」と言う言葉に安堵感を覚えた。しかし、リサはナディンと楽屋で一緒になったとき、トニーが誰にでも「君と一緒にいると心が休まる」「君は白い木に似ている」と言っていたことを聞かされ、ショックを受けた。

 撮影本番の舞台。「ジゼル」のバレエが演じられた。村娘役で出演したリサは先のショックで心の動揺を抑えきれず、自分の出番が終わると撮影場所から逃げ去ってしまった。気がついたトニーは捜しに後を追ったが見つからない。トニーは「ジゼル」を最後まで踊り、楽屋に戻って来たリサは舞台を最後まで見た。撮影終了後、「今の舞台、すばらしかった。自分が何か特別に思えた。あなたにはそういう力がある」とトニーに話しかけるリサ。トニーは「急にいなくなって死ぬほど心配した、一体どこへ行ってたんだ」と応えた。

 この映画のストーリーは起伏がなく、物足りないが、終盤、アルブレヒト役のミハイル・バリシニコフ、ジゼル役のアレッサンドラ・フェリ、女王役のレエスリー・ブラウンが踊りをたっぷりと披露しているので、バレエ映画として楽しめば好いのではないだろうか。また、練習風景で登場人物の解釈や演技の仕方などで役者たちが意見をぶつけ合うシーンが何箇所か出てくる(ジゼルの母親役を演じるムリエルがトニーと、母親が狂っているかどうかで、意見を交わす場面など)が、役者たちがしのぎを削って作品を完成させていく過程がみえて興味深かった。


地上(ここ)より永遠(とわ)に(From Here to Eternity) フレッド・ジンネマン監督、アメリカ、1953年

2017-09-28 17:09:01 | 映画

                     

 
第二次世界大戦の最中、軍隊の階級制度と個人との関係をとおして、アメリカの軍隊生活の過酷な生活の告発をテーマとし、軍隊内部の非人間性を暴いた作品。ジェームス・ジョーンズのベスト・セラー小説の映画化。この映画化は「アメリカ人がアメリカの『聖戦』に複雑に相反する感情を示していた朝鮮戦争のさなかに行なわれたこともあって、軍隊機構の非人間的な愚劣さを批判的に描いた内容が大きな反響をよんだ」。寄せては返す波に洗われて、浜辺で抱き合う水着姿の男女の熱いラブシーンも話題になった。

 舞台は太平洋戦争直前(1941年)のハワイ・スコフィード兵営。転属されたラッパの名手であるプルーことリー・プリューイット(モンゴメリー・クリフト)は、ボクシングの練習中に友達を失明させた過去をもち、二度とボクシングをしないと決めていた。兵営の中隊長であるホームズ大尉はボクシング狂で、ボクシングは精神教育に効果的であり、自分のチーム強化のためにプルーにも誘いの声をかけた。しかし、彼は過去の経緯があるので、これに応じない。隊内のまとめ役で小銃隊のウォーデン曹長(バート・ランカスター)は厳しいが公明正大に物事を判断する人と慕われているが、プルーは彼のボクシングへの勧誘をも頑なに拒否した。訓練中のプルーの気心が分かり、味方となってくれるのはアンジェロ二等兵(フランク・シナトラ)だけであった。

 中隊長のご機嫌取りの分隊長ガロヴィッチ軍曹は、言うことをきかないプルーを徹底的にしごいた。アンジェロは営倉主任シャドソン(アーネスト・ボーグナイン)にからまれ、ある日、衛兵義務を怠り、職務放棄をしたとの口実で営倉にぶち込まれた。上官の思い通りにならない少数派に対しては、陰湿な徹底的したヤキが入る、それが軍隊であった。

 プルーに対するガロヴィッチの苛めは続いたが、ある日、作業中の故意の邪魔だてに怒ったプルーは彼と殴り合いの喧嘩になり、大騒ぎとなった。毎日のように主任シャドソンに殴られているアンジェロは、脱走を計画。最終的に彼はトラックで脱走に成功したが、荷台のドアが開いて転落し、息絶えた。このとき、プルーはアンジェロを追悼するラッパを涙しながら吹くが、ここはラッパの音色とともに美しい場面である。プルーはアンジェロに徹底的な暴力をはたらいたシャドソンに果し合いを挑み、彼をナイフで殺してしまったが自分も大ケガをし、恋人であるロリーン(ドナ・リード)の家に身を隠した。これら一連の不祥事件を理由として、検閲総監部はホームズ大尉に対して、プルーにボクシングを無理じいし、不当に虐待したとして有罪と審判し、解任した(実際には軍の規定にしたがって辞表を書き軍隊を離れる)。ガロヴィッチは、軍曹から上等兵に格下げ措置がとられた。

 中隊長には女性関係があり、妻カリン(デボラ・カー)とは冷えた関係にあった。結婚して二年間だまされ続け、妊娠で希望を持ったが子どもを死産、今はもう子どもを産めない体になっていた彼女は、夫婦関係の不満から何人かの男との付き合いがあった。そんな彼女は、現在はウォーデン曹長と密通していた。過去をうちあけ、悩みを語り、心をひらいた彼女は、曹長に将校になってもらって、夫と別れ、本土で結婚したいと考えていた。しかし、曹長には軍隊を離れる気もちはなく、別れがくる。

 一方、プルーはアンジェロに紹介されたクラブでロリーンという女性を知り、恋に落ちた。クラブで働くロリーンは、プルーに惹かれ、彼のプロポーズを受けるが、「軍人とは結婚したくない。貯金をため、家をたて、母と住む」ことを夢見ていた。「マトモな職業の、マトモな人と結婚し、マトモな妻になって、マトモな家庭を築きたい」、それが彼女の願いであった。プルーは結局、自分が軍隊で働くしかできないと考えていて、ロリーンの夢との間に矛盾を感じるのであった。

 運命の12月7日未明(日本では8日)。日本の真珠湾攻撃。ロリーンのところで隠れていたプルーは、軍隊に戻らないように懇願する彼女をふりきり、決意して隊に戻ろうとしたが、その途中で彼を不審に思った味方の兵隊に射たれ、あっけなく死んでしまった。駆けつけたウェーデン曹長は死んだプルーに「要領の悪い奴だった、ボクシングさえすればよかったのに。皮肉にも今年は試合が中止になったんだが」と語りかけた。最後のシーン、ハワイから本土への船の甲板でアロハ・オエのメロディの流れるなか、お互いに面識のないカリンとロリーンが並び、短い会話をかわした。ロリーンは12月7日に亡くなったプルーの名前を口にし、その時カリンは彼女が誰であるかということに気づくのだった。


