【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

東京芸術劇場での立教大学交響楽団の若々しい演奏会

2009-06-29 00:45:49 | 音楽/CDの紹介
RIKKYO UNIVERSITY SYMPHONY ORCHESTRA
CONCERT IN TOKYO
 

  立教大学交響楽団・東京演奏会が池袋の東京芸術劇場大ホールでありました。団員のM君にチケットをもらいました。
  曲目は2曲で、グリーグの「ペールギュント第一組曲/第二組曲」とブラームスの「交響曲第3番ヘ長調・作品90」です。指揮は、池田俊さんでした。

 グリーグの「ペールギュント第一組曲/第二組曲」は、民話の登場人物を題材としたイプセンの詩劇です。イプセンが自らの作品の舞台化にあたってグリーグに付随音楽の作曲を依頼したのです。

 第一組曲の「前奏曲の「朝」」は、いろいろなところでよく演奏されます。すがすがしい朝の気分にあふれています。「山の魔王の宮殿にて」も元気がよく、高揚感がありすばらしい曲でした。

 ブラームスの3番は、今回のコンサートを聴く前にCDで聴き込みました。第2楽章は渋いですが、抑制がきいたなかにも美しいメロディが印象的です。第4楽章は暗雲が立ち込めるような予感から始まり、激しい迫力でもりあがっていきます。

 指揮者と楽団が一体となり、学生らしい若々しい演奏でした。よくこんなにレベルの高い演奏ができるものだと、ひとしきり感心して帰ってきました。

 ひとつの楽団の定例演奏会に出かけることにはある楽しみがあります。普通、どの演奏会を選ぶかというさい、どうしても曲目に目がいきます。あまり聞いたことがない曲ですと、少し腰がひけます。聴いていて楽しめないからです。しかし、ある楽団のファンになると、演奏会ごとでとりあげられる曲はCDであらかじめ耳をならします。そうすると、私自身の視野がひろがります。

 前者の場合にもそうすればいいのではと思われるかもしれませんが、なかなかそうはいきません。初めの一歩が踏み出しにくいのです。N響でも、札響でも、その楽団のファンになれば 、あるいは会員にでもなれば、勉強してから演奏会へ行こうという気になりのです。

 立教大学交響楽団はわたしにとって近いところにあるので、しばらくつきあってみようかと思います。

                              

法堂(はっとう)の雲竜図と妙心寺

2009-06-27 00:11:44 | 旅行/温泉
妙心寺(京都市右京区花園)[京都散策③]

 妙心寺は臨済宗妙心派大本山の寺院です。京都市民からは西の御所とも呼ばれていますが、とにかく広い敷地で、12町もあるそうです。伽藍配置は近代の禅宗伽藍の典型である七堂伽藍で、勅使門から北へ、三門、仏殿、法堂、寝堂、大方丈、小方丈、大庫裡が一直線に並んでいます。三門、仏殿、法堂などの中心伽藍のまわりに塔頭寺院が立ち並び、一大寺院群となっています。

 1337年に花園法皇が自らの離宮を禅刹に改め、関山慧玄を開山として迎えたのが始まりです。

 法堂の鏡天井の狩野探幽の筆による雲竜図が有名です。大方丈でチケットを買い、しばらく待つと女性が案内、解説してくれました。法堂は重要な行事を行うところです。須弥壇があり、見学者用の長椅子がおいてありました。雲龍が描かれた円形の天井(12メートル)を眺め、まわってながめると、不思議や不思議、龍の眼がいつもこちらをにらんでいます。探幽は8年をかけてこの画を描いたと言われています。

 重要文化財の浴室も観てきました。明智光秀が本能寺で信長を討ったあと、叔父の和尚がいたここを訪ね、辞世の句を残したともいわれています。

 上記写真は退蔵院の庭の一部です。1401年、波多野出雲守重通が妙心寺第三世無因宗因禅師に帰依して建立したそうです。回遊式庭園が見事で、昭和の名園「余香苑」と呼ばれています。

