【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

町田健『まちがいだらけの日本語文法』講談社新書、2002年

2011-03-31 00:05:08 | 言語/日本語

                       

 中学校で教える国文法は、この間、日本語研究が蓄積されているにもかかわらず、50年以上もその内容がかなり疑問点を含んでいるにもかかわらず基本的に変わっていず、おかしなことだというのが著者の言いたいことで、それらが本書全体で具体的に指摘されています。

 その筆頭が文節(「不自然でないように文を区切った単位」という曖昧な定義)であるそうです。文節では文の構造を説明できず、これとの関連で登場する自立語と付属語の分類もいいかげんなものであるとのこと。

 このような調子で、連体形の説明は妥当なのか、未然形と言う名称は適切なのか、どうして自動詞と他動詞を区別するのか、動詞を否定する「ない」と形容詞を否定する「ない」は同じか、「推量」と「推定」の助動詞をどう区別するか、格助詞の「格」とはどういう意味なのか、「は」が副助詞なのなぜか、日本語の述語はどうして文末にくるのか、日本語にはなぜ関係代名詞がないのか、など普段あまり考えたことがない日本語の問題が解かれていきます。

 各節の頭には国文法でよく出題される問題が掲げられ、それらの解答のポイントとされていることが納得のいかない問題点をもっていることが指摘され、それではそれらの問題点をどうしたら解決できるのか、というように叙述上の工夫があるので、理解しやすいです。

 最後の「国文法はどうしてこんなに問題が多かったのか」が一番面白く読めました。日本語文法は、橋本文法、時枝文法とともにあることは、中学のときに習いましたが、橋本進吉(1882-1945)や時枝誠記(1900-1967)に影響を与えたのがスイスの言語学者ソシュール(1857-1923)です。

 ソシュールは言語学の対象と目標を定めた学者で、橋本はそれを踏襲する形で、時枝は批判的にアプローチすることで日本語文法の体系をまとめたとのこと。著者は、両者の偉業を認めながら、しかし、橋本は文節と言うよくわからないものを前提にしたことが(ソシュール言語学を正確に理解していなかったことの結果)、また時枝はその「言語過程説」(この説では文の構造が説明できず、ソシュール批判としては不備)に問題があったことが難点として指摘されています。

「ショパンVS.シューマン:第4回(諧謔と情熱)」by イリーナ・メジューエワ

2011-03-29 00:08:20 | 音楽/CDの紹介

         

 エレーナさんの「ショパンVS.シューマン」シリーズの4回目で最後。今回は「諧謔と情熱」がテーマです。

 この日の演奏曲は、シューマンの「クライスレリアーナ(Op.16)」とショパンの「スケルツォ2番(Op.31)」「スケルツォ4番(Op.54)」に「ノクターン(Op.32-1)」でした。イリーナさんの演奏はダイナミックところもあり、繊細なところもあり、完璧でした。とくに、「クライスレリアーナ(Op.16)」は演奏者泣かせの難曲だそうですが、見事な演奏でした。解説者の真嶋雄大さんは満足そうでした。

 「クライスレリアーナ(Op.16)」のタイトルは、エルンスト・アマデウス・ホフマン(1776-1822)の著作「カロ風の幻想小品集」に登場するロマン派の芸術家クライスラーに由来するとのこと。長編小説「牡猫ムルの人生」の楽長ヨハネス・クライスラーの伝記というのもあるそうです。その小説からのインスピレーションで作られたのが、シューマンのこの作品です。
 全曲は8曲で構成され、それぞれが独立した楽曲でありながら、長調と短調の劇的な対比、急と緩が繰り返される配置など極めて巧みに構成されています。この作品はショパンに献呈されました。

 ショパンの2曲のスケルツォ。イタリア語のスケルツォは翻訳しにくい用語のようですが、諧謔とか冗談という日本語があてはめられています。古典派の時代には、当初、交響曲や弦楽四重奏曲の第三楽章にはメヌエットが使われることが多いでしたが、ベートーヴェンはそこにスケルツォを取り入れ、当時の人々を驚かせました。それというのも、メヌエットはゆったりとしたテンポで優雅なのですが、スケルツォとなると溌剌とした躍動感があり、かつくだけた感じがあったからで、メヌエットに慣れ親しんでいた人々には、ある種の驚きがあったようです。