ポネット(Ponette)ジャック・ドワイヨン監督、フランス、1996年

2017-09-27 20:34:14 | 映画

                                                
 4才の女の子ポネット(ヴィクトワール・ティヴィンソル)が母の突然の事故死を現実的に受け入れるまでを描いた物語。舞台はプロヴァンスのある村。母親を自動車事故で失ったポネットは死の意味が分からない。いつかママに会えると、おまじないやお祈りをするポネット。ポネット自身も、その事故でケガをして左手にギブスをつけ、ヨヨットという大切な人形をいつも手にしていた。父親は最初、ポネットに「ママはひどいケガで死ぬかもしれない」と死を隠していたが、そのうち「ママは死んだ、分かるよね」と諭した。父親はポネットを伯母さんのところに連れて行った。そこにはマチアスという男の子とデルフィーヌという女の子がいた。ポネットは、母の死の意味がよく分からず、その事実を受け入れることもできなかった。ママとおしゃべりをしたく、ママと遊びたい。そのためにいろいろな努力をした。父親はそんなポネットに「ママを待つなんて少しおかしいぞ。神様なんていない。神様は死んだ人たちのもの。ママに神様とイエス様とお話しさせてあげなさい。おまえは命のある世界、パパたちの世界に住んでいるんだ」と説明した。

 ポネットは納得せず、ママと会うてだてを考え、おまじないを唱えたり、小さなプレゼントを探したりした。目をつぶってのお祈りもそのひとつ。「全能の神様、ママは死にました。神様と一緒のはずです。でもママとお話がしたい。がんばったのに話せません。全然こたえてくれません。お話するように伝えてください」。そして、「私がお祈りしたことを伝えてくれましたか。ママと神様のために祈りました。病気ではないけど、ベッドでまっています。こうすれば誰も気づかずに秘密にできます」と言うのだった。

 学校での子どもたちとやりとりがある。女の子のアダは、テストを通過すればママとお話が出来るとポネットに提案し、彼女は一生懸命そのテストにとりくむ。男の子のきつい言葉もある。「ママが死ぬってことは、子どもが悪い子だから」だと。こうした幼児の世界に特有の光景の描写が繰り返されることで、知らず知らずのうちにポネットの悲しみに共感してしまう。

 ママと話しをしようと、様々な努力を試みるポネットは何も変わらない現実に悲しくなり、とうとうママのお墓に一人で行く。お墓に花をそなえ、墓標をみつめ、そのうち手で土をほり始めるポネット。そこにママが現れる。幻想である。ママはポネットに事故死したことについて、また生き方について語り始めた。事故死したのは「死に逆らわないで、楽な方をえらんだの。闘わないで身をまかせたの」と。そして「夢のなかで遊ぼう、ママの想い出をつかまえて。命あるうちに何でもして。全部楽しんでから死ぬの、大切に生きるの。私の娘なら難なく生きていける」と励ました。ポネットはママとたくさん話ができて、漸く満足し、ママがふっといなくなっても一人でたっていた。ポネットを捜しに来たパパに「ママが楽しむことを学びなさいって」といっていたと伝えた。

 この映画を評してある評論家は次のように言っている。主演の「女の子もまた、ポネットを演じることで、新しい言葉を獲得していったのだろう。それでもなお、その子どもは。大きくなったとき、自分が四才のときにポネットを演じたことを思い出せなくなるだろう。“7才までは神のうち”とはそういうことなのである。まさにこの映画は、四才の子どもだけが演じることが出来た奇跡のような物語なのだ」と。同感である。


リトル・ヴォイス(Little Voice)マーク・ハーマン監督、イギリス、1998年

2017-09-26 20:00:37 | 映画

                     

 
この映画をここで取り上げるのは、もちろん抜群の歌唱力を持った少女、愛称リトル・ヴォイス(ジェーン・ホロックス)がジュディ・ガーランドやマリリン・モンローの歌を舞台でうたい、彼女の歌がすばらしいからである。The Man That Got  Away(Judy Garland)、My Heart Belongs to Daddy (Marilyn Monroe)、Over The Rainbow (Judy Garland )、 Come Rain or Come Shine(Judy Garland)など、多くの歌を楽しむことができる。

 リトル・ヴォイス(LV)は少女の「声が小さい」ことから彼女の母が呼ぶ綽名である。父はすでに死んでいなかった。母のマリーはガミガミとやかましい人で、親しい男友達がいた。イギリスのとあるさびれた港町に二人は暮していた。LVは、父親の死後、口を聞かなくなり、話しても小声。彼女は父のコレクションだったレコードを始終聴いて、時々口ずさんで唄っていた。母親はそれが気に入らず、いつも大声で文句をいっては、声が小さいなどとLVを叱り付けていた。

 鳩の飼育が生きがいのシャイな青年ビル(ユアン・マクレガー)は、LVの家の電話回線工事に行き、LVに心惹かれた。母親は、この青年を「うちの無口娘におあつらえむき」といってバカにしたが、二人はお互いに何かを感じ合うのだった。毎夜酒場に入り浸っていた母親の前に田舎のタレント・エージェント、レイ・セイ(マイケル・ケイン)が現われた。彼を一流の男と思い込む母は、レイ・セイを自宅に連れ込んだ。そんな二人に嫌気がさし、部屋に逃げ込むLV。母とレイ・セイがいざ事におよぼうとした時、素晴らしい歌声が聞こえてきた。マリーをほったらかして聞きほれるレイ・セイ。ジュディ・ガーランドそっくりのその歌声は、LVのものだった。彼は声や抑揚が往年の大スター、ガーランドやモンローにそっくりなのに舌をまき、興業で一儲けをたくらんだ。そして、LVを舞台に上げようと必死に説得した。場末のミスター・ブー(ジム・ブロードベント)の店で強引に彼女を歌わせようとするが、LVは人前で歌った経験がなく、おじけついてしまった。一案を考えたレイ・セイは、店の照明を全て落とした。静かに歌いだすLV。素晴らしい歌声が店内に流れた。しかし、突然、スポットライトがあてられ、LVは驚いて舞台から逃げ出した。

 レイ・セイは再度、彼女を説得し、LVは一度だけという条件で応じた。LVの周囲に喧騒があるのとは反対に、ビルは伝書鳩が帰って来ないので心配していた。鳩の帰りを待ち、鳩舎の前で寝泊まりする毎日。心優しいビルは、不安いっぱいのLVを見守っていた。舞台の初日、ピンクのドレスに身を包んだLVがおずおずと登場。舞台に注がれる熱い視線。その時、会場から自分を見守り亡き父親の姿がLVの目に映った。瞬間、LVの表情に自信がみなぎった。手を突き上げ、腰をくねらせてLVが歌いだしたのだ。驚いたバンドが後に続く。歌手になりきった彼女は様々な曲を披露。ステージは素晴らしいものになる。会場全体は熱気と興奮で包まれる。全ての舞台が終了したとき、会場は割れんばかりの拍手の渦でいっぱいだった。全ての客が引いた後も興奮冷めやらぬレイ・セイやマリーたちは、一夜の成功に酔いしれていた。だが、彼らのなかでLVの心のうちを知る者は誰一人いなかった。


