【岩崎俊夫BLOG】社会統計学論文ARCHIVES

社会統計学分野の旧い論文の要約が日課です。

時々、読書、旅、散策、映画・音楽等の鑑賞、料理とお酒で一息つきます。

福田千鶴『江の生涯-徳川将軍家御台所の役割-』中公新書、2010年

2013-06-30 22:23:18 | 歴史

          
 
 「江」(1573~1626年)は浅井三姉妹の末娘。彼女の実像が、極度に限られて資料をもとに、語られている。彼女については、虚像がふりまかれている。徳川二代将軍、秀忠の妻だったが、6歳年上の姉さん女房で、多産のうえ、嫉妬心が強かった、と。筆者は、彼女をこの虚像からそろそろ解放してあげたいと言っている。


  本書の内容は、その「江」の人生とその周辺の人たちとの関係を、彼女の3度の結婚を軸に解き明かし、その自分実像を彫琢していることである。小谷の方(織田市)を母に、浅井三姉妹の末娘として生まれた「江」は11歳で母を失い、父母の仇でもある伯父信長や義兄(養父)秀吉の庇護のもとで幼少期を過ごし、三度目結婚で徳川秀忠の妻となった。「江」と秀忠の間に生まれたのは、千、初の二女と忠長の一男(通説では、二男五女の子宝に恵まれたことになっているが、千、初、忠長以外の子は、「江」以外の女性からの出生であるという)。この事実を、著者は江戸時代の系譜や家譜にみられる作為、当時の大奥の制度(あるいは侍妾制度)、状況証拠、先行研究などから解明している。

   最初の結婚は知多の領主、佐治一成と(本書によれば入輿は無し)。通説ではこの結婚は、秀吉によって破談させられたことになっているが、著者によれば、これは誤伝であり、家康に嫁いだ朝日のそれとの混同されたものと断定している。著者は生前の信長による政略結婚であり、その際、三姉妹のなかから「江」が選ばれたのは「市」の意向だったと推定している。

   二度目の結婚は秀吉の甥、羽柴秀勝との間に成立した(実質的初婚)。ふたりの間には女子ひとりが生まれたが、秀勝自身は文禄の役の最中、発病し、急死した。享年二十四。そして三度目の結婚の相手が秀忠である。秀吉の養女としての、いわば政略結婚であった。

  「江」は秀忠の妻として、公儀ににおける表向きの母としての役割(将軍家御台所)を十二分に果たしつつ、表における自己主張を極力避け、夫に忠実につかえ、将軍家光の母、天皇女御和の母としてその生涯を終えた。頼るべき縁が薄かった江は、実子の婚姻や大奥において浅井人脈を重視し、徳川将軍家を支えながら浅井・豊臣の供養を一身に引き受けた。

  「江」という一人の女性をとおして、戦国期の女性の生き方を問い、正室の役割とは何かを明らかにしたのが、本書である。あまりにも少ない資料から、地道で正確な資料解読と推理を働かせて、真実に近づこうとする著者の姿勢に敬服した。誰もができる仕事ではない。


山田俊雄『ことば散策』岩波新書、1999年

2013-06-29 22:49:59 | 言語/日本語

                      

  本書のねらいは、著者が幼少の頃、父母によって育まれた言葉を回顧し、また家庭の外で得た言語体験を懐旧の念で記憶のなかから取り出し、それらの作業から現代の日本語の激しい変容をいかに観察しうるか、文献のなかにそれをもとめて記録する作業である。それは、言葉が変化していく現象をとらえて記録し、語誌に役立てることでもあるという。「あとがき」で述べられている詞の世界の、著者の散策法である。


  構成は次のようになっている。「追憶の中のことば」「漢語の素養」「近い過去・遠いことば」「誤用・俗用・正用」「語誌探求」。著者の研ぎ澄まされた言語感覚が随所に示されている。父母によって育まれた言葉としては、「おんぼりと(何の気兼ねもなくの意)」「はがやしい(もどかしい、じれったいの意)」「はだこ(肌に直につける下着)」「飯台(食卓のこと)」などの言葉があげられている。

  巷間に、「住みづらい」「生きづらい」という言い方がよくされるが、そのような言い方はかつてはほとんどなかった、「住みにくい」「生きにくい」である。「寝台」は、いまはみな「しんだい」と読むが、むかしは「ねだい」だった。最終電車を昔は「赤電車」といい、そのひとつ前の電車を「青電車」と言った。公園などにある長いベンチは、「ろは台」と言われていた。漢字・漢文の常識の退廃にも、言及している。

