【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

林芙美子記念館(東京散歩③)

2008-12-31 18:26:02 | 散歩

林芙美子記念館(東京散歩③)新宿区中井2-20-1 TEL03-5996-9207

           庭から見た茶の間と寝室

 林芙美子記念館は、生前の家屋が土台です。西武新宿線の中井駅を降りて、徒歩7分ほど。

 女流作家、林芙美子(1903年-1951年)と言っても今ではあまり知らないかもしれません。しかし、彼女は戦前から戦後にかけて大活躍した流行作家です。代表作は、『放浪記』『浮雲』『めし』などです。

 この記念館は、芙美子が画家で夫であった緑敏とともに昭和16年(1941年)8月から昭和26年(1951年)6月28日に亡くなるまで暮らしていたところです。

 芙美子は明治26年(1903年)福岡県の門司市で生まれ、下関、長崎、佐世保、鹿児島などを転々とし、尾道の高等女学校を卒業、、大正11年(1922年)に上京し、昭和5年(1930年)に落合に移り住みました。昭和14年(1939年)12月にここの土地を購入、新居の建設を始めました。

 新居建設にさいしては、設計士や大工を連れて京都の民家に調査に行ったり、材木の目利きをするなど、思いを込めました。その結果、この家屋は数寄屋造りのこまやかさがあり、民家のおおらかさがあります。

 芙美子は客間よりも茶の間、風呂、厠に配慮し、そのこだわりを見てとることができます。

 玄関から入って、右手に客間、左手に小さい間、さらに奥に入ると茶の間、台所があります。


「戦艦ポチョムキン」セルゲイ・M・エイゼンシュテイン監督

2008-12-30 23:27:58 | 映画

「戦艦ポチョムキン(Влоненосец Потемкин) 」セルゲイ・M・エイゼンシュテイン監督、ソ連、1925年

      「戦艦ポチョムキン」レコード・ジャケット

 
モンタージュ技法(ショットの繋ぎ方の工夫で視覚的意味をもたせる方法)を先駆的に実践した作品として知られています。

 1905年。前年に始まった日露戦争が2年目に入り、帝政ロシアの首都ペテルブルクでは厭戦気分が蔓延していました。「血の日曜日事件」が一月に起こり、皇帝ニコライ二世の弾圧政治に対する不満が民衆、兵士に充満していました。こうしたなか、この年の六月に起こったのが「ポチョムキン号の反乱」です。これらの一連の動きは1905年革命と呼ばれ、1917年のロシア革命の伏線となりました。
 全体は5章です(①人間と蛆虫、②甲板上のドラマ、③死者は呼びかける、④オデッサ、⑤艦隊との遭遇)。

 ロシア全土に革命的気分が昂揚し、オデッサの水兵は「俺たちも労働者の側にたって、革命の先頭にたつんだ」と気勢をあげています。中心メンバーはマチュシェンコ(ミハイル・ゴモロフ)とワクリンチュク(アレクサンドル・アントーノフ)。

 腐って蛆虫のわくような肉を食べるのはもうたくさんだと不満を訴える水兵に対し、上官はこれを「文句を言うな」と弾圧します。事件の発端は、蛆虫がわく肉入りスープから始まりました。日頃、やり場のない怒りを抑え込んでいた水兵たちは、このスープを拒否します。
<o:p></o:p>

 甲板で艦長のゴリコフ(ウラジーミル・バルスキー)はスープを拒否した水平を選別し、衛兵に銃による処刑を命令しましたが、ワクリチュクは衛兵に「誰を撃つ気だ」と蜂起の第一声をあげました。これを皮きりに、水兵たちは銃をとり、「圧制者を打ち倒せ」と反旗を翻します。革命的水兵の反乱で、艦内は大混乱になります。

 士官たちが次々に海に投げ込まれる一方、反乱の先頭にたったワクリチュクは射殺されました。水兵たちは果敢に戦い、戦艦を占拠。艦は革命的気運でわきたつ市民が歓迎するオデッサ港に入港します。