 ショパンのスケルツォはこれとも異なり、4分の3拍子の形式は取り入れつつ、複雑なリズムの構築、意外性のある旋律で、独自のファクターを孕みながら展開していきます。「スケルツォ2番(Op.31)」はショパンのスケルツォのなかでえは最も知られている作品です。「スケルツォ4番(Op.54)」は、ショパンがスケルツォの方向を劇的に転換させた作品としてしられ、単純な反復が意識的に避けられ、牧歌的な抒情が全体を支配し、気まぐれで落ち着かない雰囲気が横溢しています。円熟した壮大な作品です。

 ノクターン(夜想曲)はアイルランドのピアニストで作曲家であったジョン・フィールド(1782-1837)が創始した形式です。「ノクターン(Op.32-1)」は1835年に作られ、翌年出版され、カミーユ。ドゥ・ビリング男爵夫人に献呈されました。甘美で夢想的なノクターンです。


古関彰一『憲法九条はなぜ制定されたか』岩波ブックレット、2006年

2011-03-28 00:46:00 | 政治/社会

                


 このブックレットでわかったことを書きます。
 象徴天皇を規定した1条と、戦争放棄をうたった九条とはワンセットでした。極東委員会による天皇の戦争責任を回避する目的で、恒久平和と交戦権の放棄を国際的に知らしめるためにマッカーサーが捻り出した案がこれだったとのこと。

 この話は小森陽一「天皇の玉音放送」にもありました。そして、平和憲法制定の背景には、沖縄の基地化(「沖縄人は日本人ではない」‐マッカーサーの認識)もあったのです。

 その後、九条問題は戦争放棄と軍備不保持の件が一人歩きし、天皇制、戦争責任、沖縄の基地化と切り離され、結果として「敗戦後の日本が国際社会に復帰するために必要な憲法とは何か、といった視点が欠け」(p.39)しまったとのこと。

 「日本国憲法の平和主義は、戦後世界で日本が生きていくためのパスポートであったことをあらためて確認」(p.47)しなければならないのだそうです。

 この本が出版された2006年は、憲法制定60周年、わずか60年の年月しかたっていないのに、憲法九条の発案者が誰であったのか、幣原首相なのか、吉田茂外相(当時)なのか、はたまたマッカーサーなのかが、最近まで分からなかったというのですから、これは政治が密室で行われていたことの証ではないでしょうか?


伊藤礼『伊藤整氏の奮闘の生涯』講談社、1995年

2011-03-26 00:20:32 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談

 作家、伊藤整(1905-69)の次男の眼からみた父親の記です。

 珍しい本に出会いました。こういう本に出会うに可能性として、一番ありそうなケースは伊藤整の小説のファンで、この作家のことをいろいろ知ろうとしてアンテナに入ってくるということがありうるでしょう。わたしの場合は、吉村昭という作家がエッセイで、この本がいいと書いてあったので、取り寄せました。上記とは別のルートです。吉村昭は信頼できる作家のひとりです。この人がいいと言っているものはだいたい間違いないです。本との出会いは実にさまざまです。

 さて、この本ですが、面白い。伊藤整の人柄も孤軍奮闘ぶりもよくわかります。流れは、転々とした居住地にそって記述してあり、千代田町から始まって、和田本町、千歳烏山、そして北海道、また東京に戻って日野、久我山と続いています。

 著者は書いています、父であった伊藤整は日記をこまめに書いていましたが、著者自身の小さいときの断片的記憶がどういうものであったのかは、父の日記を読むとつぶさに書き込んであり、「あーそういうことだったのか」と留飲をさげることできる、と。