  他にも、興味深い話がたくさん。言葉の変容が大正、昭和、平成の国語辞典の項目や記述に、また古典的小説のなかに証言をほりおこされている。

  本書はエッセイ風に編まれ、それゆえに指摘が断片的だ。著者のこの分野での業績をもっと体系的に知りたいものだ。


「チョ・ソンジン ピアノ・リサイタル」(浜離宮朝日ホール)

2013-06-28 00:01:01 | 音楽/CDの紹介

             

 チョ・ソンジンさんのピアノ・リサイタルを聴きにいきました。この公演まで、彼の名前は知りませんでしたが、2009年11月に開かれた、第7回浜松国際ピアノ・コンクールに、何と15歳で優勝し、審査委員長の中村紘子さんをして「圧倒的な、桁外れの才能」といわしめたそうです(中村紘子さんはこの日もいらしてました)。


 この日は、下記の曲を弾きました。これらは初期ロマン派から20世紀にいたるソナタで、作風がそれぞれに異なる曲を弾いていくのは大変なことです。結果は、すばらしい才能のひとことにつきます。
 「シューベルト:ピアノ・ソナタ第13番」では、やさしい軽やかな出だしが印象的でした。シューベルトが終わると、難曲のプロコフィエフ。これはすさまじいとしか形容しがたく、情感をたっぷりこめて、表情豊かな演奏でした。
 わたしの座席は、6列目の10番で、めずらしくいい場所がとれ、チョ・ソンジンさんの圧倒的演奏を満喫できました。


 19歳になったばかりのチョ・ソンジンさんは、若手とは思えないほどの技巧と音楽性をもっています。それが舞台での迫力につながっています。演奏が終わると、観客に向かっての挨拶になりますが、凄い演奏をした後とは思われないほどの、あどけない普段の表情に戻ります。それが、たまらなく、観客のファンの拍手は鳴りやみません。

・シューベルト:ピアノ・ソナタ第13番 イ長調 Op.120 D.664
 第一楽章 アレグロ・モデラート
 第二楽章 アンダンテ
 第三楽章 アレグロ

・プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第2番 二短調 Op.14
 第一楽章 アレグロ・マノン・トロッポ
 第二楽章 スケルツォ:アレグロ・マルカート
 第三楽章 アンダンテ
 第四楽章 ヴィヴァーチェ

・ショパン:ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 Op.35
 第一楽章 グラーヴェードピオ・モヴィメント
 第二楽章 スケルツォ:ブレスト・マノン・トロッポ
 第三楽章 葬送行進曲:レント
 第四楽章 フィナーレ:プレスト

・ラヴェル:ラ・ヴァルス

 アンコールは3曲でした。

・シューベルト「4つの即興曲集より」第2番、変ホ長調
・リスト「超絶技巧練習曲20番」
・シューマン「トロイメライ」


「OSTREA 赤坂見附店」(港区赤坂3-10-4月世界ビル1F;Tel 03-6230-1110)

2013-06-27 00:11:58 | グルメ

            

 丸の内線「赤坂見附店」下車、徒歩1分の便利なところに、ここ「OSTREA赤坂見附店」はあります。

 牡蠣ばかりでメニューがなりったっているのだから、凄いです。

 常時多くの牡蠣があるそうです。たとえば・・・・
・「カキえもん」(北海道・厚岸)
・広田湾カキ(岩手県)
・さくらカキ(宮城県)
・能登カキ(石川県)
・的矢岩ガキ(三重県的矢湾)
・みるくカキ(福岡県)
・九十九島カキ(長崎県)

 海外からもアメリカ、オーストラリア、カナダ、アイルランドからも輸入しているようです。
 初めて入ったこの日は、広島産の生ガキと、仙台産の生ガキを注文しました。微妙に味は違います。生ガキばかり食べるのはどうかと思いましたので、チーズセットも注文しました。

 
 あとから調べてみると、カキフライなどもあるようです。
他に・・・
◆ オストレア風 パテ・ド・カンパーニュ
◆ 自家製カキフライ
◆ 牡蠣の酒蒸し     
◆ 蒸し焼き牡蠣     
◆ シンプル オイスターフリット   
◆ オイスター・ロックフェラー”牡蠣のグラタン”   
◆ 牡蠣のガーリックバター焼き
◆ オストレアガーデンサラダ
◆ 季節野菜のグリーンサラダ   
◆ 料理長特製シーザーサラダ
◆ 北海あさりのクラムチャウダー
◆ 広島県産のオイスターチャウダー
◆ 小海老とオクラのフレッシュトマトのフェデリーニ    
◆ 渡り蟹のトマトクリームブカッティーニ     
◆ 牡蠣のトマト煮込み
◆ 牡蠣と大葉のクリームリゾット