 あまりに広くて帰る時、出口がわからなくなりそうでした。

ドライ・クリーニングの創始者・五十嵐健治

2009-06-26 00:17:23 | 小説

三浦綾子『夕あり朝あり』新潮文庫,2000年

              夕あり朝あり

 かつて三浦綾子さんの小説は何冊か読みましたが(『氷点』『泥流地帯』『天北原野』など)、この15年ほどは皆無です。たまたま手元にあったこの本を読了しました。

 内容はクリーニング、それもドライ・クリーニングで名を馳せた白洋舎の創始者、五十嵐健治の生涯(1877-1972)を小説にしたてたものです。

 最初から最後まで、その五十嵐さんの独白となっているところがユニークです。また、三浦綾子さんがこの人の人生をとりあげたのは、彼女が若いころ脊椎カリエスと肺結核で長く療養していたころ、五十嵐さんが縁あって綾子さんを茅ヶ崎から見舞にかけつけ、病床の三浦さんの傍で自らの波乱万丈の人生を語ったことが切っ掛けとのことです。ふたりはいずれもクリスチャンでした。

 本書を読むと、五十嵐さんの人生は、凄いです。人生はおよそ3期に分けることができます。最初は生まれてすぐ養子にだされ、一攫千金を夢見て放浪し、日清戦争に従軍、帰国して北海道にわたり、タコ部屋での重労働、そこを脱走してキリスト信者として洗礼を受けるまで。

 第二期は白洋舎の草創期。三越で働いていたのを、そこをやめて西洋洗濯業を開店、ドライ・クリーニングの研究に没頭し、完成するまでです。

 第三期は白洋舎の成長と挫折の繰り返し(関東大震災、太平洋戦争など)。この間、よき妻を得、12人の子供にめぐまれますが、工場の爆発で死線をさまよったり、戦争であちこちの支店が空襲で焼かれ、苦労しました。

 激動の時代と艱難辛苦を支えたのは、実母、養母の面影、キリスト教の信仰、妻との二人三脚、よき友人、知人、そして生来の楽天的性格と、思い立ったら猪突猛進で道を切り開いていく強い精神でした。


鶯張りの廊下にそよ風がわたる等持院

2009-06-25 00:15:55 | 旅行/温泉

等持院(北区等持院北町63)[京都散策②]

 6月14日付本ブログの金閣寺の紹介に続いて,等持院参詣の記です。
 
  等持院は京都市北区にある臨済宗天龍派の寺院です。足利尊氏の墓所として知られています。

 山門からレンタカーで入れます。やや長めの参道を運転していくと、目の前に倉裡の屋根が見え、ここをくぐると右手に方丈がありあます。本尊の釈迦尼仏が安置されています。広縁を歩くと鴬張りの廊下がキュッキュッと鳴ります。
 「方丈」は1616年(元和2年)に福島正則が妙心寺福院から移設したものです。ここにたたずんでいると、いい風がわたってきました。「風がわたる」という言葉にぴったりの感興です。

 尊氏は1341年(歴応4年)に現在の御池付近に等持寺を建立、その2年後にこの北等持院を別院として建てました。尊氏の死後、別院北等持院は尊氏の墓所となり、その名称が「等持院」となりました。

 応仁の乱で本寺が焼失、別院だった現在の等持院が本寺となりました。

 庭園が素晴らしいです。回遊式で、方丈の北の庭には池をはさんでの対岸に茶室「清漣亭」、芙蓉池のある西庭と心字池のある東庭があります。庭には尊氏の墓と伝えられる塔があります。

 霊光殿が方丈の西側にあり、本尊の地蔵菩薩のほか、足利歴代の将軍、家康の木像があります。

 


文学としての「青鞜」

2009-06-24 01:06:39 | 文学
岩田ななつ『文学としての「青鞜」』不二出版、2003年
              
        

   「『青鞜』の本質は文学である」(p.5)、この冒頭の一行が本書のすべてを言いつくしています。

 明治の末期(1911年)、生田長江の薦めで平塚明(はる)[平塚らいてう]が中心になって青鞜社が発足、9月に雑誌『青鞜』が創刊されました。

 創刊号には、中野初、保持研、平塚明、物集和らが結集しました。以来、青鞜社は衆目の関心を集め、野上弥生子、森しげ(鴎外夫人)、国木田治(独歩夫人)などもここに関わっりました。