誓いの休暇 (Валлада о солдате) グリゴリー・チュフライ監督、ソ連、1959年

2017-09-25 21:55:37 | 映画

                  

  19才の少年兵アリョーシャの物語。原題は「兵士のバラード」。

  通信兵として前線に赴き、初めての戦闘で敵の戦車二台を炎上させる手柄をたてた少年兵アリョーシャ(ウラジーミル・イワショフ)は、一躍英雄となり褒賞として六日間(往復四日、故郷の家屋の屋根修理で二日)の休暇を許された。ロシアの大地は広い。故郷の村に帰るといっても往復四日はかかる。早く戻って母の手紙にあった家屋の屋根修理をしてあげたい。軍用列車の乗りこむ直前、偶然であった行軍中のセリョージャという見知らぬ兵士に、アリョーシャが向かう故郷のゲオルギエフスク地方に住む妻のリーザに「セリョージャは生きている、この目で見た」と伝言し、石鹸二個を届けてくれるよう頼まれた。

 首尾よく軍用列車に乗りこんだものの、気持ちの優しいアリョーシャは駅で片脚を失い松葉杖をついた兵士の荷物を持ってあげ、一緒に列車に乗りこみ、途中の中継駅まで送ってあげた。駅に迎えに来ているはずの妻は見つからず、彼女がバスの遅れで漸く駆けつけるまでプラットフォームで一緒に捜した。遅れてしまったアリョーシャは、見張りの哨兵に「肉の缶詰」をわたし、極秘の軍用列車の干草をつんだ貨車に飛び乗った。干草の間に身を隠していると、途中の駅で女の子シューラ(ジャンナ・プロホレンコ)が乗って来たが、貨車の中にアリョーシャを認めて驚き、飛び降りようとするがアリョーシャは彼女を引きとめた。最初のうちはアリョーシャを怖がっていた彼女は、負傷した婚約者を病院に見舞に行くとウソをつく。二人は一緒に貨車のなかに身を隠しているうちに自己紹介をし、配給品を一緒に食べた。途中の駅で例の哨兵に一緒にいるところを見つけられ降ろされそうになったが、責任者の中尉に見逃してもらった。二人はしだいに心が打ち解け、仲良くなっていった。

 さらにアリョーシャは停車駅で水を汲みにいき、そこで戦況報告を聞いているうちに、シューラが乗ったままの列車が出発してしまうというハプニングが起こった。老女が運転する車に乗せてもらい、泥道を走って、列車を追うが追いつけず、駅で途方にくれているとシューラが橋の上から声をかけてくれた。シューラは心配してその駅でいったん降り、彼を捜していたのだった。二人はセリョージャに頼まれた石鹸を彼の妻に届けるが、彼女は別の男と暮らしていた。怒ったアリョーシャは石鹸をセリョージャの老父にわたし、ケガで床に臥している老父を喜ばせ、安心させようとの配慮から息子の軍での活躍ぶりを、その場限りの作り話で聞かせた。

 この後、アリョーシャとシューラの辛い別れ。故郷のサフノフカ村が近づき、アリョーシャが再び列車に乗る直前に「僕のことを忘れないで」と言う。連られるようにシューラは婚約者がいるというのはウソで本当は叔母のところへ行くのだと告白。この告白は、シューラのアリョーシャへの愛の表現であったのだが、時間がなく列車に飛び乗ったアリョーシャは大声でシューラに住所を聞き、「手紙を書いてくれ、サフノフカ村だ」と叫んだが、騒音で声がかきけされた。懸命に手をふりながら追って来るシューラが諦めて立ち止まり、その姿が小さく遠ざかって行く。愛の芽生えを感じた若い二人の永久の別れであった。

 故郷にあと十㌔あまりに近づいたところで列車は砲撃にあい、大破され、火災。アリョーシャは子どもたちの救出にあたった。トラック運転手に同乗させてもらい、漸く故郷についた時には屋根の修理のいとまは全くなかった。アリョーシャは野良仕事から駆けつけた母としっかり無言で抱き合い、おみやげのスカーフをわたした。アリョーシャはトラック運転手のクラクションにせかされて、再び麦畑の道を戦線に戻った。アリョーシャは、再び故郷を目にすることはなかった。

 独ソ戦のさなか、一少年兵の休暇の出来事、人間性を素朴に訴えて感銘を与えた佳品である。監督のチュフライは、ヒロイズムを基準に人間を測るのではなく、戦果をあげた少年が普通の優しい思いやりの心を持った純朴な人間であるのだということだけを描き、人々を感銘させた。


ミツバチのささやき(El espiritu de La colmene)ヴィクトル・エリセ監督、スペイン、1973年

2017-09-24 22:02:34 | 映画

                     

 原題は「ミツバチの巣箱の麗」。アナとイザベルの姉妹とその父母を中心に、話しは展開して行く。この映画がフランコ独裁政権のもとでつくられたこと、検閲をパスするための配慮がなされていることなどをよく理解していないと、ストーリーは暗示的で分かりにくい。詩情豊かなスクリーンに抵抗の精神が息づいている。フランコ将軍を継承するスペイン独裁体制は、この映画が発表されてから二年後の1975年11月に崩壊した。

 1940年ごろのスペイン、カスティーリャ高原の小さな村、オユエロスが舞台。一九四〇年という時代は、非常に重要な年であった。この前年三月、フランコ・ファシスト軍の攻撃でマドリッドが陥落、スペイン人民戦線が敗北し、フランコ独裁体制が成立したからである。緊迫した時代状況が背景にあった。この村に巡回映画がきて、これを楽しみにしていた子どもたちはボリス・カーロフ主演の「フランケンシュタイン」(一九三一年)を見た。映画の内容は人間を創造しようとした科学者の話しであるが、怪物がかわいい少女と出会い一緒に花をちぎって水面にまき、怪物が少女を殺してしまうシーンに子どもたちは恐怖をおぼえる。六歳の少女アナ(アナ・トレント)は姉のイサベル(イサベル・テリェリア)に、怪物が少女をなぜ殺したのか、なぜ怪物も殺されたのかを、家に帰ってから寝床の中で聞く。イサベルはフランケンシュタインが精霊で、精霊は生きていること、フランケンシュタインも死んでおらず、村はずれの一軒家に隠れていて、友達になって、わたしはアナですと名のればいつでも話しができると答え、アナはそれを真に受けた。