 一度で、お店のすべてがわかるはずもなく、その他の牡蠣料理は次回のおたのしみとしました。

 女性のお客が目立ちます。ワインを飲みながら、みなさん愉しんでいました。
 
         

 

 


近藤誠『医者に殺されない47の心得-医療と薬を遠ざけて元気に、長生きする方法-』アスコム、2013年

2013-06-26 00:01:44 | 医療/健康/料理/食文化

              

  わたしは医者嫌いで、病院にあまりいかない。病気は基本的に自力で治るはずで、自身の回復力にゆだねている。サプリメントにも懐疑的である。通常のバランスのとれた食事で十分である。もちろん、採食主義者ではないし、髪の毛にいいからとワカメをせっせと食べることもしない。偏食は、健康に悪い、と思う。


  本書は、著者の年来の主張をまとめたもので、上記のわたしの姿勢と重なるところが多く、共感するところがあった。違うところは、著者が豊かな医学的知識と臨床医療を基礎に持論を展開しているのに対し、わたしは素朴な生き方の主張にすぎないという点だ。

  著者の年来の主張とは、「がんは切らずに治る」「抗がん剤は効かない」「健診は百害あって一利なし」「がんは原則として放置したほうがよい」というもの。「免疫療法」の欺瞞性も説いている。この措置を講じて、高額医療をとるのは詐欺である。そして、本書に綴られている47の心得。医者にいけば、「治療に追い込まれる」ことになるので、できるだけいかないようにすること、「血圧130で病気」なんてありえないこと、健診は医療被曝を避けることもできるので、受けないようにすること。詳しくは、本書を精読すべきである。大事なことがたくさん書いてある。

  そのうえで、「100歳まで元気に生きる『食』の心得」「100歳まで元気に生きる『暮らし』の心得」が前向き姿勢で書かれていて、傾聴に値する。コレステロールも高血圧ともほどほどに付き合い、小太りが一番いい、と書かれている。適度なお酒はOK、「毎日のタマゴと牛乳」がやはりいいようだ。コーヒーは、がん、糖尿病、脳卒中、ボケ、胆石、シワを遠ざける、という。早寝早起きに勝るものはない、よくしゃべり、笑い、食べること。そしてバランスのよい食事。最終章は「死が怖くなくなる老い方」で、ぽっくり逝く技術を身につけること、100歳まで働き続ける人生設計を身につける、リビングウィルを書くことなどを提唱している。

  著者は一連の著作によって、菊池寛賞を受賞した。「第60回 菊池寛賞受賞の弁」というのが冒頭にあり、その最初に「わたしはこれまで、同業者がいやがることばかり言ってきました。・・・そのためでしょう、私の医学界での受賞歴といえば『そんなこと言ったらダメで賞』とか、『近藤をバッシングしま賞』といったものばかりだった」と述懐している。


木村誠『危ない私立大学 残る私立大学』朝日新書,2012年

2013-06-24 01:10:35 | 読書/大学/教育

            

  減少する18歳人口、私立大学は生き残りをかけて、さまざまな努力をしている。それでも、著者によれば、10年後には100校を超える大学が消えると予想している。2007年の調査でも、定員充足率、貴族収支差額比率でマイナスの大学が127校、私立大学全体の23%に達しているという。


   本書は、著者独自のサバイバル度と偏差値で、私立大学の現状にメスを入れようというもの。サバイバル度ランキングはその大学の体力測定、偏差値ランキングはその大学の人気度で、受験生の人気投票である。後者は必ずしもうわついたものではなく、その大学の卒業生の就職状況や国家試験合格率などを検討したうえでの選択という中身をもった尺度と念がおされている。

   サバイバル度では、学生数、教員一人当たり学生数(学生数/教員数)、学生一人当たり蔵書数(蔵書数/学生数)、学生一人当たりの校舎面積(校舎面積/学生数)、就職率、志願者数、志願者増減率(5年間)の諸指標で測定され、これに「教育費/帰属収入」、帰属収入差額比率が参考資料とされている。サバイバル度ランキングでは100番までが並んでいる(pp.38-43)。医学部をもっている大学、理工系学部のある大学が上位に位置している。危ない大学も16校、名称は伏せてあるが、並んでいる(p.51)。2011年5月現在で、定員充足率80%をわっている大学である。