 1913年に社則を変更、らいてうは編集を伊藤野枝にバトンタッチしますが、官権に睨まれ内部的な葛藤もあって1915年に自然消滅しました。

 本書はこの青鞜社が従来女性解放組織の母体と考えられていた通説に疑問を呈し、もともとは女性による文学の発表の場であり、小説発表の舞台であったことを明らかにしています。

 家父長社会、男尊女卑の風潮のなかで、人間としての自由をもとめ、男女対等の恋愛を志向しながら、それが叶わぬことに苦しみもがく女性を描くことを願い、多くの気概をもった若い女性がここに結集したのです。第二章では、物集芳、杉本まさを、加藤みどり、岡田ゆき、荒木郁の小説が吟味、検討されています。

 『青鞜』はまた外国文学、評論の受容と紹介にも大いに貢献しました。平塚らいてう自身がA・ポーに強い関心をもち、翻訳していましたし、モーパッサン、アナトール・フランス、ソーニャ・コヴァレフスカヤ、オリーブ・シュライネルの翻訳が掲載されました。このあたりの事情は第三章に詳しいです。

 『青鞜』の創刊以来百年もたっていないのに、論文、小説の書き手の実像がわかっていないことが結構多いようです。また青鞜社と『青鞜』の研究も思いのほか進んでいないようです。それというのも雑誌『青鞜』そのものを通読できる条件さえ乏しかったからです。

 著者は学生の頃から平塚らいてうに関心をもち、大学院の修士論文で「青鞜の文学」をテーマに研究し、以来、持続的にこの延長上で仕事をされています。

伝説の若きピアニスト・ブーニン現象

2009-06-21 00:51:48 | 音楽/CDの紹介
梅崎史子『スタニスラフ・ブーニン』音楽の友社、1987年

 1986年,わたしはブーニン現象を目撃していました。札幌市にいた頃のことです。

 第11回ショパン・コンクール一位の、このソ連の貴公子(当時19才)に憧れました。藤学園講堂での追加公演のチケットを入手(7月26日)。

 ブーニンは連日の演奏で疲れていたのか,やや荒削りでしたが,「ベルガマスク」が素晴らしかったと記憶しています。当時は、彼の音楽を聴けただけで満足でした。

 著者はこのブーニン現象の体感者です。NHKが取り上げたショパンコンクールの番組に端を発してフィーバーとなったブーニン現象。著者は86年7月から1ヶ月の来日リサイタル(20回)での狂乱ぶりを本にしました。

 著者自身,チケットの入手にあらゆる算段をつくす様子が書かれています。臨場感があります。

 日本の質の悪いファンと商業主義で「ひとの心の痛みを知っているピアニスト」(p.148)ブーニンが力を十分に発揮できなかったことを悔やみ,嘆き,ブーニンそのひとに手紙で苦言を呈したりしたそうです。

 そして,いわれないブーニン批判(立花隆氏など)には,すかさず反撃しています。著者は作家梅崎春生の長女。あれから22年です。

フランコ・ゼフィレッリ監督「ブラザー・サン シスター・ムーン」

2009-06-20 00:05:21 | 映画

フランコ・ゼフィレッリ監督「ブラザー・サン,シスター・ムーン(Brother Sun,Sister Moon)」(伊、1972年、121分)

               

 舞台は12世紀のイタリア、アッシジです。ひばりにも説教をといた若き日の聖フランチェスコの話です。

 裕福な商人の息子フランチェスコ(グレアム・フォークナー)、父親以上の商才があるとの評判。十字軍に参加するアッシジの青年達とともに、彼は手柄をたて、戦利品をたくさん持ちかえってくると意気揚揚で出かけます。

 ところが戦場で熱病に冒されたフランチェスコは、ほうほうのていで家に戻ってきました。ベッドで生死の境をさまよい、十字架の幻影を見るフランチェスコ。ある朝ふと目を覚ますと、自分のなかの中の何かが変わっていることに気づきます。

 父親は、いらいらしていました。息子は命を取り止めたのですが、以前の聡明さは消え失せ、一日中、花を眺め、小鳥と話しているのです。あまつさえ、ある日のこと、彼は家の窓から父親の財産を片っ端から投げ捨ててしまいます。「財産は心の重荷だ。自由になろう!」

