見沼氷川公園からの帰途、さいたま市立博物館によりました。ここの建物は、明治11年に建てられた埼玉県師範学校の校舎の中央部の外観を復元したものです。「鳳翔閣」は、この師範学校の校舎につけられた名前です。なかなか趣のある建築物です。博物館には、見沼通船堀に使われていた道具類、その仕組みを説明した模型、見沼全体の古い地図、かつて使われていた農具類などが展示されていました。
氷川女体神社は本ブログで、昨年の暮れに、ここを散策したときに、とりあげました。今回、見沼氷川公園に出向いたおりに、再訪しました。ここは「女体社」ですが、大宮にある氷川神社は「男体社」です。両社のなかほどに中山神社があり「王子社」と称されます。この三社は見沼を見下ろす台地上にほぼ直線上に並んでいて、見沼が広大な池だった昔、人々の湖水信仰のよりどころになっていたと思われます。
この女体神社の前に位置する見沼氷川公園の一画には「盤船祭遺跡」があります。江戸時代に新田開発により見沼が消滅したことに想いをはせながら人々が代用水の水を引き込んで作った池です。ここで祭りが行われました。
この女体神社の前に位置する見沼氷川公園の一画には「盤船祭遺跡」があります。江戸時代に新田開発により見沼が消滅したことに想いをはせながら人々が代用水の水を引き込んで作った池です。ここで祭りが行われました。
見沼代用水通船堀の八丁堤あたりに水神社があります。画像の上2枚がそれを撮ったものです。以前、ここに来た時には気づきませんでした。
新田開発が行われる前、大きな沼であった見沼は八丁堤で堰き止められ、そこに見沼溜井と呼ばれる大貯水池が造られました。その八丁堤をわたったところにあるのが水神社です。
木々に囲まれたこの社は通船堀完成の翌年(1732年)、水難事故防止を祈願して建てられました。
下の2枚の画像は東浦和駅前の竜神の像です。見沼田んぼの風景は、この竜神の伝説とともに現在に継承されています。
新田開発が行われる前、大きな沼であった見沼は八丁堤で堰き止められ、そこに見沼溜井と呼ばれる大貯水池が造られました。その八丁堤をわたったところにあるのが水神社です。
木々に囲まれたこの社は通船堀完成の翌年(1732年)、水難事故防止を祈願して建てられました。
下の2枚の画像は東浦和駅前の竜神の像です。見沼田んぼの風景は、この竜神の伝説とともに現在に継承されています。
昨年の後半から、新年にかけてよく散歩した見沼代用水。桜の樹が満開に向かっています。今日は晴天だったものの、空気はひんやりでした。
快晴の日々が続いていて助かりますが、空っ風が強く、寒いです。そんななか、日課として、代用水のそばをとおる「緑のヘルシーロード」を歩いています。
写真は本日、撮った代用水と春岡橋にある標識、利根堰まで35キロであることを伝える標識です。
写真は本日、撮った代用水と春岡橋にある標識、利根堰まで35キロであることを伝える標識です。
1月11日、快晴 風やや強し。気温10度
下の画像は、蓮田市御前橋付近をゆうゆと流れる見沼代用水。
その下は、見沼の全貌を示す案内板。
下の画像は、蓮田市御前橋付近をゆうゆと流れる見沼代用水。
その下は、見沼の全貌を示す案内板。
見沼散歩にもってこいのガイドブックです。見沼が5つのエリアに紹介されています。散歩のコース、地図が掲げられ、カラー写真がきれいです。
コラムには次のものがあります。
・見沼通船掘
・みちくさ道路を歩いてみよう
・国昌寺の開かずの門
・見沼たんぼで水田の体験農園
・生き物豊かな不耕起のお米作り
・見沼の斜面林
・盆栽村あれこれ
・ミニ図鑑1 見沼の鳥と生き物
・ミニ図鑑2 見沼の野の花
・見沼田んぼの保全運動
・勉強したいあなたへ
・見沼の民話
・見沼の新田開発と井沢弥惣兵衛為永
新年、あけましておめでとうございます。
見沼女体神社の前、代用水をはさんだところに広がっているのが、見沼氷川公園です。時間がなく、素通りでしたが、見る価値のある公園のようです。後日の楽しみにのこしておきます。唱歌「案山子」(作詞は武笠三、作曲は不詳。山田源一郎説があるが誤りであるという)の発祥の地ということで、銅像がたっていたので、それだけ写真におさめて帰ってきました。