   難易度ランキングでは、「法・経済・経営・商系統」「人文・外国語系統」「社会・国際系統」「教育・体育系統」「学際・複合系統」「理・工・理工系統」「農・水産系統」「医療系統」に分けて、この10年間の偏差値の変動が追跡されている。個別大学の多彩な試みも興味深い(慶応大学、日本大学、明治大学、中央大学、早稲田大学、法政大学、同志社大学、立命館大学、関西大学、近畿大学、関西外国語大学、上智大学、青山学院大学、立教大学、東北学院大学、南山大学、関西学院大学、西南学院大学)。

  さらに地方で必死の努力をしている比較的小規模の大学が紹介されてる(北海道医療大学、千歳科学技術大学、東北学術工科大学など)。上記の100校ほどの大学が10年間に消滅するとの予測の根拠は、18歳人口の減少、経済状況の低迷のほかに、「公私協力方式」の行き詰まり、すなわち自治体が建設用地を提供し、運営は私立大学学校法人が行うという方式が自治体財政の悪化、また法人自体が自治支援にあぐらをかいていたこと(大学の設立理念の軽視)によって、運営が立ち行かなくなってきていることがあげられている。

  巻末に、高校の進路指導の教員に対するアンケートで、「生徒に進めたい私立大学」が一覧されている。


「由紀さおり ドラマチック・コンサート2013 PANDORA」(赤坂ACTシアター)

2013-06-23 00:32:47 | 音楽/CDの紹介

  

 ピンク・マルティーニとの共作「1969」で世界的にブレイクした由紀さおりさん。いま(というか今日まで)、赤坂ACTシアターで、コンサートを開催していました。


 年齢を重ねてもいつまでも若々しく、可愛い歌姫です。

 構成は2部に分かれ、一部では、舞台が自宅の部屋の雰囲気。実際に自分の家かから運んできたのかソファ・セット、ミニ・バー、衣裳掛けなど。そこで自宅で過ごすように、歌っていました。男性の踊りが入り、そのうちひとりは犬のペットの役で、はべり、まつわりついています。

 二部は普通の歌の舞台になり、数多くの曲を披露しました。ちょど歌手生活44年ということで、それにひっかけて由紀さんがこれまで歌ってきた曲を44、編成してメドレーで。また、最新のアルバム「Smaile」から。そして「夜明けのスキャット」。
 今では、世界のあちこちで公演しているようで、ニューヨークではもとより、パリ、サンクトペテルブルク、ベトナムなど。その折りには、その国の言葉で挨拶することを心がけているといことで、フランス語と、ロシア語の挨拶を披歴し、拍手をあびていました。

 料金は少し高め。「強気だな」と思いつつ会場に行くと、一階席は入っていますが、2階席のSはかなり空席。珍しいことで、翌日のS席をダンピングして会場で販売していました。こういう光景をみたのは初めてです。
 最初から、もう少し安くすれば、お客さんはもっときたでしょうに。残念なことでした。


武光誠『お江-浅井三姉妹の戦国時代-』平凡社新書、2011年

2013-06-21 22:06:24 | 歴史

            

  浅井長政に嫁いだ織田信長の異母妹、お市の方には3人の娘がいた。茶々(淀殿)、お初、お江。彼女たちはそれぞれ、数奇な人生をたどる。

  茶々は秀吉の側室となり、秀頼を生んだ。お初は京極高次の妻に、お江は離婚を重ねて徳川秀忠の妻に。

   本書は、この3人の女性を基軸に戦国時代の推移を天下取りに向けた信長の野望から大坂夏の陣で豊臣が滅びるまでを解説している。薄い新書スタイルだが中身は濃い。

  切り口が斬新(と思える)。大坂夏の陣を、親キリシタン大名群と反キリシタン大名群との決戦とみたり、それを淀殿とお江との姉妹の争いとみたり。
  お初はここで姉の淀殿につくような動きをみせるが、お江と内通し、徳川方を勝利に導くための工作を行っていた。
  女性の能力を評価していることも特徴的である。男性と女性との役割をしっかり心得、対等の関係にあったととらえている。戦国時代は戦いに明け暮れた「男の時代」のようにみえるが、動乱の歴史のなかのかなりの部分が女性によってうごかされていた、とまで言い切っている。阿茶局、北政所しかり、お江、淀殿しかり。

  著者の戦国時代を見る目は、わたしにはあたらしかった。織田信長の国造りの構想、兵法の斬新さ。秀吉はどちらかというと「いけいけ」タイプで、民衆の統治を構想する力が弱かった。家康は詭計にたけ、情報戦略の意義を把握し、民衆統治への配慮も行き届いていた、など。