 怒った父親は、息子を裁判にかけます。好奇心で笑う人々。裁判で彼は言います、「あなたからいただいたものは名も財産も全てお返しします。」

 街中の人々が見守る中。靴を脱ぎ、上着を脱ぎ、・・・。「小鳥は財産を蓄えるでしょうか?それでも父なる神は養ってくださるではありませんか。神の栄光があれば何一つ要らないのです。私は上の御心に近づきたいのです」。裸のまま、日の光をまぶしそうに浴び、街を出ていくフランチェスコ。その様を見て、誰一人笑うものはもういませんでした。

 彼は打ち捨てられ廃墟になった教会を、貧しい人々と共に再建しはじめます。ひとり、またひとり彼の群れに加わる若者が現れました。それを心よく思わないのはアッシジ協会。フランチェスコは同志とともにローマに赴き、教皇に自分たちの信仰を証します。

 フランチェスコに心を寄せる娘クララ(ジュディ・バウカー)。彼女も男女の愛情ではない永遠の愛で彼の側にいることを決心します。

 再建された教会ではじめてのミサに多くの人々が集まりました。皆で歌う賛美歌が天に上っていきます。

 イタリアの美しい風景。美しい若者達。素晴らしい音楽! 心が洗われる作品です。

 


D.ダービンの才能あふれる映画作品

2009-06-19 00:37:37 | 映画

ヘンリー・コスター監督「オーケストラの少女(One Hundred Men and a Girl)」(米,1938年)。

         ディアナ・ダービン 写真
          ダイアナ・ダービン  
 天才少女歌手と騒がれた
D
・ダービン,指揮者で当時の最高権威であったストコフスキー,そしてフィラデルフィア交響楽団が出演し話題となった作品です。全編に一途な少女の願い,人間の善意が溢れ,心が温かくなります。

 冒頭,ストコフスキー指揮,フィラデルフィア管弦楽団によるチャイコフスキー交響曲第5番「悲愴」第4楽章が流れます。

 失業中のトロンボーン奏者カードウェル(アドルフ・マンジュー)を父にもつパツィは何とかして彼にまた楽団で演奏できるようにしてあげたいと願っていました。その父はいくつかのオーケストラに楽団員として雇ってくれないかと売り込みますが,どこも相手にしてくれません。ストコフスキーに直談判して雇ってもらおうと考えましたが,ホールの従業員に追い返されてしまいます。

 しょげ返ってアパートにもどる途中,財布を拾いました。魔がさしあのか父はその財布をもち帰り、滞っていた家賃を支払い,娘にはなりゆきで楽団員に雇われ、お金が入ったのだと嘘を言いました。

 翌日,楽団のリハーサルに行くと出ていった父を追ったパツィはことの真相と財布の持ち主を知り,財布を持ち主に返すように言いました。

 実業家たちとのパーティにいた気紛れなスコット夫人はパトリシアをその中に招き,父の窮状を聞くと,冗談半分に失業者を集めてオーケストラを編成できたら援助をする旨を彼女に告げました。喜んだパツィは帰宅した父にその話をし、100人の失業者を集めてオーケストラを結成しました。

 約束を間に受けて,パツィは練習会場の費用をもらうために夫人のもとを訪れますが,夫人はヨーロッパ欧州旅行に出かけてしまったとのこと。彼にとってはオーケストラのスポンサーの話は寝耳に水。大指揮者が指揮を引き受けるのでないかぎり,金は出さないと突っぱねました。

 それではと,パトリシアは楽団の指揮をストコフスキーに依頼することを決意し懸命に奔走。ストコフスキーがオーケストラのリハーサルをしているところに乗りこんでモーツァルトの「ハレルヤ」をうたって気をひこうとします。

 パトリシアの努力は報われるのか????  

 「椿姫」のアリアを歌うラストでの少女パトリシアの姿は,いつまでも胸に残る感動的シーンです。


ロシアの女性数学者、ソーニャ・コヴァレフスカヤの評伝

2009-06-18 07:17:42 | 評論/評伝/自伝
野上弥生子訳『ソーニャ・コヴァレフスカヤ【改訂版】』岩波文庫、1978年
              
                (ウィキペディアより)

 19世紀ロシアの世界的な女性数学者ソーニャ・コヴァレフスカヤ[Софья Васильевна Ковалевская](1850-1891)が『ラエフスキ家の姉妹』という題目で書いた少女時代の回想録と、彼女の友人のスウェーデンの女流作家で後カジャネロ公爵夫人となったアン・シャロット・エドグレン・レフラー(1849-93)によって書かれた追想録が収められています。