 ポチョムキン号から降りた水兵は、防波堤近くの天幕でワクリチュクを追悼。艦内の反乱と水兵の死の噂がオデッサ市民の間に広がり、人々が海岸に集結します。「圧制者を倒せ、打倒専制政治」の民衆の声は強まり、「敵に決定的打撃を与えるのだ、蜂起した労働者とともにわれわれは必ず勝利する」と革命的気分が高まっていきました。

 ポチョムキンの水兵の革命的気分とオデッサの労働者の怒りは、一つになります。

 ポチョムキン号の勇姿を見るために大勢の市民は、海岸を臨む階段に集まってきました。そのとき突然、この石の階段に銃声が。コザック兵が反乱と暴動を恐れ、市民を銃殺し始めたのです。銃撃は容赦ありません。瀕死の子どもをかかえ、「撃たないでください」と嘆願する母親が銃殺されました。

 女性や子どもが虐殺され、階段は血の海に。撃たれた母親の手を離れた一台の乳母車が血で染まった石の階段を落ち始めました。有名な「オデッサの階段」のシーンです。

 そして一夜明け・・・・。水兵、乗組員たちは甲板で手をふり、「ウラー(万歳)」と声高く喝采。

 映画はサイレント約75分。映画の魅力を存分に発揮し、息をつく間もないほどの緊張感です。

 エイゼンシュテイン監督、27歳の記念碑的作品です。


渡辺VS羽生 世紀の対決(『情熱大陸』TBS 28日(日)11時半~0時半)

2008-12-29 23:02:02 | スポーツ/登山/将棋

渡辺VS羽生 世紀の対決
『情熱大陸』TBS 28日(日)11時半~0時半                       

 七番勝負の様子

             (写真は、日本将棋連盟の公式サイトから)


 10月から始まった2ヶ月ほどの竜王戦(読売新聞社主催)。渡辺竜王(24歳)対羽生名人(38歳)。どちらが勝っても永世竜王となる一戦でした。永世竜王の資格は連続5期竜王を維持するか、通算7期竜王を経験するかのどちらかで、渡辺竜王はこの一戦まで4期連続、羽生名人は通算6期つとめています。

 これまでの2人の戦績は、羽生名人の6勝4敗。渡辺竜王は、ずっと羽生さんを目標に精進してきました。

 結果は、番組にあったとおり、4勝3敗で、渡辺竜王が制しました。羽生さんの3連勝のあと、渡辺竜王が4連勝です。渡辺竜王の強靭な精神力が印象的でした。

 分かれ目は、第4戦。羽生名人が優勢で、渡辺竜王の「玉」は敵陣まで入ってしまい、しかも多くの敵駒に囲まれ、苦戦。渡辺名人は、投了を覚悟したと後日、語っていたとか。投了を宣言しようとまで思った直後、一筋の道が見えたそうです。羽生さんに禁じ手である「打ち歩詰め」の可能性がでてきて、結果的に羽生さんは渡辺竜王の罠にはまりました。まさに死闘とでもいうべき一戦、渡辺竜王の大逆転勝利でした。

 以後、5局、6局、7局、互いにもみあうも、渡辺竜王の4連勝で幕を閉じました。局後、渡辺竜王が、名誉ある永世竜王に初代として輝いたことを素直に喜んでいたこと、しかし羽生さんに4連勝というのが夢ではないかと思って、夢でないことを望んだと語っていたのが印象にのこりました。

 第一局のパリでの対局から、北海道洞爺湖、岩手平泉町、熊本菊池市、和歌山県白浜町、新潟南魚沼市、山形県天童市と激戦、さしもの羽生さんも憔悴した表情でした。また、渡辺竜王が3戦目に敗れて崖っぷちにたったとき、めったにないことらしいですが、敗戦の当日ひとり夜行で東京に帰る姿が、勝負の世界の厳しさを伝えていました。