 「ものを書くことを職業とする父親を持った子供になにか利益があるとすれば、こういうことは遠慮なく利益だということができる」(p.9)と言っています。

 本書はこの調子をベースに最後まで進んでいきます。次々と、かなり用意周到に転居するさま、資金のやりくり、太平洋戦争末期の北海道塩谷疎開の決断、著者の礼が小さいころから虚弱であったことへの父らしい配慮、チャタレイ裁判の顛末、毎日入浴のこだわり、日常生活での創意工夫、癌との壮絶な闘い、こうしたことが著者独特の父親への愛情をこめたユーモア溢れる文体で、しかし父を「彼」と書いてかなり客観的に描き切っています。

 「父が生きている間は、わたしたちは決して父の心情のなかなどに立ち入れるようなことは許されなかった。またそのような真似は家中の誰ひとりとしてしようと思う者はなかった。私たちは父を文学者として考えたり、父の書いたものを読もうとしたり、父の生活に興味をもったりすることはなかった。私たちの家で読まれている新聞に父が連載の小説を書くことがあっても、私たちの誰ひとりとしてその事実に気づく者はいなかった。・・・父は、死んで、はじめて私たちに身近なものとなった」(pp.245-246)。

 秀逸なエッセイ集。


森田功『やぶ医者のねがい』文春文庫、1998年

2011-03-25 00:09:09 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談

            やぶ医者のねがい

 「やぶ医者」と言っているのは謙遜で、作家の吉村昭によると、著者は日本の開業内科医のなかで十指のひとつに入る名医です。

 同時に小説、とくにエッセイの達人であり、その短編が北日本文学賞を受賞したりしています。本書を読むと独自の文学世界をもっていることがわかります。それが何かを言葉で表現することは難しいですが、読み進めると他の人とは異なる考え方、言い回しを感じます。漂っているのは庶民の哀歓、独自の死生観で、滋味深いですね。

 もちろん、著者は医師ですから、本書に入っている31のエッセイは(「過ぎた夏」「棟梁の入院」「切るか切らぬか」「治療のすすめ」「ヒダル神がとりついた」など)、病気、治療、死に関するものばかりなので、ときどき読み続けるのが辛くなります。いろいろな病気があることに、驚かされますし、怖いです。

 同時に著者自身がこれらのエッセイ執筆中は体調がよくなかったようで、その気配が抑えたトーンで書きこまれています。体調が悪いのだが、みなにたよりにされ、聴診器などをもって、息をきらせながら、往診にかけまわっていたのです。1998年、82歳で亡くなりました。合掌。


柴田トヨ『くじけないで』飛鳥新社、2010年

2011-03-24 00:06:00 | 詩/絵本/童話/児童文学

                          くじけないで 
「くじけないで」という本の表題は、おりからの東北・関東大震災で被害にあわれた方々へのメッセージのように聞こえます。

 本書は91歳で詩作を始めた柴田さんの最初の詩集です。まもなく100歳を迎えられ、記念の第二集が出る予定と聞いています。100万部以上売れたそうです。

 産経新聞の「朝の詩」という欄に採用されたのが切っ掛けで(詩作は息子さんのアドバイスとのこと)、それらが蓄積され、未発表のものを含めて可愛らしい本になりました。

 長い人生を経て、素直な心にうつしだされた風景が詩になっています。掲載されている作品は42。編集者の女性のアイデアもあったようです。

 「朝の詩」の選者の新井和江さんが巻頭言「トヨさんのようにいきよう」を書いています。


「シングルマザーズ」(二兎社30周年記念:作・演出 永井愛)[東京芸術劇場小ホール]

2011-03-23 00:20:38 | 演劇/バレエ/ミュージカル

                          
 シングルマザーズは、離婚、死別して子育てをしている母親、あるいは未婚の母たちのこと。この芝居に登場する直、燈子、初音、水枝はみなそれぞれの過去、現在の状況は異なりますがシングル・マザーです。

 離婚して12歳の息子と暮らす直は、派遣社員として働きながらシングルマザー支援団体“ひとりママ・ネット”の事務局長役をこなしています。代表の燈子と、児童扶養手当削減を画策する行政に抗議する活動にとりくみ、ロビー活動、ネットワーク作りをしながら、国会を動かそうと奮闘しています。