  さらに歴史に「もし、ならば」は禁句だが、人間のある主観的判断がその後の運命の岐路となったことも事実である。関ヶ原の合戦では真田昌幸が秀忠軍を粉砕し、その時点では西軍が優勢であった。石田三成のまずい指揮が西軍の大敗を結果させた。夏の陣で、淀殿があれほど決戦に執着しなければ、豊臣家が消滅することはなかった。歴史の無常を思い知らされる。

 「序章:関ヶ原以降、戦さは合戦から謀略戦に変貌」「第一章:天下統一とお市の姫たち」「第二章:お市の姫たちの生き方」「第三章:関ヶ原合戦」「第四章:豊臣家復興の謀略に動く淀殿」「第五章:大阪冬の陣」「第六章:大阪夏の陣」「終章:戦国の終わりとお市の姫たち」


山田純大『命のビザを繋いだ男-小辻節三とユダヤ難民-』NHK出版、2013年

2013-06-20 23:18:14 | ノンフィクション/ルポルタージュ

           

   第二次世界大戦中、ナチス・ドイツはユダヤ人虐殺という言語道断かつ卑劣な手段を講じた。ただユダヤ人であるといだけで、殺されたユダヤ人は600万人。ユダヤ人殲滅を掲げるナチスから逃れる難民はあとをたたなかった。


   1940年、リトアニアのカナウス日本領事館に日本へのビザをもとめ、ユダヤ人が大挙して押し寄せ、当時領事代理だった杉原千畝は人道的見地からユダヤ人を他国へ逃がすために、日本通過を許可するビザを発給した(「命のビザ」)。杉原の英断で、シベリア鉄道を使って日本(敦賀を経由し、神戸、東京、横浜など)にきたユダヤ人は6000人に及んだ。

   ここまでの話はよく知られている。しかし、その後、ユダヤ難民はどうなったのか。杉原が発給したビザは日本滞在を10日間ほどであったが、ビザの延長もままならない時に、難民はどのような状況に追い込まれていたのか。この疑問は著者がこの本を書いた動機でもあり、本書では難民の窮地を救った日本人、小辻節三(1899-1973)の偉業が追跡されている。

   小辻は難民の窓口となり日本政府、ときの外務大臣松岡洋右と交渉し、ビザの延長を実現し、神戸にきたユダヤ人難民のリーダーであり、後にイスラエルの宗教大臣となったゾラフ・バルハフィクの献身的努力も得て、難民の窮地を救った(これにより、ほとんどの難民はアメリカ、カナダ、上海などのそれぞれの目的国へ)。

   本書では、その小辻の偉業の内容、その人生(小辻は京都の賀茂神社の神官の家に生まれた)、妻美彌子との札幌での出会いと生活(ヘブライ語を学ぶためにアメリカへ留学)、ヘブライ語との出会い、家族を紹介している。

   関連して知られざる事実がいくつかを知りえた。ひとつは1933年、日産コンツェルンの創始者である鮎川義介が構想した「ドイツ系ユダヤ人5万人の満洲移住計画(通称、河豚政策)」(5万人のユダヤ人を受け入れることで、アメリカのユダヤ資本を満洲に誘致し、満州を発展させるという計画、それによってアメリカとの戦争を回避できるという意図)が存在したこと。またヘブライ語ができる小辻が懇望されて満鉄で仕事をすることになり、その過程で松岡洋右(当時、満鉄総裁)との交渉があったこと、日本にユダヤ人は少なからずいたがナチスのユダヤ人政策に同調しない日本政府に業を煮やし、ドイツからマイジンガーが来日し、暗躍していたこと、などである。

  さらにユダヤ教に改宗した小辻が眠っているイスラエルに飛んで取材した著者の経験とその内容が書き込まれ、とくに難民として神戸にきてミール神学校職員の校長になったシュモレビッツの娘との、また小辻の親友だったレーゲンズブルガーとの出会いの場面、タド・ヴァシェム(ホロコースト歴史博物館)訪問、小辻節三の墓参の場面は感動的だ。


「とんぼ」(豊島区西池袋3-23-5:tel 03-3983-1686)

2013-06-19 22:56:41 | グルメ

         

 最近でこそご無沙汰していたが、この20年間、何度、ここに通ったことだろう。とくに、冬、カキフライ定食がでるころをねらって、この店を訪れました。また、いまやっているのかはわかりませんが、仕事の場の昼休みの会議で、出前を頼んでいたこともありました。そのときに人気だったのは、アジフライ定食でした。