 番組は、棋界以外の人物として、野村監督が登場して、勝負師の共通項を語っていました。また、渡辺竜王の家庭での姿(小さい長男と将棋をさしていました)、7冠をもっていたころの羽生さんとまだ小学生(?)の小さな渡辺竜王の対局の写真など、エピソードがたくさん盛り込まれ、通常30分の「情熱大陸」は1時間の特別番組で楽しめました。

<竜王戦の歴史>
  1. 1988年:島朗 4-0 米長邦雄
  2. 1989年:羽生善治 4-3(1持将棋) 島朗
  3. 1990年:谷川浩司 4-1 羽生善治
  4. 1991年:谷川浩司 4-2(1持将棋) 森下卓
  5. 1992年:羽生善治 4-3 谷川浩司
  6. 1993年:佐藤康光 4-2 羽生善治
  7. 1994年:羽生善治 4-2 佐藤康光
  8. 1995年:羽生善治 4-2 佐藤康光
  9. 1996年:谷川浩司 4-1 羽生善治
  10. 1997年:谷川浩司 4-0 真田圭一
  11. 1998年:藤井猛 4-0 谷川浩司
  12. 1999年:藤井猛 4-1 鈴木大介
  13. 2000年:藤井猛 4-3 羽生善治
  14. 2001年:羽生善治 4-1 藤井猛
  15. 2002年:羽生善治 4-3 阿部隆
  16. 2003年:森内俊之 4-0 羽生善治
  17. 2004年:渡辺明 4-3 森内俊之
  18. 2005年:渡辺明 4-0 木村一基
  19. 2006年:渡辺明 4-3 佐藤康光
  20. 2007年:渡辺明 4-2 佐藤康光
  21. 2008年:渡辺明 4-3 羽生善治

アニータ・シュリーヴ/高見浩訳『パイロットの妻』新潮社、2001年

2008-12-28 23:50:13 | 小説
アニータ・シュリーヴ/高見浩訳『パイロットの妻』新潮社、2001年

          

 アイルランド沖で航空機が墜落しました。死者は乗員、乗客を合わせて104人。パイロットであったジャックの妻でアメリカに住むキャサリンに早朝、事故が告げられます。

 事故はなぜ起きたのか。マスコミがパイロットの自殺説、爆破説をがなりたてるなか、失意のキャサリンは夫の部屋で不可解な詩のメモ、宝くじのチケットに書き込まれた英文字と数字に疑問をもちます。

 しだいに分かる生前の夫の疑わしい行動、空白の時間。実は夫は別の女性と結婚し、二人の子供もいたのです。

 キャサリンは、この女性に会いにロンドンに出かけます。さらに明るみになる意外な真相・・・・。

 航空機事故の真相、そして謎めく夫の行動がミステリアスな筆致で解き明かされていきます。

 作者は決して解りえない人間の諸相を、ジョーンズとキャスリンの夫婦関係、娘のマティ、キャスリンの祖母ジュリア、事件後キャスリンを支えるパイロット組合から派遣されてきたロバートなどとの人間関係の機微をとおし、巧みに物語展開を進めます。

 裏切られた妻の痛み、諦念、驚愕、そこからジャックとの結婚指輪を航空機墜落の現場の海に投げ捨て、立ち直っていくプロセスの現実的な描写の力は比類がありません。

津村節子『似ない者夫婦』河出書房新社、2003年

2008-12-27 23:23:18 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談
津村節子『似ない者夫婦』河出書房新社、2003年

           似ない者夫婦  /津村節子/著 [本]

 「似た者夫婦」という言葉がありますが、この本の題は「似ない者夫婦」です。本書に収められているエッセイのひとつの題名からとったものです。編集者の薦めでこの題に決まったようですが、著者は最初は抵抗していた様子です(p.186)。

 「私のルーツ」「書斎の窓」「日々の感慨」「折にふれて」の4部構成で、45本のエッセイが並んでいます。肩に力を入れないで書いているので、普段着の著者がそこに居ます。

