おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

野火 1959年 日本

2017-09-12 17:11:39 | 映画
リメイク作品を見比べてみるのも面白いかなと思い、何作かを連日見ました。
手始めに市川崑の「野火」と、塚本晋也の「野火」を見ました。

監督:市川崑
出演:船越英二 ミッキー・カーティス 滝沢修 浜口喜博
   石黒達也 稲葉義男 浜村純 潮万太郎

ストーリー
〇比島戦線、レイテ島。日本軍は山中に追いこまれていた。
田村(船越英二)は病院の前に寝ころぶ連中の仲間に加わった。彼らが厄介ばらいされたのは、病気で食糧あさりに行けないからなのだ。
安田(滝沢修)という要領のいい兵隊は、足をハラしていたが、煙草の葉を沢山持っていた。永松(ミッキー・カーティス)という若い兵が女中の子だというので、昔、女中に子を生ませた安田は、彼を使うことにした。
翌日、病院は砲撃され、田村は荒野を一人で逃げた。海辺の教会のある無人の町で、田村は舟でこぎつけてきた男女のうち、恐怖から女を射殺してしまう。
そこで手に入れた塩を代償に、彼は山中の芋畠で出会った兵たちの仲間に入った。彼らは集結地という、パロンポンを目指していた。雨季がきていた密林の中を、ボロボロの兵の列が続いた。安田と永松が煙草の立売りをしていた。
〇オルモック街道には、米軍がいて、その横断は不可能だった。山中で、兵たちは惨めに死んだ。幾日かが過ぎ、田村は草を食って生きていた。
〇切断された足首の転がる野原で、彼は何者かの銃撃に追われた。転んだ彼を抱き上げたのは、永松だった。永松は“猿”を狩り、歩けぬ安田と生きていたのだ。安田は田村の手榴弾をだましとった。永松の見通し通り、安田はそれを田村たちに投げつけてきた。
彼が歩けぬのは偽装だったのだ。永松の射撃で、安田は倒れた。永松がその足首を打落している時、何かが田村を押しやり、銃を取らせ、構えさせた。銃声とともに、永松はそのまま崩れ落ちた。田村は銃を捨て、かなたの野火へ向ってよろよろと歩き始めた。あの下には比島人がいる。危険だが、その人間的な映像が彼をひきつけるのだ。その時、その方向から銃弾が飛んできた。田村は倒れ、赤子が眠るように大地に伏したまま動かなくなった。すでに、夕焼けがレイテの果しない空を占めていた。

寸評
戦争最末期のレイテ島における敗走劇だが、敗走というより食料を求めながらの彷徨と呼んだ方がふさわしい状況下での物語である。

僕は戦後生まれでもあるし、レイテ島がいかなる状況であったのかは知らされる資料でしか知らない。
映画の中で、兵たちは次々死んでいき、発狂する者もあり、投降しようとしてゲリラに殺される者も描かれる。
一兵卒としてフィリピンでの惨たんたる敗戦を体験した大岡昇平の小説を原作にしているとは言え、おそらく本当のレイテ島はもっと悲惨だったのかもしれない。

人数的に戦闘による死者よりも餓死者の方が多かったといわれているのが南方戦線だ。
ここでも悲惨な状況が描かれているが、悲惨さを通り越してどこか滑稽ですらある。
冒頭から、田村一等兵は「病院へ元気に行って来い!」などと、笑ってしまう命令を下されている。
その後は色んなエピソードを挿入しながら、ただただ芥川也寸志の音楽に乗った逃避行が描き続けられる。
そこでも、自分のよりはましな死者の靴を次々やってくる敗走兵が履き換えていくなど、やはり笑ってしまうシーンなどが描かれる。
それほど悲惨な逃避行だったのだろうが、戦争を知らない僕たちはやはりどこか滑稽さを感じてしまうのだ。

しかしながら、これは戦争という愚かな行為を揶揄している作者の精一杯の表現なのだろう。
無残な状況を無残なままに見せるだけでなく、そこに一種のブラック・ユーモアを漂わせているのだ。
原住民の女を殺してしまった田村が、気が抜けてヘタヘタと崩れて座ってしまうシーンや、気の狂った将校が天を仰いで「天皇陛下様、ヘリコプター様、どうぞ助けに来てください」と叫んでいる場面など、滑稽な場面は枚挙に暇がなく、それが意図されたものであることが分かる。
あまりにも滑稽だから最後に田村の崇高さが浮かび上がってきたのだと思う。

田村は人肉を提供され、それと知らず噛み切ろうとするが歯が折れてしまって食べることが出来ない。
このシーンは、神が最も罪深い人肉を食するという行為を押しとどめた象徴だったと思うので、罪深い人間と、それでもその人間を救いたいという願いが込められていたように感じた。
ひたすら飢えていき、人間の生きようとする欲望は露わになって、ついには人食というおぞましい行為に至ることを描きながら、主人公だけにはそれを押しとどめ、人間の尊厳をかろうじて保たせる意味深いシーンだったと思う。
それがラストシーンに引き継がれ、主人公が野火のもとに辿りつくことなく倒れることも、かえって人間の尊厳を高めていたように思われる。
僕は原作を読んでいないが、このあたりの描き方は原作者大岡昇平の功績によるものなのかもしれない。

船越英二は「私は二歳」に於ける、ほのぼのとしたムーミンパパのような役にその存在感を見せた俳優だったが、この作品のおける彼はその一面を見せながら極限状態に置かれながらも、なんとか最後の人間性を守った小市民兵士を好演している。
彼の代表作はこれだろう。


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