 父フェルナンド(フェルナンド・フェルナン・ゴメス)は、養蜂家で蜂の生態を記録していた。母テレサ(テレサ・ギンペラ)は夜になると、スペインの内戦で外国に逃げたと思われるスペイン人に、届くかも定かでない手紙を書いている、「みな一緒に平穏だったあの時代は戻りません、神様が再会させて下さることを祈っています、内戦で別れてからも毎日祈っています、この失われた村にフェルナンドと娘達と生きながらえながら…」と。子どもたちは学校でも家庭でも表面上は静かな生活を送っていた。教室の風景、父と林を散歩しながらキノコ狩りをする様子、子どもたちが燃える焚き火を飛びこえて遊ぶ儀式、レールに耳をあてて汽車が来るのを確認する風景、何事もなく平穏に日々が過ぎていくように見えた。

 アナはイサベルの言ったことが気になっていた。時々、時機を見計らっては、村のはずれにある井戸のある廃屋にいって、大きな足跡を見つけたりした。ある日アナがその廃屋に行くと、負傷した逃亡兵士がいた。彼は反フランコ側の脱走兵であった。兵士を精霊と思いこんだのだろうか、アナは彼にリンゴをわたし、家から父のコート、靴やオルゴール付きの時計を持ってきて手渡した。だが、後日、兵士はフランコ側の警察に射殺された。警察に呼び出された父は、兵士の遺留品に自分のコートやオルゴール付きの時計があることを知らされた。廃屋にいるところを父に見つかったアナは咎められ、そこを逃げるように一人立ち去った。夜になって、池のほとりでフランケンシュタインにあった。「わたしはアナ、わたしはアナ」。アナはその後、倒れていたところを家族に救われたが、衰弱で床に伏した。

 架空のフランケンシュタインの話しは、現実の脱走兵の事件と交錯する。映画に登場する怪物フランケンシュタインは反体制側の象徴であり、脱走兵も反体制側の人間である。当時の独裁体制側にとっては恐ろしい怪物とみなされた反フランコ派、反ファシスト派は、純粋な少女には心暖かく、優しい存在であった*。


ニュー・シネマ・パラダイス (Nuovo Cinema Paradiso) ジュゼッペ・トルナトーレ監督、イタリア、1989年

2017-09-23 21:52:12 | 映画

                     

 
第二次世界大戦後のシチリアのある小さな村。人々の娯楽といえば、村の映画館、パラダイス座で上映される映画を観ることぐらい。この映画館では初老にさしかかった、一見、気難しいが、映画をこよなく愛するアルフレード(フィリップ・ノワレ)が撮影技師として、映写機をまわす仕事をしていた。経歴は長く、十歳からこの仕事にたずさわっていた。そこに村に住む少年トト(サルヴァトーレ・カシオ)ことサルヴァトーレ・ディ・ヴィータは、映画が大好きでパラダイス座で上映される映画見たさに、母親の目を盗んでは映画館へ通っていた。トトは映写室にももぐりこみ、アルフレードに叱られながらも、映写技術を見よう見まねで覚えてしまう。映画のフィルムの小さなコマをロシア戦線に行って戻らない父親の写真とともに缶にしまって宝物にしているトトの世界は、そのままパラダイス座の映写室へとつながる世界であった。アルフレードはトトに、かつては手回しで映写していたため摩擦でフィルムが発火したこと、皆が映画を見て笑っていると自分が笑わせたようないい気分になると話しをする一方、「つらい仕事だから、お前にはさせたくない、グレタ・ガルボやタイロン・パワーに話しかけても答えは返ってこない寂しさがある、大きくなったらこんな仕事についてはいけない」と諭した。「みんなが楽しんでいるのを見るのは素晴らしい。しかし、この仕事はそれ以上に孤独な仕事だ」と。

 パラダイス座を取巻く人たちの描写は、非常に面白い。楽しい音楽とともに、そうした光景が映し出される。村の神父は映画上映前の試写でキス・シーンを風紀上問題ありとしてチェック。指示にしたがいアルフレードは、フィルムのその部分をカット。村の人達は、二O年間キス・シーンを見ていなと不満顔であった。トトは映写室に入って、アルバートの目を盗んでそれを見ていた。映画を見ている人たちが何と生き生きとしていることか。拍手があり、ブーイングがあり、泣き笑いのくずれた顔があり、お乳を飲ませながら見ている母親もいた。小学校を出ていないアルフレードたちが小学校卒業試験を受け、その場で一緒に試験を受けていたトトにカンニングで助けてもらうシーンも人間臭く、思わず笑ってしまう。また、数カ所に古い映画が挿入されていて映画ファンにはこたえられない。「どん底」「揺れる大地」「駅馬車」「にがい米」等々。

 ところがある夜、アルフレードが館の外にいる人たちのために広場の壁に映画を映し出していたときに、フィルムへの引火が原因の火事になり、館は全焼してしまった。トトは映写室にとびこみ倒れているアルバートをひきずって救助したが、アルフレードは大やけどが原因で失明した。全焼した館に代わって、宝くじをあてた男が金をだして、「ニュー・シネマ・パラダイス」が再建され、アルフレードに変わって新しい映写技師が来たが、実際にはトトがこの仕事についた。そんなトトも成長し、銀行の重役の娘エレナに恋心を持った。しかし、ローマでの二年間の兵役の間に、彼女は行方不明になり、束の間の愛を失なった。

 初恋、兵役と青春時代を過ごすトトに、失明したアルフレードは島を出るように勧めた。「ここに居ては何も変わらないまま、人生を過ごしてしまう」と。決心をして島をはなれるトトに、アルフレードは言う「帰って来るな。私たちを忘れろ。手紙も書くな。ノスタルジーに惑わされるな。我慢できずに帰ってきても、私の家には迎えてやらない。自分のすることを愛せ。子どもの頃映写室を愛したように」と。

 時は経過し三十年後。立派な映画監督となったサルヴァトーレ[トト](ジャック・ペラン)のもとに、アルフレードが亡くなったという報せが届いた。アルフレードの葬式に参列するために島へ戻った彼は、新しいパラダイス座が六年前に廃館となったこと、今ではすっかり年をとった村の人々と再会した。アルフレードの妻のアンナからは彼の形見のフィルム一巻がわたされた。ローマに戻ってフィルムを映写すると、それはかつてカットされたキス・シーンを繋いだフィルムであった。懐かしそうに、感慨深げにそれを見るサルヴァトーレ。映画の終幕である。

 旧きよき時代の映画館を舞台に、映画を心から愛した人々の人間模様を描いた秀作である。


クレイマー、クレイマー(Kramer vs. Kramer) ロバート・ベントン監督、アメリカ、1977

2017-09-22 20:18:12 | 映画

                  
 
妻ジョアンナ(メリル・ストリープ)が家出したのは理由がないわけではなかった。自分らしく生きたいと思ったのだ。夫テッド(ダスティン・ホフマン)は妻をひとつの型にはめこもうとし、理想の妻にしようとした。ジョアンナはすてきなこと、したいことがいくつもあったのに、そのことを相談しようとしても、仕事に熱中していたテッドは忙しさを理由に彼女の相談にのろうともせず、無視し続けたからであった。ジョアンナは精神的にも落ちこみ、自殺も考えたほどであった。テッドは七才になったビリー(ジャスティン・ヘンリー)に語りかける。