 砲兵将官の二女としてモスクワに生まれたソーニャは偏微分方程式の権威でありコーシー・コヴァレフスカヤの定理で有名、1844年にストックホルム大学の数学の講師として招聘されました。ヨーロッパで最初の女性の大学教授です。

 その後、1891年秋にフランスの科学学士院からボルダン賞をやはり女性として初めて受賞しました。彼女は作家としての資質ももち、この本の前段の『ラエフスキ家の姉妹』を読めばその片鱗がうかがえます。

 『ラエフスキ家の姉妹』では自身をターニャとして姉のアニュータと対比して登場させています。この『ラエフスキ家の姉妹』では姉の自由への強い熱情、また姉妹のドストエフスキーとの交流、淡い恋愛感情を描いた部分にインパクトがあります。

 また、生前のソーニャとの約束を果たして彼女の生涯を綴ったアン・シャーロットの回想録では、ソーニャが地質学者のコヴァレフスキとの偽装結婚で国外に脱出し(その後コヴァレフスキとの間に一児をもうける)、数学を学び、業績をあげ、自らの地歩を築いていったこと、しかし普通の女性と同じように生活、家庭のなかに悩みをもち、子育て恋愛関係でも苦労が絶えなかったことが脚色なく語られています。
 叙述の多くは、生前に交換した手紙に依拠しています。ソーニャの生き方がテーマですが、当時のロシアの地主、貴族、思想状況、女性の地位、また今では大作家として知られるドストエフスキーの人柄などもかなり細かく書き込まれていて、興味尽きません。

 訳者の野上弥生子は、『秀吉と利休』などを書いた作家です。夫君が本屋で見つけたもの(英語版)を読み進むうちに「それがいかに私を打ち、どんな豪華本にも劣らぬ大切なもの」となり、遂に翻訳を思い立ったとのことです(p.9)。

 なお、この『ソーニャ・コヴァレフスカヤ』は野上弥生子が青鞜社にかかわっていたこともあって、その最初の発表は、一部ですが、『青鞜』に掲載されました。

家族愛を描いた名編「ブルックリン横丁}

2009-06-17 00:14:58 | 映画

エリア・カザン「ブルックリン横丁(A TREE GROWS IN BROOKLYN)」(米、1945年、129分)
        
 20世紀初頭,ニューヨークの下町,ブルックリンに住むアイルランド系移民の貧しいけれどひたむきに生きている一家の哀歓を描いた作品です。

 ノーラン家は,両親と姉妹の4人家族。決して大きくはない一室に家族が肩をよせて暮らしています。父はジョニー,歌う給仕で人はよく,家庭でもいいパパですが,お酒のみで,生活力にかけ,その日暮らしの給料取りです。客からのチップも彼の大切な収入源といった生活をしています。

 母のケイティは,生活のやりくりに疲れ気味,余裕がなく働いています。

 姉弟の名はフランシーとニーリィ。
ふたりとも学校に通っています。姉はしっかりもので勉強も読書も大好き,弟はその反対でわんぱくざかり,ふたりは助け合って仲よしでした。そのふたりは屑拾いをし、生活を助けています。

 この映画はノーラン家とその周辺の人たちとのなかに生まれるドラマを娘のフランシーの目で描かれています。叔母の結婚,フランシーの転校,クリスマス,父の死,妹の誕生,母と巡査との愛,このような出来事が続いて家族の愛と生活が綴られていきます。

 生活がますます厳しくなるなか,ケイティは新しい生命を体に感じました。彼女は,心配の種がまた増えたといった様子で,率直に喜べず,ジョンにもいいだせません。クリスマス・イブの夜,シシイ叔母さん夫妻を招いたささやかなパーティーが終了したあと,ケイトはジョンに妊娠を告げます。

 ジョンは大喜び。だが,ケイティは生活を維持するためにフランシーに学校をやめてもらうと言い出します。

 ジョニーは雪の降るなか,仕事を捜しにでますが,行方が知れなくなりました。さて、その結末は・・・。

 ・・・・,妹が生まれます。名前はジョニーが口ずさんでいたアイルランド民謡から、アニー・ローリー。

 原題は、”A TREE GROWS IN BROOKLYN"(一本の木がブルックリンに育つ) 。その意味はこの映画を観て、理解してください。
  

              


