巨大で圧倒的な、ミラノのドゥオモ。
宗教や寺院の持つ意味というのは。
今と昔ではずいぶん、違うのではないかと思う。
病や死や、飢えが身近にあった、時代。
そこは、まさしく別世界で、
だから究極の美しさや、威厳や、荘厳さが、
すべてを跳ね除けてくれるような、
忘れさせてくれるような、機能が必要だったのだろう。
美しい光が射し込む。
絢爛なステンドグラスや彫刻や鐘の音が、
浮世を遮るように。
たとえばそこに渦巻くものが、
実は権謀術数や、欲にまみれたものだとしても。
『祈り』が集める金と力は結局圧倒的なのだと、
美しく巨大な教会を見ると思う。
人は、本当に面白い生き物で、
生きるのに必死なら、
本来、目の前に降りかかる出来事に対処するだけで精一杯だと思うのに、
実際はそうなればそうなるほど、
確約されない、祈りの力に縋ろうとする。
たとえ外界が暗くとも、隠したいものが何であっても。
つまり、救いの道が、
医療や、安定供給される食や、『泰平の世』ではない時代。
美しい教会は、まさにその道を示すものとなっただろう。
膝まづき、見上げたくなるほど、巨大に、巨大に。
迫りくる、圧倒的な、飲み込まれる美しさ。
閉じ込められたら、答えが見出せるだろうか?
それともやはり、
「それでも浮世は捨てられぬ」か?
美しく、ある意味何者にも侵されない場所が、誰しも欲しいもの。
誰もを受け入れて、
けれど結局、別世界である教会の持つ意味を。
しかし現代人が、本当の意味で理解することは、
不可能であるように思う。
今や、祈りより、懺悔より、
デジカメの音が響き渡る聖堂で。
...いや。
旅先で、『日常を忘れ、憩う』という意味では、
それも現代の『祈り』だろうか。
互いに神は違えども、
つまりは結局、
同じ光を求めるからには。
どれだけの労力と月日と金が、費やされたのだろう。
今ではもうきっと、不可能なこと。
技術や費用という意味ではなくてね。
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