 眼の病気(網膜中心静脈閉塞症)の一大事件の発端とその後の経緯を書き留めた「眼」「緊急事態」が印象的でした。ひとごととは思えません。

 大原富枝さん、瀬戸内寂聴さん、佐藤愛子さん、芝木好子さんらとの交流を綴った作品も興味深く読みました。

 出身県の福井、家族のこと、夫である吉村昭さんのこと、高村光太郎と智恵子のこと奈良岡さんの舞台のこと、オペレッタ「微笑みの国」のハンガリー公演のこと、飼っていた犬のことなど、どのエッセイもさりげなく書かれていますが品格のある人柄が出ているように思いました。

山口仲美『日本語の歴史』岩波新書、2006年

2008-12-26 00:34:44 | 言語/日本語

山口仲美『日本語の歴史』岩波新書、2006年

           日本語の歴史  /山口仲美/著 [本]

 「話し言葉」と「書き言葉」とのせめぎあいという視点からとらえた日本語の歴史です。

 日本語を異国の漢字を使って記そうとした「奈良時代(万葉仮名)」。

 カタカナとひらかなの発明で、「漢文体」「漢式和文体」「宣命体」「漢字カタカナ交じり文体」「ひらがな文体」を生み出した「平安時代」。

 「係り結び」消滅で情緒的な表現が切り捨てられたかわりに、文の構造に関心が寄せられ日本語に論理性が与えられた「鎌倉・室町時代」。

 現代人の発音や語彙に近い近代語の始まりと位置づけられる「江戸時代」。

 西欧と比べ4・500年遅れて原文一致体を獲得した「明治時代」。

 興味尽きない日本語の発達史です。


伯野卓彦『レクイエム-「日本型金融哲学」に殉じた銀行マンたち』NHK出版、2007年

2008-12-25 00:11:55 | 経済/経営

伯野卓彦『レクイエム-「日本型金融哲学」に殉じた銀行マンたち』NHK出版、2007年

     レクイエム 「日本型金融哲学」に殉じた銀行マンたち  /伯野卓彦/著 [本]
 1998年10月23日。長期信用銀行が「国有化」され、事実上、この銀行の終焉となりました。長銀の破綻は、日本の金融哲学がアメリカのそれに屈伏したことの象徴でした。

 日本の金融哲学とは、端的に言えば、「金を貸すのは時間を貸すこと」(pp.34-37)、
「金融機関の使命は、企業活動を含む経済・社会の枠組みを支える公的なものであるという考え方」(pp.12-13)です。不良債権処理方法でいえば、日本のそれは融資先が返済できない状況に陥っても倒産にまで追い込むことはせず、貸し付けを継続しながら、時間をかけて経営再建、債務返済の復活を待つというものですが、アメリカ流のそれでは、銀行が不良債権を抱えると、担保処分を含めて直ちにそれを償却するよう迫るという処理の仕方になります。

 アメリカは従来日本の閉鎖的で、自己完結的金融市場の開放に批判的でしたが、橋本内閣のもとでの金融ビッグバンは結果的にアメリカの門戸開放の要求を受け入れてしまうこととなりました。

 現在、日本の金融業界はBIS規制の締め付けを始めとするグローバルスタンダードの押し付けによって、すっかりアメリカ型に再編されてしまいました。

 本書の価値は上記の破綻の経緯を後追い的に辿るのではなく、それでもなお長銀最後の鈴木頭取が「日本にふさわしい金融哲学を、もう一度再構築する必要がある」(p.262)と考えていることを紹介していること、また「不良債権処理チーム」でアメリカ型処理に苦悩した石河[いしこ]さん(現在、信用中央金庫理事)の転職先が「家を一軒一軒回り、貯金をお願して、それを地元企業に融資して育てていく」という日本型金融哲学を実践する「信金中央金庫」(信用金庫の中央機関)審査部であったこと(p.258)を指摘している点にあります。

  著者は本書の目的を、「日本の金融敗戦に至るまでに金融業界の水面下で起きていたことな何か、その間、日米の銀行マンは何を考え、どういった行動に走っていたのか、その結果、日本型金融理念はなぜアメリカに屈したのかを解明する」ことにあったと述べています(p.16)。この目的は、著者の問題に対する誠実な姿勢、綿密な調査、取材、ヒアリングによって成功しています。