 仕事が近いということもありますが、子どもの頃に食べた懐かしいとんかつの味がそのまま復元されているようで、夕食に、昼食にどこで食べようかとお店を探していると、いつのまにかここに来てしまっていることがままあります。

 お店に入ると、左手がガラスで仕切られていて、その奥でマスターが調理しています。そこが厨房です。客席はそのガラスの仕切りの前のカウンターに、椅子席が10ほど。奥が数名で食事をとれる部屋のようになっています。椅子席はそこを含めて26だそうです。

 夫婦ふたりで切り盛りしている小さなお店です。専門はトンカツ。ロース、ひれ、各種のトンカツを食べることができます。「トンボ」というリーズナブルな定食もあり、和風のおろしとんかつ定食、しそ巻きのカツというのもあります。千切りのキャベツがたっぷり、レモンがついていたり、トマトがついていたり。確か、ごはんはお変わりが自由にできたはずです。

 他に各種のカレーライスもありますが、ここでカレーを注文した記憶はありません。ここは、わたしにとっては、何といってもカキフライとトンカツなのです。

          


ハンガリー国立歌劇場「椿姫」(川口総合文化センター・「リリア・音楽ホール」)

2013-06-18 23:29:09 | 音楽/CDの紹介

             

 ハンガリー歌劇団によるオペラ「椿姫」が、川口総合ブンカセンター「リリア」でありました。原語では「ラ・トラビアータ」です。ベルディ生誕200年記念の公演です。

 全体は3幕。ストーリーは、おおむね下記のとおりです。ヴィオレッタ役のミクローシャさんが体調不良のため来日できなくなったため変更。ドブロスカヤさんが、ヴィオレッタ役となりましたが、その声量の大きさ、音域の広さ、清澄さに、すっかり魅了されてしまいました。

       

 2008年27歳の時、イタリア・ラヴェンナ音楽祭「椿姫」のヴィオレッタ役に抜擢され大成功を収める。以後ヴェネツィア、ジェノヴァ、パレルモ、トリエステなどイタリアの主要なオペラ座で同役をはじめ、「リゴレット」ジルダ、「愛の妙薬」アディーナ、「ラ・ボエーム」ムゼッタを歌い、着実にスター歌手へのステップを踏んでいる。コロラトゥーラからドラマティックまで、幅広い声域を歌い切る確かな歌唱と、際立つ美貌でヴィオレッタには正に適役といえる。
  1981年シベリア生まれ。地元ノボシビルスクとモスクワの音楽大学で研鑽を積み、2006年にはモスクワ・ダンチェンコ劇場とソリスト契約を結んだ。翌2008年からはイタリアに拠点を移し、オペラおよびコンサートで活躍中である。2010年1月ベルガモ・ドニゼッティ劇場「椿姫」日本公演では、マリエッラ・デヴィーアとのダブルキャストでヴィオレッタ役として出演し各地で好評を博した。
                (以上は、「リリア」の紹介記事の引用です)

 19世紀半ば、舞台はパリ。社交界で、人気のあった高級娼婦ヴィオレッタの邸で、盛大な宴が催されていました。純情な青年アルフレードは、この宴で「乾杯の歌」を歌って場を盛り上げます。彼は前々からヴィオレッタに心惹かれていました。二人きりになると、アルバートは彼女にその気持ちを告白。ヴィオレッタは、娼婦である自分は本当の恋愛に縁はないものと思っていましたが、アルフレードの純粋な愛の前に躊躇します。
 しかし、ヴィオレッタは社交界を離れ、パリ郊外の家でアルフレードと暮らすことになりました。ところが、ある日突然、アルフレードの留守中、彼の父ジェルモンが訪ねてきます。ジェルモンは、ヴィオレッタが娼婦だっとという事実が、娘(アルフレードの妹)の縁談に支障をきたすので、息子と別れるてくれるよう彼女に懇願します。ヴィオレッタは自らの真実の愛を訴えますが、受け入れられません。悲しみの中で別れを決意をし、家を出ていきます。別れの置き手紙を読んだ何も知らないアルフレードは、彼女の裏切りに激怒しました。
 その夜、ヴィオレッタはパリの社交界に戻り、かつてパトロンだった男爵とともに現れます。彼女を追ってきたアルフレードは、ヴィオレッタが男爵を愛していると言うのを聞いて逆上します。彼は社交界の大勢の人前で、彼女を侮辱し、悲しませます。
 数ケ月後、ヴィオレッタは自宅で病臥していました。ヴィオレッタは難病におかされて、自分の最期に気づいていました。そして、今や死が目前にあることをさとっていました。そこへアルフレードが駆け込んできます。全ての事情を父から聞いた彼は、彼女に許しを請います。二人は改めてともに暮らすことを誓うものの、時すでに遅く、ヴィオレッタはアルフレードの腕のなかで息を引き取りました。