人類の知的遺産のひとつユークリッドの「原論」

2009-06-16 04:24:45 | 自然科学/数学
斎藤憲『ユークリッド「原論」とは何か』岩波書店、2008年

                                
                            


 著者はこの本でユークリッド『原論』の内容、その意義と限界を平易に解説しています。

 『原論』そのものは失われています。現在では、後世の人間がこれを写本として残してきたもの[デンマークのハイデア版]を目にすることができるだけです(p.3)。

 そもそもユークリッドがどういう人だったのかもはっきりわかっていません(pp.74-77)。数学の基本命題集である『原論』を最初に編集したのはキオスのヒポクラテス(医学のヒポクラテスとは別人)とか(p.70)。

 本書で著者は「・・・『原論』が、証明という概念、命題の連鎖という数学の様式を確立したことと同時に、純粋な証明以外のメタ数学的議論を数学書から排除するという習慣を確立したことを述べ、・・・(さらに)『原論』が何だったのかと言えば、それは各時代の人々が自分たちの数学思想を読み込むことができる著作」であると評価しています。

 「本書では他に、文書としての『原論』と、口頭による数学について検討し・・・『原論』が非常に読みにくい形式の著作(であるのは)・・数学が口頭で議論・伝達・教育された時代の痕跡(なのでしょう。)・・・これは『原論』の写本の図版が現代の刊本で見慣れたものと大きく違うという指摘と並んで、ごく最近の成果です」(p.126)とも述べています。

 このように2000年以上前に書かれたこの著作(オリジナルは現存しない)の種々のスタイル、構成、哲学的背景、当時の数学の状況を解説し、個々の命題の証明にたちいって証明の在り方を展開し、率直にそれらの意義と問題点に触れています。

 ギリシャ数学史の研究者は欧米文化圏に属する人が独占してるそうです。継続的に研究者を輩出している日本は例外であるそうです。このことを捉えて著者は、「・・・和算や詰将棋や盆栽に見られるように、実用の範囲にとらわれず何でも真剣に探究する江戸時代以来の文化的伝統からくるものかもしれません」と類推しています(p.129)。いいえて妙です。
       

久しぶりの金閣寺の荘重な姿

2009-06-14 01:37:19 | 旅行/温泉
金閣寺[京都散策①]

 過日、2拍3日で京都に行ってきました。約10年ぶりです。金閣寺、等持院、妙心寺、相国寺、知恩院をまわりました。飛び石のように、印象記をブログに書き込んでいきます。5回程度です。

 金閣寺は、久しぶりでした。記憶より周囲の庭が広いように感じました。金閣寺の荘重さは格別です。天候もよかったので、いい写真が撮れました(上記画像)。

 金閣寺という名前は俗称で、鹿苑寺というのが正式名称です。臨済宗相国派の系列で、山号は北山(ほくざん)です。

 このお寺は漆地に金箔を押した三層の建物で、正式には舎利殿です。初層・二層・三層でそれぞれに異なる様式を採用した特異な建築です。

 初層は寝殿造
で「法水院」(ほっすいいん)と言います。二層は武家造です。三層は禅宗様の仏殿風です。屋根はこけら葺きで鳳凰が飾られています。

 鹿苑寺は、1397年足利義満によって創建されました。1950年、学僧・林承賢の放火で全焼しました。この事件は三島由紀夫が『金閣寺』で、水上勉が『五番町夕霧楼』で小説にしています。

 1955年に再建され、1987年に金箔が貼りかえ修復工事が行われました。

 金閣寺は1944年に世界遺産に登録されています。 

「ダンシング・ヒーロー」の魅力的ストーリー

2009-06-13 00:28:49 | 映画

「ダンシング・ヒーロー(Strictly Ballroom)」
                              (豪,1992年,94分
                         

 ダンス界期待の若手スコット(ポール・マーキュリオ)は、社交ダンスのルールを無視した新しいステップを求めるあまり,パートナーに見放されます。(スコットは、かつてプロのダンサーで現在ダンス教室を経営している両親の子でした)。