 広告マンのテッドは、ニューヨークの会社で代理店の契約をとる仕事に従事していた。半年、命を賭けて取組んだ契約をとりつけ、副社長に重役昇進の話しも約束され、有頂天で帰宅すると、ジョアンナはクレジット・カード、小切手帳をおいて、家を出ていくと言う。八年の結婚生活で離婚、息子ビリーがテッドのもとに残された。

 会社勤めと家事、育児とで、テッドは戸惑った。起床、朝食でフレンチトーストを焼く、子どもを学校へ連れていき、夕方には迎え、そして就寝前のベッドでのお話。ハローウィンの催し物、PTAには親として出席しなければならなかったし、子どもが熱をだせば、迎えにいかなければならない。ふと目を離したすきに、公園のジャングルジムで遊んでいたビリーが落下。左目の下を十針縫う大怪我。仕事に生活にきりきり舞のテッド。家庭のごたごたを、仕事にもちこんだり、支障はないと副社長と約束したが、得意先の契約を取ることに失敗し、挙句の果てにテッドは会社を首になり、失業してしまった。

 テッドは、新しい困難に直面した。家出してカリフォルニアに行き、その後ニューヨークに戻ってデザイナーの仕事についていたジョアンナが、ビリーの親権を主張し、引き取りたいと打ち明けた。テッドが拒否すると、ジョアンナは裁判に持ちこんだ。失業中のビリーは裁判のために、安い給料に妥協して再就職。ニューヨーク地方裁判所の法廷で、親権をめぐって争うことになった。

 両者の弁護士による尋問の場面は、凄い。裁判に勝つための激しいやりとりがある。ビリーを五年間育てたジョアンナか、18ヶ月、仕事と両立させて面倒をみたテッドか。過去のあらゆることが掘り起こされ、裁判はこの勝敗の決着をつける闘いであった。判決はジョアンナの勝訴。彼女がビリーを育て、テッドは養育費として月四〇〇ドル、隔週に一度面会でき、泊ることができるというのが判決の内容であった。

 テッドは上告を諦め、判決にしたがった。ビリーの引越しの場面。テッドになだめられて引越しの準備をすすめるが、ビリーは父親も好きなので泣きじゃくった。離婚した親に、子どもの心が引き裂かれるこのシーンは、見ていてつらい。ビリーを迎えにきたジョアンナ。様子がおかしい。ジョアンナは、ロビーで「あの子の家はここよ」と涙ぐむ。「ビリーに会っておいで。ぼくはここで待っているから」と促されてジョアンナは、マンションのエレベータで、テッドの部屋まで上がって行こうとした。涙を拭きジョアンナはテッドに笑顔を向けて「おかしい?」と聞くと、彼は応えた「すてきだよ」と。

 アメリカの当時(1970年代後半)の家族問題を真摯に直視しながら、深刻ぶるわけではなく、笑いも挟み込まれ、上質の映画である。しかも要所は、シリアスである。ベントン監督によれば「この映画のメッセージは許すこと」である。

 第52回(1979年)アカデミー賞作品賞。ロバート・ベントンは監督賞と脚本賞を受賞。ダスティン・ホフマンは男優賞、メリル・ストリープは助演女優賞をそれぞれ受賞した。


汚れなき悪戯(Marcerino Pan y Vino)ラディスラオ・バホーダ監督、スペイン、1955年

2017-09-21 22:46:14 | 映画

       


 
スペインのある村では「パンとワインのマルセリーノ」を毎年、祝う。その伝統にまつわるお話である。捨て子で修道院で育てられ「ママに会いたい」少年の無垢の魂が奇跡を呼ぶというのがストーリー。ある映画評論家(双葉十三郎)はこの映画を「民芸品のような作品」と書いたが、その通りであり、適格な表現のように思われる。原題は、「パンとワインのマルセリーノ」。言うまでもなく、パンはキリストの肉を、ワインは血を、登場する一二人の修道僧は弟子の十二使徒を象徴している。監督はハンガリー生まれ。

 この村ではかつてフランス軍の侵略があり、スペイン軍はこれと戦って勝利した。数年後、三人の修道僧が廃墟になっていた貴族の館を修道院に改築したいと村長に願い出、受け入れられた。数年立って、堅固で美しい教会がたち、修道僧は十二人に増えた。

 いつもと変わらぬある朝、門の外に生まれたばかりの男の子が置き去りにされていた。その日の守護聖人はマルセリーノだったので、それが男の子の名前となった。子どもを育てる自信がなく、泣き声に悩まされた修道僧は子どもを引き取って、育ててくれる人を捜したが、二ヶ月たっても見つからない。里親捜しを諦めた修道僧は、自分たちが父となり、母となろうと決心した。算数を教えたり、お祈りを教えたり。村長が亡くなり、後を継いだ新村長は修道院におしかけ、マルセリーノを引き渡せ、渡さないなら村を出ろと脅した。教会の改築も村会の承認がないので、無効だと言い出す。何かと修道僧に文句をつけては、修道院を邪魔もの扱いした。

 マルセリーノ(パブリート・カルボ)は少しづつ大きくなり、修道僧の一人ひとりに「病院さん」「お粥さん」「門番さん」と綽名をつけた。子どもらしく「薬」「牡鶏の足」「角」「太陽を見る色つきガラス」などの宝物を隠したり、相当な悪戯をした。村の市場に出て、売り物の果物の山をくずし、騒ぎが始まって、牛たちが暴走し大混乱。例の村長は大変な剣幕で修道院に乗り込んで来た。

 マルセリーノは修道僧たちに裏屋根裏につながる二階には行くな、大男がいてさらわれると」注意されていた。そこには十字架に張りつけられたキリストの像があった。マルセリーノは、興味津々。或る日、外で遊んでいたマルセリーノはサソリにさされ、高熱で床にふした。命は助かったが、うなされるなか、行くことを禁じられていた屋根裏が夢にでた。体が回復して、マルセリーノはこっそり屋根裏に入ったが、キリストの像を見て、大男と勘違い、慌てて逃げ出した。その後も、マルセリーノは何度も二階に忍び込み、様子が分かってくると、空腹そうなキリストにパン、ワインを台所から失敬しては運んで食べさせた。キリストは、そんなマルセリーノを見て、ママの話、天国の話をマルセリーノにした、「ママは子どもたちに生命と眼の輝きを与える、わたしにもママがいる」と。「ママを愛している?」とマルセリーノ。「心から」とキリスト。「ぼくも、もっと」とマルセリーノは応えた。

 雷鳴のある夜。二階に来たマルセリーノは「ママにあいたい。あなたのママにも」とキリストに伝えた。「では、お眠り。眠らせてあげよう。お休み、マルセリーノ」。そのままマルセリーノは眠るように、天国へ向かって行った。