 本書を読んだきっかけは、この本で著者のインタビューに応えて再三登場する石河さんの紹介によります。石河さんはわたしと大学のゼミの同窓、同級生です。自身、審査部で危うい融資を目撃し、その後、取引先との債務取り立て交渉にあたり、最後まで長銀に残って残務処理をしました。責任感の強い、仁徳の人、そして気持の熱い人です。

 長銀破綻をタイタニック遭難と重ね合わせ、そこでの人間模様を綴った99年の年賀状の挨拶文が本書の末尾に掲げられていますが(pp.251-252)、この年賀状はわたしもいただき、今なお記憶に新しいです。

 本書の内容は、「NHKスペシャル 日本の群像 再起への20年~銀行マンの苦悩」として放映されました(2005年5月)。

 


潮木守一『世界の大学危機』中公新書、2004年

2008-12-24 00:36:50 | 読書/大学/教育
潮木守一『世界の大学危機』中公新書、2004年

                              世界の大学危機 新しい大学像を求めて

 標題に「危機」という言葉が使われていますがやや大げさで、要は高等教育機関としての大学が世界の主要国(イギリス、ドイツ、フランス、アメリカ、日本)で曲がり角にきているということの表明です。

    著者が述べているところによれば、「よその国の話や、今から200年も昔の話のなかに、現在われわれが当面してる問題の種が、すでに蒔かれている、これが基本的な立場である」(p.230)ということです。

 各国の大学の成立事情、その社会的役割、社会の評価、現在抱えている問題などを論じた前半と、テーマを普遍化して、各国の大学拡大政策の背後にある問題点、これからの大学がとらなければならない姿勢について提言した後半とからなります。

 本書を読んで、ひとくにち「大学」といっても、国ごとで、また時代によって多様であり、同列で論ずることはかなり難しいのではないかという感想をもちました。しかし、著者はそれを敢行しています。

 イギリスの大学の特徴は、オックスフォードにしても、ケンブリッジにしてもカレッジの集合体で、少人数教育(個人指導)に重きがおかれ、全寮制度が原則でした。基本的に国教徒の子弟に門戸が開かれていましたが、この慣習を打破する大学として市民大学(ロンドン大学)が設立されました。戦後は、低い就学率を改善するための大学増設政策のなかから7つの大学が誕生しました。

 ドイツの大学はほとんどが州立大学であり、入学に試験はありません。どこの大学を卒業したかといったいわゆる大学のブランドに価値は認められていないのがこの国です。ドイツはまた「近代大学」の発祥地として知られます(ベルリン大学)。その内容は「研究と教育との統一」、教員も学生も研究をとおして学ぶのです。それを制度的に保障したのがゼミナールでした。

 フランスの高等教育制度は、「大学」と「グランゼコール」の2本立てです。前者は大衆の高等教育のこたえるもの、後者はエリート教育が目的です。「大学」にはリセ(日本の高校に相当)の卒業資格であるバカロレアがあれば誰でも入学できます(この結果、大学はマスプロ化し、教育内容は低下し、それが学生の反感を呼んで、過激な学生運動に発展した)。グランぜコールにはバカロレアのあとの厳しい選抜試験を通過しなければ入学できません。最近は、短期間の職業技能養成のコースが設置され、学生の選択肢の拡大を図っています。

 アメリカは大学院制度を「発明」したことで知られます(最初はジョンズ・ホプキンズ大学)。この国の大学制度の特徴は、この大学院制度の誕生、その教育内容の学部教育との差別化、大学院制度の統一化、その延長での評価認証制度の整備です。

 本書の後半では、各国の大学拡大制度の背景にある教育機会の階層差の解消(あまり奏功していない)、社会の新しいニーズ(生涯学習、 脱学校化、E-ラーニングなど)に対応する大学とカリキュラムの改革などについて、提言が示されています。