 新しいパートナー,フラン(タラ・モーリス)は、不細工で不器用なまだ初心者の女の子。その彼女は、スコットのパートナーになって汎太平洋選手権大会に出場したいと憧れていたのです。

 まだ練習生にすぎない彼女には,ひとつだけ類い希な才能がありました。スパニッシュ系の彼女は、密かにフラメンコの練習を家でしていたのです。そのステップを目の当たりにしたスコットは驚きます。それからスコットとフランとの大会に向けた個人レッスンが始まります。

 黙々とレッスンを続けるフランは加速度的に上達。顔つきまで変わってくるのでした。しかし,スコットの周囲は、別の動きをしていました。ダンス協会は現在のダンスクイーンとスコットとがペアを組むように、画策していたのです。スコットの母親は、この案に大賛成。フランはそのことを知り失望します。

 しかし、フランとの出場を考えていた当のスコットは、この案に納得しません。スコットは協会の申し出を断り,失意の彼女の家に向かいます。

 彼女の家では,頑固親父に追い返されそうになりますが,スコットは「パソドブレを踊りに来た」と言って信頼を勝ちとります。実は彼女の頑固親父は本物のパソドブレを踊る元ダンサーでした。すばらしいステップと踊りの披露。次いでスコットはお婆さんにパソドブレを習い,認めてもらいました。

 大会直前,スコットはダンス協会の会長からの彼の父親の過去を聞きました。彼の父親は元オーストラリアでナンバー・ワンのダンサーだったことを。

 その父はかつて有能なダンサーでしたが,やはりステップの新しさをもとめ,結局その世界から疎んぜられた人間でした。母はそうした父を敬遠し,別のパートナーと組み,大会での優勝も勝ち取った人でした。

 スコットはそういった不本意な過去をもつ父親のために,彼の元パートナーと組んで汎太平洋選手権大会に出場すると翻意します。

 汎太平洋選手権大会で最初の演技から好調なスコット。しかしラテンの部決勝の前に意外な真実を父親から告げられます。ここはこの映画の重要なポイントなので、実際に観てください。

 優勝よりも自分のダンスをする事に決心したスコットは再度、フランに頼み込んで一緒大会にに出てくれるようたのみこみます。ラテン部クライマックスのさなか,スコットとフランのペアは会場に登場します。ふたりにダンスの披露をもとめるギャラリーの拍手は最初は小さく,それが徐々に大きくなり,ふたりはそこで勝負を忘れて最高のダンスを披露します。

 ダンス映画だけあって、登場人物のダンスは素晴らしいのひとことにつきる。主人公は実に切れの良い動きをしていますし,物語中盤に登場するスパニッシュ系のダンサーのパソドブレというダンスも素晴らしいです。圧倒されるような存在感と美しさがあります。

 選曲も物語とマッチしています。「キサス・キサス・キサス」,「タイム・アフター・タイム」,「イエスタデイズ・ヒーロー」など,違和感なくストーリーに溶け込んでいました。


「突撃」での抑えのきいたカーク・ダグラスの演技

2009-06-12 00:19:16 | 映画

スタンレー・キューブリック監督『突撃(Paths of Glory)』米、1957年、86分
       

 この映画「突撃」の内容は、次のようです。

 第一次世界大戦中の西部戦線,ドイツ軍と戦っていたフランス軍の歩兵連隊の指揮官ミロー将軍(ジョージ・マクレディ)は,ダックス大佐(カーク・ダグラス)率いる701歩兵連隊に「蟻塚」という難攻不落のドイツ陣地を48時間以内に総攻撃するよう命令しました。

 大佐はその作戦に無理があると異議を唱えましたが,最終的にミロー将軍の言葉に負けて攻撃を引き受けることになります。

 連隊は「蟻塚」攻撃するのですが,結局,死者多数で攻略に失敗。ミロー将軍は砲弾をさけて塹壕に退く兵士たちを砲撃するよう,味方の兵士に命令をくだします。

 ミロー将軍は作戦失敗の原因が数人の臆病な兵士の存在と彼らの命令違反にあるとし,士気昂揚のための見せしめと、政治家や新聞からの糾弾回避のために3人の兵士の銃殺刑を言い渡します。