 事務所にはシングルマザーが訪れますが、代表の燈子と事務局長の直は彼女たちの悩みごとを聞き、その相談にのっています。水枝と初音そうしたなかで出会った仲間です。彼女たちは運動につまずき、生活にくたびれながらも、自立していきます。それは、直の励みです。

 しかし、就職差別や低賃金にあえぐ実態は、なかなか改善されません。ある日、会社員の小田がこの団体の事務所に来ます。妻子が突然消えてしまったというのです。

 小田は外見は実直で穏やかそうにみえます。話を聞くうちに、直は小田に惹かれますが、彼が妻に暴力を振るっていた過去を見抜きます。二人の間にあった、家庭内暴力の被害者と加害者という溝は埋まることはありません。直も家庭内暴力に苦しんでいた過去があり、この問題にかけては非常に敏感な神経をもっていました。

 沢口さん、吉田さんの演技は「直球勝負」で迫力がありました。2人の衝突から男中心社会の身勝手さ、男のわがまま、甘えが見えてきます。二人の衝突の過程は、スリルがあり、緊張感がありました。水枝と初音を演じた玄覺悠子さん枝元萌さんもそれぞれ個性的で魅力がありました。とくに枝元さんの演技は笑えるところが多く、劇全体の緊張感にいい意味での緩みを醸し出していたように思います。

 蛇足ながら、ストーリーの背景にあったのは、以下のような事情です。
 “ひとりママ・ネット”は、児童扶養手当削減反対の運動で闘っています。児童扶養手当というのは、ひとり親家庭などの児童に支給される手当てです。所得制限がありますが、母子家庭の支えでした。
 子どもひとりあたり月額上限約4万円(満額支給の場合、2人目には5000円加算)。これが小泉政権下の2002年に、母子家庭などの自立支援を進める母子寡婦福祉法「改正」にともない、5年以上受給してきた世帯は、2008年から半額を限度に削減されることになりました。反対に立ち上がったのがNPO。精力的な運動をくんで、2007年12月、削減を凍結させました。

 公演のあと、沢口靖子さん、永井愛さんがロビーで、東北・関東大震災救援の募金箱をもって、呼びかけをしていましたので、募金をしてきました。

作・演出 永井愛

<出演>
沢口靖子(上村 直)
根岸季衣(高坂燈子)
枝元 萌(大平初音)
玄覺悠子(難波水枝)
吉田栄作(小田行男)

 


「女の人さし指」(向田邦子原作、清水曙美脚色、石井ふく子演出)[三越劇場]

2011-03-22 00:05:27 | 演劇/バレエ/ミュージカル

                  

               

 震災のなか、申し訳ないと思いつつ、だいぶ前からチケットを入手していたので、「女の人さし指」(向田邦子作、石井ふく子演出)を観に三越劇場(日本橋)に行きました。

 3月3日から公演中ですが、11日の震災の日から数日、休演にしたそうです。この日も、マネージャーの方から挨拶があり、震災での被災者へのお見舞いとともに、公演の継続を苦渋の選択のなかで決めたことについて説明がありました。(客席にも若干空席がありました)

 この演劇を観に行こうと思ったのは、何といっても若尾文子さんが出演されたからです。わたしがまだ高校生だったころ(札幌にいました)、TV番組で「クラクラ日記」が放映され見ていましたが、このなかで若尾文子さんが出演されていて、それ以来、ファンになってしまいました。この「クラクラ日記」と言うのは坂口安吾夫人の回想記です。作家、安吾との生活をつづったものでした。

 若尾文子さん出演の映画はかなり観ていますし、四方田犬彦他編著『映画女優・若尾文子』も読んでいます。しかし、実際に、若尾文子さんを見たことはありません。そこでチケットを買った次第です。

 舞台は「次郎」というおでん屋を切り盛りする砂子(若尾文子さん)とその男性のお客たちとの絡みです。

  おでん屋のカウンターの脇に置かれた金魚鉢。2匹の赤い金魚は砂子が浅草寺の縁日で買ったもの。
 おでん屋には
彼女を慕う新聞記者の殿村(三田村邦彦さん)と画家の、折口(松村雄基さん)らが常連客として訪れています。折口は砂子との結婚を夢み、いつ告白しようかと悩む日々。他方、砂子と殿村の間ほのかな恋心が生まれ、発展しています。

 砂子には妹(熊谷真美さん)がいて、彼女は夫に愛想をつかし、おでん屋にころがりこんできます。

 しかし、殿村には妻がいて(長山藍子さん)、彼女
は夫を必死に取り戻そうとします。

 さて、この結末は????
 