 パンやワインが消えるので怪しんでいた「お粥さん」が蔭からこの様子を見て驚き、「兄弟たち。二階へ来てくれ。マルセリーノが神に召された」と叫んだ。村中の人たちが、この奇跡を見ようと、教会に駆けつけ、以来、毎年マルセリーノを祝う祭りが開かれるようになった。

 この映画は、このお話を神父が、マルセリーノをお祝いするお祭りの日に、村の病気の女の子とその両親に話して聞かせるところから始まる。男の子の無垢な魂が天国へ召されるまでを、パブリート・カルボ少年は、純粋で愛らしい演技で人々の胸をうった。それはあるときは母を思う気持ちであったり、あるときは信仰への最初の一歩であったり、あるときは無邪気な悪戯であったりする。マルセリーノの歌も心に沁みる。ベルリン国際映画祭(1955度)金熊賞。


モスクワは涙を信じない(Москва слёзами не верит)ウラジミール・メニショフ監督、ソ連、1980年

2017-09-15 23:55:30 | 映画

                                                             
 
カテリーナ、リュドミーラ、アントニーナ、三人の女性の愛、夢、人生を1960年代からの約20年間のモスクワの市民生活を背景に描いた作品。人々の生活、女性の人生に対する考え方が活き活きと描かれている。

 田舎から大都市モスクワにそれぞれ別々に出て来たカテリーナ[カーチャ](ベーラ・アレントワ)、リュドミーラ[リューダ](イリーナ・ムラビヨワ)、アントニーナ[トーシャ](ライサ・リャザノワ)は、女子労働者の寮で同じ部屋に寄宿し、大の仲よし。カテリーナは見習の単純機械工。努力型の才媛タイプだが、専門学校の資格試験に失敗し、落胆していた。リュドミーラは、何事にも明るく積極的なタイプ。「モスクワには有名人が大勢住んでいる」とハイ・ソサエティの男性を物色。アントニーナは、性格のおとなしい良妻賢母タイプ。建設現場で仕上工をして、恋人のニコライ(ボリス・スモルチコフ)は同じ職場で働いていた。

 大学教授であるカーチャの叔父夫妻が一ヶ月家を空けるので、彼女は叔父のマンションの留守番をまかされた。リューダがこれに便乗。リューダの提案で、彼女たちは大学教授の娘姉妹で大学生と偽り、社会的地位のある男性を招いてマンションでパーティを開いた。カーチャは、この計画に躊躇したが、ここでテレビ局のディレクター、ルドルフ(ユーリー・ワシーリエフ)と結ばれた。しかし、後日、カーチャの職業のウソが発覚。ルドルフはカーチャに「これはドラマじゃない、騙したのは君だ、子どもを堕すなら自分で医者をさがせ、それは女の仕事だ」とつれない。結婚はとりやめになり、カーチャは未婚の母となった。リューダは有名なサッカー選手セルゲイ・グーリンと結婚。トーシャは控え目で誠実な人柄のニコライと結ばれた。

 20年の歳月が流れた。カーチャは女手一つで娘を育て、努力の結果3000人もの部下を持つ工場長として成功していた。リューダは夫のセルゲイがアル中になり、家庭崩壊で離婚。七年たっても金をせびりに来るセルゲイに閉口していた。トーシャは平凡に結婚し、幸せな家庭を築いていた。三様の人生模様がそこにあった。

 カーチャは人生の成功者であったが、「仕事でいくら成功したって、わびしさは消えない」と思っていた。そんなある日、ニコライ、トーシャの農園に遊びに行った帰りの電車で個性的な男性、ゴーシャ(アレクセイ・バターロフ)に出会った。彼は研究所で働く組立工で独身。自分の人生に確信をもち、人と人生への洞察力もあり、またナイーブさも持ち合わせていた。カーチャもゴーシャもお互いに惹かれ、娘サーシャも彼に好感を持った。ゴーシャはサーシャに言う、「仕事が好きだ、自分を表現できるから。友だちが好きだ、気が合うし、いつも新鮮でいられる。君のママも好きだ、好きだからだ」。そのような折、かつての恋人ルドルフがカーチャの職場に取材に来た。彼はその偶然に驚きながら、自分の歩んで来た人生の惨めさを話し、娘に会いたいと言うのだった。カーチャは「あなたを最初は愛し、その後憎み、私に成功を見せつけようとした、あの時の大怪我がわたしを強くした、今では好きな人がいて、あの時、結婚しなくてよかった、四十歳は人生の始まり」と述懐し、娘との再会を拒否。

 ところがカーチャの家で娘のサーシャとゴーシャとが三人で食事をしているところに、ルドルフが乗り込んできた。事態をいち早く察したゴーシャはその場を去り、カーチャの前から姿を消してしまった。ゴーシャは、何も話してくれなかったカーチャに腹をたてたのであった。ゴーシャを失ってなき崩れるカーチャの周りにリューダ、トーシャが集まり、トーシャの夫がゴーシャを街中に捜しにでた。彼は漸くゴーシャを見つけ、カーチャのところに連れ戻す。新しい出発の予感があって、フィナーレとなる。

 ひたむきに生き、恋に揺らぐ女たちの正直な気持ちをある時は激しく、ある時はナイーブに、情感を持って描き出したヒューマニズム溢れる傑作である。洒落たタッチで、女性が否応なく直面せざるを得ない結婚、家庭、社会といった切実な問題に切り込んでいるところがこの映画のいいところである。一九八〇年アカデミー賞外国語映画賞受賞。

 監督はモスクワ芸術座演劇学校と国立映画大学監督科を卒業、俳優としても名を知られているウラジミール・メニショフ。主演のベーラ・アレントワはプーシキン名称モスクワ劇場の中心メンバー、メニショフ監督夫人である。

 


炎のランナー (Chariots of Fire) ヒュー・ハドソン監督、イギリス、1981年

2017-09-14 23:48:21 | 映画

                

 
イギリスの短距離界で名をなした二人の実在のランナー、ハロルド・エイブラハムズ(ベン・クロス)とエリック・リディル(イアン・チャールスン)が、ライバル心を燃やしながら1924年のパリ・オリンピック大会で100m走と400m走で金メダルを獲得するまでの過程を描いた作品。二人が全く異なる境遇にあり、別の価値観と人生観を持って走ることを浮き彫りにしたことで、奥の深い人生ドラマになっている。単なるスポーツのヒーローの話ではなく、「国家と信仰の自由、言いかえれば国王や国に服従してその栄誉のために走るのか、それとも神に従って自由を喜びながら走るのか、そのどちらを選択するのか」という問題に直面し、結局、信仰に誠実に生きたエリックの世界観、人生観が感動を呼んだ。