見沼女体神社の前、代用水をはさんだところに広がっているのが、見沼氷川公園です。時間がなく、素通りでしたが、見る価値のある公園のようです。後日の楽しみにのこしておきます。唱歌「案山子」(作詞は武笠三、作曲は不詳。山田源一郎説があるが誤りであるという)の発祥の地ということで、銅像がたっていたので、それだけ写真におさめて帰ってきました。
通船掘りとは反対側になりますが、氷川女体神社は東浦和駅から徒歩で1時間20分ほどです。
氷川女体神社は、大宮氷川神社とともに、武蔵国一宮と称し、武蔵国では有数の古社です。氷川女体神社は「女体社」、大宮の氷川神社は「男体社」、中山神社は「王子社」とされ、これら三社は見沼を見下ろす台地上にほぼ一直線上に並び、もともと三位一体のものです。
境内は樹齢300年を超す杉の大木をはじめ、クスノキ、シラカシなどの樹々で覆われ、敬虔な気持ちにさせてくれる空間です。
氷川女体神社は、大宮氷川神社とともに、武蔵国一宮と称し、武蔵国では有数の古社です。氷川女体神社は「女体社」、大宮の氷川神社は「男体社」、中山神社は「王子社」とされ、これら三社は見沼を見下ろす台地上にほぼ一直線上に並び、もともと三位一体のものです。
境内は樹齢300年を超す杉の大木をはじめ、クスノキ、シラカシなどの樹々で覆われ、敬虔な気持ちにさせてくれる空間です。
通船掘沿いの小径が芝川につきあたり、そこを右折して車道に出ます。鈴木家住宅はその右手にあります。なんとも質実剛健な住宅です。国の史跡に指定されています。
この家は見沼通船掘が出来たときから、幕府によって差配役をつかさどっていました。
この家は見沼通船掘が出来たときから、幕府によって差配役をつかさどっていました。
見沼田んぼの中央を流れる芝川は、河口で荒川と合流し、東京へ通じています。この芝川の東西から挟んでいるのが見沼代用水です。見沼通船掘はこの3つの流れを結ぶ働きをしています。
その場所は3本の流れが最も接近する八丁提の北側です。芝川は低地を流れ、代用水はその3メートルほど高いところを流れ、そのままでは急流となって舟は通過できません。そこで、閘門を設置し、水量を調節することで、舟が通過できるようにしました。これが「閘門式運河」です。
その場所は3本の流れが最も接近する八丁提の北側です。芝川は低地を流れ、代用水はその3メートルほど高いところを流れ、そのままでは急流となって舟は通過できません。そこで、閘門を設置し、水量を調節することで、舟が通過できるようにしました。これが「閘門式運河」です。
見沼代用水は江戸時代、8代吉宗将軍の時代に、新田開発のために作られたものですが、年貢、農業生産物、肥料などを運搬する船の往還にも使われました。輸送はこの代用水と近くを流れる芝川の両方を利用して(つないで)行われたのですが、用水と川との間には落差が3メートルほどあり、船の航行には落差が難題で、何らかの方法でこれを解消する方法が必要でした。そのために工夫されたのが、通船堀です。
通船掘りはいまでも残っていて、重要文化財に指定されています。JR東浦和駅を降りて右方向に3分ほど歩くと、通船掘り公園があり、「見沼通船掘歴史の道」がそこにあります。下記画像は、その入り口にある案内板と公園内部です。自然のままの竹林が続きます。
通船掘りはいまでも残っていて、重要文化財に指定されています。JR東浦和駅を降りて右方向に3分ほど歩くと、通船掘り公園があり、「見沼通船掘歴史の道」がそこにあります。下記画像は、その入り口にある案内板と公園内部です。自然のままの竹林が続きます。
さいたま新都心駅から土呂駅まで歩きました。以前、このコースを文字通りJR新宿湘南ラインに沿って歩きましたが、今回は少し大回りをし、地図でみれば東のほうに膨らんで、大宮第三公園をめざし、そこを経由して大宮第二公園、市民の森、そして土呂駅です。所要時間は1時間と少しです。
この間、見沼代用水が道案内です。徳川幕府8代吉宗の新田開発にむけてつくられたこの用水、現在も健在で(用水としては使われていないようです)、用水の際には補装された散歩道が延々と続いています。下の画像は、その一部です。
この間、見沼代用水が道案内です。徳川幕府8代吉宗の新田開発にむけてつくられたこの用水、現在も健在で(用水としては使われていないようです)、用水の際には補装された散歩道が延々と続いています。下の画像は、その一部です。