東北・関東大震災(ブログ通報④)

2011-03-19 00:00:15 | その他

 東北・関東大震災が起こってから一週間たちました。被災地では地震発生の2時46分に黙とうがありました。余震はかなりおさまってきましたが、一週間たってまだあるということ自体が異常です。

 死者の数、不明者の数が2万人にせまって、前代未聞の状況です。原発問題が深刻化しているのは、報道にあるとおりです。放射線のレベルは直接健康を害するものではありません、神経質にならざるをえません。まわりのご家庭をみると、洗濯物を外で干している家は、ほとんどありません。そのような手段を講じる必要は全くないのだそうですが、過剰反応したくなる気持ちはわかります。

 原発の状況は相変わらず非常事態で、現在いろいろな工夫で炉心、使用済み核燃料を冷却しています。早く目途がつくことを期待します。外部電源の復旧で冷却できるようになるのが一番いいのですが、これはもう少し時間がかかるようです。「時間との闘い」との現場報告がありました。

 福島県民が地元を脱出し始めているのも深刻です。わたしの住んでいる近くの埼玉アリーナには、
2500
人前後の福島県民が逃げてきています。

 社会的影響が多方面に出ています。株価暴落、円高進行はそうですが、地震保険の支払額が阪神・淡路大震災をはるかに上回る見通しとか、プロ野球開催の是非までいろいろです。相変わらず、コンビニ、スーパーには、米、パン、カップめん、レトルト食品、トイレット・ペーパー、電池などが棚にありません。この機会を悪用して、振り込み詐欺が横行しています。妙な風評も飛び交っています。とくにネット上で。

 わたしたちは、たとえば太平洋戦争とか、関東大震災とか悲惨な歴史的事件に直接遭遇しておらず、歴史上の事件としてしか認識していないのですが、今回の巨大地震は①その規模の大きさ、②津波による破壊、また③原発事故を含むという人類史上初の事態で、将来ずっと記憶にとどめられることになりますが、現在日々その事態に立ち会っているわけです。

 いずれにしても、1日も早い被害者の救出、インフラの復旧によって、被災地に安寧が訪れることを祈ります。

 


吉村昭『冬の鷹』新潮文庫,1976年

2011-03-18 00:05:42 | 小説
                               
                        
 「解体新書(ターヘル・アナトミア)」を翻訳した前野良沢、杉田玄白(他に中川淳庵、桂川甫周)。ふたりの生涯、生き方をこの翻訳作業を中心に描いた作品です。

 訳業は良沢が中心になって進められました。玄白はオランダ語解読の能力がほとんどなかったからです(玄白の貢献は出版実務に携わったことである)。「解体新書」の翻訳は、47歳頃からオランダ語の勉強を始めた良沢にとってはとりつくしまもない困難な作業だようです。

 著者の吉村氏も実際に原本にあたったようですが、それを良沢が蘭和辞書なしで訳したことに驚愕しています。

 多大な時間をかけて(4年ほど)翻訳がなり、玄白はこれを公にすべく、訳者の名前として当然、良沢の名前も掲げようとしましたが、良沢は固辞しました。翻訳に未熟なところ、不完全な個所があるのを自覚していたからでした(良沢は刊行そのものには反対しなかった)。

 この小説は近代医学に先鞭をつけた「解体新書」の翻訳作業と出版のプロセスを克明に書き込んだ部分が白眉です。しかしそれよりも、著者は出版を契機に玄白が医者として名声を博し、生活も豊かになったのとは対照的に、学究肌の良沢は性来の人嫌いも手伝って、不遇の生涯をおくったという形で、両者の人生を劇的相克を浮き彫りにしたことに興味があったようです。