 ハロルドはユダヤ人、ケンブリッジ大学のキーズ寮に籍をおいていたが、周囲のものからはすぐに構える、傲慢、保身のために攻撃的であるが義務感や忠誠心は強いと噂されていた。走ることに抜群の能力をもち、学内のカレッジ・ダッシュに挑戦し、凄い記録をうちたてた。このカレッジ・ダッシュというのはキャンパスの中庭の周囲約200㍍を、正午の時報の第一打から第十二打までに一周するゲームで、700年間達成されていなかったが、ハロルドは初めてこれを実現した。短距離走に抜群の能力を持っていたのだった。

 一方のエリックはエジンバラ大学の学生で、誇り高いスコットランド人、敬虔なクリスチャンの牧師の子でラグビー選手の人気者。伝導の道を進もうとしていた。彼も足が速かった。二人はそれぞれに短距離選手としての道を歩み始めた。

 神が違えば、人生の目標は違った。エリックは神の御名と御技を世に広めるために走るのであり、走ることが神を称える行為であり、「主の愛に身を委ねること、これがゴールへの最短距離」であるとの自覚を持っていた。エリックの妹ジェニー(シェリル・キャンベル)は兄が走ることに専念しすぎて、本来の伝導の道から外れてしまうと心配していた。

 これに対して、ライバルのハロルドはユダヤ系で、神によって選ばれた選民として描かれている。彼は、人種差別を乗り越えるために走った。ユダヤ人であることは痛み、絶望、怒りを持つことであり、屈辱を感ずることであり、それを乗り越えることが彼の課題だった。イギリスはキリスト教徒とアングロ・サクソン人が権力の回廊を支配している国であり、嫉妬と憎悪で他の国のものを締め出していた。彼はこうした偏見を跪かせるために走って勝つことを唱えた。大学の学長(リンゼイ・アンダーソン)や学寮長(ジョン・ギールガット)は、ハロルドがプロの専門コーチにつくことに難色を示し、「勝利をのぞむあまり、大学の理念を見失っている」と批判的であった。

 周囲の批判や懸念をふりはらって、二人はその実力からオリンピック選手に選ばれた。ところがエリックにその信仰を問う問題が起きた。参加種目の100㍍走の予選は、安息日の日曜日に行われるという知らせを受けた。エリックは、このメダルに近い青年を何とかして出場させようとする皇太子、老貴族、そして関係者の圧力があったが、彼は「走れば神の法に反する」と信仰にしたがって、この種目に出場しなかった。100㍍走での二人の対決はなかった。エリックは四〇〇㍍走に出場種目を変え、見事に金メダル。ハロルドは100㍍走で金メダル、二人はイギリス陸上界の栄誉を守った。

 ハロルドは、その後、弁護士、ジャーナリストとして活躍、エリックは宣教師として中国での伝道活動に生涯をささげ、日本の捕虜収容所で四三才の若さで亡くなった。第54回(1981年)アカデミー賞作品賞、脚本賞(コリン・ウエランド)、音楽賞(ヴァンゲリス)。


ジョニーは戦場へ行った(Johnny Got His Gun)ダルトン・トランボ監督、アメリカ、1971一年

2017-09-13 23:56:36 | 映画

                         

 
この映画の印象は、強烈である。ショキングでさえある。原作は、監督自身による1938年の小説。背景は第一次世界大戦。アメリカが参戦。「ジョニーよ、銃をとれ」の歌(この歌のタイトルが映画の原題である)に駆り立てられて戦地に動員された主人公ジョーは、戦死した敵のドイツ兵を埋葬しているさなか、敵の攻撃をうけ、逃げこんだ塹壕で爆弾に吹き飛ばされた。身元不明戦傷兵第407号としてアメリカ国陸軍医療部隊に運び込まれたジョーは、ティラリー大佐の指揮のもとで治療を受けた。ジョーは、目、耳、鼻、あご、歯、両腕、両脚を失なった。頭の一部と胴体がのこって、包帯で全身ぐるぐるまきにされ、病院の暗い一室に横たわっているだけであった。延髄は正常、脳も働いていた。このため、心臓と呼吸中枢が機能し、思考をすることもできた。ジョーは奇跡的に命をとりとめていた。

 治療班は、彼の治療経験から学ぼうとの決断をした。暗い部屋におかれたジョーは、最初のうちは自己意識を持っていなかったが、しだいに事情が分かるようになった。絶望的な気持ちにとらわれた。漸く落ち着きをとり戻し、自分の意識を確認するように惑星の名を唱えたりして、自分の置かれている状況、環境を認識するようになった。体が回復するにつれ、家族の思い出、とくに父が大切にし、また自慢の種であった釣り竿をなくしてしまったときの様子、出征前に恋人カリーンと結ばれたことなどを懐かしく思い出した。夢、現実、想像の交錯、神といった問題が脳裏をかすめた。

 年配の看護婦が部屋の窓をあけ、真っ暗だった部屋に太陽の光を入れると、ジョーはそれに気づく場面がある。太陽光線をよろこぶジョー。若い看護婦はジョーに親身になり、一輪の花を花瓶にいけたりした。また、ジョーの胸の皮膚にアルファベットで Merry Christmas と指でかいて、クリスマスの日を教えた。ジョーは日付を知ることで時間の経過を確認できると喜ぶ。記憶のなかで父からモールスの電信で意思を伝えることを思い出したジョーは、頭の動きでモールス信号を示し、周囲の人に自分の意思を伝えようとした。最初はそれを痙攣と診断され、鎮静剤を打たれたが、そのうちに痙攣ではなく意思を伝えようとする信号だと分かる。ジョーは病院の人たち、看護婦に自分を外にだしてカーニバル・ショーに見世物としてくれ、それができなければ殺してくれとの意思を伝えた。同情した看護婦はジョーの呼吸用の管を閉じて安楽死させようとしたが、軍医は認めなかった。機密として部屋は完全に閉ざされ、標本患者として生かす措置がとられた。絶望と恐怖にさいなまれ「神はいない、こんなところにはいない。SOS、助けてくれ!」と暗闇の一室でうめくジョー。

 この映画はモノトーンで表現される現在とカラーで表現される過去とを巧みに交錯させ、戦争がもたらした非情さを淡々と綴った類まれな傑作である。ベトナム戦争が開始間もない時期に公開された。


夜(La Notte)ミケランジェロ・アントニオーニ監督、イタリア、1916年

2017-09-12 23:17:42 | 映画

                           ←モニカ・ヴィッティ

  もつれ愛のうっとうしさ。殺伐たる愛というのもある。疎外された現代人の心象風景、愛の喪失感を追求した映画監督にミケランジェロ・アントニオーニがいる。この作品は、夫婦の間にしのび込む愛の風化を描いた作品である。何が原因というわけではなく砂糖菓子がくずれるようにかわき、萎えていく疎外された愛、これがこの作品のテーマである。メリハリのある明確なストーリーがあるわけではない。だから、難解との印象をもったり、退屈するかもしれないが、全編を包む男女のアンニュイ(倦怠)な感覚、女と男の疎外された心象風景など、フランス映画的雰囲気が漂う。