 本書はもともとは桜美林大学大学院の大学アドミニストレーション課程の通信課程用のテキストとして書かれたものだそうです。

江戸城跡[皇居](東京散歩②)

2008-12-23 10:38:07 | 散歩

 本ブログで「東京散歩」というシリーズを企画しようとおもいたち、7月30日に根岸の「子規庵」をとりあげたのですが、その後、この企画はなかずとばずで今日まできてしまいました。やめたわけではなく、気になっていました。

 今日は2回目で、「皇居」というか「江戸城跡」をとりあげます。
    
 東京のいわばど真ん中にあるここ、散歩にはもってこいです。広いし、意外と人がまばらです。都会の喧騒を一時忘れさせてくれます。

 大手門から入るのが王道でしょうか? ここから入ると(通行手形のような札を受付で受け取ります)、すぐ右手に尚蔵館があります。最近までは、「皇室技芸員と1900年パリ万博博覧会」の展示会を開催していました。ここを過ぎると、同心番所が見えてきます。かつて、与力、同心が詰めて警備にあたっていたところです。

 さらに進むと、百人番所、大番所があります。百人番書は、最大の検問所で、甲賀組、根来組、伊賀組、二十五騎組の4組が固めていました。各組に、同心百人が配属されていたのでこの名があります。大番所は、各上の番所で、位の高い与力、同心が詰めていました。

 この他、天守閣跡は見逃せません。慶長12年(1607年)完成しました。当時は金色の鯱をいただいた5層の天守閣がそびえていましたが、明暦の「振袖」大火(1657年)で消失しました。今、この跡地にのぼると、都内が見渡せます。さぞ、立派な天守閣だったのだろうと想像できます。

 ひろびろとした庭、また季節によっては花々が美しいようです。冬ざくらが清楚そのものといった感じで、咲いていました。あと、松の大廊下跡もあり、歴史を感じさせます。

 

 


松野迅 ヴァイオリン・リサイタル(王子ホール)

2008-12-22 00:04:28 | 音楽/CDの紹介

2008 CHRISTMAS CONCERT   JIN MATSUNO VIOLIN RECITAL
松野迅 ヴァイオリン・リサイタル

                      松野迅.jpeg

  王子ホール(銀座)で「松野迅 ヴァイオリン・リサイタル」がありました。曲目は下記のとおりです。

 前半はバッハを研究し、バッハに学んだ作曲家の曲です。田蔦道生さんのギターとのコラボレーションです。
 ニンはキューバの作曲家、幼少期スペインで学びました。バッハの宇宙的大きさを讃えていた作曲家です。
 ピアソラの今回の曲は、いずれもポケットに入るような小品です。録音は、(ほとんど)されていないとのこと。

 後半は「情」の曲を集めたそうです。プニャーニの「アダージョ」はニューヨークの楽譜の古本屋さんで偶然出会ったそうです。弾きたくてたまらない曲とか。
 シューマンの「幻想小品集」は、もともとクラリネットとピアノの組み合わせの曲ですが、クラリネットがチェロになったり、ヴァイオリンになったり。今回のリサイタルの前にはチェロのCDを聴いていました。シューマンのこの曲は、情感がひたひたと演奏者に押し寄せ、絡まりつき、格闘するような感じ。もともとピアニストだったシューマンが手を痛め、演奏家を断念、作曲家へと活動の重きを移し、しかしだんだん精神的に病んでいく、そのことを予感をさせるような曲です。
 「ながれ星」は、自身の作曲です。CDが先行して出ました。演奏は、今回が初演です。後半のピアノ伴奏は曽我尚江さんです。

  

グノー アヴェ・マリア
ニン  スペイン組曲
   ・カスティーニャ
   ・ムルシア
   ・カタルーニャ
   ・アンダルシア
ピアソラ ・MADE IN USA
      ・TANGO CHOC
      ・SE TERMINO
      ・DERNIER LAMENTO
   - 休憩 -

プニャーニ アダージョ
シューマン 幻想小曲集
        ・繊細な表情をもって
        ・いきいきと軽やかに
        ・炎のように速く
松野迅   ながれ星
瀬越憲   すみれ   