  「椿姫」には、ゼフィレッリ監督によって映画化された作品があります。この映画では、テノール歌手プラシド・ドミンゴとソプラノ歌手テレサ・スタオラータスが主役を演じていました。二人の声は素晴らしく、オペラ全体の雰囲気もよく出ていて、深みのある芸術的作品に仕上がっていた記憶があります。
 イントロは、工夫がほどこされていました。静まりかえった街中が映され、続いてヴィオレッタの邸宅の中にカメラが入って、壁にかかっている椿姫に見惚れるあどけない純朴な顔の青年が登場。そして、椿姫が登場し、前奏曲がかかる。オペラはここからスタートし、音楽と歌とで壮大な物語が展開されて行きます。
 オペラの内容が忠実に映像化されていました。セット、衣装は豪華で堪能できるうえ、ジプシーの踊り、闘牛士の踊りも見ごたえがありました。

 「椿姫」は、戦前から何度も映画化されています。ジョージ・キューカー「椿姫(Camille)」(アメリカ、1973年)も見ましたが、これはグレタ・ガルボとロバート・テイラーが主演。一見の価値があります。

 


「貴婦人と一角獣」展(国立新美術館)

2013-06-17 22:53:46 | 美術(絵画)/写真

  

  会場に入ると中央に、円形に囲まれた敷居のなかに、6枚のタピスリーが掛っています。朱のベースの背景に、貴婦人が。そしてその両側には一角獣(ユニコーン)と獅子が侍っています。多くのうさぎ、いぬ、さる、とりの小動物がまわりを取り囲み、40種以上あるといわれる花々が刺しゅうされています。それぞれのタピスリーは、これらが構成する小宇宙です。

 16世紀初頭の作品。わずかに退色している部分もありますが、全体としての保存状態(傷んだ箇所は修復はされていますが)はきわめてよく、遠目でも、近くによってみても、いまから500年ほどまえのものとはとてもおもわれません。デザインも現代人がみても、陳腐にはみえません。むしろ、500年前の職人の技量がいかにすぐれていたか、われわれはそれらをに接してたじろぐ思いです。

 いったい、誰が、なんのために作り、作らせたのか。多くのなぞを秘めています。コンセンサスになっているのは、それぞれのタピスリーのあらわしているものが人間の五感、「味覚」「聴覚」「視覚」「嗅覚」「触角」とされ、一枚だけには、「わが唯一の望み」と文字が記入されたものがあり、これは「第六感」ではないかと推定されていることです。

 フランス王シャルル7世の宮廷の有力者だったジャレ・ル・ヴィスト家の紋章が随所に描かれているので、その筋からの製作の依頼があり、織られたものと、言われています。パリの下絵書きの手によって描かれ、フランドル地方の職人たちの工房で製作されたのでなかろうかと推定されたもののようですが、推定の域を出ません。

 このタピスリーは、パリの「クリュニー中世美術館」に所蔵されていて、わたしは昨年パリでこれを観ました。このたび改修工事があり、それで、この作品が海外に出張となったようですが、これまで海外に出たことは一度だけで、それは1970年代にアメリカのメトロポリタン美術館だったそうです。今年の初め、このタピスリーが全部、来日するとの情報を得て、大変驚くとともに、心待ちにしていました。

 東京での展示は、7月15日(月)まで。閉幕がせまっています(既に10万人を超える人が訪れています)。今世紀(21世紀)に、日本に来ることはもうないでしょう。是非、一度、足を運んでください。東京のあとには、大阪まで巡回すると聞いています。

   

    

(画像はウィキペディアより)


阿刀田高『殺し文句の研究』新潮文庫、2005年

2013-06-14 23:14:40 | エッセイ/手記/日記/手紙/対談

  「殺し文句の研究」の他に、「来し方考」「好きなもの、好きなこと」「作家の企業秘密」「作家の経済学」「男と女の物語」。

           