 結婚10年を迎えた作家のジョバンニ(マルチェロ・マストロヤンニ)と妻リディア(ジャンヌ・モロー)は、死期が近い病床の友トマゾを見舞った。リディアはかつてトマゾに深く愛されていたが、ジョバンニとの結婚を選んだという経緯があった。トマゾの回復の見こみがないと分かった日以来、ジョバンニとリディアの間の歯車が狂い始めた。心のなかに浮かび上がってくるあるひとつの考え。退屈な家庭生活、ミラノのかつて歩いた場所を訪れたリディアが無意識のうちに向かっていくある方向。夫ジョバンニは、リディアの前では、自分が演技をしているようにしか思えなかった。

 実業家のパーティに招待を受けるが、夫婦は何かを一緒に楽しむわけでもなく、二人とも浮気気味で、双方はそのことに気づいていた。ジョバンニは実業家の娘バレンチナ(モニカ・ヴィッティ)に強い関心をもちゲームに興じ、リディアは浮かない顔で人の間を泳ぐように歩くばかり。パーティ半ばの驟雨のなか、リディアは青年ロベルトの車に同乗するが、心の底から衝きあがってくるものがなかった。リディアはパーティ会場から病院に電話をし、トマゾの死を知った。パーティの席をでて、二人の行き違いは決定的になった。 

 ラストでゴルフコースのグリーンを歩きながらリディアが表明した考えは、もうジョバンニを愛していないということ、死にたいとも考えているがそれはジョバンニを愛していないからだと言った。ジョバンニは「リディアに与えたものは何もないことを悟った、取るものだけを取り与えなった、しかしまだリディアを愛している」と語る。ジョバンニはリディアをグリーンの上で抱くが、彼女は「愛していないと言ってください」と懇願する。

 風化した愛、殺伐とした心象風景、孤独に沈む女と男。絆を持てなくなった現代人の疎外の描写をアントニオーニは乾いた映像で紡いでいく。第11回(1961年度)ベルリン映画祭金熊賞。


フレンチ・カンカン(French Cancan)ジャン・ルノワール監督、フランス、1955年。

2017-09-11 23:14:47 | 映画

                                                                  

 フレンチ・カンカンとは19世紀後半にパリで人気を呼んだショーダンスの一種。速いテンポの二拍子、または四拍子の曲にのって女性がスカートをたくし上げ脚を交互にあげたり、開いたり、随所に見せ場をつくりながら踊る。脚をひらいたまま床に飛び降りたり、とにかく華麗で激しい。カンカンは「ゴシップ」「スキャンダル」を意味する俗語である。モンマントルにあるムーラン・ルージュはパリ万国博覧会のあった1889年にオープン。現在も花の都パリの名所である。

 この作品は、ベル・エポック(良き時代)にパリでカンカンの殿堂であるムーラン・ルージュを開業した興業主ダングラール(ジャン・ギャバン)を主役に、踊り子同士の確執をおりまぜてストーリー化したもの。ダングラールは、ムーラン・ルージュの創始者、シャルル・ジードレルがモデルであるが、ルノワール監督は実像に拘泥せず、自由闊達にこの映画を作った。舞台は十九世紀後半のパリ。ダングラールは下町のダンス・ホール「白い女王」で妖精のように踊るニニ(フランソワーズ・アルヌール)のセンスを見こみ、彼女をダンサーとしてスカウト。カンカンを売り物とした殿堂の開業準備を進めた。ダングラールは以前には別のダンス・ホールを経営し、ローラ(マリア・フェリックス)などのダンサーを抱えていた。初老の貫禄ある色男で、女性遍歴は絶えなかった。ローラはダングラールの愛人だった。

 ニニは洗濯女。その生活から抜け出すことを夢見ていた。パン屋の若者ポーロ(ミッシエル・ピコリ)とは恋人関係にあった。ダングラールがニニに接近したことが、ローラにとっては我慢がならない。そのことが原因でニニとローラは、凄まじい派手な大喧嘩をする。ポーロも、ニニとダングラールの関係が心配であった。

 ムーラン・ルージュ開業には、多額の資金が必要であった。しかし、ダングラールは所有していた店の差し押さえにあい、資金を工面できなかった。ニニとローラ、そしてポーロもからむ騒動に巻き込まれ、大ケガもした。ローラが邪魔だてに入り、資金繰りはうまくいかず、このケガでの入院で、開店は難航を極めた。

 某国の王子、アレクサンドル殿下も「白い女王」で会ったニニに心を寄せ、結婚を申し出ていた。ニニはそれを拒否。殿下は既に「白い女王」を購入していたが、その権利書をニニに託した。結婚できなくとも、ニニへの想いを示したのだった。権利書を得たニニは、ダングラールと首尾よく、ムーラン・ルージュの開業に漕ぎつけた。

 ムーラン・ルージュの開店公演。呼び物は、ニニのフレンチ・カンカン。ダングラールはこの時、別の女性に心が移っていた。ニニが舞台に立つことに反対していた恋人ポーロの願いを振りきったニニであったが、ダングラールの態度に逆上し、出演を拒否。楽屋に閉じこもってしまう。母親、ローラが説得し、ダングラールに「大切なのはお客を楽しませることだ」となだめられ、舞台にたった。割れるような拍手と喝采。「ニニ、カンカン」の歓呼と昂奮の坩堝のなか、ニニはカンカンを踊る。フレンチ・カンカンの大乱舞。数十分に及ぶ踊り子たちの躍動感のある大レビューでフィナーレとなる。

 ダングラールはショー・ビジネスに生きる男。その哲学は、踊り子をスカウトし、育て、舞台にたたせること。自分のために歌ってくれていると客に思わせるショーを企画することだ。恋に落ちることもあるが、それは決して彼の本意ではない。ニニの出演拒否に、はっぱをかけるダングラールは、迫力満点。彼の哲学をぶちまける。お客を喜ばせるために踊れ、俺はおまえを金持ちにさせたり、結婚で幸せにさせたりするつもりもない、俺に大切なのはスターを作りつづけることだ。美男子でもない俺はショーを成功させ、みんなに楽しいショーを提供するのが仕事なのだ、君の望みなど問題じゃない、踊らないなら、やめてしまえ、と。

 カラフルな画面。登場するシャンソン歌手の歌も楽しめる。エディット・ピアフ、パタシュ、アンドレ・クラボ等々。全編、これぞフランスとでもいうべき雰囲気が横溢。陽気で明るいフランス人気質もよく出ている。

 ナチスから逃れて長くハリウッドにとどまったルノワール監督が帰国後、最初に着手した作品という点でも特筆される。