 くわえて当時の社会背景、政治動向に目配りがあり、平賀源内の生き方、良沢と尊王派の高山彦久郎との交流も描かれ、小説としての厚みを感じました。

 


東北・関東大震災(ブログ通報③)

2011-03-17 00:30:58 | その他

 今回の地震は、単に巨大地震というだけでなく、大津波、そして原子力発電所の事故と重なっているので、世界でも従前に経験がない事態で、もちろん歴史上でも例をみない大惨事です。

 TVの映像をみると、津波の破壊力の恐ろしさがくっきりです。女川では高さが15メートルだったそうです。津波の恐ろしさは高さだけでなく、巨大な水の塊となってすべてを飲み込んでいくことです。それを目の当たりにしました。物理的にはビルや家屋には1000トンを超える圧力がかかったようです。津波の前では、人間は蟻の子のようであり、建物はおもちゃのようです。

 そして、原子力発電所の危機。いまは必死に1号機、2号機、3号機の原子炉を冷却する方法が考えられています。炉心が冷却されず、しかも空気と接すると水素を発するので、爆発します。4号機は使用済み核燃料の冷却ということになっています。これも冷却しないと1200度を超えてしまうのだそうです。5号機、6号機も4号機同様、地震があったときは停止されていましたが、こちらも当面は何ごともないようにみえながら、成り行きは監視していないといけないようで、放っておくわけにはいかない状態です。6機とも、地震と津波との連鎖によって被害にさらされました。

 今日は東京に出ました(わたしは埼玉県在住です)。電車は、回復していました。とくに往路はガラガラでした。復路は通常の混み方でした。

 被災地では日に日に窮状が深刻化しています。とくに何もできないのですが、昨日は義援金を振り込みました。義援金活動は9月まで続けられるので、毎月一度を心がけたいと思います。

 


東北・関東大震災(ブログ通報②)

2011-03-16 00:37:15 | その他

  いま(10時31分)、地震がありました。静岡県東部が震源のようで、富士宮市では震度「6強」(わたしの居住区は3)だそうです(マグニチュード6.0)。新幹線は止まりました。これは東北大地震の余震ではなく、独自の地震のようです。

 今日は日中、余震が少しあったくらいで、落ち着いた感じでしたが、たったいまの大きな地震を経験すると、まだまだ予断をできない状況です。

 朝に予定されていたわたしの地域の計画停電は、結局、ありませんでした。こういうふうに計画停電に関する状況は、二転三転しています。わたしは今日は自宅にいたので、とくに生活に影響はありませんでしたが、通勤で停電を考えて早めに出た人は混乱したようです。

 郵便局に行って、義援金を日本赤十字社に振り込みました。そのあと、買い物にいったのですが、生協にも、大型スーパーでもパン、米、餅、カップラーメン、電池、ガスボンベなどが全部売り切れで、棚にはなにもありません。多くの人が地震対策で買い占め(?)をしているようで、不愉快になりました。

 交通は間引き運転が多いようですが、だいぶ回復してきました。ところによってはホームに入れないほどで、行列が何百メートルも連なっていたところもあったようです。TVの映像に映っていました。

 東北地方では相変わらず、被害の全貌はわからないまま、死者・行方不明者の数が増えています。深刻なのは原発です。1号機、3号機に続いて、2号機にも支障がでましたし、4号機も異変、火災が観測されました。

 しばらくは、警戒です。        (3月15日10時42分記)


東北・関東大震災(ブログ通報)

2011-03-15 00:08:55 | その他

 東北・関東大震災、時間が経過するにつれ、被害の甚大さが明るみになってきて、その大きさに驚愕しています。マグニチュード9.0というのはわが国で未曾有のことですが(阪神大震災の1000倍のエネルギーだそうです)、今回は津波の脅威を見せつけられました。