  「殺し文句」とは? 「男女間で相手を悩殺する文句」と辞書から引用しているが、「相手の気持ちをうまく引きつけるような言葉」と再定義している(p.46)。小説、映画のセリフのなかの「殺し文句」を紹介しながら(例:「あんなに遠くにいる月が波を渚に誘うのなら、近くにいるあなたがぼくの心を誘うのは当然ですね」)、女性の褒め方などを考察。相手の積極攻勢をピシャリと拒否する言葉、ぎゃふんとくる文句まで幅広い。


  この本では、著者の来歴が素直に綴られている。出自、子ども時代、兄弟、病気、就職(国立国会図書館)、作家への転職など。「作家の企業秘密」では、800編近くの短編を書いた著者の秘訣の一部を披歴している。アイデアを考えるのが一番、大変なようだ。そのために行っているいくつかのことが書かれている。それが決まればあとは想像力を広げ、プロットを組み立て、舞台設定し、人物を動かす、原稿用紙に書き、読み返して完成。言うは易く、行うは難しの世界だ。

  「作家の経済学」は、著者の経済感覚を披歴したものが中心だが、作家がどれくらいの収入を得ているか、原稿用紙1枚はいくらぐらいか、などについても簡単な計算を行っている。

  「男と女の物語」では、男と女の本性、女性の顔の話などのエッセイが数編、最後に恋愛関係にある(と思われる)若い男女の想いを、上下に二段にかき分け、思い違い、打算、セックスの感じ方などを同時進行で綴っている。面白い試みだ。

  該博な知識がありながら、それを決して前にださず、常に一歩引きながら、しかし書くことはユーモアや、色っぽい要素もおりまぜて披歴。その姿勢が魅力であり、物足りなさでもあり。


井上ひさし『ナイン』講談社、1987年

2013-06-13 23:13:43 | 小説

               

   短編集。「ナイン」「太郎と花子」「新婦側控室」「隣り同士」「祭まで」「女の部屋」「箱」「傷」「記念写真」「高見の見物」「春休み」「新宿まで」「会話」「会食」「足袋」「握手」の16編。

   井上ひさしの脚本、エッセイは読んだことは何度もあり、彼が書いた芝居もたくさん見たことがあるが、小説は初めて。この短編集を読む限り、よくできている。私小説のジャンルに入るだろうか。自身の経験したこと、見たことがテーマ。

   東京のいろいろな地域が舞台になっているので、かなり前の風景が描かれていて、それは今とは異なるので興味深い。市井の人々の生活、思いも書き込まれている。著者自身が、かなり特異な体験のなかで育ち、仕事をしてきたこともわかるので、この視点からの評価も可能だろう。

   最後の「握手」は中学校の教科書にも載ったことがあり、それを感動して読んだという記事を見たが、なるほど、心を震わせる人間の交流がそこにある。


室井摩耶子『わがままだって、いいじゃない-92歳のピアニスト「今日」を生きる』小学館、2013年

2013-06-12 22:06:48 | 音楽/CDの紹介

             

  著者は、大正10年(1921年)、東京生まれ。6歳からピアノを始め、東京音大(現・東京藝術大学)を卒業。1945年、日比谷公会堂でソリストとしてデビュー。

  ドイツに渡り、30年間、国際的に活躍。1964年には、ドイツで出版された「世界150人のピアニスト」に選ばれた。61歳のときに帰国、ゼロからの出発。
  現在、92歳。長いピアニストとしての活動、長生きの秘訣を平易に語っている。小さいころから、母親に自由に、しかししっかり育てられた。「規格外」の、ある意味でわがままな人生を送ってきた、と述懐している。
  規則正しい生活、とくに肉料理が好きと言う(おやつは、ソーセージや酢昆布)。
  演奏論では、弾き手の立場から、ベートーヴェン、モーツアルト、ハイドンを語っている。リサイタルに備えて、楽譜を読み込むたびに、作曲家が伝えようとしたかったものの発見があるという。それは何歳になっても変わらないらしい。クロイツァー教授に師事。かの有名な、ケンプに指導をあおいだこともあったようだ。
  ものおじしない性格、自分とこれまでの人生を肯定的に生きている。羨ましいほどだ。
  ただ、ひとつ。子どもをもたなかったことが、人生唯一の心残り、後悔と言えば後悔のようだ。「人生の悲喜こもごも、喜怒哀楽、体験したことは全部、ずた袋のなかに入れる」ということを、繰り返し語っている。
  いま、なお現役。「若返りたいなんて思わない」という著者の言葉が印象に残った。これまでに得たものを失いたくないからだそうだ。合点。
  自身のブログも作成、更新している。いつも前向き。5月22日には「徹子の部屋」に出演した。