ジュゼッペ・トルナトーレ監督「ニュー・シネマ・パラダイス 」(伊,1989年)

2008-12-21 00:41:35 | 映画

ジュゼッペ・トルナトーレ監督「ニュー・シネマ・パラダイス (Nuovo Cinema Paradiso)」(イタリア,1989年

        サムネイル  サムネイル

 舞台は第二次世界大戦後のシチリアのある小さな村。人々の娯楽といえば,村の映画館,パラダイス座で上映される映画を観ることぐらいです。この映画館では初老の気難しい感じの,しかし映画を心から愛していたアルバート(フィリップ・ノワレ)が撮影技師として,映写機をまわしていました。

 その村に住む少年トト(サルヴァトーレ・カシオ)ことサルヴァトーレ・ディ・ヴィータは,映画が大好きで、パラダイス座で上映される映画を見たくに,母親の目を盗んでは映画館へ通っていました。トトは映写室にももぐりこみ,アルバートに叱られながらも,映写技術をみようみまねで覚えてしまいます。

 アルバートはトトに,「つらい仕事だから,お前にはさせたくない,グレタ・ガルボやタイロン・パワーに話しかけても答えは返ってこない寂しさがある,大きくなったらこんな仕事についてはいけない」と諭すのでした。「みんなが楽しんでいるのを見るのは素晴らしい。しかし,この仕事はそれ以上に孤独な仕事だ」と。

 ところがある夜,アルフレードが館の外にいる人たちのために広場の壁に映画を映し出していたときに,フィルムが引火し,火事になりました。映画館は全焼してしまいました。アルバートは大やけどが原因で失明。

 全焼した館に代わって,宝くじをあてた男が金をだして,「ニュー・シネマ・パラダイス」が再建されます。

 初恋,兵役と青春時代を過ごすトトに,失明したアルフレードは島を出るように言います。「ここに居ては何もかわらないまま,人生を過ごしてしまう」と。決心をして島をはなれるトトに,アルバートは「帰ってくるな。私たちを忘れろ。手紙も書くな。ノスタルジーに惑わされるな。我慢できずに帰ってきても,私の家には迎えてやらない。自分のすることを愛せ。子どもの頃映写室を愛したように」と別れを告げます。

 時は経過し30年後,立派な映画監督となったサルヴァトーレ[トト](ジャック・ペラン)彼のもとに,アルフレードが亡くなったという報せが届きました。アルバートの葬式に参列するために島へ戻った彼は,新しいパラダイス座が6年前に廃館となったことを知ります。

 アルフレードの妻のアンナから、サルヴァトーレは彼の形見のフィルム一巻を受け取ります。ローマに戻ってフィルムを映写すると,それはかつてカットされたキス・シーンを繋いだフィルムでした。懐かしそうに,かつ感慨ぶかげにそれを見るサルヴァトーレ。映画はここで終幕となります。


 旧きよき時代の映画館を舞台に,映画を心から愛した人々の人間模様を描いた秀作です。

  数カ所に古い映画が挿入され、映画ファンにはこたえられません。「どん底」「ゆれる大地」「駅馬車」「にがい米」等々です。


杉本苑子『東京の中の江戸名所図会(文庫)』文藝春秋、1996年

2008-12-20 00:28:51 | 歴史
杉本苑子『東京の中の江戸名所図会(文庫)』文藝春秋、1996年
 
  さりげなく書かれていますが、著者の該博な知識に驚かされます。「江戸名所図会」は、著者が時代小説を執筆するときに欠かせないとか。想像力が喚起されるそうです。

 「図会」に登場するのは「日本橋」「伝馬町」「隅田川」「浅草」など30箇所ほど。実際に行ったところに、注目しました。例えば、王子の「扇屋(武家にひいきにされた料理屋)」(p.69)などです。「小石川植物園」「護国寺」などは「文学散歩」で歩きました。