 あまりみたくない映像とはいえ、TVの映像に映し出される津波の現実を直視すると、自然の猛威に震えます。一網打尽の村と町、被災地は戦争の焼跡のようで、正視できません。いまだにおさまらない余震、建物の倒壊、津波の猛威の痕跡、ライフラインの途絶、くわえて原発の被害(水素の爆発)、計画停電、他人事ではなく、いつ関東に連動してくるかわからない状況です。

 被災地の窮状の一日も早い安定と復興を祈るばかりです。
 
 わたしは地震のあった11日(金)2時50分ごろ、丁度電車に乗っていました。電車が軋んだような音をたてて、急停車。人身事故でもあったのかと思いましたが、電車が異常に揺れて、すぐに地震とわかりました。すぐに止むだろうとたかをくくっていましたが、その後、数回、強い揺れがあり、そのうち車内の電気が消え、暖房もとまりました。電車はなかなか動かず、そのうち発車のめどはたたないといわれ、約1時間半ほど缶詰になりました。そして救助。場所は駒込だったので、駅におり、改札をでたところ、ものすごい人だかり。

 そのうち地震の大きさがわかり、東京の電車は全く終日動かない可能性があると判断。それではというわけで、職場のある池袋まで歩こうと決心し、歩き始めました。

 この日は結局、帰宅できず職場で宿泊。翌日11時ころ、そろそろ交通事情は改善されたと思い、職場をでたのですが、ここからがまた大変でした。自宅に着いたのは午後3時ころ、普通は職場と自宅間、ドア・トゥ・ドア約1時間のところ、4時間かかってしまいました。

 大変な混雑と、なかなか発車しない電車。自宅の最寄駅まで電車は動いておらず、3つ前の駅で降り、そこからタクシーと考えましたが、これが前代未聞の長蛇の列。

 とぼとぼと自宅に向けて歩きだしたのですが(約15キロくらい)、20分ほどで空車をみつけたので、おがみたおして、乗せてもらい、ほうほうの体で帰宅しました。

 個人的なこの体験は序の口のまた序の口。冒頭のように被災地の惨状に呆然としてしています。義捐金など動きださなければと思っています。

 原発は1号機、3号機に続いて、2号機も爆発の危険性が高まっているとのこと、警戒を怠ることができません。

 明日の午前6時20分から10時まで、わたしの住んでいる地域は「計画停電」が予定されています。


新田次郎『剣岳-点の記-』文春文庫、1981年

2011-03-14 00:05:04 | 小説

                             
                                                                  

 測量官、柴崎芳太郎の測量を目的として剱岳登攀記です。

 日本の測量技術は明治4年工部省測量司によって着手され、その後内務省地理局と兵部省測量課の二本建でこれを遂行し、明治21年陸軍参謀本部測量部に統一されました。

 柴崎はこの参謀本部の測量官でした。柴崎隊の剱岳登頂は明治40年7月12日と推定されています。これは著者の推定であり、当時の公式記録はないそうです。この日に長次郎、測手の生田、人夫の金作、鶴次郎が登頂、15日後の27日に柴崎、測手の木山、長次郎、金作、久右衛門、吉次郎が第二登をなしたとのこと。これも著者の推定です。

 タイトルにある「点の記」の意味は「三角点設定の記録」ということです。測量の基準になる点を定める仕事で、山脈でのこの事業は困難を極めます。剱岳はわけても登攀の難しい山で、地元では「決して登れない山、のぼってはいけない山」と言われていました。しかし、測量には避けることができないことで、それは参謀本部測量部の至上命令でした。

 くわえて、その登攀はかつて誰も登ったことがなかったがゆえに、剱岳初登頂という栄誉もかかっていたわけです。柴崎隊の他に、山岳会が初登頂を虎視眈々と意図しているとの噂もあり、この先陣争いがこの小説の副題になっています。

 柴崎隊はこの競争に勝つのですが、登頂して頂上に錫杖と剣の穂があり、剱岳登頂者がすでに千年も前にいたことがわかり、これゆえに測量部の上部の、柴崎の偉業への評価は低く、むしろ不問にふされました。このあたりの記述が後半の山です。