 3人の兵士は,とりあえず,軍法会議にかけられました。大佐は3人の弁護を引き受け,起訴状もなく,裁判記録もない不合理な裁判を厳しく批判しますが,結局,無実の3人は銃殺されてしまいます。

 虫けらのように扱われた3人の銃殺直前の恐怖,建前が先行する軍隊内部の秩序の非情さとが,軍司令部の夜会の華やかなダンスの光景と対照的に描かれ,痛々しく描かれています。

 総司令部長官は自己責任回避のため,ミロー将軍を摘発します。無意味に殺された3人を救うことができなかった大佐は司令官を罵倒し,司令官によるミロー将軍に替わる将軍への推挙も,「あなたは事態を何も理解していない」と言いはなってこれを辞します。

 3人の兵士が銃殺された後,兵舎で休んでいる大勢の兵士の前にドイツの若い娘が連れてこられ,戦争で引き裂かれた恋の歌をうたわされるシーンがあります。それを聞いている兵士たちは,ボロボロと泣き出します。

 この後、抑えのきいた,見事なラストがあります。

 映画が戦争と軍隊の病理をえぐりだしたこの映画の功績は,高く評価されてよいでしょう。

 キューブリックの何と29歳の作品です。カーク・ダグラスがダックス大佐の役で好演です。


戦争文学の意義と限界

2009-06-11 00:49:04 | 文学
川村湊・成田竜一『戦争文学を読む』朝日文庫、2008年

                戦争文学を読む

 戦争文学をとりあげ鼎談方式(歴史研究者の川村湊氏と文芸批評家の成田竜一氏とが毎回ホスト役で登場し、ゲストが一人づつ参加)で難しい議論をしています。

 近代小説の核は個人であるが、個人は他者との関係のなかの個人であり、普遍の対極の個であるはずですが、日本の小説のなかの個人は媒介なしに浮遊しているとか、歴史学の方法と小説の展開とは異なるはずのものですがその境が時に曖昧になっているとか、と言った調子です。

 「はじめに」で川村湊氏が要領のよい解説を書いているので、それを参照しながら、本書の内容を紹介します。

 第一の鼎談では、「自由主義史観」「歴史の主体性」論争を背景としながら「歴史」の語り方、「戦争」の記録と記憶の推移について社会学者の上野千鶴子氏を交えて議論がなされています。

 第二の鼎談では小説家の奥泉光とともに壷井栄『二十四の瞳』、竹山道雄『ビルマの竪琴』、大岡昇平『レイテ戦記』を対象に戦争という体験と歴史的事実の語り口が検討されています。

 第三の鼎談では言語社会学のイ・ヨンスクをゲストに火野葦平、林芙美子、周金波(台湾)の作品をとりあげています。イ氏の火野文学の評価は手厳しく近代ナショナリズムが醸成する日本的文章、日本的感性ナショナリズムへの傾斜などが批判のやり玉にあがっています。

 第四の鼎談では劇作家の井上ひさし氏がゲスト。原爆を扱った文学作品について論じています。井上ひさしの『父と暮らせば』、井伏鱒二の『黒い雨』などが俎上にあげられています。

 第五の鼎談では高橋源一郎氏がゲストで、島尾敏雄(『出発は遂に訪れず』)、大江健三郎(『飼育』『芽むしり仔撃ち』)、三島由紀夫(『英霊の聲』)の三者三様の戦争体験(人間魚雷による特攻作戦への出発の前夜、日本の敗戦を知って茫然自失となった島尾、徴兵検査で即日帰宅となった三島、戦中に四国の山添いの村の子供だった大江)を浮き彫りにしつつ、戦争体験の解釈、物語化に焦点を絞った熱い議論がなされています。

 付章として「戦争を知らない世代の戦争文学を読む」(古処誠二氏がゲスト)があります。

 もともとは「戦争はどのように語られてきたか」というテーマで、『小説トリッパー』(朝日新聞社)に掲載された鼎談です。「この鼎談が企画されたのは、近年『戦争論』と『戦後論』に関するこれまでとは様相を異にした論争の展開があり、戦後50年、そして20世紀を迎え、もう一度『戦争』というものが思想的、文学的な課題となっていると考えられたからである」(p.8)と書かれていました。

 全体として議論は辛口で、スリリングであり、それだけに読者の想像力が殊更に喚起されます。