 駒場の「日本民藝館」の紹介もあります(p.155)。

 「あとがきに代えて」で、著者はこの「図会」が斉藤市左衛門幸雄という名主、その娘婿の市左衛門幸孝、そして幸成と続き、絵師は長谷川雪旦によって完成した経緯に触れています。畢生の大事業は「倦まぬこと。労をいとわぬこと。綿密であること。健康であること。さらに何よりは、こよなく仕事を愛すること・・・・・。」(p.218)とあります。

         東京の中の江戸名所図会

伊熊よし子『ショパンに愛されたピアニスト-ダン・タイ・ソン物語』YAMAHA、2003年

2008-12-19 00:07:09 | 音楽/CDの紹介

伊熊よし子『ショパンに愛されたピアニスト-ダン・タイ・ソン物語』YAMAHA、2003年

         ショパンに愛されたピアニスト ダン・タイ・ソン物語

 ベトナムが生んだ偉大なピアニスト。一度、紀尾井ホールで演奏を聴きました。

 1980年、ショパン・コンクール一位。1958年7月2日生まれです。母はピアニスト、父は詩人(離婚)。

 タイ・ソンの名は父が付けたもので、中国山東省の「
泰山」からとったものです。漢字では「泰山」と書きます。

 アメリカのベトナム爆撃の最中、ハノイからスェン・フ村に疎開、紙製のピアノで鍵盤練習したというエピソードがあります。

 ハノイ音楽院時代にアイザック・カッツに師事、ソ連に19歳のときに留学、モスクワ音楽院でウラジーミル・ナタンソン、ドミトリー・バシュキーロフに指導を受けました。

 モスクワ音楽院はネイガウス、ゴリデンヴェーゼル、イグムーノフ、フェインベルクの伝統があり、ソンはロシアピアニズムを継承しました。

 今、一番弾きたい作曲家は? の問いに「即座にメンデルスゾーン」と答えています(p.169)。

 現在は、東京国立音楽大学の招聘教授、モントリオール大学で教鞭をとり、世界各地で演奏活動しています。

 自分の音楽論の心境を語った部分(pp.168-175)は貴重です。

 本書は著者のインタビューによって世に出ました。「自分を主張することを極力控え、作曲家に寄りそうことをモットーとしてきた彼(は)、演奏で明確な自己表現をしている。何と言う変化だろう」、2002年の来日公演を聴いて、著者は本書の執筆を思いたったそうです(p.6)。


阿刀田高『他人同士』新潮社、1995年

2008-12-18 00:37:02 | 小説
阿刀田高『他人同士』新潮社、1995年

 解説で高橋敏夫さんが「阿刀田ワールド」という用語を使っています。キーワードは「謎」です。それも、あからさまな謎ではなく、「謎ともいえない謎」で、あるときそれは忽然と姿をあらわし、人はそれから逃れられないのです(p.p.308-309)。

 確かにそうです。そういった一連の小説が収められています。「粘土の女」「湖の底」「岬」「手袋とスカーフ」「からっぽ」「癖」「呪いを飼う男」「禁猟区」「地質学入門」「他人同士」。

 わたしは「粘土の女」「岬」「地質学入門」が印象に残りました。

帝室技芸員と1900年パリ万国博覧会[第4期](三の丸尚蔵館)

2008-12-17 00:21:41 | イベント(祭り・展示会・催事)

帝室技芸員と1900年パリ万国博覧会[第4期](三の丸尚蔵館)


  「帝室技芸員と1900年パリ万国博覧会」が14日(日)で終わりました。第Ⅲ期に続き、第Ⅳ期も観ました。というのも、橋本雅邦の「龍虎図」(下図)を是が非でも目にしたかったからです。左下の虎と右上にかすんでみえる龍との対峙。幻想的ながら、ドラマチックであり、かつ迫力がありました。観にいったかいがありました。

  他に、海野勝の彫金「太平楽置物」「蘭陵王置物」、飯田新七「四季草花図刺繍屏風」が見事でした。
 とくに後者の刺繍の細かさには驚嘆です。日本のこの種の作品のレベルの高さがわかります。

7_2