 柴崎隊の登攀までの想像を絶する困難と苦労、隊の使命感と団結、ラジオも気象予報もないなかでの登山技術、登頂測量という営為の意義、それと上記の山岳会との確執、これらが一体となって話が展開され、一級の山岳小説になっています。

 著者はこの小説を書くにいたった経緯を末尾に言及しています。これも読み物として面白いです。それによると、著者はこの小説を書くために、64歳でしたが実際に剱岳に登頂したとのことです。

 なお、この小説は近時映画化されたましが、未見です。こちらも出色の出来栄えとの評価です。

「日本人のへそ」(こまつ座・第93回公演、於:渋谷BUNKAMURA[シアター・コクーン])

2011-03-11 00:08:18 | 演劇/バレエ/ミュージカル

                
 劇作家の井上ひさしさんが亡くなって早一年(命日は4月9日)。この間、「井上ひさし追悼ファイナル」がありました。「木の上の軍隊」「黙阿弥オペラ」「父と暮らせば」「水の手紙」「少年口伝隊一九四五」「化粧」。その最後を飾るのがこの「日本人のへそ」です。
 

 日本人のへそ? このタイトルは何を意味しているのでしょう。いろいろな要素、たとえば日本人論、文化論、戦後の歴史批判、社会風刺、人間の生きざまへの喝采、などなど。それらが混然一体となって舞台で表現されています。劇のなかにはまた劇が入れ子のように入っていて、構造的になっていて、その劇中劇のなかでの殺人事件?そこにありえないどんでん返しのくりかえしがあります。

 話のすじをざっと示すと、吃音をもった男女を矯正するためには、劇(ミュージカル)でセリフを上手に使うとよいということでで、いかがわしい大学教授が脚本家を書くことになります。

 その劇は岩手の貧農の家族に育った娘が、上京し、浅草でストリッパーになり、いい知れぬ苦労をし、男遍歴を繰り返し、そのはてに政治家の情婦になりますが、直前に殺人事件が・・・。さて、その犯人は?ということになります。男たちの欲望が膨れあがり、転々と汚れた職を変え、這い上がったその女性の名前は、「ヘレン天津」。この役を笹本玲奈さんが演じています。

 浅草のストリップ劇場。戦後そこで、多くの喜劇役者が育ち(伴淳三郎、森川信、八波むと志、渥美清、三波伸介、坂上二郎など)、一種のお笑い文化のシーズがまかれました。作者の井上ひさしさんは、そこで下積みの経験をもち、その世界を知りつくしているので、舞台はただ単にある筋が展開されていくというのではなく、その世界にかもし出されていた人間模様をいかんなく明るみにだしています。

 俳優の演技(踊り、歌)、お色気演技に言葉遊び、軽妙なギャグとアドリブ。観客は爆笑につぐ爆笑。ここで笑っていいの・・と戸惑いながら、涙を流しながらまた笑ってしまいます。
 
   チラシにはこう書いてありました。「出演は、新劇、小劇場、ミュージカル、ピアニストとそれぞれの一線で活躍中の強者を迎え、栗山民也の神業的演出を中心に、音楽はジャズにとどまらずあらゆるジャンルに挑戦し続ける小木曽真、振付は日本ミュージカル界の第一人者謝珠栄、美術はすてきな舞台空間を生み出す妹尾河童と、今考えうる最強のスタッフでお送りいたします」と。

<出演>  *ひとり10役近く演じていますが、下記の配役は最も主たるものです。
・石丸幹二(会社員)
・笹本玲奈(ストリッパー)

・辻 萬長(教授)
・植本 潤(学生)
・吉村 直(合唱隊)
・古川龍太(合唱隊)
・久保酎吉(審判員)

・明星真由美(アナウンサー)
・今泉由香(合唱隊)
・高畑こと美(合唱隊)
・町田マリー(沖縄娘)

・たかお鷹(右翼)
・山崎 一(鉄道員)

・小木曽真(ピアノ伴奏者)

<美術>妹尾河童
<照明>勝柴治朗
<音響>山下浩一
<衣裳>渡辺園子
<振付>謝 珠栄